※今回は、ほとんど尾崎豊も渡辺美里も登場しません。そちらをご希望の方は、下記リンク先の本編をお読みください。

 

尾崎豊&渡辺美里と「自分探し」「本当の自分」「自分らしさ」 | 武術とレトロゲーム (ameblo.jp)

 

上記のリンク先の本を読んだのちも、「自分探し」「本当の自分」「自分らしさ」等の語には敏感に反応し続けて、文章を抜き出してはひかえ続けてきたのだが、基本的に否定的な意見、批判的な見方が多い。

 

まずは、「<自分らしさ>って何だろう?(筑摩書房・刊/ちくまプリマー新書/榎本博明・著」より。

 

37ページ~38ページ
『「今の自分は、本当の自分じゃない」そんなふうに思うことはないだろうか。アイデンティティをめぐる問いというのは、言い換えれば「ほんとうの自分」の生き方を求めてあれこれ考えるということだ。それなら、思春期になるとだれもが「ほんとうの自分」を探していることになる。でも、よく使われる「自分探し」という言葉。何だかいかがわしい。世の中に溢れる自分探しのための本やセミナー。その手の本を中毒症状のように読みあさる人たちがいる。その手のセミナーに手当たり次第に参加する人たちがいる。いくら本を読んだり、セミナーに参加しても見つからないため、さらに読みあさり、手当たり次第に参加する。それは結局、そんなことをしても「ほんとうの自分」なんか見つからないと言っているようなものではないか。そもそも、「ほんとうの自分」という言い方じたいに、何かいかがわしさを感じてしまう。今の自分は、「うその自分」だと言っているわけだから、それって都合のいい言い訳なのではないか。「今の自分は、ほんとうの自分じゃない」といった思いは、思春期に限らず、だれもが抱えているものでなのではないか。今の自分の生活に満足できない。納得がいかない。充実感がほしい。何か打ち込めるものがほしい。「生きてる」っていう実感がほしい。現実を振り返れば、何でも適当。周囲に流される、そんな意志の弱い自分がいる。何をやっても続かない。なかなか思うようにならない現実に行き詰まっている。何の能力も発揮できない。そんなカッコ悪い自分がいる。そんな自分は本当の自分じゃない。そう思えば気持ちがラクになる。「今の自分は、ほんとうの自分じゃない」と思うことは救いになる。問題はその後だ。もっと自分らしい生き方に向かって歩み出すのか、それとも「ほんとうの自分は、こんなもんじゃない。」という思いを言い訳にして適当に流され続けるのか。』

 

38ページ~40ページ
『僕たちは、どうしても惰性に流されやすい。流れに逆らって生活を変えるというのは、とても大きなエネルギーを必要とすることなのだ。生活を変えるには大きな覚悟がいる。それに、思い切って生活を変えるにしても、どう変えたら生活に張りが出てくるのか、どうしたら納得感が得られるのか、それがわからない。試しに何か打ち込んでみたとして、いきなり充実感が得られる訳ではない。充実感なんて、そう簡単に手に入るものじゃない。何をするにしても、充実といえる状態にたどり着くまでには、地道な努力が必要となる。でも、何かに打ち込んだとして、充実感を得られるかどうかは、それを本気になってやってみないとわからない。本気でやってみてから自分に合わなかったとわかることもある。そうなると、なかなか覚悟ができない。そんなとき、「今の自分は、ほんとうの自分じゃない」「どこかにほんとうの自分があるはず」「いつかきっとほんとうの自分にめぐりあえるに違いない」と思うことで、今の生活を変える努力を何もしなくても、現実逃避的な安らぎが得られる。「ほんとうの自分は、こんなもんじゃない。」という思いを言い訳にして、「とりあえず今は、このままでいいか」と開き直ることもできる。今の納得いかない生活。それに甘んじている自分。どうにもパッとしないけど、これは「ほんとうの自分」じゃないんだ。そう思うことで気持ちが軽くなり、束の間の安らぎが得られる。このように、「今の自分は、ほんとうの自分じゃない」と思うことが、現実への不満に対するごまかしになっていることが多い。「どこかにほんとうの自分があるはず」「いつかきっとほんとうの自分にめぐりあえるはず」という自分探しの物語は、自分らしいと納得できる生活に向かって一歩踏み出す覚悟ができない怠惰な心にとって、便利な救済装置となっているのだ。』

 


119ページ~121ページ
『自分というのは、だれにとっても一番身近な存在だ。人が何を考え何を思っているのかはよくわからないし、どんな生い立ちなのかもわからない。でも、自分のことなら当然よくわかっている。そのはずなのに、改めて自分と向き合おうとすると、どうもよくわからない。「ここにいる自分」ははっきりと実感できるのに、それをとらえようとしても、どうにもつかみ所がない。「自分とは何か」という問いをめぐってあれこれ思い悩む。これがアイデンティティをめぐる葛藤だ。それに対しては、さまざまな答えを出すことができる。名前、所属や社会的地位、容姿・容貌などの外見的特徴、学業能力・対人関係能力・運動能力などの能力的特徴、性格的特徴など、自己のさまざまな側面について答えることができる。でも、このような自己の側面をいくら並べ立てたところで、「ここにいる自分」というものは見えてこない。そうしたモザイク的に並べられた自己の諸側面の背後に、自分らしさの核心がある。そんな気がするのだが、それがつかめない。紛れもなくこの人生を生きている自分というものがいるのに、その姿をとらえることができない。この行き詰まりを脱するひとつの手段として、僕が提案してきたのが、自己というものを実体視するのをやめることだ。自分というものをこの身体(からだ)をもちここにいるものとみなすのではなく、たとえば「自分とはひとつの生き方である」とみなす。そうすると、自分を振り返るということが、非常に具体的になり、やりやすくなる。そこでは、「自分とは何か」という問いは、「自分はどんな生き方をしているか」という問いに形を変える。自分って何だろうなどと抽象的に考えていくと、わけがわからなくなり、行き詰まってしまう。でも、自分はどんな生き方をしているのかという問いなら、まずは自分がどんな人生を送ってきたのか、振り返ればいい。そして、この先どんな人生になりそうか、自分はどんな人生にしたいのかといったことを具体的に考えてみればいい。』

 

 

次に、「KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 尾崎豊(河出書房新社・刊/須藤晃・監修)」より

 

24ページ~25ページ(重松清と須藤晃の対談)
『ちょうど尾崎さんが亡くなったあとあたりから、「自分探し」というのがブームになったでしょう。自分探しをやっていったら、けっこう醜い自分に気づいてしまって……。そして醜い自分に気づいた時にカルト宗教に出会ってしまい、醜い自分を変えたくて入信するという一つの暴走がありましたよね。いまはその経験を生かして醜い自分も愛そうよ、認めようよというような、そういう流れがあると思うんです。外に向いていたナイフが内側に向いていく、その転換点に、たぶん尾崎さんの苦しみがあったんじゃないでしょうか。そして、尾崎さんが、そのポジションにいたことによって「尾崎豊」というのはロック史を超えて、若者精神文化史に一つの結節点として存在するようになったんじゃないかなと思うんですよ。』

 

 

そして、「あたらしい哲学入門(文藝春秋・刊/文春文庫/土屋賢二・著)」

 

233ページ
『『ソフィーの世界』という本がベストセラーになりました。その本は「自分を探す」ということがテーマになっていたこともあって、自分探しということがとくに若い人の間で流行ったときがありました。「自分探し」ということで問うているのは、「本当の自分とは何か?」という問題です。ただ、この問題は非常にあいまいです。どんな答えを求めているのかが、わかりにくいんです。一つの可能性としては、哲学の問題を本格的に問うている可能性があります。』

236ページ
「でも「本当の自分とは何か?」と問う人の中には、それとは違う関心を持っている人もいると思います。哲学の問題に興味があるというよりも、自分はどんな人間なんだろうといった関心を持っている人たちです。ここでは、そういう人が抱くような問題を取り上げてみます。多くの場合、「本当の自分」ということで意味しているのは、自分の本当の性格とかそういうようなものじゃないかと思います。(中略)でも、本当の自分の性格は何なのかという問題には、何か根本的な誤解があると思うんです。」

241ページ
「性格というものは、簡単には選べないのは確かです。でも何らかの仕方で選ぶことができるように思えます。そうだとすると、「自分の本当の性格を探す」といっても、性格はそもそも探し出せるようなものではありません。探すためには、どこかに見つけるべきものが存在しなくてはなりません。たとえば宝探しは、どこかにあらかじめ宝が存在していて、それを探すということですよね。何かを探すときは、探し出されるべきものがすでに存在しているはずです。その場合なら、占ってもらうこともありえます。でも、自分がどんな人間なのかとか、自分の性格がどうであるかとか、自分が今日何を食べるかということを占ってもらうのはヘンなことです。自分が決めるしかないものなんだからね。あらかじめ成り立っているものだったら、占ってもらうということはありうるんですけども、自分で決めるしかないようなものについては、占うとか探すといったことは成り立たないんです。(中略)「本当の自分を探す」という表現は他にも意味があります。たとえば、就職のときに、どんな仕事を選べば一番満足できるかとか、そういう意味なら、自分を探すということもありえると思います。でも、性格のように選択されるものについては、探すということもないし、見つけるということもありえないように思えるんですよね。」

 

 

最後に、「疲れすぎて眠れぬ夜のために(角川書店・刊/角川文庫/内田樹・著))」。

 

186ページ~187ページ
『「らしくふるまう」という節度の対極にあるのが、「ありのままの自分を出す」というやり方です。そして、メディアは「ありのままの個性を表現しなさい」とか「ほんとうの自分に正直に」とかいうことばをそれこそ朝から晩まで人々に浴びせかけています。これはかなり危険なイデオロギー教育であり、一種の「洗脳」だとぼくは思っています。どうして、そういう風に考えるのか、ちょっとその筋道をお話ししましょう。「ほんとうの自分」って何でしょう?ときどき「私、ほんとうの自分を見失っていたわ」とか「ほんとうの自分を取り戻したいんだ」というような台詞がTVドラマから聞こえることがありますが、この人たちが言う「ほんとうの自分」とか「自分探し」とかいうものは、いったい何の話でしょう。』

188ページ~190ページ
『それでは、あなたが「ほんとうの自分」を見つけようと思ったとき、あなた、何をしますか?あなたの過去をよく知っている人たち──家族や級友や担任の先生や先輩後輩や同僚──に片っ端からインタビューして「私って、誰?」と訊いて回りますか?まさかね。あなたはそんなことしません。あなたが「ほんとうの自分」を探しに行くのは、ニューヨークとかミラノとかバリ島とか、そういう「あなたのことを知っている人間が誰もいない土地」です。そういう「あなたのことを知っている人間が誰もいない土地」に行かないと「ほんとうの自分」に会えないなんて。でも、実は不思議でもなんでもありません。それは「ほんとうの自分」というのがまるっきりの「作り話」だからです。ぼくたちが「ほんとうの自分」に出会うのは、ぼくのことをまったく知らない人間に向かって、「自分の過去」を物語るときです。「私のことをまったく知らない人間」じゃないと困るのです。だって、話すことは、嘘ばっかりなんだから。家族が聞いたら、「よくもそれだけ嘘が言えるわね」と卒倒しそうなデタラメをぼくたちは、自分のことを知らない人間を相手にしてなら、延々と語ることができます。「私たちの過去の記憶は前未来形で語られる」というのはジャック・ラカンの名言です。ぼくたちが自分の「これまでの自己史」についてながながと聞き手に語るのは、話し終えたときに、「自分はこれこれこういう人間である」と聞き手に思って欲しいからです。これは聞き手の中にぼくにとって都合のよい自己像を植えつけるために、ぼくたちは過去を思い出すのです。これは簡単です。たとえば、「私は卑劣な人間なんだ」と言いたくなったとすると、過去からいくらでも卑劣の事例は引き出せます。友達を裏切ったこと、責任を逃れたこと、人に罪を着せたこと……思い出したらきりがありません。逆に「私は心清い人間だ」と言いたくなったら、これまたいくらでも事例は思いつきます。貧しい人のために心痛めたこと、不幸な人のために神に祈ったこと、もらい過ぎたお釣りを返したこと……いくらでも思い出します。「心卑しい人間」なのか「心清い人間」なのか、そんなことははじめから決まっている訳ではありません。「ほんとうの自分」がどういう人間だと「聞き手に思って欲しいか」によって決まるのです。だから、自分の過去を知っている人間が聞き手だと具合が悪いのです。ぼくたちの過去を知らない人間は、「私の作り話」を信じるしありません(厳密には「作り話」とも言い切れません。「回想が選択的になされている」だけですから)。でも、それでいいし、それが必要なのです。時々「作り話」をして過去をリセットしないとやっていけないんです、人間は。(中略)過去の自分のことを知らない新しい環境に行くときって、すごく気分がいいでしょう。それはそこで過去をリセットして、自分に関しての新しい物語を作り上げ、「私はこういう人間なんだって」宣言したら、みんなそれを信じるしかないからです。』

 

 

※関連リンク先

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