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すみれときいろとフィリピン生活

不妊治療備忘録→娘ふたりの成長日記・家の売買リフォーム記録・フィリピン(BGC)生活記録

33週3日
1846gの女の子でした。

2日前の診察では元気に動いていたのに
もう十分に外でも生きていける大きさに育っていたのに
あともう少し早く気づいていたら

あれから1年以上経った今でも、ときどき不意にそんな激情に襲われます。
その波が去るのをじっと待つのみです。

少し前に放送されていた「コウノドリ」でも、子宮内胎児死亡の回がありました。
「胎内死は稀に起こることで、未然には防げない。原因もわからない」という鴻鳥先生の台詞は、そのまま私が主治医の先生から聞いたものでした。

ドラマの中でお母さんは入院していて、それでも胎内死は防げませんでした。
それを観るまで、「そのまま入院し続けていたら助けられたのかな」という思いが拭いきれませんでしたが、入院していても間に合わないこともあるのか、と少し吹っ切れた部分もあります。
それに、鴻鳥先生だって気づけないんだから。

私たちの赤ちゃんの死因も原因不明で、胎盤に感染もなく、へその緒の絡まりや詰まりもなく、見る限り五体満足で異常は見られないとのことでした。
あとは解剖という手段があるが、それでも原因が究明できるとは限らないそうで、解剖は固辞しました。

後に不妊治療クリニックに復帰し、先生に「なぜ解剖しないのか、不育症の血液検査くらいではなにもわからない。私だったら絶対解剖する」と言われて泣いたりもしましたが、その話はまたおいおい…。


「夫くんには私が連絡しようか?」
母が気遣わしげに声を掛けてくれましたが、自分でする、と私。
ごく淡々と伝えたと思います。
夫は絶句していましたが、すぐに行く、と返ってきました。
「今日はもう遅いし、面会時間もないから、来れるなら明日以降でいいよ」
投げやりな言葉しか出てきませんでした。

仕事中の父、年末年始の帰省中で友達と遊んでいた妹も慌てて病室にやってきましたが、泣くでも塞ぎ込むでもなく、淡々と話し何なら笑みすら浮かべている私を見て、「これはヤバイ」と思ったそうです。

じりじりとした痛みは一晩続き、私はお腹の中の存在を感じることに集中して、眠れずにいました。

明朝6時頃、トイレに立ったところで大量出血、その後破水し、そのまま分娩台へ運ばれました。

あぁ、懐かしい。
この、この世のものとは思えない痛み。
激しい陣痛の合間をぬって、背中に麻酔が打たれました。
あぁ、今回のお産は麻酔するんだ…産まれるところ見られないんだ…そう思いながら、意識が途絶えました。

目が覚めると個室に寝かされており、目の前には両親と、夫、義母もいました。

時計を見ると朝の9時前。
自分がいるのがどこで、何があったのかわからずポカンとして、次の瞬間に「あぁ、全部終わったんだ」と悟りました。

私はまたしても大量出血の危険な状態で、ちょっと乱暴なやり方で急いで赤ちゃんを外に出したようでした。

目の前にいる私の大切な家族の顔を眺めて、
「何度も悲しい思いをさせて、本当にごめんなさい。今度こそ、喜ばせてあげたかったのに…」
と言葉にすると、せきを切ったように涙が溢れました。

夫は目を真っ赤にさせて
「サキが無事でよかったよ」
と微笑みました。

まだ起き上がってはいけないから、と私は寝かされたまま沈痛な空気が漂う部屋に、「赤ちゃんに会いますか?」とナースさん。

誰も気持ちの準備はできていないままお願いし、連れてきてもらいました。

白い布に包まれた小さな藤色の箱の中にいる赤ちゃんは、ピンク色で本当に本当にかわいくて、ただ眠っているようで、寝ている赤ちゃんを起こさないようにそっと、みんなで代わる代わる抱っこしました。

ずっしりと重い赤ちゃん。
夫婦で決めていた名前を呼びかけました。
なんて愛しい重み、愛しい柔らかさ。
みんなの体温で暖められたのか、温もりも感じられました。
ずっと抱いていたい、離れたくない。
声もなく涙を流しながら、赤ちゃんを抱きしめました。
離れるのがこんなに辛いなら、いっそ私も一緒にいけたらよかったのに。





そのまま個室に通され、病着に着替え、分娩までの手順の説明を受けました。
その頃にはすっかり日も暮れていて、これから陣痛を促進させ、明朝には出産となるだろうとのこと。

まずは縫縮していた子宮頚管を解き、バルーンを入れて徐々に子宮口を開いていきました。

子宮頚管縫縮の紐を切るのって痛いのかなと気になり、縫縮術を受けた頃検索しては痛いの痛くないのと体験談を漁っていましたが、痛くありませんでした。
麻酔も何もなく、ぐいっと押されてバチンと音がした、くらいなものでした。
もっともそのときも意識はふわふわしていたのであまり覚えていないのですが…

バルーンは生理痛のような鈍痛を伴い、一晩かけて少しずつ私の子宮口を開いていきました。
眠れなかったし食欲もまったくなかったけれど、痛みもどこから来るものなのやらさっぱりわからず。
感覚がばかになってるなぁ、と思いました。

なんて理不尽な痛みなんだろう。
これを越えてもまた出口のない苦しみしかないというのに。


2017.1.4(33w0d)
年明けすぐ、久しぶりの健診を受けました。
赤ちゃんはまた大きくなっていて、元気に動いていました。
私の体調もすっかり安定していて、何の問題もないとのことでした。

ただ、少し前から逆子になってしまってどうにも治らない。
33週という週数からみても、これはもう帝王切開だね、ということで出産日も決めました。
帝切に関しては特に何も思うところはなく、無事に産まれてくれるならなんでもいいです、という感じで、むしろ予定日より2週間も早く赤ちゃんに会えることが楽しみで仕方ありませんでした。

2017.1.6(33w2d)
いつものように朝から横になって読書をしていましたが、なんだか今日は胎動が静かだなぁ?と昼頃気づきました。
そのまま2時間くらいは急に赤ちゃんのことが気になり始めて、じっとお腹に手を当てていました。
今ならわかります。
1時間以上ぴくりとも動かないなんておかしいってこと。
でも、このときはまだ「そんな日もあるのかな?」と思いつつ、不安なまま2時間以上家で過ごしていました。

とはいえ不安は拭いきれず、たまらず母に
「なんか今日あんまり動いていない気がする…」
とこぼすと、すぐに病院に行こう、と母。
その言葉でまた不安が増しました。

病院までは車で10分ほどですが、その道中、母の出産の話をしていました。

私には9歳離れた妹がいます。
妹を産んだとき、母は30代後半。
当時にしては高齢出産だったのだと思います。

その妹は、妊娠8ヶ月目に未熟児で産まれました。
母は毎日搾乳し、保育器の中の妹の元へ通っていました。
まだ小学生だった私と弟の世話焼きに親戚が代わる代わる家にやってきて、珍しく父が料理したりなんかもして、子供心には楽しい非日常を送っていた記憶がありますが、少し経って当時の経緯をきくと、大変な修羅場だったようで。

母は妹を出産する少し前から入院生活を送っており、その日もいつものようにお腹にエコーをあてて赤ちゃんの様子を診てもらったようです。
しかし、赤ちゃんの心拍が急に落ちている、今すぐ出してあげなきゃいけない、と突然告げられ、そんなタイミングでのんびりお見舞いに現れた父も仰天し、そのまま帝王切開となったのだそう。
妹は、本当にギリギリのところで命を救われました。
少しでも遅かったら、どうなっていたのかわかりません。
予定より2ヶ月早く、小さな小さな体で生まれた妹は、小さかっただけに家族中がたくさん飲ませ食わせ育ててあっという間にプクプクな赤ちゃんになり、そうこうしているうちに私の身長も越す健康児になりましたが(あ、20代の今はちゃんとスリムです笑)。


心拍が落ちているのかもしれない、今日帝王切開になるのかもしれない、でも今は9ヶ月目だし、当時の妹より育ってる、きっと大丈夫。
母とそんな言葉を掛け合い、励まし合いながら病院に向かいました。

病院に着いて、胎動が感じられないことを伝えるとすぐに空き部屋でエコーをしてもらいました。
先生は診察中だから、ということでナースさんがお腹にエコーを当てますが、なかなかいつもの心音が見つかりません。
「大丈夫だよー、背中向けてるからかなぁ、ちょっと聞こえづらいねぇ」
どんどん涙目になる私を宥めながら、二人目のナースさんにエコーをバトンタッチ。
しかしその方もやっぱり心音をキャッチできませんでした。

そうこうしているうちに先生の手がやっと空き、診察室へ。

先生はエコーに映る心臓を注意深く診て、なんともいえない表情のまま静かに告げました。

「サキさん、わかるかな?心臓が動いていません。いつから胎動感じられなかった?」

「わかりません…気づいたのは3時間前くらいです、あの、今から出してあげて蘇生とかできますか?」

「おそらく心臓が止まって数時間経っているので、今からできることはありません。」

何も言葉が出ませんでした。

診察室を出ると、母が心配そうに駆け寄ってきました。

「赤ちゃん、心臓止まってた…」

それだけ言うのが精一杯で、涙が溢れました。

母の方が取り乱し、「なんで?!」と泣きながら私を抱きしめました。

あぁ、まわりの妊婦さんがびっくりしちゃうよ、とこんなときまで周りを気にしてしまう私。

すぐにナースさんがやってきて、再度私たちを診察室へ入れてくれました。

これから帝王切開しても赤ちゃんは助からないこと、このまま子宮内に留めておくと母体の方が危ないので、これからすぐに陣痛促進剤で出産の準備を始めたいこと、を淡々と説明されました。

隣で母が「まだ間に合いませんか?どうしてもだめなんですか?」と食い下がってくれたからか、逆に私は冷静になることができ、先生の言葉をそのまま承諾しました。

単に、状況を何ひとつ飲み込めてなかっただけなのかもしれません。
涙が出たのは母に抱きしめられた一瞬で、あとはバタバタと準備をする周りを呆然と見ていました。





子宮頚管縫縮術にはシロッカー法とマクドナルド法の二種類あり、今回私はマクドナルド法の施術を受けました。

下記の記事で専門医の先生がわかりやすく説明されていたので、転載します。


原則はシロッカー法のようですが、私の場合、妊娠24週という子宮頚管縫縮術を受けるには遅めの時期の施術となったので、マクドナルド法だったのだと思います。
主治医の先生には「手術できるギリギリの時期に発覚したのが幸いだった」と言われました。
綱渡りすぎてハラハラです…。

前回破水した際にも子宮頚管を縛れないかと掛け合ったのですが、そもそも破水していたら選択できない方法なんですね。
あのときは結局感染症が発症していましたし、経管長もほぼなかったと思います。

今回も予後の感染症など心配でしたが経過は順調で、後の死産とこの子宮頚管縫縮術に関連はなかったはずだと言われましたし、私もそう思っています。

妊娠24週目、予定通り妊婦検診に行ったところ、2週間前まで3.5センチあった子宮頚管が1.7センチになってしまっており、慌てて入院、翌日子宮頚管縫縮の手術となりました。

先生の厳しい表情に、前回の19週での破水から流産の記憶がいっきに蘇り、恐怖から涙が出ました。

ここ数日のことを思い返して、あれが悪かったのか、これがだめだったのかと猛省の嵐。
祖母の葬儀後も父が喪主だったこともあり、初七日だ四十九日だとバタバタな日が続き、またその合間の細々とした事務作業(数百名分の香典記録をエクセルにまとめたり収支の精算をしたりお返しの品を選んだり)を私が請負っており、横になる時間もほぼありませんでした。
さらに先生から許可を得て、病院主催のマタニティビクスにも週一で参加していました。

働いていた頃は臨月近くまで働く同僚たちを間近で見ていたので、私もいけるのかもなんて思っていました。が、私は普通の妊婦さんとどうやら違うと、いい加減自覚しました。

もう先生が許しても、母親学級で勧められても、今後妊娠したときには運動なんてするものか。

筋肉が落ちて産む体力がなくなったのなら、お腹を切って産めばいい。それに2度の安静生活でわかったことに、食べて寝ているだけでは太るかと思いきやむしろ体重は減るようで、体重超過の心配はしなくてよさそう。
筋肉が落ちる分体重が減るのか、自ら食べる意思もなくお給仕される分だけ食べるので間食がなくなり体重が減るのか。

そんなことよりうっかり動きすぎて切迫流早産になる方がよっぽど怖い。
誰に何と言われようと、今後、正産期まではできるだけおとなしくしていよう。

「今日も元気な赤ちゃんに会えるかな」とうきうきで健診に来てみたら病着に着替えさせられベッドで点滴を受けているという、思いもよらない現状を飲み込めず、恐怖と後悔と八つ当たり的な怒りでぐちゃぐちゃになっていました。

初の体外授精から、死産に至るまでの経過を、当時の母子手帳を眺めつつまとめます。

◆2016.7〜(妊娠3ヶ月)
つわりはこの1ヶ月間で怒涛の波で押し寄せ、あっさり去っていきました。
吐きづわりで苦しい時期もあったけど、喉元過ぎればなんとやら。

◆2016.8〜(妊娠4ヶ月)
祖母が危篤状態となり、予定を繰り上げて里帰りをしました。
この頃にはつわりもすっかり落ち着いており、祖母のお見舞いにも行けてよかったです。
初のひ孫が見られるように頑張ろうねと親族みんなで声を掛けていましたが、9月に他界しました。
りりしくて聡明で美人だったおばあちゃん。
お腹の子の出産予定日は、祖母の誕生日と同じ日でした。

◆2016.9〜(妊娠5ヶ月)
胎動を感じるようになり、お腹の子が女の子とわかって家族で喜びました。
普段は少食な私がもりもり食べる様子に、母は毎回驚いていました。
在宅のバイトも細々と続けつつ、よく食べ眠ることを心掛けていました。

◆2016.10〜(妊娠6ヶ月)
前回の妊娠中のトラブルに対して、今回は本当に順調で、はじめての母親学級やマタニティビクスにも参加しました(前回は3ヶ月の終わり頃から安静状態で何もできなかったので)。

ところがここにきて急な事態に。
通常の健診で診てもらったところ、前回まで3.5センチあった子宮頚管が1.7センチに。
その場で車椅子に乗せられ、即入院、翌日には子宮頚管縫縮の手術をしました。
あと少し受診が遅かったらそのまま出産につながったかもしれないと言われ、間一髪に涙目。
そのまま張り止めの点滴を投与されながら約1ヶ月の入院生活となりました。

◆2016.11〜(妊娠7ヶ月)
引き続き入院生活。
夫がほぼ毎週末横浜から沖縄にやって来るので、だんだん旅費の方が気掛かりになっていました笑
病室にて32歳の誕生日を迎えました。
病院から小さなバースデーケーキと主治医の先生から励ましのメッセージカードをいただきほっこり。
点滴も外れたし、そろそろ家に帰れるかなというところ。

◆2016.12〜(妊娠8ヶ月)
無事に退院し、とはいえ引き続き自宅安静。
年末年始は県外に住む弟妹が帰省し、夫もまたまた来てくれて、実家がいっきに賑やかになりました。
新年は家族揃ってホテルでお食事。
今年は家族がひとり増えるね、と誰も数日後に起こることなど想像もせず、幸せなひとときを過ごしました。
体外授精後の妊娠記録の前に、夫の精液検査のこれまでの結果をまとめてみます。

ちなみに、クリニックでは
精子濃度4000万/ml以上
運動率60%以上
で正常だと教わりました。

2015.3
(1回目人工授精→化学流産)
濃度  1700万/ml
運動率 35.3%

2015.6
(2回目人工授精→妊娠→中期流産)
濃度  2100万/ml
運動率 52.4%

2016.2
(3回目人工授精→陰性)
濃度  2100万/ml
運動率 33.3%

2016.5
(1回目体外授精→妊娠→後期死産)
濃度  2800万/ml
運動率 53.6%

2017.6
(2回目体外授精→陰性)
濃度  2900万/ml
運動率 62.1%

こうして見てみると、体外授精するあたりからなんだか数値が良くなっています。
まぁ正常値に達していないときでも洗浄すれば問題ないレベルだったようなので、妊娠の可否との相関はないと思いますが。

人工授精をしていた頃、夫は出張あり・長時間残業ありと、見た目は元気なのですがなんで元気なのか傍から見ていて理解できないほど、多忙を極めていました。
日付を越えて帰宅し朝は朝で7時前には出勤する夫に対し、出勤前の採精をお願いするのはなかなか心苦しく、それでもいつも嫌な顔ひとつせず協力してくれてありがたいなぁと思っていました。

とはいえそんなドタバタな毎日の睡眠時間は4時間程、食生活も乱れまくりで、精子の元気がないのもむべなるかな、といったところ。

一方、体外授精をする頃には部署が変わり定時上がりもできるようになり、私も退職して家にいたので夕飯は家でしっかり食べ、よく寝ていました。

やっぱり睡眠時間や食生活、心のゆとりが変わることは、生殖機能にも影響するんだろうなぁと改めて感じました。
その後の自然妊娠にしても、そんなゆったりした日々が続いていたからなのかなとも思います。

サプリより何より、日々の暮らし方。
環境的に致し方ないときもありますが、今後も夫婦共々、心身ゆったり過ごしていけたらいいなぁ。

26日目(採卵から15日目)
血中HCG 185mlU/ml

妊娠4週目のこの時期は50〜200程の値があればまずは妊娠、という判定になるようです。

ということで、初の体外授精は無事妊娠に結実しました。
その後8週目まで通院して、不妊治療クリニックを卒業しました。



さて

とはいえ、めでたくふたつの受精卵が確保できたところで、移植はいつがいいですか?と先生。

採卵から3日〜5日後のいずれかの移植日を選んでくださいと。

3日目だと初期胚、5日目だと胚盤胞になります。
「どちらがオススメですか?」と尋ねるも、「いつでもお好きなように」とつれない回答。

ええ、調べてましたよ。
初期胚移植と胚盤胞移植。
でも悩ましいんだもん!オオスメプリーズ!笑い泣き

ということで、私が調べた限りの2つの移植時期のメリットデメリットを下記に。

*****

◆初期胚移植(受精2〜3日目)
〈メリット〉
 ・シャーレの上では胚盤胞以降育たないかもしれない胚もさっさと移植することで、受精卵を無駄しないで済む
 ・シャーレの上では育たなくても、子宮内で着床、育ってくれるかも
 ・はじめての体外授精にはとりあえずおすすめ

〈デメリット〉
・胚盤胞以降も育つかどうかわからない


◆胚盤胞移植(受精5〜6日)
〈メリット〉
 ・初期胚から胚盤胞にたどり着けるのは約40〜50%で、初期胚より妊娠の可能性の高い胚を選別することができる
 ・自然妊娠の場合、卵管で受精した胚は胚盤胞になる頃に子宮にたどり着き着床する=より自然な時期の移植になる
 ・着床率は初期胚よりも高い

〈デメリット〉
 ・胚盤胞に至る前に受精卵がだめになる可能性がある

*****

私の受精卵は全部で2つだけ。
育つか育たないか選別するまでもない数です。
みすみすだめにするくらいなら、生きてるうちにさっさと全部お腹に戻してしまった方がいいと思い、採卵から3日後(周期13日目)の初期胚を移植してもらいました。

その後、16日目、18日目、21日目にHCGとプロゲストン50単位の注射2本打ちで黄体補充。

体温は移植翌日の14日目から、ギリギリ高温(36.6〜36.8度台)を保っています。

一週間後の採血まで、妊娠のことはできるだけ考えないように、ただし体は冷やさないように転ばないようにこっそり気を遣いつつ、審判の日を待ちました。