「後生の一大事」とは何か。
それは、信心獲得して、初めて知らされることである。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた、曠劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
(教行信証・総序)
もしまた、この人生が、
弥陀仏のお心を疑う心の晴れぬままで終わったならば、
またしても元の古巣(六道)を
果てしなく、永遠に迷い、苦しみ続けるところであった。
まことであった まことであった
この永久に助かる縁なき私を摂め取り
必ず極楽へ連れて往き無量寿の仏に成してやるぞの
「摂取不捨」の真実の言葉、まことでありました。
十方諸仏どなたも出来ぬ「超世希有」の御誓願、
嘘ではありませんでした。
どうか皆さま方も、
一日も片時も急いで、まっすぐに聴聞なされ、
弥陀の御本願に救われて頂きたい。
これは、真実の信心を獲得して初めて知られたことを、
宗祖が告白なされているお言葉である。
真宗において「後生の一大事」とは、
この宗祖のお言葉にある通り、
「未来永劫の六道輪廻・曠劫流転」を逃れて
「弥陀のお浄土に参り無量寿の仏に成ること」である。
他力の信心を獲得すれば、二種深信が決定する。
「永遠の六道輪廻・曠劫流転の我が身」と、
「我が身を弥陀のお浄土に参らせ仏に成す御本願」とが、
同時に疑い晴れて知らされる。
この二種深信こそが、他力の信心である。
誰でも他力に摂取されてみれば、
「未来永劫の曠劫流転を逃れること」と
「弥陀のお浄土に参り仏に成ること」とは、
更に別のことに非ず。必然的に「一つ」となっている。
「永久の流転の出離」 と 「往生即成仏」 の2つが
一つとなっているのが他力の信心。
弥陀仏から教えて頂くことだもの、馬鹿でも知らされる。
この2つを人間の計らいで切り離すことなどできない。
これが大信海、選択の願海、不可思議の徳海なのである。
されば、「後生の一大事」の語は、
今もいくつかの解釈をされているが、
宗祖のお言葉に則すれば、
「後生の一大事は ”永久の流転のみ”」というのも間違い
「後生の一大事は ”死後の往生のみ”」というのも間違い
となる。
無論、どちらが多いかなどという数の問題でもない。
”永久の流転” と ”死後の往生” とは切り離すことができない。
いずれも「後生の一大事」と言われるものなのである。
2つを同時に筆舌は出来ないまでで、
いずれを示した場合も常に他方を否定するものではない。
したがって「後生の一大事」の語意を
「永久の流転のみ」と主張なさる人に対しては
「往生即成仏」の一大事あることを示さねばならないし、
「死後の往生のみ」と主張なさる人に対しては、
「永久の流転」の一大事を教えて差し上げるべきである。
そうでなければ、その誤解を放置することになり、
機法一体の他力の信心、不可思議の信楽の開顕に
背を向けることになるからである。
これ一つ、教えてゆかれたのが宗祖であるから、
これを怠れば何のための750回忌かということになる。
金儲けや人集めでもなければ、
ただ生きる元気のない方々を励ますだけの為でもない。
どんなに元気に生きても後生は一大事。
元気に生きて、仏法聞いて、
未来永劫の一大事を、弥陀にうちまかせることこそが、
仏教の真髄、宗祖の一流、出世の本懐であり、
真に強く明るい人生の実現でもあるのである。
さて、ここで、
「未来永劫の六道輪廻・曠劫流転」の一大事は、
「地獄一定」の一大事とも表現されることを知るべきである。
なぜなら、それを否定する者があるからである。
すなわち飛●氏は、
「永久に流転する我が身と知らされること」 は 「機の深信」 と述べているが、
「地獄一定と知らされること」は「機の深信ではない」と誤解している。
そのため、
「死ねば、永遠に六道を輪廻する我が身」と、
「死ねば地獄より外に赴くところがない我が身」とは、
別のことだとしか思えず、
「信心獲得せずに死ねば誰でも必ず地獄」という説示を否定している。
これは、信仰の不徹底からくる間違いである。
「死ねば、永遠に六道を輪廻する我が身」も、
「死ねば地獄より外に赴くところがない我が身」も、同じこと。
少しの違いもない。
「六道は地獄だけではないではないか」
という幼稚の度を過ぎた非難をする者は、
真宗の者ではないと言っているようなものである。
参考までに、「御裁断申明書」には、次のように記されてある。
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抑当流安心の一義というは
「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」をもって
他力安心の依憑とはするなり。
このことわりを易く知らしめんが為に
中興上人はさしよせて
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて一心に、
阿弥陀如来、我等が一大事の後生、御たすけ候へとたのめ」
とは教へたまえり。
よりて弥陀をたのむものは決定往生し、
たのまぬものは往生不定なりと前々住上人も仰られたり。
又前住上人も、自らたしかに、
弥陀をたのみたる一念の領解なきことを、深く、いましめたまえり。
この一念というは、宿善開発の機、その名号を聞持する時なり。
このたのむ一念の信心なくば、
今度の報土往生はかなうべからずと相承しわえりき。
しかるに近来門葉の中に、このたのむ一念につきて、
三業の儀則を穿鑿し、或は記憶の有無を沙汰し、
殊に凡夫の妄心をおさえて金剛心と募り、
或は自然の名をかり、義解などいう珍しき名目を立て、
種々妄説をなして道俗を惑わしむること、
言語道断あさましき次第ならずや。
この予が教示の不遍ところにして、不徳のしからしむるにやと
朝に夕に寝食を忘れて、ふかく心をいたましむる処なり。
おのおの、如何心得られ候や。
上に示すが如く、弥陀をたのむというは、
他力の信心を安く知らしめ給う教示なるが故に、
たすけたまえというは、ただこの大悲の勅命に信順する心なり。
されば善導は、深く機を信じ、深く法を信ぜよと教えたまえり。
先ず、
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならではおもむくべき方もなき身なり」と知るを
深く「機を信ずる」とはいふなり
又、
「かかるいたづらものをあわれみましまして
願も行も仏体に成就して救わんと誓いたまえる御すがた
すなはち阿弥陀如来なり」とおもいて、
我が往生を願力にまかせ奉る心の少しも疑なきを
「法を信ずる」とはいうなり。
さればいたづらに信じいたづらにたのむにはあらず。
雑行雑修自力をすてて、二心なく信ずるが
すなはちたのむなるが故に、
その心を顕はして、たすけたまえと弥陀をたのめ、
とは教えたまうなりき。
さらに凡夫不成の迷情を思いかたむる一念を
往生の正因と教えたまえるにはあらずと知るべし。
この義は別紙にも述候得とも
なお惑いのとけさらん輩もあるらめとおもうて筆を染るものなり。
かまへて末学の書鈔等によりて、一流真実の義をとり惑うべからず。
されば事に大小あり、業に緩急あり。
今示す処は当流の肝要、我人生死出離の大事なれば、
これより急ぐべきはなく、又これより重きはあらざるべし。
もし猶我執をつのりてあやまちを改めずば、
永き世、開山聖人の御門徒たるべからざるものなり。
こい願わくば、心得惑たる人々、
今日より後は、いよいよ妄情をひるがえして、
相承の正義にもとづかるべきことこそ肝要に候え。
古語にも「知其愚非大愚也 知其惑非大惑也」といえり。
されば自ら惑うと知りて惑うものあらじ。
惑うは惑いを知らざるが故なり。
かかる人は明者の指南にあらずば誰かその惑いをとかんや。
このむねよくよく分別あるべく候。
一息不追千載長往ならいなれば、いそぎて信心決得有るべく候。
さて信心決定の上には、
行住座臥に南無阿弥陀仏~と仏恩を報謝し奉り、
王法国法に違戻なく仁義之道を相嗜、如法に法義相続ありて、
今度の往生を待うる斗の身となられ候はば、
予が本懐これにすぐべからず候なり。
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他力の信心を安く知らしめ給う教示なるが故に、
たすけたまえというは、ただこの大悲の勅命に信順する心なり。
されば善導は、深く機を信じ、深く法を信ぜよと教えたまえり。
とあるように、弥陀をたのんだ人の心(他力の信心)は、
善導大師の言われる二種深信であることを示された上で、
それを、
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならではおもむくべき方もなき身なり」
「かかるいたづらものをあわれみましまして
願も行も仏体に成就して救わんと誓いたまえる御すがた
すなはち阿弥陀如来なり」
と知り、弥陀願力による我が往生に少しの疑い(疑網)も無くなった心が
他力の信心であると記されている。
すなわち善導大師の
『自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし』
これを、
『我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならではおもむくべき方もなき身なり』
と説明して、これを機の深信と示されている。
宗祖が、
『もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた、曠劫を逕歴せん。』
と述べられたことも、宗祖御自身が述懐されたもう
『いづれの行も及び難き身なればとても地獄は一定住処ぞかし』
と同じで、これも機の深信なのである。
「未来永劫、六道輪廻から離れられない我が身」
を知らされた人というのは、
「地獄ならではおもむくべき方もなき身なり」
と知らされている人なのであるから当然である。
「御裁断申明書」にも、上記の如くあり、
現代の本願寺、真宗界に於いても、
宗祖の「地獄一定」は善導大師の「機の深信」に同じと、
明確に述べられていることは、以前から述べてきた通りである。
「地獄一定」 「地獄以外に赴くところがない」 とは、誰のことなのか。
他人事だと思っている人は大変である。
他力の信心を賜った誰もが信知する事だと述べられている通り、
これは万人の姿である。
信心獲得せずに死ねばどうなるか。それについて、
「六道輪廻」と言ってもよいが「地獄一定」と言うのは間違い
などと否定する飛●氏の誤りは、真宗界の誰の目にも明白であろう。
飛●氏をサポートするブログの主も同程度と見做される。
「地獄一定」を「機の深信」というのは異安心
などと否定する飛●氏が、信仰が浅く、異安心なのであり、
はやく気づいてもらいたいところである。
毎月こうして怠り無く法話会は開いているが、
いつもこちらから話すばかりで、
聞く方は皆聞き流しとなっている。
これではどうも本当の法義は
味わいにくい様に思われたので、
今日は例刻より少し時間を早めて、
一人ずつその心中を打明けて、
不審があるのはただして行き、
誤りのあるのは直して行こうと思ったのである。
現世の病気でも容態を言わぬと薬はもらえぬ。
まして後生の一大事、
尋ねた上にも尋ね尋ねて、
微塵程のあやぶみも無いという所まで
たしかめておかねば一大事である。
聞流しにしておいては、必ず後悔の時が出てくる。
利井鮮妙和上 ~例月法話会示談より ~
南無阿弥陀仏
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