ちわー、むかえです


 

 

本日は前者後者論!

ダイヤモンド前者後者論って?

「なんでこんなに伝わらないのだろう…」
ーそれは人間の「脳(意識)のOS」 が実は2つの仕組みに分かれているから!

記事:1.基本編、2.機能編、3.世界観・コミュニケーション編

 

 

 

※只今前者後者ユニバのHPが一時停止状態になっています

(年末年始中には対応予定です~m(_ _)m)

 

 

********

 

 

前者と後者は認識の仕方だけじゃなく、

 

 

もう一歩

「自分」というものの感覚が違うんじゃないか?

 

 

 

と最初に書いたのはこの記事

「自分」が違う(2016.3.28)

 

 

 

 

・・・・さてそこから年月がたち、

 

   

ワタシ的にはまだ見えてない気のする

パーツなりピースなりがある気がするので、

 

 

&この話を実際にぶつけて反応を見たn数がまだ少ないので

全体的な確信度は70%

 

 

 

が、大枠は外してないと思っている考察を書いてみます。

(講座でも形だけは見せてるし話してますがー)

 

 

 異論気づき等あればぜひコメントをば~。

 

 

 

 
世界は「3つ」ある
 

 

 

前者と後者の認識をこう

 

 

と説明してこれがデビュー戦になったわけですが

(後者は左:自分起点の一方向視点/前者は全体の関係性を多方向に見る視点)

 

 

 

今これを説明するのに使っている図はこれです。

 

 

さて質問。

 

目は前についているのに

前者はなんで全体を多方向的に認識できるんでしょ?

(※いやもちろん前者も直接見えているのは前方だけですよ^^;) 

 

 

直接の機能理由としては、

強制Wi-Fiみたいに情報が勝手に入ってくるからというのはあるのですが

 

 

 

ポイントはコレ↓です。

 

 

 

前者さんて、目の前の現実と並行して

頭の中にその場の状況とか状態を反映したゲーム盤(仮想世界)

 

 

常にサイドにある、

頭の中にあるイメージなんですよ。

そうやって情報世界を構築しているんです。

 

 

で、その盤上に、

自分という駒や他人という駒があって一緒にゲームを営んでる感覚。

みんなそうしてると思ってる。

 

 

 

これってどっち「が」本体とかじゃないんです。

 

 

前者にとってはどっちも本体です。

常に2つの世界同時に生きているのが前者です。

 

 

 

 

 

んでお互いのゲーム板(仮想世界)をすり合わせて

その場のゲーム版ルールを合意するのが

 

 

前者の「ふつう」ってやつで、

 

 

参考:『で、結局「ふつう」ってなんなのさ?

 

 

 

前者が「全人類が当たり前にそうしている」

「思っている」社会形式です。

 

 

 

んでゲームをしているならですよ。

後者の皆さんに想像してもらいたいんですが、

 

ルール=ふつうを確認しないとか

自分の打った手がどういう影響をもたらすかとか、

自分の手が相手からどう見えるかとか、読まれるかとか、

 

考えない、てありえないですよね。

 

それが前者の言ってる「意図」です。

 

駒が何を思っているかは直接はわからなくて当たり前ですが、

外から観察することで狙いと影響は読める。

 

できるかできないかとか、下手上手いじゃないです。

ゲームやってたらそういう事考えますよね。

しかも本当のゲームと違ってやめられないですしね。

 

そしてゲームと同じで

一度起きたことはリセットされず後々まで盤面に影響し続ける世界観です。

 

また前者の求める「大丈夫」はこのゲーム版上の安全が確保されることを言っています。

 

 

 

 

 

で、いっぽう後者はどうかというと

 

 

こうです。

 

 

 

※地面に向かって下の垂直方向に書いているのは便宜上で、

とにかく現実と違う方向に次元が展開しているイメージです。

 

 

 

 

後者には「ここではないどこか」に

意識のマイホームのようなものがあって

 

 

用が済むとそこに戻って充電します。

用があると出てきます。

 

 

 

アメーバのように自由に意識範囲が変わりますし

 

どこにどういるかはその時次第ですが、

本体が常に100%で移動しているのです。

 

 

 

後者は常に本体1つで動いているし生きてますから

 

 

当たり前に「自分は常に自分」だし

自分はどこまでも「自分」でしかないし

自分の世界は常に自分のものです。

 

 

そんなのわざわざ意識もしない。

 

 

 

他人は他人で違う世界を持っている(はず)ので、

お互いに世界=自分をダイレクト接続することで交流します。

 

 

 

 

 

 

つまり

 

前者は”2つの世界”同時に生きている」し、

後者は”2つの世界”行き来」して生きている

 

 

のがデフォルト(初期設定)です。

 

 

 

 

さて、

 

前者と後者はそれぞれ「2つの世界」に強く関わっているわけですが、

前者と後者の「2つの世界」は同じではありません。

 

人間の世界は3つあるのです。

 

 

 

 

①(後者の)ホーム世界

 

②この肉体のある現実世界

 (※肉体には感情や五感を含みます)

 

③前者の仮想世界

 (※基本的に思考の産物)

 

 

 

 

んで

 

 

 

デフォルトで

 

前者は②と③を同時に生きて、

後者は①と②を行き来しています。

 

 

 

 

ちなみに

リアルな現実は②だけ

②がかぶるので交流できますが、

 

 

前者の中には②と③の区別

後者の中には①と②の区別

 

がついてらっしゃらない方がわりといます。

 

 

 

また、

どんな前者であろうと眠れば①に沈みますし

どんな後者であろうと③上のもの(お金とか法律とか数学とか)に無縁ではないので

 

人間である限り誰しも①~③に関わっていますが

 

 

後者は③の存在が見えていない(何か感じてはいても)

前者は①の存在が見えていない

 

 

ということがほぼ基本です。

少なくとも世界の半分の人にとっての当たり前とまでは認識してないはずです。

 

 

 

んで、これは度々言っていることですが

③は要は集合意識の領域だし、

①は集合無意識の領域だと思っています。

 

 

 

 


ちなみにお互いが

②「リアル」の話をしている時は前者も後者も話が通じます。

(通じたからと言って合意するかとかまとまるかは別の話ですが)

 

 

この記事なんかがそういう話でした。

それぞれの自然体、それぞれの努力 (18.1.4)

 

 

 
 

 

 
「自分」が違う
 

 

 

で、生きている世界も形式も違うんですから

 

前者と後者では当然

「自分」というものの前提も形も違います。

 

 

自分が「ある」「ない」とかいうのも

どこに前提を置くか、どれどどれをどう比べるか次第なんですよね。

 

 

 

その前提を踏まえた上で更に、

自分が「ある~~ない・薄い」て話はまたその次にもありますけども。

前者後者内のタイプ差も影響はあるかも

 

 

 

 

 

よく言われるのは、前者が自分が「ない」

 

まあ、そうでしょうね。

そういう前者多いと思います。現代日本なら。

 

あと、そうでなくても

そもそも日本文化ならそう感じる前者が多いのもわかる。

 

 

 

一方で、西洋人に言わせれば

日本人やアジア人は「自分がない」んだそうですよ( ̄▽ ̄)

 

 

あってもそれは

ただの「自己中」で「利己的」な幼稚なミーイズムだと。

 

で、ここで言われているのは後者のことだと思ってます。

(※私は日本やアジアは後者文化だと思っています)

 

 

 

まあ、そしてこれも、そうでしょうね。

西洋人の「自分」の前提から見たら。

 

 

 

後者文化に前者的な個人主義を

わかんないまま乗っけた弊害もプラスされている。

 

 

 

 

 

西洋の「個人」。

 

「個人」て英語で、indivisualって書くんですよね。

意味は「(これ以上/もう)分けられない」

 

 

ずっとこの言葉の感覚が不思議だったんですけどね。

 

 

つまり前者の「自分」ていうのは、

境界ありき・社会や他人ありきなんです。

 

 

 

社会というゲーム版があって、

盤上に駒があって、

駒同士の関係と役割があって、

 

 

「個性」はその上に成立しているもの。

その境界の中に成立していくもの。

 

 

 

最近読んだ言語学の本の例えがわかりやすかったんですが、

 

 

チェスのビショップの機能が

ゲーム版や、他の駒の存在や関係抜きに意味や価値を持つかと

 

 

 

自分と他人をしっかり分け、

他人との「差」をつくる。

 

 

 

盤上の駒としての自分=社会の中のイチ個人としての自分

というものの存在と個性を作り上げる。

 

 

 

 

このへんの記事にも書いたんですけど、

「自分軸」のターン (17.5.16)

 

 

 

これを文化教育的にしっかり叩き込むのが

西洋式ですよね。

 

 

意識的に作り上げた自分だからとっても強い。

崩れないし、崩れても立ち直れる。

 

 

そして社会の中で生きて「対応する」自分でもある。

 

 

 

もちろん②現実側の自分も大事で、

 

健康に成長するなら、

 

③上の自分を作り上げながら、

②の自分を経験で豊かにし、育てながら

②と③をフィットさせていき、あるいは上手く住み分けて

   

 

真にオリジナルな「自分」というものの形や個性

を創り上げていく。

 

 

 

ただ・・・・・理想通りに行けば理想だけど、

 

 

きついんじゃないかなあ

と思っている私の私見がこちらの記事。

 

”前者の自分軸”の仮説 (17.5.19)

 

 

 

 

 

で、日本の前者はそもそも

そういう教育も受けてないわけですよね。

 

 

んで、この境界をつくる一つの手段が「拒絶」なので

それが結果的にアイデンティティの代わりになっちゃってる人多い気がするんだー。

 

 

 

 

 

かたや後者は常に自分フルスペックです。

 

 

 

 

自分と世界は連続的だし、

自分と他人も連続的ですが、

 

境界なんぞなくても自分はどこまでも自分です。

 

 

スタート地点。世界の前提。自分=世界。

 

 

台風の境界、山と平地の境界は実際には存在しませんが

でも台風はあるし山もありますよね。

 

そんな感じかなあ。

(でも死んだら自然界に還るという発想はわかる。逆に肉体抜きに自分意識を維持し続けられるかは疑問)

 

 

 

 

てことは単純な話、

「自分パワー」みたいなものがなんかあるとしてですよ。

 

 

 

②のリアルフィールドオンリーで

前者と後者がでしかも1対1でぶつかったら

 

 

まず前者が負けるんですよ。

 

 

 

だって②と③に分散してるのと、

フルで来てるのとでは

 

 

条件差ありすぎでしょう。

(総キャパシティの個人差がそれを凌駕していれば別ですが)

 

 

 

んで、このフルフルに満ちて生きている後者の姿(しかも裸の強さ)を間近に見ながら

 

 

③フィールド抜きの駒としての自分や、

②フィールドオンリーの自分、というものを比較したら

 

 

 

そりゃ思うでしょうね。

 

自分がない。て。

 

 

 

違うんだ、て話はこちらで

”前者の自分軸”の仮説

 

 

 

 

でもって後者から見ると

 

 

③の上の自分、て

自分を守ってるように見えるし、作り物に見えるんですよ。

(実際機能として間違ってはない)

 

 

 

でも前者がこの境界を脱いじゃったらさ、

これって自分の前提の防護服で鎧みたいなものだから

 

 

よほど中身②を育てられてきた人ならともかく、

そこにあるのは大体ピュアピュアで初々しくて繊細な「裸の自分」が震えていらっしゃるわけよね。

 

攻撃されたらすぐ死んじゃうような。

死なないけど

 

 

なのに、後者ときたら

そこにはそれ以上もうないのに

(その鎧を脱いだ時点で相当な覚悟なのに)

  

 

自分たちの①に当たるような

自分の「核」とか「本質」「中心」「震源地」みたいなものが

より「奥」に「ある」はずだと思って

    

 

「出せ」「それを出せ」「見せろ」「もっと脱げ」と迫ってきたりする。

そうまではされなくても「なんか違う・・・」て反応されたり。

 

 

 

「ない」のに。

前者は「塊」じゃなくて「かたち」なのに。

 

 

 

 

・・・・・てことを、

 

 

後者家族に囲まれて育つと、

前者さんはわりと不可避に経験してきてるんじゃないですかね。

 

鍛えられてきてもいるでしょうが^^;

 

 

 

でもこれ、前者特有の「罪悪感」の根本的なところにつながってる気がするんだよなあ。

境界があっても最初から中が満ちてるわけじゃないっていう。

 

 

 

 

 

 

ただし、

 

前者が分散しているといっても

その「度合、配分」は人それぞれです。

 

 

 

でこの分配度合いって、

俯瞰高度にそのまま比例していると思われるんですが

(思考派か感情派かとかも影響あると思うけど、パラメータとしては俯瞰高度の影響が一番な印象・・・・まだそれぞれの影響度合がどれくらいかに自信ないけど)

 

 

 

 

低くなればなるほど(下限が水平)②側の比率が高くなるし

下限の水平でもこんなにでっかくないかな

 

 

 

高くなればなるほど③側の比率が高くなる。

 

 

特に俯瞰の超高い前者さんは

ほぼ①側に意識があって

②の意識が希薄なために

 

 

②③同一性の問題では悩まないというか、

 

 

後者とはまた別の形で

ほぼ「自分フル」状態な感覚にあるんじゃないかと思います。

 

※思考や認識でつくられた外郭的な感じ←偽というわけじゃなくそれ自体が生物としての自然体

 なので後者が思ってるところの「自分」は逆にデフぉではかなり薄いと思われます。

 

 

 

ただし、彼らがこの「自分」を噛み合わせることができるのは

③フィールドの上だけ、さらに自分と同じ世界が見える相手とだけなので

(エネルギー値や地上との乖離度合いという点では深海側の後者とも通じるところがあって、釣り合う相手と意気投合したりしますが)

 

 

一番孤独な層だよなあ、と思います。

 

 

 

前者にとってゲーム版のふつうが噛み合うって

「生きている世界」を分かち合える喜びなんじゃないかなー、

と想像してるのですが

 

 

面でわかり合えるって、エロいというか、かっこいいというか

でも残念ながら、これは後者には手が出せない領域の話なのよねー。

 

 

 

あ、テーマから話逸れますが、瞬間的にはともかく

見える能力と活動できる能力(半径)は違うし、

高さと移動力(シフト力)は別のパラメータなので、自分の強みを見失わないようにね!(低めの方)

 

 

 

 

でも、現代は本来の比率と関係なく

③側に意識をシフトさせちゃう前者が多いんだと思います

 

やろうと思えばできちゃうし。

 

 

ただしそれは②の自分とバーターにしているだけで、

 

本来の自然体を超えてるし、

本来の自然体でもちゃんと育てていく必要があったはずのものを無視してきてしまっているし

  

西洋式に上手く境界も引けてない。

 

 

だから自分を見失っちゃう。

自分があるけどない。

 

 

そんな感じの前者さん多めなんじゃないかしら。

(ちなみに②の自分を感じる早い方法に痛みと怒りがあります。大事で必要なことなのだろうけど・・・)

 

 

 

これは前者対応をやり過ぎた後者にも当てはまりますけどね。

 

 

というか、現代の問題のバックグラウンドに

③の強大化と高度化による②と③の乖離・分離

があると思っています。

 

 

 

 

じゃあ一方後者はといったら。

 

 

 

 

別に③だけが社会ではなく、

②にも社会はあるので、

(①は社会というか一蓮托生の世界)

    

だから現実のリアルな半径やその延長ではわりと上手くやれる後者さんも多い。

 

問題はです。

 

後者の場合、
「③盤上の自分」いう発想がナチュラルにはありません。

 

 

用意された舞台、ルール、お約束事

その世界でなにがしかの駒としての自分を主張できるか。

あるいは状況を見抜いてサバイバルしていけるか。

 

「社会」という乾いた広場の中で

ただ一人自分だけが責任を持つ「自分」という駒=存在を、

 

 

どういうポジション、スタンス、能力で「対応」させていくのか。

どうプレイヤーとして振る舞うか。

 

 

他人を前提とした「自分」

他人に見せる「自分」

他人の中で生きる「自分」

 

 

広大な社会③にエントリーしている

プレイヤーとしての心構えがない。考えてない。

 

 

だから西洋人から「自分」がないとか言われるんじゃないかしらん。

そういう世界観から見ればそりゃそうでしょうね。

 

 

東洋には東洋の社会と成人の在り方があると思ってますが、

現にこういうところが後者の弱みとして出やすいのは確か。

 

 

日本の前者から見ても半人前だったり無責任に見えることも多いでしょう。

 

 

この仕組みが後者の抱きやすい

特有の劣等感にもつながってる気がするんだよなー。

 

 

 

 

ちなみに、後者が

盤上の自分を(結果的に)つくってきたオーソドックスな方法は

(私のイメージでは後者の社会って盤じゃなくて立体なんですが)

  

 

先に盤上に置かれている「役割」(部長、とか平社員、とか)に

自分を合わせていくやり方だと思います。

 

 

そうすると①~③を行き来することになる。

 

自分の好きな「役割」に収まりたいので努力して、

やがて②と③を一致させていきます。

  

 

「型」と自分を合わせるっていうんですかね。

で、「型」を全うするというより、「型」そのものがどうあるべきかの理想を追求する。

 

 

・・・・まあだから何も考えずに定年とかになると

②と③の自分を同時に失って、アイデンティティクラッシュが起こるんじゃないですかねー。と想像したり。

 

 

 

 
ひとまずここまで。
 

 

出発点が違うだけで、最終的に同じような形が理想として想定できるのか

(現実の人間が行き着けるところでなくても)

 

それとも前者には前者の、後者には後者の理想形、があるのか

(日本はでも総合的な理想形を持っていた気がする)

  

前者後者それぞれの中でどのパラメータが

どう絡まってどうバリエーションとってるのか

 

原理としては外してないだろうけど、

他の要素を勘案したら現実レベルでそこに注目する価値があるのかどうか。

 

 

・・・・なんてことはまだよくわかりませぬ。

 

 

 

が、少なくともこの見方をフレームワークとして使うことは十分できて、

 

特に「本質」「自分」「抽象」「普遍」「ふつう」

なんて言葉がよく錯綜するんですが、

 

 

この言葉を相手が①~③のどこのフィールドを想定して使っているか

自分がどのフィールドを意識して使っているか意識できると

 

混乱しなくてすみますよー。

 

 

*

 

以上です!