前回「狭いトイレ」に引き続き、さらに狭いトイレでの工夫を紹介する。
《状況》84歳男性。○○科の開業医で今でも現役である。ある日、自宅階段の残り3段で足を踏み外し転倒してしまい、右大腿骨頸部骨折により人工股関節置換術を受けている。
術後しばらくは股関節が不安定な状態で、右股関節に対して過度な負担を掛けると脱臼してしまう可能性があった。その為、股関節が安定するのを促す目的でリハビリを開始したが、現役医でもある自分が「入院している」ことを我慢できなくなり、充分なリハビリをせずに早々に退院してしまった。
訪問のきっかけはお世話になっているケアマネジャーさんからの連絡だったが、御本人は介護保険を利用する気持ちは全く無く、依頼は住宅改修のみということで私一人で対応することになった。特にトイレで、便座から立ち上がるのが大変らしい。状況調査のお話の中で、「費用は掛かってもいいので」と言われたのだが、家屋の状況を確認させて頂いて驚いてしまった。
トイレが狭い。狭すぎる。元々は男性用小便器のあったスペースにそのまま洋式便器を設置したため、便器の先端から出入口の扉までの距離は20cmしかない。便座に座ると扉に膝が触れるくらいの状況である。そして隣家に囲まれているので狭いトイレを拡張することも、新設することもできない。右股関節以外には特に問題は無く、無理さえしなければ順調に回復するはずなので、とりあえずはできるだけ費用を掛けずに改善できる方法から探ることにした。(大きな改修をするにはとても難しい状況で、大きなリスクを伴う。)
転倒する前は、このトイレで意識せずに立ち座りができていた。しかしこの狭さでは立ち上がる動作に相当に無理がある。仮に扉を開けてから立ち上がるにしても、扉の開きの都合で右斜め方向に頭を向けて立ち上がろうとするであろうから、右股関節に対して大きな負担が掛かってしまうことは避けられない。
幸い左右の腕力は力強かった。右股関節に負担を掛けずに立ち上がるのであれば、左足に踏ん張ってもらうしかない。どのような対応をすれば、左足荷重で立ち上がってくれるのか? いつも通りに便座に座って、腕を伸ばしたりしながら考えた。 頭に浮かんだことは、左手で上方にある「何か」を引けば、ほぼ真上に立ち上がることができ、しかも左足に体重が乗り右股関節への免荷が図られる、ということだ。
人間はいすなどに腰掛ける、あるいは立ち上がる時に無意識の内に上体は前傾する。体重移動にしたがって、前後のバランスを取る。上体を前傾せず真上に立ち上がることは、意識してもできることではない。
今回は立ち上がりが困難であり、右股関節への免荷を考えなければならない。しかし状況が状況だけに、期間限定の非常手段としては最も有効だと思われたので、今回はこの様な対応をさせて頂くことを充分に説明し快諾して頂いた。
《手すりにこだわっていながら、手すりではなかった理由》
最大に発揮できる腕力に対して、手すりでは余すところ無く有効にそれが伝えられない。前回と同様に固定された手すりでは、利用する側がある程度合わせなければならない、つまり自分の動きが制限され能力を最大限に発揮できないというのが最大の理由だ。
その点、今回の吊り革は自分が引き付ければ、最も有効に力が伝わる方向に変化して利用する人に「合わせて」くれる。非常に優しいのだ。
《施工面での工夫》
握りが自分に対して横方向か、縦方向かでも発揮できる能力は変わってしまう。今回、立ち上がりに対して左腕の引き付けを最大限に発揮するために、写真の通り握りを縦方向に設定した。しかし吊り革であるからこそ、どんな角度にも合わせてくれる。
但し、引き付ける能力が最大に発揮できるための「距離」だけは慎重に確認した。近すぎたり遠すぎたりすれば、吊り革であっても有効に機能しなくなってしまう。
手すりに比べて細いのではないか?と懸念する方がいるかもしれないが、実際には握力で握るわけではなく指を掛けているだけなので、太さは太過ぎなければいいと思われる。
期間限定の非常手段というのは、ある程度右股関節が安定し周辺の筋肉や靭帯がしっかりしてくれば、転倒する以前のように立ち上がれるから、という意味であり、「無理しないで欲しい」という私の願いも込めている。だからこの吊り革は簡単に取り外すことができるのだ。