今朝の毎日新聞の『詩歌の森へ』の酒井佐忠の文章には呆れました。何を考えて書いているのか、さっぱり分かりません。勿論、文芸ジャーナリストという肩書きを明記しているのだから、短歌の世界の情報を伝えればいいだけのことと無責任に考えるのでしょうが、ジャーナリストと称するには、もっとしっかりした本人の見解が必要だし、責任があります。私に言わせると、貴方の紹介した現象はすぐなくなりますよ。当然、これを称えた当の歌人はひどい傷を負いますが、貴方はどんな反省をします

か。


 「旧かなの新しさ」というのがその見出しです。


 「現代社会でほとんど使われない旧かなは、詩歌の世界では新鮮な光彩を放って生きている。旧かなを扱うことは決して後ろ向きな伝統保守ではない。(中略)

シンポを企画し、司会をした篠弘さんや永田さんが指摘するように、詩歌の中の旧かなは「新しい時代」を迎えた。「旧かなを守らなければならない」といった固定した考えではなく、旧かなの言葉自体の魅力的な感覚を、どのように詩歌に取り入れるか、それを考える時代だと思う。」


 文中たった一つ例に挙げている『夕日なきゆふぐれ白し落葉焚』(小川軽舟)を例に考えてみましょう。


 小川軽舟さんは、「夕暮れ」ではなく「ゆふぐれ」と書くときの「ふ」の感覚が、やはり

作品の「滞空時間」を豊かにすると発言されたようです。


 現代日本語の「ゆうぐれ」の表記は次の三つです。

 ① 夕暮れ(漢字表記、「れ」を書くか書かないかはこの際問いません)

 ② ゆうぐれ(現代仮名遣いでの表記)

 ③ ゆふぐれ(旧仮名遣いでの表記)


 この表記のうちでもっともインパクトの弱いのは「ゆうぐれ」でしょう。作者はこれを書くつもりは恐らくありません。比較したのは「夕暮れ」と「ゆふぐれ」なのです。だから、『「夕暮れ」ではなく「ゆふぐれ」と書くときの「ふ」の感覚』とあるのです。これは漢字表記か、かな表記かという問題です。かな表記の方が、漢字表記より「滞空時間」が豊かであるというのは誰もが納得できることでしょう。旧かなと新かなの比較ではありません。


 もう一つ、「夕日なき」「白し」は文語体の表現です。これと「ゆふぐれ」が呼応しているのです。私はこの句をすぐれた句だと思います。全体に文語体で引き締まった表現。そして、「ゆふぐれ」の表記が「滞空時間」を豊かにして、生きていることを疑いません。


 しかし、旧仮名遣いは、その一語の表現それ自体に表現効果があるのではなく、文語体の表記の中で、生きているということをネグって論を立てても意味がありません。


 短歌として、文語体がいいか、口語体がいいかはそれぞれの問題です。「選者を選んで投稿せよ」というのも変なものですが、口語体の作者は、毎日新聞では「加藤治郎」氏を選んでいるのでしょう。この選歌に「くちびるのかたち一つであの人に思通じた日もあったのに」とあったら、いいと思いますか。


 短歌のわからない一人の老人の寝言です。

 口語体の短歌は現代仮名遣いで、文語体の短歌は旧仮名遣いでお願いしたいですね。