死産後のこと | すみれときいろとフィリピン生活

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あんな悲しい儀式を再びすることになるなんて夢にも思いませんでした。
双子流産からまだ1年とちょっと。

死産後の手続きは皮肉にもとてもスムーズでした。
みんなどんな手順で動けばいいか生々しく覚えていて、殊更淡々と機械的にすべきことをするのみでした。

火葬場で最後のお別れをして、点火のスイッチを押すようにスタッフから促されました。

前回は、その場で立ちすくんで動けない私を気遣って夫がスイッチを押そうとしましたが、遮って私が震えながら点火しました。

その記憶も新しいうちに、また同じことをしなければならないなんて。
スイッチを押すときも、相変わらず自分が何をしているのか理解できないままでした。
悲しいなんて感情を超えている、と思いました。


普段の私はどちらかというと楽観的で、感情の起伏は緩やかな方だと思います(夫も同様なので、結婚してから喧嘩という喧嘩は一度もない…はず笑)。
またそれは穏やかな性格という反面、「感情を剥き出しにしたところで事が片付くわけでもないし、ただの無駄」と考えてしまう冷徹さ、良くも悪くも合理的な性格とも言えるんだと思います。

前回の流産でも、自分でびっくりするほど感情は乱れましたが、「いつまでも泣いていたって何かがよくなることはない」「乗り越えるとか吹っ切れるとかじゃなくて、感情全部持ったままでも、今私にできることをするだけだ」と無理矢理にでも折り合いをつけて、前に進もうとしました。

その結果、また赤ちゃんを授かることができて、順調に育ってくれて、お腹の中の彼女から、たくさんの希望と幸せと勇気をもらいました。

あのひとときが全て無になったわけではない、力強い胎動も重みも、まだ全部覚えてる。
でも、この記憶を持ち続けることは幸せなのか、不幸なのか。

「悲しみときちんと向き合って泣きたいだけ泣くのがいい」という言葉にも「悲しいことは忘れて希望を持っていこう」という言葉にも、何も感じませんでした。

眠れない食べられない毎日が続き、少しまどろんでは勝手に涙が出ていて、我ながらこれは完璧に病んでいる、と危機感を覚えるも、それもどうでもいい、と投げやりな気持ちでした。

毎晩声を殺して泣いては、夫が起きて背中をさすって抱きしめてくれる。

でも私がほしいのはこれじゃない。
私の気持ちなんてわからないくせに。

夫だって会社や友人知人に二度も悲しい報告をして、傷つきながらも仕事をこなして、精神的にきつかったと思います。
それでも、私にとっては気持ちを共有できる人ではありませんでした。
ずっと一緒だった半身を切り取られて、孤独感しかありませんでした。

いつまでもわが子を抱けない夫が気の毒で、もう離婚してしまおうとも思いました。
思ってから、夫にとって何より辛いのは私と離れることだとわかっていて、その何よりもの苦痛を与えてやろうという残酷な気持ちであることにも気づきました。
捨て身の暴力、なんてばかばかしい。

誰かを傷つけたい、なんて感情は、理解しようとしたことはあれど、知らなかったし知りたくもありませんでした。
自分が理不尽に傷つけられていると思うと、こんなにも暴力的な感情が渦巻くものなのかと打ちのめされました。