すみれときいろとフィリピン生活 -2ページ目

すみれときいろとフィリピン生活

不妊治療備忘録→娘ふたりの成長日記・家の売買リフォーム記録・フィリピン(BGC)生活記録

杉ウイメンズクリニックは、厚労省主体で進めている不育症研究プロジェクトの基幹クリニックになっているとのこと。その他のプロジェクトメンバーは全国の某有名大学で、クリニックとして参加しているのはこのクリニックだけのようでした(たぶん。聞きかじりなのであやふや汗)

不育症治療は専門の産科医の間でも賛否ある段階で、発展途上な分野なのだそう。
確かにこれまで通っていた不妊治療クリニックでは全否定されましたし、今現在妊婦検診でお世話になっている大学病院の先生も似たような反応でした。
これについては改めて書こうと思います。

何を信じるか、結局は患者自身に委ねられてしまうところですが、国際的にそれなりのエビデンスはしっかり出ているようですし(って杉先生に聞いただけで、その内容は調べてませんが(^_^;)、当人からすれば藁にもすがる思いなので是も否もない、という気持ちです。

スピリチュアル的なものは信じない方ですが、科学的と非科学的な境界って曖昧なもので、科学も突き詰めれば宗教や哲学だよなぁとも思います。
それが今の人類の限界ラインなのでしょう。
その中でも「確からしい」ものを自分で選んで信じるだけです。


ワイシャツにネクタイ姿で問診する杉先生は病院の先生というより学者然としていました。
私たちのデータも研究に使用されます(同意書をとるので、もちろん拒否することもできます)。
過去、赤ちゃんを授かれず苦しい思いをした数知れない夫婦たちの経験の上に、今の私たちの不妊治療・不育治療があり、私たちの経験もまた未来の悩める夫婦たちの糧になるのだと思います。

生命の誕生という神秘に、人の手はどこまで介在してよいのか。
賛否あることも理解できますが、私はこの時代に生きていなければ子どもを授かれなかったかもしれませんし、だから幸運なことなんだと思います。

あれ、また話が逸れてしまった
不育症検査結果をですね…。


死産の原因は結局不明のままでしたが、担当医からは「血液凝固系の免疫不全なんかの可能性もあるから、一度専門的に調べてもらってもいいかもしれない」とのアドバイスがありました。

化学流産1回
妊娠中期流産1回
妊娠後期死産1回

不育症の症状としては妊娠初期の流産を繰り返す事例が多く、私のようにタイミングがバラバラな場合(化学流産は1回の流産にカウントする必要もないとも)、積極的に検査を勧めるほどでもないかもしれないけれど…とのこと。

私の中では、先生から勧められる前から気持ちは固まっていました。
潰せる危険は全て潰した上で次の妊娠に臨みたい。こんなあやふやな疑問を抱えたまま再度妊娠するなんて、恐怖しかない。

火葬など全て済んですぐに、不育症検査ができるクリニックを探し、自宅から近いという理由で杉ウイメンズクリニックを選びました。

後々調べてみると、有名なクリニックだったんですね。
全国から患者さんが来るとのこと。
1月に連絡するも、取れた予約は3月。
そんなに待つほどなの!と驚きました。

とにかく何か先に進んでいる実感を得たいと藻掻いていた当時、この待機期間にもちょっと挫けそうになりました。

夫や両親は「そんなに急ぐことじゃない。今は静養の期間なんだよ」と無闇に焦る私を度々なだめましたが、仕事も何もすることがない私はそれ自体が苦痛で、「静養ってどうやるの⁉」状態でした。

これは元々の性格もあるのですが…。
「何もしない」ということを苦痛に感じるタイプで、「ただ寝る」とか「ただぼんやりする」とか、罪悪感というか時間を無駄にした感というか…貧乏性なんでしょうね。

子宮頚管縫縮後、切迫早産で入院していた1ヶ月間も「この寝てるだけの時間を有効活用せねば!」と変なスイッチが入り、およそ妊婦らしからぬ専門書を次々に病室に持ち込み、ナースさんに「病室が研究室になってる」と笑われたりしました。

話が逸れました(>_<)

そんなこんなで満を持しての不育症検査
長くなっちゃったので、検査結果は次の記事に。

冗長に自分語りばかりだなぁ。
まぁそもそもブログってそういうものか。
2017年1月
私は33w2dで赤ちゃんを死産しました。

そして今日
2018年2月26日で、33w2dを再び迎えることができました。
あのときと同じ女の子。
朝目覚めたときに、お腹の中でもにょもにょと元気に動いていて、感謝の気持ちが溢れました。

元気でいてくれてありがとう。
希望をくれてありがとう。

まだまだ不安は拭えません。
自分の胎盤より外の保育器の方がよほど信頼できる気がして、早く出てきてほしい気持ちもあります。

気持ちはまだこんなにグラグラですが、絶対に元気な子を産んでやる、という気合いも込めて、ジャンルを「不妊治療」から「妊娠記録」に変更しました。

まだ不育症検査やその後の体外授精のことを記録しきれていないので、不妊治療の記事も上げていきますが、これからは同時進行で妊娠記録も残していこうと思います。

自宅に戻ってまず私がしたことは職探しでした。

前職とは違う業種・同じ職種の求人をあたり、
・勤務形態(週に2、3日数時間)
・立地(不妊クリニックに近いところ→クリニックまでの交通費が通勤手当で浮く笑)
の条件がちょうど良い医療事務として雇ってもらうことがすぐに決まりました。

その時点ではまだ死産から2ヶ月経つか経たないかというところ。
家計的に苦しいわけでもなく、とにかくまだゆっくりしてほしいと家族は反対しましたが、日に日に塞いでいく私を間近で見ていた夫は、私が元気になるならなんでも、という感じで応援してくれました。

前職を辞めてからは軽い在宅バイトしかしておらず、パートとはいえはじめての転職。
年下の先輩ってこんな感じなんだなぁなんて転職あるあるを味わいつつ、飛び交う専門用語を必死でキャッチしながら濃密な(疲弊する?)日々を過ごしました。

窓口業務なので患者さんへの笑顔を絶やさず、もちろん同僚のスタッフさんたちにもできるだけ好感を持ってもらえるように(完全な女所体、これも新感覚でした)、「外の顔」を半ば強制的に作ることは荒療治になったのだと思います。

新しいことを吸収するのに精一杯で悲しいことを忘れる
家族でない他人に必要とされることで、崩れる寸前だった自分の存在価値を再発見する

私にとって、「働く」ということはこの時期特に貴いことだったんだと思います。

2017年8月の妊娠発覚とともにすぐに退職してしまったので、在職期間はたったの半年で、クリニックにとってはやっと使いものになりつつあった頃に辞められてとんだ迷惑なパート職員だったと思います。
それでも始終優しく教示いただき、またあたたかく祝福し見送っていただいたスタッフの皆さんには本当に感謝の気持ちしかありません。

在職中の半年間は、不育症の検査をしたり、焦ってやっつけ的にしてしまった体外受精に失敗したり、気が滅入ることも多々ありました。

「ひとりだけの時間を持ち、自分と向き合う」ことと同様に、「自分ではない誰かのために動く」ことも大切で、人は結局自分ではない誰かのために生きることでしか、生きる意味を見いだせないのだと改めて思いました。

そしてそう思うと、なおさら「やっぱり子どもを産み育てたい。この先の私の人生を、私じゃない誰かに与えたい」という気持ちも強くなりました。
2017年1月に死産し、その月のうちに実家を引き上げ自宅に戻りました。

家族や来客の対応に疲れるから、というのがいちばんの理由。
私のことを聞きつけた親族がお見舞いにやってきては、泣きながらあたたかい言葉をかけてくれます。
その善意の心遣いに謝意を示し、私が落ち着いていることを示し安心させる。
なんで泣いてる親族に私が笑顔を見せて元気づけようとしているのやら途方に暮れました。

本当に私を気遣うのなら、ほっといてほしかったというのが本音です。
事実、友人たちは一言私を心から案じるメッセージをくれたあとは、きれいにほっといてくれました。
忙しいとか特に関心がないとかじゃなくて、そっとしておくのが私のためだと思っていることはちゃんと伝わりました。

もっとも前回の流産の例もあったので、できるだけ出産を終えるまでは伏せていようと思い、私の妊娠を知っていた友人もほんの数人だったんですけどね。
祖母の葬儀もあり早々に実家に引っ込んでいたので友人を避けることはできたのですが、その代わり親族には大きなお腹を披露しまくることになったという…

神奈川の自宅に戻りひとりの時間が増えたことで自分の気持ちとゆっくり向き合うことができ、少しずつ回復していきました。
誰かと一緒にいて気持ちを吐き出すことで楽になれる人もいると思いますが、強がろう見栄を張ろうとしがちな私の場合はひとりになることだったんだなぁと。
唯一吐き出せる相手であるところの夫@本人なりに共感しようと努めている をも拒絶する私は、やっぱり一時ひとりになるしかなかったんだと思います。

落ち着いてきた頃に、元同僚や友人と会ってお酒を交わし、みんなのあたたかさとビールの美味しさに泣いたりして、「あぁ私、ひとりで恋しかったんだなぁ」とも思ったりしましたが。




「夫は私のことを全然理解してない」

映画『エデンの東』を父とふたりで鑑賞しながらぼやく私。
まだ妊娠中で、実家でゴロゴロしているときでした。

第一次世界大戦前後の世相を背景に、両親やひとりの女性を巡って兄弟がいざこざする話。
雑な説明すぎて名作に怒られそうですね…。

兄は自分の婚約者のことを「可憐で女性らしい女の子」だと思っていて、一方の弟はそんな彼女に強気で奔放な一面があることも知っています。
兄の婚約者は自分のことをより理解している弟に惹かれていく…というストーリー。

で、それを受けての冒頭の私の台詞。

夫は私のことを全然理解していない。

夫自身にその言葉をぶつけたことは過去に何度かありました。
そのたびに夫は悲しそうな困惑したような表情をして、私も反省してみたり余計嗜虐心を煽られたり溜飲を下げたりしてきたのでした。

そんな私に
「僕だっていまだにお母さんに同じこと言われるよ」
と父。

男性はそういうものなんだ、エデンの東の兄同様に、好きな女性には勝手な幻想を抱いてずっとそこから抜け出せないんだ。
許してあげてよ、と。

なるほど、三十余年のつきあいの還暦を過ぎた夫婦でもなおそうなのか、と思うと、私は夫に対して無体な要求をしていた気になってきました。

だいたい、「本当の私」なんてろくでもないのだから、夫が勝手に私の幻影を私に見ているのならむしろ都合のいいことではないか。

そもそも他人に自分を真に理解しろなんて横暴な要求もいいところだよなぁ。

という具合に反省して、夫の私に対するポジティブに明後日方向な解釈をも、心穏やかに受け入れられるようになりました。

お父さんありがとう。
そしてファイト。


流産、死産を経て、よかったとまではとても言えませんが、得たものもたくさんありました。

そのひとつが、夫への気持ち。
私がどんなひどい状態になっても、おおらかな心で支えてくれる、共感しようとしてくれる。
絶対的な信頼感が生まれました。

それまでだって、夫はずっと優しかったし私の良き理解者でいてくれました。
でも、それまでは私だって彼に与えられるものがたくさんあったから。
家事をこなし、稼ぎもあり、健康的な心と体をもって日々を過ごしていたから。
それら全てを持たない私に価値ってあるの?
そんな私にも変わらずに接してくれるの?
無条件に愛してもらえるなんて自信はあるわけないし、それらを持っている私こそが私だった、というプライドもあったから。

私自身が何も持っていない私を許せない中で、「大丈夫だよ、何も変わらないよ」と事も無げに引き上げてくれたのは夫でした。

夫が病気になって働けなくなって私に八つ当たりするようになったとして私は、彼が私にしたように彼に接することができるのだろうか。
わからないけれど、そうしてあげたい、と強く思いました。

結婚式で「健やかなるときも病めるときも」って誓ったけれど、あぁ、こういうことなんだなって、結婚生活を続ける中でやっとわかってきたのかもしれません。

これから歳を重ねておじいちゃんおばあちゃんになって、体のあちこちに不具合が出たりしても、この人となら支え合って笑って生きていけると、じんわり実感しました。
私は幼い頃からまわりから優等生として扱われることが多く、また私自身満更でもなく(笑)、家族に対しても「優秀な子、優しいお姉ちゃん」だったと思います。

そんな私の黒い部分、弱い部分を知っているのは数少ない友人と、誰よりも夫だと思っています。

夫はなんというか、絶妙なバランスの感性を持った人間で、柔軟さと頑固さの基準がどっちにも振り切っていて、いまだに読みきれない部分があります。
書きながらどう表現していいのかわからない…笑
血液型で性格が決まるとは思いませんが、型に当てはめた風説に自身の性格が引っ張られることは多少なりともあると思っています。
そういう意味で夫はいかにもAB型で、ちなみに私は量産O型です。

底抜けにポジティブで勤勉で(社畜を楽しむメンタルの持ち主です)、これが真の意識高い人か、とわが夫ながら感心することもしばしば。

自分の意見を曲げず、上司と対立したりしてはハラハラさせられるのですが、なぜか私の言うことは絶対と思っているようで(思ってないけどそう言っときゃ私が満足するとわかってのリップサービスな気もするけど、それはそれでいい心掛けだと思います笑)、私に対してはほぼほぼ無条件降伏の構えです。
私は頑固者ですが、そんなわけで夫とは諍いになりようがありません。

私は表面的には優しくて従順な人間に見えるようで、若い頃はそういう女性を求める男性から好意を寄せてもらうことが多かったのですが、いざつきあってみれば束縛を嫌い主導権を握りたがりやけにジェンダーにうるさく理詰めで責めてくるという私に辟易して破局、ということがままありました。
そういう意味でも、夫は私の(文化系にありがちな)面倒で下らない議論にも根気強くつきあってくれる、稀な男性なんだと思います。

なんだか何を書こうとしているのかわからなくなってきました(笑)

そんな(?)超ポジティブ夫、
死産後の入院中、私を元気づけようと聴かせてきたのは、夫がリスペクトする中島卓偉さんの楽曲でした。

普段から私も横で聴いてて、まぁ嫌いじゃないのですが(ハロオタとして大変感謝してます。脱線)、とにかく熱いポジティブソングを書き上げるシンガーソングライターなのです。

「高過ぎる壁もあるだろう、悔し涙も流すだろう、でもそれは君が乗り越えられる人間だからこそ与えられた試練なんだ。遠回りしたってその経験が君を強くするさ」
的な激励パワーソングを浴びせかけてくるのです。

この夫をどうしてくれようかと。
卓偉兄さん、本当に弱ってる人間には劇薬です。

「ごめん、とてもじゃないけどその曲聴く気分じゃない…」

と力なく言うのがやっとでした。

それからしばらくは夫の共感力の無さに憤りを感じたり、真面目に仕事に行ってるだけの夫に「打ち込める仕事があっていいよね」と八つ当たりしてみたり、もう生きる気力もない風のメンヘラアピールをしてみたり(もはや本気なのかアピールなのかすらわからなくなってました)、我ながら扱いに困るやつになっていたと思います。

そしてそんな私のどうしようもない姿を目の当たりにして、接し続けたのは夫ただひとりだけでした。
夫以外の家族や友人に対しては、一貫して気丈な態度を取り続けました。
あんな悲しい儀式を再びすることになるなんて夢にも思いませんでした。
双子流産からまだ1年とちょっと。

死産後の手続きは皮肉にもとてもスムーズでした。
みんなどんな手順で動けばいいか生々しく覚えていて、殊更淡々と機械的にすべきことをするのみでした。

火葬場で最後のお別れをして、点火のスイッチを押すようにスタッフから促されました。

前回は、その場で立ちすくんで動けない私を気遣って夫がスイッチを押そうとしましたが、遮って私が震えながら点火しました。

その記憶も新しいうちに、また同じことをしなければならないなんて。
スイッチを押すときも、相変わらず自分が何をしているのか理解できないままでした。
悲しいなんて感情を超えている、と思いました。


普段の私はどちらかというと楽観的で、感情の起伏は緩やかな方だと思います(夫も同様なので、結婚してから喧嘩という喧嘩は一度もない…はず笑)。
またそれは穏やかな性格という反面、「感情を剥き出しにしたところで事が片付くわけでもないし、ただの無駄」と考えてしまう冷徹さ、良くも悪くも合理的な性格とも言えるんだと思います。

前回の流産でも、自分でびっくりするほど感情は乱れましたが、「いつまでも泣いていたって何かがよくなることはない」「乗り越えるとか吹っ切れるとかじゃなくて、感情全部持ったままでも、今私にできることをするだけだ」と無理矢理にでも折り合いをつけて、前に進もうとしました。

その結果、また赤ちゃんを授かることができて、順調に育ってくれて、お腹の中の彼女から、たくさんの希望と幸せと勇気をもらいました。

あのひとときが全て無になったわけではない、力強い胎動も重みも、まだ全部覚えてる。
でも、この記憶を持ち続けることは幸せなのか、不幸なのか。

「悲しみときちんと向き合って泣きたいだけ泣くのがいい」という言葉にも「悲しいことは忘れて希望を持っていこう」という言葉にも、何も感じませんでした。

眠れない食べられない毎日が続き、少しまどろんでは勝手に涙が出ていて、我ながらこれは完璧に病んでいる、と危機感を覚えるも、それもどうでもいい、と投げやりな気持ちでした。

毎晩声を殺して泣いては、夫が起きて背中をさすって抱きしめてくれる。

でも私がほしいのはこれじゃない。
私の気持ちなんてわからないくせに。

夫だって会社や友人知人に二度も悲しい報告をして、傷つきながらも仕事をこなして、精神的にきつかったと思います。
それでも、私にとっては気持ちを共有できる人ではありませんでした。
ずっと一緒だった半身を切り取られて、孤独感しかありませんでした。

いつまでもわが子を抱けない夫が気の毒で、もう離婚してしまおうとも思いました。
思ってから、夫にとって何より辛いのは私と離れることだとわかっていて、その何よりもの苦痛を与えてやろうという残酷な気持ちであることにも気づきました。
捨て身の暴力、なんてばかばかしい。

誰かを傷つけたい、なんて感情は、理解しようとしたことはあれど、知らなかったし知りたくもありませんでした。
自分が理不尽に傷つけられていると思うと、こんなにも暴力的な感情が渦巻くものなのかと打ちのめされました。

やっと死産のこと、書けました。

ここまでしばらく過去を振り返ってきましたが、ここで少し現状など。

今日で31週5日。
もうすぐ9ヶ月目に入ります。
2週間ほど前の健診で、子宮頚管が2.5センチまできていることがわかり、以降自宅安静の日々を送っています。
家事の一切を放棄し、夫にがんばってもらっているのですが、来週にどうしても外せない出張があり、ついに母が沖縄からやって来ることに。
今頃羽田空港に着いたところでしょう。
あと1時間もしたらわが家に到着です。

ということで、母が来る前に死産までの記事を書き上げたかったんです。
なにせボロボロ泣きながら書いてたので滝汗
人前ではとてもできない作業でした‥。

私としてはひとりで過ごしている方が気ままで楽で、夫も職場に現状を説明し毎日定時で上がらせてもらったり出張を避けたり、無理なくできてたんですけどね…。
数日の出張くらいひとりで乗り切れるとおもうけど
いや絶対大丈夫とは言いきれないけど…

とは言え家事の一切を担ってるのは夫だし、その夫も私をひとりにするのを不安がり母召喚を希望したので、もはや私に拒否権はありません。
ちなみに義母召喚はやんわりきっぱり拒否しました笑
関係が悪いわけじゃないけど、さすがに長期間密室でふたりっきりはキツイです笑い泣き


妊娠しながらこのカテゴリに居てはよくないとも思いますが、前回33週で死産したこともあり、無事出産するまではとても不妊・不育の心配から脱却できず、もうしばらくここに居させていただけたらと思っています。

現状報告はこのあたりにして、死産後の暮らしや不育症検査について、これからぼちぼち更新していきます。
アクセス解析を眺めていると、流産や減胎、不妊治療の記録にアクセスが多く、情報を求めている方が少なくないのかなと感じます。
このブログを始めて、私同様に、それ以上に、大変な思いをされている方のブログもたくさん拝見しました。
まずは私の気持ちの整理と記録のためのブログですが、少しでもどなたかのお役に立つ情報になればまた幸いに思います。