「宿善」と「獲信」との関係。 | 夢幻界裡の覚醒

夢幻界裡の覚醒

     ~ 僧侶の毒舌ブログ ~
浄土真宗親鸞会 高森顕徹先生に感謝します。

「宿善」と「獲信」とは、どのような関係か。



十方衆生のなかに、

浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。

いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、

過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。

宿福なきものはこの教にあふといへども

念持せざればまたあはざるがごとし。

「欲知過去因」の文のごとく、

今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

                 『口伝鈔 第二章』


 十方衆生、すべての人の中に、

 今生で弥陀の18願を信受(信心獲得)する人と、

 今生で信受(信心獲得)しない人とがある。

 その訳は、仏説無量寿経の中に説かれているように、

 過去の宿善が厚い人は、

 今生に、善知識の教えに遇い、信心獲得する。

 宿福(宿善)のない(薄い)人は、

 善知識に遇って18願の教えを聞かせて頂いても、

 疑って信心獲得しないので、遇って遇わないようなものである。

 「過去の因を知らんと欲せば」の御文の通り、

 今生の有り様(信心獲得するか否か)によって、

 宿善の有無(厚薄)は明らかである。




この覚如上人の御言葉によれば、


「浄土教を信受する機」とは、

 ”今生にこの教にあうてまさに信楽す。” とある通り

 「今生で獲信する人」のこと。


「信受せざる機」とは、

 ”この教にあふといへども念持せざれば”とある通り、

 「今生で獲信しない人」のこと。


「今生のありさま」とは、

 ”今生にこの教にあうてまさに信楽す。”

 ”この教にあふといへども念持せざれば” とある通り、

 「今生で獲信する・獲信しない」という有り様のこと。





今生で獲信するか否かの、差があるのは、


宿善の有無、厚薄によるのだと


覚如上人は教えられている。




獲信と、宿善には、深い関係があることは明白である。

 



飛雲氏の


宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。
つまり、18願1つを勧められた
法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを
受け入れられる人は、宿善の機であり、
聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも
法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを
素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。

「受け入れられる人」「素直に信じられない人」

これは、覚如上人が仰っていないこと。


何一つ、根拠のない異説を、

堂々と断言している飛雲氏に、

口伝鈔を読む力がないことは明白である。



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