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◎上賀茂神社http://www.kamigamojinja.jp/・①

上善寺から賀茂川沿いの賀茂街道に出て2キロ半ほど北上し、御園橋を渡って上賀茂神社。シモは去年行った。バイクは敷地内?の自転車置き場に乗り入れた。

境内に入ってすぐに小川が流れている。楢(なら)の小川というようだ。そばで日曜画家の一団がイーゼルを置いて製作中。境内は公園のようで、どう行ったら良いものか、肩透かしされたよう。

上賀茂神社、正しくは賀茂別雷神社(かもわけいかづち)といい、下賀茂神社は賀茂御祖神社(かもみおや)というわけで親。こちらは子になる。 前回は下賀茂神社に行った。

雷(いかづち)だからかみなりさん、神社背後のその名も神山(こうやま)にご降臨された。天武天皇6年(678)だという。神社二の鳥居をくぐると細殿があり、その前によく知られた立砂(たてすな)という円錐形に盛り上げた砂の山がある。その先端には三葉の松葉が立てられている。

神社は電気関係の人の信仰も受けていると言うが、この円錐形を見ていると避雷針を連想させるのは神様が雷神であるからと言うにはできすぎだ。昔の人もカミナリがこのようにとがったものに落ちるという事を知っていたのだ。カミナリは雨と関係し、農業には重要なものだ。

細殿を過ぎるとまた小川がある。これは先ほどの楢の小川の上流だが、ここでは御手洗川(みたらしがわ)と言い、西北方向から流れてくるが東北方向からも御物忌川(おものいがわ)が来て合流する。これは賀茂川と高野川の合流のミニチュア版ではなかろうか。なぜだかわからんが。

本殿は内部の拝観を受け付けている。今まではやってなかったそうだ、あとでの説明では式年遷宮を平成27年に予定しており、総工費は計画で23億円、神社の費用負担は10億円だと言う。

拝観料は500円。ウーン何人拝観すればいいのだろうか。拝観は靴を脱いで上がり、グループ7~8人ほどが一緒になって、神官の装束の案内の人の一通りの説明の後、一同お払いを受けた。その後奥の院に入れる。

おかげで国宝の本殿、権殿(ごんでん)を間近に拝観できる。これらの桧皮の葺き替えがたいへんで、材料も調達に困難があると言う。このための寄付も受け付けている。寺院でカワラを寄付する方法と同じだ。

やはり遷宮の費用捻出のための拝観受け付けといい、さすがに上位式内社といっても10億円の負担は重責であることをうかがわせる。

PS・・・建物は殆ど重要文化財。写真の建物の名称は後で整理します。

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◎上善寺(じょうぜんじ)(小野篁(おのたかむら)ゆかり)

天寧寺を出て鞍馬口通りに出ると、そこは東方向、賀茂川に向って一通だ。右折してすぐに上善寺がある。門前に「第一番六地蔵尊」と彫られた大形の石碑が目を引く。さらに小形の石碑があって「贈 正四位入江九一外七名首塚」とある。

首塚とは穏やかでないが、立札を見るとさらに奇妙な記述があった。いわく「地蔵堂に安置する地蔵菩薩は平安時代初め小野篁(おのたかむら)が一度息絶えて冥土に行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ・・・」とある。

地獄とこの世を行き来した人間がいるのだ。それが小野篁。そういえば引接寺(千本えんま堂)で聞いた名だ。遣隋使で有名な小野妹子の子孫で孫が小野道風という。この人の名はあとで六道珍皇寺にも出てくる。

これはちょっと覗かねばならないだろう。境内に入ると右横に飾り付けた小さい祠がある。鎌倉時代中期頃に造られた大日如来坐石仏だという。

そのむこう、境内東側奥に小さい石仏が集められた一角がある。その隣が地蔵堂。例によって格子戸が閉じられていてわずかにひとます覗ける穴がある。覗くためではないだろうが、覗くと意外に装飾もかなりきれいな地蔵菩薩像がたたずまれている。

この地蔵は初め小幡の里にあったが、その後深泥池(みどろがいけ)に移され、当寺には明治時代になって移され「鞍馬口地蔵」となったとある。毎年8月22日から24日の「京の六地蔵めぐり」には参拝客でにぎわうらしい。

お寺自体は古く貞観5年(863)に比叡山延暦寺の慈覺大師円仁によって、千本今出川の地に天台密教の道場として創建されたのが最初で当地には文禄3年(1594)に来ている。

首塚を拝むかと思って探したが表側には出てないのかわからない。やはり墓地の中かも知れんと考えてやめた。やじ馬根性はよくないかも。

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◎天寧寺(てんねいじ)http://www.ne.jp/asahi/tenneiji/home/(ガクブチモン)

あの「がくぶちもん」である。忘れないうちに行っておこうと思った。そして行くのならコースの最初で町にあんまり人出がないうちがいいんじゃないかと思った。

東大路通りをひたすら北上して百万遍で左折、今出川通りに入って鴨川を渡る。寺町通りを右折。鞍馬口通りにつき当たる手前が天寧寺。「額縁門」の寺である。

到着して門前正面に立てば門の真ん中に青霞に染まる山のいただきが出現する。あっけなくもこれで目的は果たしたわけだ。ただ、その山が比叡山かどうかはワシには断定できんが、そうなんだろう。

山門があたかも額縁のようになって比叡山を見通せる。これは意識してやったものだろうか、それとも偶然だろうか。

お寺の由緒は会津に天寧寺はあったが天正14年(1586)に焼失したので祥山和尚が文禄元年(1592)になって当時の天台宗松陰坊の遺跡であった当地に移す形で寺を建立した。

またまたミステリーがあるのだが、その会津には天寧寺は現在も存在する。その本家についてはネットではほとんどわからない。ただ傑堂能勝禅師(けつどうのうしょうぜんじ)の建立ということではどのネット資料でも一致している。

その会津の天寧寺には会津藩と関係があった近藤勇の墓もある、とどこかのサイトで読んだ。違ってたらゴメン。

問題はこの傑堂能勝禅師なんだが、あの楠木正成の孫だとか八男だとか言われているが、ワシが見た限りでは年代的には孫の正勝というヒトの生存年代(1300年代末頃)が近いし「勝」の字が一致するから同一人物かもしれないと推理するが、あくまで年代と名前が似ていると言うだけだ。

それにしてもネットで見てもあちこちで別々な説明がある。

当寺は年代的には新しく、本堂(写真6枚目)は文化9年(1812)の再建。本尊の釈迦如来像が安置されている。書院は天保14年(1842)の再建。観音堂(2枚目)には後水尾天皇の念持仏、十一面聖観音仏と東福門院の念持仏と伝えられる薬師如来像を安置しているという。

そして例の山門は嘉永2年(1849)の再建である。稲荷神社(3枚目)もあるところが面白いところ。

特に立札にもあった「カヤの木」を見たかったのだが、どう行けばいいのか塀の外からしか見えなかったが、どうすればよかったものか。

門前で写真を撮っていたときいかにも檀家の方達といった人たちが20人ほどもぞろぞろ門の中に入っていったのだ。しばらくしてワシもそのあと境内に入ったのだが、読経が聞こえてきて、どうも法事のようなことをやっているようであった。ごめんくださいとは行きにくい。

結局境内をひとわたり見ただけで出てしまった。

・・・この記事も一日かかった。クタビレタ。七堂伽藍の大寺院でもないのに。なにしろ傑堂能勝禅師というヒトのことがナゾで楠木正成のことからネットで見ただけだが右往左往するだけで結局わからんのよね。

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◎藤森神社http://www.fujinomorijinjya.or.jp/index.html

石峯寺を出て伏見街道を下がる、2キロほどで左手に藤森神社の鳥居が出現。鳥居は普通のサイズだが参道は長く延びて境内は意外に広々としている。神社名は「ふじのもり」というようだ。

創建は「神宮皇后の摂政3年(203)、新羅より凱旋の後、山城の国深草の里藤森の地を神在の聖地として撰び纛旗(とうき・軍中の大旗)を立て、兵具を納め、塚を造り、神祀りされた、それが当社の起こりである。現在、本殿東にある旗塚がその塚である」と神社サイトにある(写真5枚目)。

本殿そばには旗塚はあるが、もとは大木だったろうと思われる木の株がある。いちいの木で、この下が塚であるらしい。

創建も伝説的だが、例大祭である藤森祭にからんでこの北方にある稲荷大社とは因縁のなからしい。そもそもは稲荷大社の地所がこの藤森神社の社域であって藤森祭には神輿が稲荷大社に乗り入れるならわしで、かつては地所を返せとはやし立てたそうだ。面白い。

実際、神社の氏子域は稲荷大社周辺に及ぶと言うからまんざら根拠がないわけでもないようだ。

そう考えると「旗塚」、転じて「秦氏」との関係を考えたり、稲荷大社の由緒と照らし合わせて見れば面白いだろう。

神社は御祭神が12柱もあり、本殿裏にはそれらの拝殿が居並ぶ(6枚目は「大将軍社」)。菖蒲の節句発祥の地と言われ勝負事の祈願に信仰を集めていて駈馬(かけうま)の神事もあり、馬の像も祀られている。

本殿に彩色をした狛犬があったが(4枚目)上鴨神社を思い出させる。

神社は古いこともあって故事来歴には稲荷大社だけでなく近辺の古代の歴史と深いかかわりがあるのだろう。素人でもそれなりの推理はできるのではなかろうか。

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◎石峯寺(せきほうじ)http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/sekihouji.html

ぬりこべ地蔵から近く、伊藤若冲の羅漢像で知られる。入り口と言っていいのか、立札が出ている路地から狭い石段が延びて、その先。申し訳ないがここも道順は説明できない。ぐるぐる迷いながら行ったんで。とにかく山のほう。

山の中腹になるのか、本当はどうだったか、印象としてなにか木々の鬱蒼とした中に石峯寺はある。拝観料300円。「ごゆっくりどうぞ」と受付の女性があいそがいい。

創建は正徳三年(1713)と言うから江戸時代中期で、京都にあっては新参。黄檗宗の千呆(せんがい)禅師による禅道場だった。

黄檗宗だから中国風の造形がところどころに見られる。敷石がひし形に並ぶ、赤く着色された門?、マンジ形の本堂手すり。

拝観客が何人か先に行く。人気だ。狭い通路を順路の矢印に従って奥に入って行く。山の斜面のアチコチに石仏は散在する。遠目では自然石が転がっているように見える。枯葉、落ち葉の中にあって手付かずの印象だが、かといってどうこうすることもできないだろうしこれでいいのだと思う。

一応お釈迦様の説話に基づいた構成になっているようだ。通路を歩いて見ていくようになっている。誕生のシーンから説法とか、立札もあって場面を紹介している。ちょっと遊園地のお化け屋敷風だと思った。

若冲の絵は緊迫感に満ちていて厳しいものを感じさせるが、この小形の石仏群にはそういう挑戦的な緊張感はない。若冲の絵のほうを知っていると意外な感じはするだろう。

これらを一つ一つ作っていくとき作者は何を考えながら作ったのかと思う。

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◎ぬりこべ地蔵http://www.k3.dion.ne.jp/~mkoba911/goriyaku/nurikobe.html

場所的には宝塔寺より大社に近い。宝塔寺からは大社の方へ戻るかたちになった。これも路地の奥のほうで、場所はヒトには説明できない。

小さい祠があって、隣接して床机が置いてある掘建て小屋のようなものがある。そこに中年の女性が一人、お参りに来たものか座っていた。

ここもやはり地蔵さんは閉じられた格子戸の中にあるらしく、ワシは祠の中を覗き込んで確認。だが、どうも強引に写真も撮りたくないので覗いただけにした。

奇妙なのはその格子戸の前にある石柱とその上に置かれた丸い石だ(写真5枚目)。石は小ぶりのかぼちゃくらいの大きさ。それが小さい座布団にのっている。

一瞬、大社のおもかる石を思い出したが、これの説明はどこにもないようだ。そばにいたその女性に聞くと、地元の人らしかったが知らないという。しかし盗まれもせず昔からあるらしい。

一応撫でておいた。そのかわいらしさが笑える。

地蔵さんの由来はやはり「ぬりこめ」「塗り込め」から来ている。以前は壁を「塗り込こんだ」お堂にあったからという理由だとかあるようだが、ワシが納得したのは「その昔、貴族の寝室では四方を土壁で塗り込んで、念持仏を祀り、悪鬼を祓う風習があった。」という説明だ。

そして「痛み」も「塗り込めて」ほしいという気持ちから歯痛を鎮めるとして拝まれている。

この祠の場所もいいよね。ホッソーイ路地を行ったところで、周囲は墓地だ、夜は来たくない。

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◎宝塔寺http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/houtouji.html

大社門前の祢ざめ家を出たあと、ぬりこべ地蔵と思ったのだが、大社南側、疎水、京阪線の東側の地区は京都市街の整然とした町並みとは打って変わって狭い路地が迷路状態になっていて迷い、気がついたら宝塔寺の前に出ていた。

あとでネットで知ったが、その昔、宗派間の武力衝突があって、防衛上の必要でこのような町並みになったという、こういうのも歴史のなごりだ。

それにしてもこのあたりは観光地からはずれているせいか、通行人もいない。

宝塔寺の創建は・・・ここでは現地の立札に従っておきますね。

藤原基経が発願し、その子、藤原時平が昌泰2年(899)に大成(完成ってことだろうか、初めは小寺だったが拡大したというのかわからんが、そうなってる)した真言宗極楽寺が前身で徳冶2年(1307)住持良桂が日像に帰依し、日蓮宗に改宗した、とある。

帰依というとなんでもないようだが、多くのネットでは住持の良桂上人が日像上人と3日3晩法論して負けたためか感服したためとある、良桂上人も潔いというか、こういうのも珍しいだろう、話が本当なら。

藤原時平と言えばどこかで聞いたと思ったら、あの菅原道真を讒言して大宰府に左遷させ、そして自らは39才で早逝して官公の怨念を被ったという伝説の登場人物になった、その人である。

寺内、重文もあるのに気のせいかひっそりとしている印象があるのはそのせいか。つまり人気(にんき)がない。

大成か完成が800年代というのはいかにも古いが、例にもれず応仁の乱(1467~)などで焼失している。

本堂は(写真6枚目)、慶長13年(1608年)の建立で、日蓮宗本堂としては京都最古。総門(1枚目)、多宝塔(大きい写真と5枚目)とともに重文。平成14年度に、本堂解体修理をする大工事が竣工している。

重文の総門をくぐるとゆるい傾斜の石段が長く続く(2枚目)。左右は塔頭の門構えが並ぶ。仁王門(3枚目)は仁王さんの頭上の天井に平成12年に再現されたという彩色のある格天井がきれい(4枚目)。

中央に本堂。右手に二層の多宝塔。京都で最古だという。その奥は墓地だったかな、左手に周った。

古い蔵のような建物があり、その左手奥に奇妙な建造物。渡り廊下に屋根がついた太鼓楼(8枚目)というらしい、これも面白い、中央部分が通り抜けられる、そこを行けば山上の七面大明神を祀る七面宮があるというが、これはやめておいた、石段が長々と続いて、見上げただけでうんざりしたのだ。帰れなくなるかも知れんと思ったから。


PS・・・ちなみにこの宝塔寺と「あの」藤原時平が関係あると書いているサイトはワシが見た限りでは見当たらなかった。みなさん、ここがあの人のあれですよ。

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◎祢ざめ家(ねざめや)で鯖寿司セットhttp://r.tabelog.com/kyoto/A2606/A260601/26003540/

お稲荷さんを出て、門前に店を構える祢ざめ家(ねざめや)。店名がすでに珍しいが450年の老舗で豊臣秀吉の命名だという。店の構えも充分老舗の雰囲気。

こあがりに上がる。昼食時間を過ぎているがお客は6割くらい。隣に修学旅行生のグループ。

注文は鯖寿司セット1250円。追加ですずめ焼420円。

セットのうどんは太麺というか普通?の太さ。これはワカランが、このところ細いうどんばかりだったが関西は細めんが主流なのか、今回やっと太麺が出てきたが、どうなんだろう。

伏見名物すずめ焼き、初体験。

すずめ焼きがなぜ名物なのか、ネットでちょっと探したがよくわからない、お稲荷さんの「五穀豊穣」にひっかけたような説明もあったが、ピンとこない、昔から大社の山にすずめが多く生息していて、この周辺でよく食料にされていた、という説明がむしろうなずける。

結果、ごわごわした感じ。まあこんなものでしょう。話のネタに。

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◎東丸神社(あずままろじんじゃ)http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/azumamaro.html

この神社は偶然ではなく、始めから行こうと思ってた。ただ、神社自体の由緒等は全然知らなかった。伏見稲荷大社に接しているようなので行きやすいだろうと思っただけだ。

しかし、それにしてもすこしは外の道を歩くかと思ったらすっかり境内にあるといっていいほどだったのには笑えた。

由緒は立札で読んでわかった。神社名の「東丸」は「あずままろ」と読む。「まる」じゃない「まろ」だ。そして江戸時代の国学者荷田春満(寛文9年・1669~元文元年・1736)を祀っている。名の春満も「あずままろ」と読むようだ。というか「東丸」の読みを単にアテただけだろう。(ここらへんの事情は下記参照)

伏見稲荷との関係は荷田家が稲荷社の社家、神官の家柄だった。東丸は頭脳明晰,長じて吉宗のころの幕府に仕えた。おりしも元禄、大石内臓助とも親交があって討ち入りの陰の援助をしたと現地の説明掲示がある。吉良上野については人がよくないように言っていたというのが面白い。吉良さんもさんざんだ。

神社は伏見大社とは独立し、学業の神様、合格祈願の神様になっている。境内のどこかに「伏見大社とは別です」というようなことわり書きが出ていた。社務所もあって人もいる。

創建は新しく、明治16年(1881)の春満の従四位追贈を記念してのものだという。

合格祈願の絵馬もたくさんある。神社はかなりこじんまりしたものだが、本殿のほか春葉殿、荷田社(かだのやしろ)として荷田家祖神を祀る社殿(写真3枚目)もある。

隣接して春満の屋敷と言われる建物が保存されている(写真5枚目)。公開はないようだ。

(☆本性は荷田、氏は羽倉と云い、通称を斎宮と呼び、初の名は信盛、後に春満(東麻呂とも書いた)と改めた。)

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◎伏見稲荷大社・その3・清め砂

奥社奉拝所そばにはグッズも売っていたが、お守りがあるのは当然として、目に付いたのは「清め砂」だ。これは珍しいだろう、他では見ない。しかも100円という安さ。これを分けて部屋の四隅において「お清め」するらしい。お守りと一緒に購入(大きい写真)。清めたいのよねいろいろ。

そして、この先のルートだが、そばの地図の看板(写真1枚目)を見ると神域である稲荷山には拝殿がいくつもあって周れるようになっている。しかし山道ではあるし、距離もよくわからないのでそちらは残念ながら断念する。

再び鳥居のトンネルを行った。写真は奥社側の千本鳥居出口(2枚目)。途中、途切れたところがあって、外を見てみた(3枚目)。そして鳥居の贈り主を見たが、やはり関西地域が多いが、関東の地名も見かけられる。