じなんぼうの伝言 -20ページ目








◎即成院(そくじょういん)http://www.gokurakujyoudo.org/
泉涌寺道を戒光寺からさらに出口方向に行ったところに即成院がある。那須与一で知られているのだろう。
お寺自体はやはり紆余曲折があった。そもそもは正暦3年(992)恵心僧都により伏見に建立された光明院が始まりだが、その後深草大亀谷に移転、明治時代には廃寺になったという。
その後本寺である法安寺と合併、更に明治35年泉涌寺総門の現在の地で再興され、即成院と呼ばれるようになったという。
当寺には那須与一の墓があり、阿弥陀如来と日本唯一という二十五菩薩を重要文化財として安置している。それを見たかったのだが境内に入るとなにやら行事の最中であった。
テントが張られていて「大護摩供法要」とある。先ほど出会った山伏の一団が人の背ほどに積まれた柴の前で問答をしている。歌舞伎の勧進帳さながらだ。というか歌舞伎がここから演劇化したとわかる。
本堂には参列者がたくさんいて見守っている。問答の内容は言葉使いも難しいのでさっぱりわからなかったが、途中、答える方が言葉に窮する場面があって気の毒であった。覚えるのはタイヘンよ。きっと。
行事は進行して四方に矢を放つ仕草をしたあと。いよいよ柴に火がつけられた。しかし、ただ燃やせばいいというものでもないらしく、周囲に水をかけている。そのせいか炎はあまり見えず煙がもうもうと立ち上る。
風もなかったがワシの方にも何度か煙が押し寄せてきた。意外にこれがけむたいということがない。この煙はゴリヤクがあるそうだ。
阿弥陀様も二十五菩薩も見られなかったが、ゴリヤクをいただいたからいいでしょう。






◎戒光寺http://www.kaikouji.com/
泉涌寺道を出口方向に行って、右側。戒光寺がある。ここもこじんまりとしている泉涌寺の塔頭。特色は「丈六さん」と呼ばれる大仏があること。
創建は鎌倉時代、安貞2年(1228)、後白河天皇の勅願によるもので、当初は猪熊八条にあったが兵火に遭うなどして転々とし、当地に落ち着いたのは正保2年(1645)だという。南区には当時の名残で戒光寺町という町名が残っている。
さっそく本堂にあがる。中年女性の2人連れの先客がいた。薄暗い堂内だが古びた金色の大仏が中央に来訪者を見下ろしている。なるほど大きい。5.4メートルあるという。
安置している仏像を参拝するのはどこでもあることだが、見るとここでは茶碗と急須がおかれていて、細かいことは忘れたが、そのお茶を飲むことでゴリヤクがあるようになっていたかな、違ってたらゴメンナサイ。
で、また忘れたが、そのためにはろうそくを上げるようになっていたかと思うのだが、これも違ってたらゴメン。そのろうそくを200円かそこらで買うようになっていたかと思うのだが、ワシはこれは面白いと思って、ろうそくを1本買って正しく参拝した。
ワシはバチアタリではあるが神社仏閣のはしごをしているので、訪問先でいちいち「参拝」はしない。あっちこっちで願掛けをしたのでは失礼だと思うからなのだ。だからどこへ行っても単なる「見学」だけであっていつもは「参拝」はしないのだ。
そして、そのお茶を一杯いただいた。すっかり冷めていて、当然だが、あんまりうまいというものではなかったが、物珍しさでいただいた。
境内には泉山融通弁財天があり、まさにお金の融通にゴリヤクがあるという。これも面白い。
で、1枚目の写真だが、この戒光寺に入るとき山伏の一団がほら貝を鳴らしながら行進しているのに出会った。これは次に行った即成院で再会した。









◎来迎院(らいごういん)
立札に藤原信房が泉涌寺第4世月翁和尚に帰依して興した、泉涌寺の塔頭とある。
泉涌寺の北東側に隣接する。まさしく塔頭寺院。記憶ではひっそりとした穴場的なたたずまい。大石良雄、即、内臓助ゆかりのお寺。大石内臓助が寄進した茶室、含翠軒があるが、ここだけ有料だったかな、そっちへは行かなかったと思う。有料だからというだけじゃなくて、なんか気がのらなかった。
空海上人伝説のある独鈷水(大きい写真と4枚目)。これはふたが閉じてあってよくわからんかった。この伝説によるものか空海上人が創建とされているようだが、実質は上記の藤原信房であろう。
ネットでもこのお寺についてはあまり情報がない。それに立札の説明でもネットでもなぜか創建年については表示がない。空海伝説はいいとしても、それなら800年代だし、藤原信房は1200年代後半のことになる。
荒神堂に重文の三宝荒神坐像があるとか言うが、見方が悪かったものか全然拝めずじまいだったがどうなんだろう。
これはすべったが仕方がない。こういうことは・・・よくある。








◎今熊野観音寺http://www.kannon.jp/
新熊野(いまくまの)神社があって、こちらも字が違うが今熊野。泉涌寺の北側にあるが泉涌寺の敷地内とか、塔頭であるとかの資料を見る。特に空海上人を開祖として伝説的奇談が伝わっている。これはホントわからん、というのも、隣接する大寺の泉涌寺と少なからぬ因縁があり、開基自体も泉涌寺と無関係ではないのではないか。
ちょっとまとめてないのでなおさらなのだが、開基と開祖をほぼ同じくするのだから言うに言われぬものがあるのかも知らん。もっとも実際は本坊より古いという。
まあそうは言ってもこちらは泉涌寺とはいささかオモムキを違えている。大師堂を置いてゴリヤクを謳っていて、はなはだ庶民的だ。
特に知恵授けの霊験ありとして頭痛封じ、ボケ封じで信仰を集めている。
そういうと「では、天皇の菩提寺としての泉涌寺とはますます無関係ではないか」という声も聞こえてきそうだが、逆だ。
いくら開基、開祖を同じくするといっても泉涌寺は天皇の寺なので庶民には敷居が高い。しかし、その「裏」としての存在、庶民的信仰の発露としての観音寺としてであればなじめるというわけであり、至極当然なのである。泉涌寺とは表裏一体の存在なのかも知れん。これは邪推かどうか。









◎泉涌寺の写真を追加する。
たいした写真は撮れてない。神社仏閣は泉涌寺に限らずどこもの内部は撮影禁止だ。だから肝心なところは結局個人では記録できない。
一応、少しですがその他の写真を出しておきましょう。
6枚目のワケワカランようなのは、例の泉涌水の祠の内部です。ワシはどうもノゾキが、いや、好奇心が強いのでね。
8枚目は清少納言の歌碑の碑面です。こういう碑文て単に古文だから読めないというだけじゃなく、浅く掘られたものは文字そのものもわからないということがわかる例。











◎泉涌寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E6%B6%8C%E5%AF%BA
東大路通りを南下すれば道が大きく右折する角に左にそれるわき道がある。泉涌寺道への入り口だ。これをひたすら直進すれば泉涌寺に行き着く。
泉涌寺は古刹だが創基については諸説あるようだ。ここにも空海の名が出てくるが、ちょっと出すぎの感じ。アリバイを調べれば自分なりの由緒を発見できるかもしれない。
お寺自身のサイトでは空海の開基を言っている。泉涌寺の名称は霊泉の湧出を以って仙遊寺から転じた。天皇の唯一の菩提寺として「御寺(みてら)」の尊称があるというのが面白いところ。
泉涌寺道は長い。りっぱな総門(写真1枚目)を入って、途中、左右に塔頭寺院が門を構える。やがて大門(2枚目)にたどり着く。拝観料500円。境内は広々としている。なにより境内一面の白砂が印象的。ちょっとどこかの神社を思わせる。
楊貴妃観音堂(10枚目)がある。玄宗皇帝が彫らせた経緯はあったようだが、これがそれとは書いてない。しかし「請来」(安置ってこと?)が建長7年(1255)というから古いのは確か。
境内中央に建つ仏殿(3枚目)に入る。オジサンがいて説明してくれた。1対1だ。天井の竜図は狩野探幽による。そして釈迦、弥陀、弥勒の三尊仏。勝手にその裏に周るとまたオジサンがやって来て足元にある長々とした木の箱を指して、涅槃図が入っているという。日本最大で16m×8mの大きさ。天井近くに丸太を左右にわたしてコの字形に折って展示するのだという。3月の公開日はにぎわうらしい。オジサンご親切にありがとう。
宝物館である心照殿に行く。寺宝を拝見。現在でも皇室とのゆかりを示す写真が掲示されていた。その後、舎利殿(5枚目)。そして境内南側にある清少納言碑(9枚目)、寺名のもとの泉涌水の祠(7枚目)を覗く。
清少納言の碑は父親の清原元輔の山荘が東山にあり清少納言が隠棲したとされたことから。歌碑は「夜こめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」とあるらしい。読めんのだ。
しかし、さすが泉涌寺だね、とても印象的であったことは確かだ。









◎新熊野(いまくまの)神社http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/imakumano.html
神社付近の地名では今熊野(いまくまの)だが神社は同じ読みで新熊野と書く。ここは前回来たときも東大路通りを南に行けば必ず門前を通るのでいつかは行くだろうと思っていたが、27日は日曜で交通量も少なかったので宿からでは反対車線になるがUターンして寄って見た。
神社とは関係無いが、京都全体なのかわからんが日曜日はこの周辺の商店は休業してしまうので驚いた。面食らう。まして観光京都だからねえ。
新熊野神社は東大路通りに面しているのでわかりやすい。こじんまりとした神社。左手に社務所とご神木、右手に本殿など拝殿群が立ち並ぶ。
鳥居をくぐってすぐ左手にご神木でもある大樟が目に付く。「大楠」ではないのだね。大樟と書いて「くすのき」さんと呼ぶ。後白河天皇お手植えの樟の木。樹齢830年とか。熊野産。
神社創建は後白河法皇によるものだがくすの木だけでなく、木材や土砂までも熊野から運んだというからこだわりの強さを感じる。それで名称も「新熊野」というわけだ。ここらへんも何かありそう。
境内の立札にもあったが、この神社は参拝方法がある。12社もあって中央の本殿を参拝後、西端の「結の社」から東方向に参拝する。
能楽の碑もある。観阿弥、世阿弥、足利義満という歴史上の人物の名が残っている。それがその昔、今のワシと同じ空間にいたのかと思うと・・・なんというか。













◎神護寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA
西明寺からは清滝川沿いをさらに下がって高雄橋を渡る。神護寺への上り口だ。石段を見上げて覚悟が必要。意を決して登った。
石段の 険しきことのみ おおかりき。
まいったねえ。こんなにひどいとは。もう二度と来ることはないだろう。来たくない。ガイドにはもちろん出ているが、記事を書いた人間もみんなこういう苦労をしたのかと思う。
道すがら、硯石(すずりいし)を見物(写真3枚目)。弘法大師にまつわる伝説だ。たしかに大石の上部には一部平らになったところがあって、すずりに見立てたということだろう。考えすぎである。
いったいどれだけ石段があったか。しかもデコボコの敷石で、足元を見ながら確かめながらでなくてな歩けない。登れない。途中何度も休んだ。こうしてこんなところでリハビリをしてるなんて、ユキちゃんセンセー、がんばってますよー。
しかし、それに加えてまいったのは羽虫だ。蚊よりも小さい、大きさ2ミリくらいか、それがわんさか顔の周りを飛び交い、うっとうしいことおびただしい。そばを行く人は皆、顔の前で手をふって追い払っている。これは西明寺あたりから出てきたように思う。ここ神護寺が一番ひどい。これが帰るまで続いた。
蚊のように人を刺すことはないようだが一度目の中に飛び込んだ。風が少しでもあるといなくなる。
やっと神護寺の楼門を見上げる所まで来た。着いていきなり帰るときのことを考えた。同じ距離を帰るわけだからね。どのくらいかかったろう。楼門に受付。拝観料500円。
楼門には仁王像。境内は意外に広々と開放的だ。右手に書院や宝蔵、和気公霊廟が立ち並ぶ。やがて左手前方に毘沙門堂、やや小さい五大堂、その向こうに大師堂。
この地にはもともと高雄山寺があり、天長元年(824)にやはり和気清麻呂が開いた神願寺を合併させたのが始まりで、その後空海が住持し、最澄も法華経の講義をするなど歴史上の人物が名を残す重要な寺院だ。国宝も多い。高雄山寺の創建は歴史書の初出として延暦21年(802年)とあるくらいではっきりしないらしいが、古いことはたしか。
寺内での大建築は金堂でそのまえにある幅広の石段は有名。金堂自体は昭和生まれだ。その他の建物は1600年代初頭。大きい写真は楼門を裏側から見たもの。表側は石段を降りなければならんので、全景が入らん。ガイドの写真も石段下から見上げたのばかりなのはそのせい。
神護寺に行ったらカワラ投げとは思ったが、遠回りになるようなのでやめておいた。ちょっと歩くのがつらくなってきたのでね。帰りのエネルギーの保存ね。
石段がタイヘンとは書きましたけど、これは足にハンデがあるワシの個人的な感想ですのでよろしくね。
そして、山を降りたが、ワシのバヤイは降りるときもキビシイのだ。横歩きしたり、一段づつ止まりながらおりたり。ふもとに戻ってポカリスエットを一気飲み。
★石段や 大師の声も 聞かぬふり









◎西明寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%98%8E%E5%AF%BA_%28%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%29(これは全然わからんミステリーだ)
高山寺から少し下がって清滝川のむこうに西明寺がある。朱塗りの小さい橋は指月橋(しげつきょう)、渡る手前に「槇尾山西明寺」と石碑?が迎える。橋のたもとには「槙尾山聖天堂」と石標。
こちらは苦労はさせずにお寺に入れる。
橋を渡ってからは近い。ここも山寺らしく木の柱は白っぽくなっている。三尾のなかでも西明寺は最も小規模だろう。拝観料も400円と控えめだ。拝観料と中身は比例する。
こちらは本堂の中に机を置いて受付にしていたと思うけど、それがなにかほほえましくて、気に入ってしまった。なにか家庭的というか個人的というか、庶民的というか。
由来は神護寺別院として創建は天長年間(824~834)。以後荒廃、兵火にて焼失に遭うなどしたが再建もあって現在の姿となったというから、お寺自体に艱難辛苦があった。
寺内の建物群の風情はしかしそんな非情な経緯は全く感じることがなく、静かで平安な空気に満ちている。
そして、無知なので偉そうには言えないが聖天宮があるのだが(5、6枚目の写真)、大根と巾着か、その印の染め抜きの幕がかかっていた。
ただ、この聖天様についてはなぜかお寺のパンフやガイドなどには出てない、指月橋の袂には「槙尾山聖天堂」という石標もチャントある。
それほどの問題じゃないってこと?
PS・・・上に指月橋と書いたが、お寺のパンフにもある。が、ネット上では「槙ノ尾橋」としているサイトもある。これもわからん。なにか根拠はあるのだろうか。他に「槙ノ尾橋」ってあるのかな、ミステリーかな。












◎高山寺http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AF%BA(ここにもミステリーあり。ワシの推理は・・・)
三尾は山の中。その中で最も北にあるのが栂尾高山寺。市街を抜けて周山街道・R162を行く。やがて樹林帯となる。清滝川を渡れば、すぐに高山寺入り口。街道左手に観光用の駐車場があってその手前に参道が2本あり、山の中にのびている。奥のほうが裏参道、距離が短いようなのでそれを登った。
しかし、道は石段だが敷石はゴツゴツして角度があり、先が思いやられたし行き着けるか不安にもなった。
やっとたどり着いて拝観料600円。後鳥羽上皇が明恵上人にこの地を下賜された折に「日出先照高山之寺」の扁額を授けて寺名のもととなった。華厳経にある言葉だということで寺が山中にあるのをなぞらえている。現在、世界遺産。
そもそもの開山は別名で宝亀5年(774)光仁天皇の勅願というし、外観地味ながら由緒正しき寺院だ。
明恵上人も有名だが、鳥獣戯画図、上人を描いた樹上座禅図、上人が住んだ石水院など、大伽藍があるわけでもないのに国宝がいっぱい。それに日本最古の茶畑がある。
模写だが鳥獣戯画図や樹上座禅図などを見た。石水院もそうだが、山中の古い建物はなぜか構造の木材が白っぽくなっている。そしてここには三門がないのも特徴だという。なるほど、そういえばいつのまにか境内に入ったという感じ。
寺の境内は斜面になっている。石段があり、地面も石がころがりデコボコがありでワシ向きではない。市街にある寺院とはかなりオモムキをコトにする。石水院を出て開山堂(写真5枚目)明恵上人御廟(6枚目)仏足石(7枚目)金堂(8枚目)お茶畑を見て周る。
帰りは表参道側を行った。金堂からのびる「金堂道」(10、11枚目)を行くが、平らな四角の敷石17枚を斜めに組んで並べたところがある(9枚目)。
ワシはこれを見て宇治の万福寺を思い出したのだが、つまり日本風ではないのだ。お寺でもらったパンフには直接にはこの敷石のことは出てなかったが、ここの茶畑のもとは栄西禅師が宋からお茶の種を持って来たことに始まるとあった。 (万福寺の写真・http://blogs.yahoo.co.jp/ttdcx227/41755135.html)
そう、お茶のもとは中国の宋(ダジャレかい)、お茶の木を分けたのは宇治(跡影園あしかげえん。パンフにあり)なのだ、この敷石は宋や宇治やお茶つながりなのだ・・・と推理する。
この程度のことはネットのどこかにあると思うのでわかり次第載せるつもり。

