国学 | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

 このブログ(英語:blog)に御訪問頂き、誠にありがとうございます。

 リンクを らせて頂いております。紫色のブログ・タイトルをクリック(英語:click)(もしくはタップ[英語:tap])して頂きますと、過去のブログ記事に移行します。(^O^)

 

 さて、去る 一昨年おととしの7月19日(木)の「もののあわれ(配達員・うなぎ蒲焼かばやき・157[父親の食事])」のブログの上段に、

「(前略)某・国立大学教授(男性)によりますと、明治時代の文学は 一言ひとこと喪失そうしつ』を表現していると定義することが出来る とのことでした。一方いっぽう、某・私立大学教授(男性)によりますと、日本には 西洋にない 素晴らしい文学がある とのことでした。つまり、西洋の文学が とても 行き着くことが出来ない、聖人の領域の文学が 日本には ある とのむねでした。すなわち、日本の明治時代の自然主義文学 や 自然主義文学の定義者である ゾラ(フランス語: Émile François Zola)の文学ではなくて、吉田 兼好の随筆『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』 そして 俳人・松尾 芭蕉の紀行 および 俳諧 『おくのほそ道』とのことであります。 ちなみに、この『徒然草』、『方丈記』 そして 軍記物語『平家物語』など、仏教的無常観を抜きにして 日本の中世文学を語ることは出来ない とされています。この『無常観』は、中世以来 長い間 つちかってきた 日本人の美意識の特徴の一つひとつと言って よいであろう とのことです。さらに、日本人は 春夏秋冬 すなわち 季節の移り変わり つまり 無常を 『もののあわれ』としています。誠に、日本人のすごいところの一つひとつであると思われます。なお、これらのことは、10数年以上前、去る 4年前の12月17日(水)の『万年筆』のブログの冒頭で言及致しました友人に話しました。(後略)」と記させて頂きました。

 ならびに、去る 4年前の4月4日(月)の「不思議な一致(「清明」の日)」のブログの上段に、

「(前略)本日は、二十四節気の第5 である『清明』の日ですね。御承知のように、古代の日本の固有思想は 『清き あかき心(清明心)』です。心情の純粋性による 他者との融和を表しています。(後略)」と記させて頂きました。

 および、去る2月12日(水)の「笑いと菜食療法❤菜食に導かれた過程❤ 小乗しょうじょうから 大乗だいじょうへ・前編」のブログの中段やや下に、新教連(新教育者連盟)(文部科学大臣認可財団法人)支部長(当時)の言葉を引用させて頂きました。この新教連(新教育者連盟)の平成9年度の学会で発表した論文の冒頭に、

「国学者であり、医師の本居宣長は 35歳頃より 30数年間 心血を注いで 『古事記伝』を残しました(1898年完成)。なお、清明心が 日本人の心であり、神器の鏡が 日本人の心の表象であると信じております。」と記させて頂きました。故・渡部昇一氏によりますと、本居宣長の おかげで、現代において 古事記を読むことが出来る とのむねでした。

 また、本居宣長は、「源氏物語」の 上記の「もののあわれ」にも触れています。なお、この「源氏物語」にちな ませて頂きます。すなわち、上記の某・私立大学教授(男性)によりますと、平安時代の文学としては 仮名かな文学である 女流作家による 「源氏物語」 や 「枕草子」が残ったとのことでした。この某・私立大学教授(男性)によりますと、当時 男性は 漢文を勉強していたとのことでした。これを見ていた女性は 馬鹿ねと思ったとのことでした。しかしながら、調べましたら、「源氏物語」の作者である紫式部は、漢文も勉強しています。

 当方は、基本的に 国学を 最も尊重しています。

 

 ときに、某・新興宗教団体では、学者のことを低く評価しています。すなわち、あなたは 学者だ と言うときに、相手のことを低く考えているのです。ちな みに、この宗教団体は、学者に対して 脅威を感じているので こう評価するのであると思われます。つまり、ライバルと思っているのでありましょう。なお、ショーペンハウアー(ドイツ語: Arthur Schopenhauer)(ドイツの哲学者)によりますと、その主著である「意志と表象としての世界」の「付録と補遺」に収められている三篇の中の「思索(字義通りに訳すと、『みずから 考えること』となります)」の5に 以下のように書かれてあります。すなわち、

「(前略)絶えず読書を続けて行けば、(中略)あげくの果てに それを つめこみ過ぎた精神から洞察力を すべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態に おとし入れるからである。このような事態は 多くの学者を例にとれば 明らかであり、彼ら学者が常識や正しい判断、事にあたっての分別などの点で学のない多くの人に劣るのも そのためである。(送り仮名がなも含めまして、原文通り)(後略)」と記されています。ついながら、このショーペンハウアーは、ゲッティンゲン大学に入学し 医学部に籍を置きます。ちな みに、去る 4年前の8月19日(金)の「ハイデルベルク(ドイツ)」のブログなどに ドイツに訪れたことを記させて頂きましたが、このゲッティンゲンにも 訪れました。なお、このゲッティンゲンに、ガチョウ娘リーゼルの像があります。ゲッティンゲン大学で 学位を取得した学生は この像とキスをするという風習があるそうです。

 話を戻しますが、上記の本居宣長と 同じ江戸時代に、近江聖人とわれる 中江藤樹(近江国[滋賀県]出身の江戸時代初期の陽明学者)が出生しています。なお、上記の「学者」にちな ませて頂きます。すなわち、中江藤樹の考えによりますと、

「『学者』とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は 学才であって、生まれつき その才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら 学者ではない。学識があるだけでは ただの人である。無学の人でも 得をそなえた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」とのことであります。

 さら に、去る 5年前の5月18日(月)の「一大事とは」のブログ の上段に、

「(前略)この三島由紀夫みしまゆきお去る2月14日(土)の『絵本の影響』のブログの中段やや上に記させて頂きました 吉田松陰よしだしょういんなどのように、誠に有り難いことに、国のために死に場所を得ることが出来れば、という思いが御座ございます。(後略)」と記させて頂きました。この吉田松陰よしだしょういんによりますと、

「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とのことであります。

 

 ところで、前述致しましたように、中江藤樹は 陽明学者です。ちな みに、御承知のように 儒教の一派には 朱子学がありますが、陽明学も 儒教の一派であり、孟子の性善説の系譜に連なるとされています。なお、去る 昨年の12月24日(火)の「つくり変える力(大和民族)」のブログの中段やや下に、

「(前略)『仏教公伝』以前に、中国から 儒教も伝わります。このとき、日本人のすごいところは 中国語を『白文はくぶん』で読むのではなく、『読みくだし文』で 日本風に読んだ ということであります。このようなことが出来る民族は、世界中で 我々 大和民族しか 存在しません。これによりまして、日本は、誠に有り難いことに 中国文化圏に組み込まれずに済んだのであります。誠に 素晴らしい 日本人の先人たちに 感謝したい気持ちであります。そして、江戸時代に 起こった『古学』は、日本人によって つくり変えられた日本型儒教とされているのです。(後略)」と記させて頂きました。

 

  つぎ に、日本で 心学と申しますと、石田 梅岩(日本の江戸時代中期の思想家)が創始した 石門心学が挙げられますが、陽明学の異称でもあります。なお、上記の 去る 昨年の12月24日(火)の「つくり変える力(大和民族)」のブログの中段やや下に、

「(前略)さて、『国学』の存在は 最も 忘れられません。 ちなみに、『国学』は 老荘思想的 と言う人もます。なお、機会がありまして 宜敷よろしければ、『国学』のことを ちからを入れて 記させて頂きます。(後略)」と記させて頂きました。

 

 (義務教育の方々かたがたに 美しい日本語を 正しい読みかたで 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名ふりがなを付けております)

 本日も、最後 まで  お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)