18願は "信楽"に生まれさせる願 | 夢幻界裡の覚醒

夢幻界裡の覚醒

     ~ 僧侶の毒舌ブログ ~
浄土真宗親鸞会 高森顕徹先生に感謝します。

 若不生者のちかひゆへ
  信樂まことにときいたり
  一念慶喜するひとは
  往生かならずさだまりぬ


弥陀が「信心の人、若し生まれずは正覚を取らじ」
と誓いたるが故に、
佛勅に無疑決定の信楽の一心、まことに時節到来する。
信楽が発起した一念に往生安堵の思い生じ、
その時、現生にありて正定聚に住す。
すなわち信同時にいやがおうにも即得往生の大益を得るのである。



以下、「淨土和讃摘解」勧学・利井鮮妙師 述 より。

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今讃は即得往生の梨耶を以て、一念業成の義を示す。
若不生者のちかひとは、
第十八願の若不生者不取正覺の誓願にて
信心の者淨土に往生せずば正覺をとらじとの誓なり。
「ゆへ」の言は、第二句を成ず。
即ち行者の身に疑なく信ずる心の起りしは、
衆生往生せずば我も正覺をとらじと誓ひたまへば、
本願力のゆへなりと顯はす意なり。
信樂まことにときいたりとは、
三信即一の信樂にて、信は疑なきこと樂は樂欲の義にて、
佛の教命を意樂することなり。
他力信心は可愛の佛勅に无疑決定するが故に、
其の當體愛樂の思あるなり。
今三信の中信樂の一を擧ぐれども、三信此の一の信樂の中に攝す。
三信共に疑葢無雜の一心なるが故なり。
「まことに」とは、いつはりの信者に簡ぶなり。
「ときいたり」とは、時節到來することなり。
一念慶喜とは、此の一念とは信の一念なり。
『信巻』に一念を釋して時尅と信相とに約す。
時尅の一念とは、他力信心を得る時節の手早きを云ふ。
信相の一念とは、自力の二心を離れた无疑の一心のことなり。
慶喜とは、初歸一念の喜びにて往生安堵の思いなり。
往生かならずさだまるぬとは、即得往生の意にて、
信一念の當體現生正定聚に住するをいふ。
かならずとは、『銘文』(三十四丁)に
「必はかならずという、かならずというは自然といふこゝろなり」
とあり。
爾れば必ずとは願力自然として、いやでもおうでも、
信同時に即得往生の大益をうるなり。

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以前に、これを掲載した後、
飛●氏のブログについているコメントの中で、
親鸞会の説示に対する誤解を発見したので、
以下、指摘しておこう。



若不生者のちかひとは、
第十八願の若不生者不取正覺の誓願にて
信心の者淨土に往生せずば正覺をとらじとの誓なり。


という箇所と、親鸞会の説示は異なるという。


どうも、親鸞会の説を、


 「若不生者の生には当益の意味はない、という主張」


などと誤解している。これはおそらく、


「弥陀の第18願を解説なされた釈迦の18願成就文には
 現益のみで、当益はない。
 だから、弥陀の18願の ”若不生者” はあくまでも、
 ”死んだら、極楽へ生まれさせる” ということではなく、
 ”現在、信楽に生まれさせる” ということ」


と親鸞会でなされている主張を、


「若不生者の生には当益の意味はない、という主張」


と早合点しているのであろう。




宗祖の教えは、飛●氏が言うような「実に簡単」というものではなく、

実に繊細なものであり、

親鸞会の説示もまた、とても繊細なものであるから、

大雑把な理解や、悪意をもってしては、

親鸞会の説示を正しく解釈することもできない。




「”死んだら、極楽へ生まれさせる” ということではなく、

 ”現在、信楽に生まれさせる” ということ」


これは決して、若不生者の「生」に、

「当益が含まれない」などということにはならない。


これを「当益が含まれない」などと誤解する人は、

そもそも他力の「信楽」が、ぜんぜん、判っていないのである。


「まことの信楽」にこそ、「当益」が含まれているのであり、

それ以外に、どこにも「当益」はない。




「死んだら極楽へ生まれさせるというのが18願」

と思っている人には「当益がない」ということだ。



「必ず信楽(現益)に生まれさせるという18願であった」

と疑い晴れた人にこそ「当益がある」のである。





「必ず信楽(現益)に生まれさせる」という仏心は

「信心の人を必ず極楽へ連れてゆく」という仏心なのである。



「信楽にしてみせる」 「信楽の人を極楽へつれてゆく」


この2つは、言葉は異なれど、全く一つ。

他力の行者には、弥陀の本心、一心と知らされている。



それを知らず、「信楽とは別に死後の往生がある」などと計らい、

弥陀は「信楽」に命をかけずして「死後の往生」にのみ命がけ、

などと愚かな自力の妄念を抱いている人の誤りを、

親鸞会は正されているのである。




「真要鈔」には、


親鸞聖人の御意をうかがふに、
念仏の行者の往生を得るといふは、化仏の来迎にあづからず。
もしあづかるといふは、報仏の来迎なり。これ摂取不捨の益なり。
諸行の行人の来迎にあづかるといふは、真実の往生をとげず。
もしとぐるといふも、これ胎生辺地の往生なり。
念仏と諸行とひとつにあらざれば、往生と来迎とまたおなじかるべからず。
しかれば、他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、
第十一の必至滅度の願の果を得るなり。
これを念仏往生といふ。これ真実報土の往生なり。
この往生は一念帰命のとき、さだまりて

かならず滅度に至るべき位を得るなり。


 親鸞聖人の御心をうかがってみれば、
 信心獲得した人が往生するというのは、化仏の来迎にあずかるのではない。
 もし来迎にあずかると言うならば、報仏の来迎である。
 これは摂取不捨の利益のことである。
 自力の行で助かろうとしている人が、来迎にあずかるというのは、
 真実の往生を遂げるものではない。
 もし往生をとげると言うならば、胎生辺地の往生である。
 念仏と、諸善とは、異なるものだから、
 念仏の行者と諸行の行人の、往生と来迎もまた同じではない。
 しかれば、
 他力真実の18願の行者は、第18願の信心(現益)を獲得して、
 第11願の必至滅度の願の結果、死後、当益を得るのである。
 これを念仏往生という。これが真実報土の往生である。
 この往生は、一念帰命(現益)のとき、
 必ず死後に往生即成仏の結果を得ること(当益)が定まる
 というものである。



18願の行者は、「18願の現益」を獲て、「11願の当益」を得る

と述べられていることが判る。




同じく真要鈔に、


得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」(大経・上)といふがゆゑに。


ともある通り、

「若不生者不取正覚」(18願)により、往生が決定(現益)するのである。




18願は、「信楽」に生まれさせる願。


11願は、死後必ず「極楽往生即成仏」させる願。




信楽」は、「”当益”とは別の”現益”」ではない。


現在、”当益”を獲得した という ”現益” を意味するのである。




信楽という現益の正しい意味を心得れば、親鸞会の主張は決して、


 「若不生者の生には当益の意味はない、という主張」


などにはならない。 なりようがない。



毎度のことだが、相手を非難するときには、

もっと正確に相手の主張を把握してからでなければ、

独りよがりの無意味な徒労で終わる。


若不生者のちかひとは、
第十八願の若不生者不取正覺の誓願にて
信心の者淨土に往生せずば正覺をとらじとの誓なり。


と利井和上が書いておられるのは、親鸞会の説示と全く同じ。
どこも違わないことは、明らかなことである。



「信心の人を必ず浄土に生まれさせる」という誓いとは、

「死んだら必ず助ける」という本願ではなく、


「生きている時にかならず信楽に救う」という本願こそが、

「信心の人を必ず浄土に生まれさせる」という誓いなのである。


 飛●氏には、すぐには分からないであろう。





 弥陀の御心は聞き難し。


 難の中の難、これに過ぎたるは無し。



  南無阿弥陀仏


  南無阿弥陀仏




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