初めから引用で申し訳ございませんが、『新全集』の編集者の一人であった故寺横武夫先生が書かれた文章を紹介します。
ーここから引用ー(清吟佳可医病ー井伏鱒二と福山中学ー「滋賀大国文第三十一号」冒頭より)
大正元年八月二十四日。福山中学の一年生だった井伏満寿二たちは、夏休み中にもかかわらず急遽学校へ呼び集められることになったという。習字を教えていた門田杉東という八十二歳の先生がこの日を限りに退任したためである。
ところが、登校してみると、思いがけない余録が待っていた。
門田先生は、私たちが二年になったころ、教職から身を引いた。その記念として、最後の時間に私たちに短
冊型の紙に字を書いてくれた。一年生のみんなにくれたのだ。私の貰った紙には「清吟佳可医病」と書いてあ
った。後に私の兄にそれを見せると。英語の辞書と交換してくれと云ったので交換した。(「半生記」)
井伏の記憶と校史の記録ではクロノロジカルな面で必ずしも吻合しないところもあるのだが、いまは問わないでおく。ここで問題にしたいのは、家兄からも興味をしめされた、その餞の言葉の内容の方に係わると見るからだ。
ーここまで引用ー
この短冊がまだ見つからないのです。この福山中学の「一年生みんなにくれたのだ」という短冊が。
実は、「井伏の記憶と校史の記録ではクロノロジカルな面で必ずしも吻合しないところもあるのだが」が問題ではないかと私は考えます。というのは、門田杉東(重長)先生が解任されたのは、第九代校長山村彌久馬によってであり、それも夏休み中の大正元年八月二十四日のこと。当時一年生であった井伏満寿二は習字を門田先生から三月ほどしか習っていなかったということになります。その生徒達(恐らく百名前後)「みんなに短冊をくれた」とは常識的に考えにくいからです。
では、この短冊の件はまったくの作り話かということになるのですが、私は最近このエピソードには井伏の兄が関係しているのではないかと考えるようになりました。というのは、先日「忘れ物1」にも出てきたように、兄の友人に鷗外の手紙が渡ったのではないかという推察からです。そして、井伏鱒二のもう一つの自伝である「鷄肋集」に次のようにあるからです。
ーここより引用ー(「全集」第九巻261頁より)
もはや家兄も姉も学校を卒業して自宅に帰つてゐた。しかし祖父は家兄に漢学を習はせるといつて福山市の門田杉東先生に弟子入りさせてゐた。祖父の主張によると、漢学を習はなくては人間が出来ないといふのである。
杉東先生は八十幾歳の老体であつた。先生のお父さんは管茶山先生の養嗣子門田朴斎先生である。(中略)杉東
先生は非常にきれいな老先生であったが頑固であった。街を歩いてゐて自転車のベルがきこえても、自分はここを歩いてゐるのに避ける必要はないと信じて道を避けなかった。そんなわけで自転車に衝突して足を折り、老体のことでもあるしそれがもとで亡くなられた。したがって家兄の漢学修業も一年あまりで中絶し、今度は暇になつたので、家兄は早稲田の山根雅一といふ病気帰省中の学生や尾道の洋服屋などと連絡をとって、同人雑誌を発行した。
ーここまで引用ー
門田杉東先生と関係が深かったのは、兄だということがよくわかりますが、短冊はでてきません。
どなたかわかる人は教えてください。