じなんぼうの伝言 -19ページ目









◎伏見稲荷大社・その2・千本鳥居
本殿を拝してあたりを周ったが、末社になるのか小さい祠も多く見える。面白いのはお狐さんや馬も像が安置されている。
で、その先に行くと例の千本鳥居がある。TVなどでもよく知られているが、どういうところにどうなっているのかわからなかったが、本殿から奥社にむかう通路にあった。
本殿側に大型の鳥居が既に重なって建てられている(写真4枚目)。そこを入っていくと途中で二股になる(大きい写真)。これは数が多くなっての処置であろう。それにしてもすごい数だ。江戸時代に始まって数も1万基近いという。
ワシは大社入り口の大鳥居を見たとき、人の心を明るくする生命感を感じたが、帰ってから神社のサイトやネットを見るとやはり、「朱」の色は「赤」、つまりは「明るい」に通じて生命力をイメージさせるもののようだ。
この千本鳥居の長々と続く朱色のトンネルを行くとまた人々の神社によせる思いの強さを感じる。現在、初詣の参拝客は関西地区で最多という。
創建以来千年以上も経っているのにそのご威光の衰えることがないというのも御神威のなせる業であり、それは世界を見渡しても稀なことだ。
トンネルを抜けると奥社が控えている(写真7枚目)。ここには「おもかる石」(8枚目)がある。修学旅行生が並んで試している。いまさら「願い叶わず」とご託宣されたくないので、ワシはやらん。









◎伏見稲荷大社・その1・http://www.inari.jp/
昨日の東福寺に続いて再び洛南、伏見方面。東大路通りを下って行って東福寺交差点で左のわき道に分岐しているところを入り、つきあたって左折して入る道。伏見街道と言っていいらしい。
地図では本町通りとあるが旧街道然としている。一方通行で狭い道なので「街道」って感じではないが旧街道であり、昔はこの程度で十分だったんだろう。
その街道を少し下がると三ノ橋川だったと思うが小さい橋に古い欄干(写真1枚目)が残っていて「伏水街道 第三」とある。だが、その先には京阪の「鳥羽街道駅」がある。この駅名は駅の西方2キロの現R1、鳥羽街道へ通じる道ということらしい。
また、この道は南北に直線で伸びていて、四輪は1台しか通れない狭さなので北方向に一通だが二輪は両方向可なので助かる。しかしスピードは出せない。人車一体の交通量が多い生活道路なのだ。
伏見稲荷大社。狭い街道に比べて不釣合いな巨大な鳥居と広い参道が街道に面している。おりしも晴天に恵まれて青い空にそそり立つ朱色の鳥居が参拝者を歓迎するかのよう。こういう、人の心を明るくする作用というものが神社には必須であろー。実にみごと。
そして感心したのだが、参道を50mほど入ったところに自転車置き場が用意されている。ワシもバイクを押して入った。
大社の創建は和銅4年(711)、伊侶具秦公(はたのきみのいろく)が勅命を受けて伊奈利山三ヶ峯(稲荷山)に三柱の神を祀ったことに始まると知られる。
ほとんど日本の国の成立とかかわるような古さと重要さがあり、式内社中でも上位にある。創建にかかわった秦氏は太秦の秦氏の分家の関係らしい。
楼門がみごとだが、狛犬ではなくお狐さんが左右にある。楼門も本殿もその他社殿は全て朱色。しかしここもやはり焼失したりして現在の本殿は明応8年(1499)の再建だ。重要文化財。








◎剣神社http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/turugi-shrine-01.htm
東福寺を出て東大路通りを北上してすぐにわき道を右折。朝の新熊野神社もそうだったが、普段は大通りを右折なんてできないが日曜日のせいでやりたい放題だ。
思いついて行ったのだ。剣神社。これは全国どこにでもある規模のこじんまりとしたもの。
鳥居をくぐって視線を感じると思ったら社務所にはお守りを売っているのか若い女性の姿が見えた。これは珍しいだろう、このくらいの規模で人が常駐している。へんなことはしませんよ。
神社はたしかに狭い。拝殿の前に石の囲いの中にゴツゴツした岩が窮屈そうに?置かれている。「撫石」(なでいし)とある。意外に京都にはこのタイプの岩が多いね。関東全域とは言わないが、千葉、東京では見ない。京都には岩だけの「岩神様」さえあるからね。
ここの特色のひとつは絵馬に「トビウオ」が描かれている。トビウオは神様の使者ということだ。そして疳(かん)の虫封じのゴリヤクが転じて子供の成長とか入学、進学の祈願の神社になっている。
神様の使者はいいが、この神社とのつながりはどうなのかわからない。
神社の故事来歴に付いてもネットではよくわからんかった。御祭神は伊弉諾神、伊弉冉神(いざなぎのかみ、いざなみのかみ)、そして、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、白山姫命(ひらやまひめのみこと)。
神社名の「剣」は王城鎮護のために剣を埋めたと言うことから来ているという・・・のがどこかに出てたかな。祠の地下にでも埋まっているのか。
PS・・・今日(08.06.30)TVで放送大学の「日本の中世・NO12」を見ていたら、越前地方の情勢をやっていたが、織田荘とされるあたりに剣神社があるような図が出ていた。そこはあの織田信長の織田家発症の地ということだ。
それでネットで調べたら「(織田家は)越前国丹生郡織田荘の荘官で織田剣神社の祠官」とあった。
今回の京都旅行では織田信長の因縁があったと書いたけど、ワシが剣神社い行ったのも因縁ではないだろうか。多少むりやりとも思うが。







◎東福寺・その4・東司・禅堂・経蔵
東司、トイレだという(写真4枚目まで)。しかも日本唯一の重文だ。さすがに境内の端にあるが、平屋だがりっぱなツクリ。いずれのこともおろそかにしない姿勢があるのだ。
観光客一同、外人もまざって窓から覗き込む。内部は天井も高く広い。地面にそれらしい穴がある。どういう仕組みであったのか。
水洗を使える現代はありがたい。広い境内をここまで長々と歩いて来なくてはならないというのもタイヘン。それだけで病気になりそう。
禅堂は南北朝時代、貞和3年(1347)建立になる最古最大の禅道場という。(写真5、6枚目)
そして経蔵・・・だったかな。(大きい写真)これも非常に美しい建物。








◎東福寺・その3・本堂、庫裏、三門
通天橋のあと、方丈に行こうとしたが終了時間で不可。境内を周る。
それにしてもすごいね。しかも何度も焼失したが再建した。
結局、今でいう公共工事なんじゃないかね。単に宗教的な権威や幕府のご威光を示威するだけじゃなく、大工事をすればそれで資源は再配分され市民は糊口をしのぎ、生活は潤ったはずだ。
そういう意味で、日本人はそれを民族的財産と考えることができるのであって、日本人と生まれたからには一度は「自分の財産」として訪れる権利はあるのだ。「お寺さん」だけのものじゃないのだ。
ここにも見たような庫裏がある。臨済宗特有のデザインだ。
大きい写真、三門は国宝で日本最古だという。建築として非常に美しい。








◎東福寺・その2・普門院・常楽庵
通天橋を過ぎると普門院も見学できる。そこは廊下のつきあたりで、その一画には左手に普門院右手に庭園、向かいに開山堂として常楽庵が正面に建っている。
場所としては奇妙な感じの風景になっている。庭園部分は中央に石畳の通路を置いて半分が枯山水、半分が築山に植栽があって対照的になっている。枯山水部分の白砂は市松模様。
左側から一周した。大きい写真は通天橋から入って来て振り返ったもの。









◎東福寺・その1・通天橋http://www.tofukuji.jp/index2.html
パンフでは建長7年(1255)の完成までに19年を要したと言う大寺院。国宝、重文も多数。ひとつのエポックとして現在も充分な大きさと重要性がある。
境内自由だが通天橋・普門院は拝観料は400円。あとで行ったが方丈も別途400円なのだがそちらは終了時間が過ぎてしまったので入れなかった。
東福寺と言えば通天橋。ドラマにもよく出てくる。回廊があってそれが通天橋につながる形。橋の下には三ノ橋川という小川が流れて、意外にケッコー高さがある。
ただ、木々がよく繁っていてそのあたりはよく見渡せない。木々は三葉楓といって宋国原産だと言う。
ここはそれがウリの景色だからいいが、他の寺社をあちこち行って気づいたが、樹木を切ったりするようなことは抵抗感があるのだろうか、せっかくの国宝、重文の建物もずいぶん見えづらくなっているところが多い。実際少し前のガイドの写真ではよく見えているのに現在は樹木に隠れてしまっているのが多いのだ。
今後10年もすれば京都の名所は森にうずまってしまうのではないか、行くなら今のうち、というか、既に遅いような場所も多い。なんとかしてもらいたい。
途中、展望台でもないだろうが、張り出しがあって橋を見渡せる。これがポイントだね。
あとで下からも見てみたいと思って下におりてみたが行けないのかどうか、いい場所が見つけられなかった。









◎芬陀院(ふんだいん)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/funda-in.htm
丹波屋の前の本町通りを少し下がれば左手に東福寺入り口。そこを入っていくと右手に塔頭の芬陀院がある。
この寺院は当然規模は小さいが、そのぶんはっきりしないっちゅうか、これは今まで一番のミステリーじゃないかな。
それに帰ってからわかったんだけど、現地の立札と、お寺でもらったパンフの内容が違うのね。
まず、現地の立札の問題箇所。「元亨年間(1321~1324)に時の関白一条経通が東福寺の開山である聖一国師の法孫、定山祖禅和尚を開山に迎えて創立した」とある。
だが一方、お寺でもらったパンフでは開山は同じ定山祖禅和尚だが創建が「当院は元亨年間(1321~1322)時の関白一条内経公(1291~1325)」となっている。
「元亨年間」の年度が2年違うのは誤植の範囲として、創建者が「内経」と、その子の「経通」と言うように違っている。
①立札の「創健者が一条経通」とする記述については、一条経通の生没年は1317~1365であり、1321年ごろは4歳の幼児だ。単なる名義人ということか。「時の関白」とすれば父親の一条内経のほうだ。
②パンフで、元亨年間(1321~1324)に創建したとすれば創建者の一条内経の生没年は1291~1325で関白在職は1319~1323なのでアリバイ的には正しい。しかし、後述するが、これは怪しい。
③立札の「時の関白」とある一条経通の関白在職期間は1338~1342である。元亨年間(1321~1324)ではない。
同じお寺で立札とパンフで正誤は別にして全然違う内容ってのもおかしいよね。
すると問題は芬陀院の正しい創建年代だ。実はこれについてはネットでは出ていない。以下にネット上での芬陀院解説の傾向をあげる。
①創建は「元亨年間(1321~1324)」というのが解説の全部の共通点。
②創健者は「一条内経」と、その子の「一条経通」にわかれる。
③開山は「定山祖禅」で全部共通している。
それで、どういうことが言えるかだが、
①創建年を「元亨年間(1321~1324)」とすれば、創健者は当然「一条内経」になる。
②開山は「定山祖禅」というのも共通しているが、ワシがネットで見た限りではこの人の生年没年は不明なので明確には言えないが、1368年に南禅寺の僧として流罪になっているので、逆算して1321年ごろでは、その約50年前であり、1321年ごろに年齢的に見て全くの推定だが10代か20代になるだろう。しかし、わざわざ個人名を出しているのだから開山は定山祖禅だろう。とすれば逆に創建年が間違いということになる。
では別件から見る。
①寺名の「芬陀院」は一条内経の法名だ。もし、一条内経が創建したなら、自分の法名の寺院を建てたことになる。あるいは自分で建てた寺の名を法名にしたわけだがこれは考えにくい。
②だから状況的に一条内経の子の一条経通が父親を弔う意味で芬陀院を建てたと考えるのが常識的だ。
③開山の定山祖禅は1368年に流罪になったとすれば、そのころ壮年期にあったと思えるから、一条経通と同時代の人間と考えるべきだ。
④一条経通は1346年に東福寺の仏殿再建をしたが、これは経通が関白を退任後であるが関連はないか。
よって結論はどうか。
①芬陀院は一条経通によって1325年以降に創建された。(経通の関白在職期間をみれば1338年以降)それは父親の一条内経を弔うためであり、一条家の菩提寺とするためである。
②開山は定山祖禅に依頼した。定山祖禅は一条経通と同年代である。この10~20年後に流罪となったとすれば「合う」のではないか。
つまり、創建年は言われている「元亨年間(1321~1324)」より20~30年あとになるんじゃないかってこと。理屈的に。「元亨年間」という断定が、わかりやすいので一人歩きしたように思う。
ちょっと思いつくままに書いたので、おかしいようなところもあると思うが、今後も調べて変更するかもしれないが、とりあえずそういうこと。
肝心のお寺さんのことだが、茶室の「図南亭(となんてい)」だが、この「図南」の額は、あの石川丈山の筆だ。お寺のパンフでは全然触れてないのが気になるというかもったいないというか。
その「直筆?」も室内に額装されているのが見られる。(写真8枚目)
それにしても、この芬陀院ばかりじゃなく、正しいか誤りかはともかく、見る資料によってずいぶん違っているね。
ほんとにミステリー。
・・・この記事書くのに一日かかっちゃったよ、すっかり芬陀院マニアになった。
くりかえしになるが、まとめとして芬陀院は・・・
★創建が延元1336~1339、興国1340~1345、正平1346~1369、のどれか。可能性としては正平年間が濃厚。(元亨年間(1321~1324)ではない)
★創建者は一条経通(1317~1365)
①一条経通が創建し、開山は定山祖禅。時期は内経の没後であり、経通の関白在職以降1300年代の中葉以降。1340年前後から遅くとも(定山祖禅が流罪になる)1368年までの間。
②創建年が「元亨年間(1321~1324)」という資料が多いのは経通の父、一条内経の没年1325年と混同があったせいであろう。なぜなら芬陀院は内経の菩提を弔うということだからだろう。だから創建年は・・・
③繰り返しになるが創建が元亨年間では経通は4歳ほど、定山祖禅も推定になるが10代か20代のはずで、開山を担う僧とは考えにくい。それに芬陀院という寺名は一条内経の法名でもあるので、自分の法名の寺を建てるとは考えにくい。ただしそこらへんの慣習は知らんので根拠は示せないが。
・・・與杼神社(与杼神社)でも同様であったが、文化財になっている寺社などの前によく立っている立札は当の寺社の意向とは無関係と言うことがわかった。立札は行政が立てているが当の寺社と相談や確認などはしてないらしい。みなさん、そういうわけですから、立札の内容は参考程度に思っていたほうがよいようです。なんでもそうだが自分の目で確かめるのが一番です。


◎丹波屋でうどんセットhttp://r.tabelog.com/kyoto/A2603/A260304/26004876/
泉涌寺道を出て東福寺をめざして東大路通りに出て左折。「東福寺」とある交差点のわきの坂道を下る。おりたらすぐ右折すれば商店街、丹波屋がある。間口2間ほどの店。小さいバイクも店頭に停めると邪魔になりそうだ。ちょうど店の人が顔を出したので停められるか聞くと「じゃあこっちへ」と店の横の通路に案内してくれた。
店は20席くらいでイス席と座敷が6対4くらいか。うどんセット950円。うどんは細めんタイプ。
店は地図では「本町通り」に面しているが、これは「鳥羽街道」と言っていいのか。それは食後の問題。






◎わくわくhttp://www.d2.dion.ne.jp/~waku2/
泉涌寺や塔頭を見学して、さあ次に行こうかとバイクをスタートさせたが、急ブレーキ。門前にお店が。総門を出てすぐの左側。店名は「わくわく」、なるほど泉涌寺の「泉が涌(わ)く」から来ているんだね。
しかもワゴンセールだ。なにをかくそう、ワシはワゴンセール大好きなのだ。ちらっと見た限りではかわいらしい陶器が並んでいる。これは見る必要がありそう。
ざっと見た感じ値段は千円以下。清水焼とかで千円以下なんて有り得ないだろう。なるほどキズモノだとことわり書きがある。で、その陶器類をよく見たがどこが傷かわからん。いいんじゃないの。
ちなみに店内のキズモノでないのを見たが、最低価格で3千円から5千円くらい。再びワゴンの中を見ると、カタチや模様が1個だけしかない茶碗がある。値段は800円。決めた。参考に店内でキズモノでない似た茶碗を見ると3700円というのがある。傷があるだけで3700円が800円にいいいいっ!
これ下さいっ。だが店内には店員らしい姿はない。2回ほど呼びかけるとやっと女性が出てきた。いいねえ、このマ(間)。おっとりとしていて、コオジャナクテハネ、京都、泉涌寺門前にあってはね。
その女性に茶碗を示すと、申し訳なさそうに「きずがあるんですよ」と、どこか売り渋る様子。いいねえ、よすぎるよ。ますます気に入ってしまう。聞くとその茶碗にはチャント傷のところに印が貼ってあって、たしかにふちに3ミリほどのわずかなさけめが入っている。しかし使う分には支障はない。即、買い!。
帰ってからよく見ると茶碗の底には「俊山」と銘が入っている。銘が入ってるものなんかワシのところには他にない。人に言うときには「これで5千円だよ」と言うことにする。

