南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
久しぶりの更新。
飛雲氏のブログを久しぶりに見ると劣化が目立つ。
飛雲氏には順当の内容とも言えよう。
> 親鸞聖人 善人と悪人とがいる
> - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
> 高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
飛雲氏の、この類の非難者は、真仮を知らざる者。
当ブログの閲覧者が増えているようなので、
過去に掲載したことと重なるが、枢要なるポイントなので
飛雲氏が異安心である証明も、記しておきたい。
<地獄一定は、 機の深信>
●高森顕徹先生
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)
修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、
地獄一定の身が知らされた(機の深信)」
『親鸞聖人の花びら 藤の巻 P250(一万年堂出版)』
●本願寺
「機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、
機の真実を信知すること」
『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)
●飛雲氏
親鸞聖人が『歎異抄』で「地獄一定」と仰ったのは、
懺悔からのことです。
懺悔とは罪悪感からくるものですが、
罪悪感、懺悔と機の深信との区別さえつかないような異安心です。
(飛雲のブログより)
(まとめ)
真宗界では常識の
「 地獄一定 = 機の深信 」 という御法義を、
飛雲氏は《 異安心 》と断定している。
本願寺、親鸞会、どちらから見ても 「 飛雲氏が 異安心 」
明白である。
機の深信とは、弥陀の第18願に摂取された行者の
誰もが例外なく信知する機の真実である。
異なれば異安心だ。
弥陀の第18願の正客は十方衆生。これに漏れる人はない。
その実機が地獄一定と信知すれば、
十方衆生に、地獄一定の悪人以外は存在しない。
これが、弥陀の随自真実の世界なのである。
飛雲氏は、この機の深信を異安心と断定するのだから、
ご当人が異安心。歴然としている。
この真実に対して、「善人も悪人もある」 という御説教は、
弥陀の随他方便の世界を示されたものである。
これは随他の文字通り、
未信の衆生に合わせて導かれる方便だから、
未信者も、聞けばよく納得できる道理である。
否、こうでなければ納得できない。 飛雲氏の如くに。
飛雲氏は、自信満々と
> 親鸞聖人 善人と悪人とがいる
> - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
> 高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
親鸞聖人と高森先生とを比較して、
親鸞会が違っていると、懸命に示していなさるおつもりでも、
その実は、方便と真実とを比較して違っていると言っているのであり、
哀れ読んでいる小生が恥ずかしくなる。
指摘や非難自体のクオリティがとてもお粗末。
信心が狂えば、末も狂う。
当然の帰結であろう。
真仮を知らざるによりて、
如来広大の恩徳を迷失す。
(親鸞聖人)
願わくば、恐ろしい罪に早く気づかれて、廻心懴悔あらんことを。
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