夜明け前
俺はいま、越後から飯山を通って善光寺に通じる北国街道沿いに住んでいる。市内でも少しばかり標高が高いところにあって、眺めはいい。晴れていれば、西の彼方に後立山連峰の鹿島槍が望める。
東に連なる山なみは群馬との県境で、個性的な山貌はないが、横手山、白根山、四阿山(あずまやま)など2000メートル級の高山が連なる。朝まだしき6時前、今朝のような快晴の、放射冷却で気温がぐっと下がる夜明け前、この山々がシルエットのように少しずつ輪郭をあらわにしていく。ほんの数分の間に陽の光が増して、われわれの住む盆地がしらじらと明けていくのだが、その明ける前の数分がいいのだ。
ピンぼけだが、こんな感じ。
さあ、きょうはカーちゃんを施設にあずけて、京都に向かう。
東に連なる山なみは群馬との県境で、個性的な山貌はないが、横手山、白根山、四阿山(あずまやま)など2000メートル級の高山が連なる。朝まだしき6時前、今朝のような快晴の、放射冷却で気温がぐっと下がる夜明け前、この山々がシルエットのように少しずつ輪郭をあらわにしていく。ほんの数分の間に陽の光が増して、われわれの住む盆地がしらじらと明けていくのだが、その明ける前の数分がいいのだ。
ピンぼけだが、こんな感じ。
さあ、きょうはカーちゃんを施設にあずけて、京都に向かう。
ブックレット作成
ミニコミ誌「芥川だより」に連載していた「山猿の介護日誌」をブックレットにした。といっても、印刷して本にしたわけではなく、ネット上で閲覧できるようにしただけである。あらためて読み返してみると、恥ずかしさもあるが、まあ、まとまりがないね。
チベットをめぐって 2
北京オリンピックの前にチベットの各地で暴動が起こったとき、政府は武力弾圧した。これははなはだしい人権蹂躙である。西側諸国はすぐに反応して中国を非難した。
それにたいして中国は、人権侵害というのは西側の価値観の押しつけであり内政干渉だ、と反論する。さらに、チベットは解放されるまで農奴制だった、農奴制こそ人権侵害であり、その奴隷社会から中国はチベット人を解放したんだ、とチベット政策の正当性を強調する。
たしかに20世紀前半までのチベットはダライ・ラマを頂点とする階層社会で、平民のおかれた状況は悲惨だったようだ。この時代のチベットをつぶさに見ている日本人がいる。河口慧海だ。1900年3月から1年2カ月あまりラサに滞在して、社会制度や風俗などを報告している。
慧海によると、平民の生殺与奪の権利は華族がにぎっているという。華族というのは国に功労があった家で、地方に領地をもっている。平民は華族に人頭税と地代を払い、そのうえ政府に幾分かの税を納めなければならない。この重税に堪えられず、僧になるものがたくさんいた。このような制度は残酷だと慧海はいう。この残酷な制度が中国のいう農奴制だろう。
1949年に中国はこの農奴制からチベット人を解放したんだと強調する。とすれば、多くのチベット人から支持されてもいいはずである。
57年、毛沢東は軍を増強して、チベットの改革を押しすすめた。力による共産化である。これに反撥して東チベットのカムで抵抗運動が起こり、またたく間に中央チベットに広がる。そして翌春にはダライ・ラマはインドに亡命するのである。
66年から文化大革命が中国全土に吹き荒れる。チベットにおいても、数百年におよぶ歴史をもつ仏教寺院が迷信の象徴として破壊され、宗教が否定された。この破壊にはチベット人自身の手によるものも多い。76年に文化大革命は集結するが、この10年で失われたものははかりしれない。内乱と否定された文化大革命はチベットではその後もつづいていたのだ。
1980年にチベットを訪れた胡耀邦総書記は、チベットにたいする政策の遅れを指摘し、チベット語教育を強化し、伝統文化を重視した政策を打ち出した。宗教の自由も認めたのである。同時に開放政策による観光化が進み、寺院の修復も行われるようになった。
80年代は、亡命チベット人も本土に帰ってくるようになる。僧院でも一般家庭でも、ダライ・ラマの写真を飾ることを許された。
ところが、1987年9月終わりから国慶節をはさんで10月のはじめに、僧が中心となって「チベット独立」を叫び、暴動が勃発する。公安当局とデモ隊が衝突し、死傷者が続出した。この抵抗運動は88年、89年と散発的につづき、88年3月にはラサで大規模な運動に発展し、戒厳令が布告されるのである。このチベット独立運動は力でねじ伏せられた。そのとき弾圧の指揮をとったのが、現在の総書記、当時チベットの書記であった胡錦涛である。
その後、チベットではダライ・ラマの写真をもつことも禁止され、僧院などの監視が厳しくなる。
90年代に入って、やがて中国は驚異的な経済発展を遂げていくわけである。2000年には、開発の遅れた内陸西部の発展と近代化のために、大開発が行われるようになる。その目玉が、北京とラサを結ぶ鉄道の敷設工事である。中国人を開発の進むチベットに送り込み、チベットの資源を吸いあげる鉄道である。まるで、満鉄のようだ。
それにたいして中国は、人権侵害というのは西側の価値観の押しつけであり内政干渉だ、と反論する。さらに、チベットは解放されるまで農奴制だった、農奴制こそ人権侵害であり、その奴隷社会から中国はチベット人を解放したんだ、とチベット政策の正当性を強調する。
たしかに20世紀前半までのチベットはダライ・ラマを頂点とする階層社会で、平民のおかれた状況は悲惨だったようだ。この時代のチベットをつぶさに見ている日本人がいる。河口慧海だ。1900年3月から1年2カ月あまりラサに滞在して、社会制度や風俗などを報告している。
慧海によると、平民の生殺与奪の権利は華族がにぎっているという。華族というのは国に功労があった家で、地方に領地をもっている。平民は華族に人頭税と地代を払い、そのうえ政府に幾分かの税を納めなければならない。この重税に堪えられず、僧になるものがたくさんいた。このような制度は残酷だと慧海はいう。この残酷な制度が中国のいう農奴制だろう。
1949年に中国はこの農奴制からチベット人を解放したんだと強調する。とすれば、多くのチベット人から支持されてもいいはずである。
57年、毛沢東は軍を増強して、チベットの改革を押しすすめた。力による共産化である。これに反撥して東チベットのカムで抵抗運動が起こり、またたく間に中央チベットに広がる。そして翌春にはダライ・ラマはインドに亡命するのである。
66年から文化大革命が中国全土に吹き荒れる。チベットにおいても、数百年におよぶ歴史をもつ仏教寺院が迷信の象徴として破壊され、宗教が否定された。この破壊にはチベット人自身の手によるものも多い。76年に文化大革命は集結するが、この10年で失われたものははかりしれない。内乱と否定された文化大革命はチベットではその後もつづいていたのだ。
1980年にチベットを訪れた胡耀邦総書記は、チベットにたいする政策の遅れを指摘し、チベット語教育を強化し、伝統文化を重視した政策を打ち出した。宗教の自由も認めたのである。同時に開放政策による観光化が進み、寺院の修復も行われるようになった。
80年代は、亡命チベット人も本土に帰ってくるようになる。僧院でも一般家庭でも、ダライ・ラマの写真を飾ることを許された。
ところが、1987年9月終わりから国慶節をはさんで10月のはじめに、僧が中心となって「チベット独立」を叫び、暴動が勃発する。公安当局とデモ隊が衝突し、死傷者が続出した。この抵抗運動は88年、89年と散発的につづき、88年3月にはラサで大規模な運動に発展し、戒厳令が布告されるのである。このチベット独立運動は力でねじ伏せられた。そのとき弾圧の指揮をとったのが、現在の総書記、当時チベットの書記であった胡錦涛である。
その後、チベットではダライ・ラマの写真をもつことも禁止され、僧院などの監視が厳しくなる。
90年代に入って、やがて中国は驚異的な経済発展を遂げていくわけである。2000年には、開発の遅れた内陸西部の発展と近代化のために、大開発が行われるようになる。その目玉が、北京とラサを結ぶ鉄道の敷設工事である。中国人を開発の進むチベットに送り込み、チベットの資源を吸いあげる鉄道である。まるで、満鉄のようだ。
夢
ときどき、変な夢を見る。先週はこんな夢を見た。
いまお袋を介護しているが、もう一人介護する婆ちゃんが増えた。どうしてそんなことになったのかという経緯なんてわかるはずがない。お袋と同じ植物状態で四肢がマヒしているようだが、首から上は元気で、ボケているわけでもなく、ふつうに会話もする。
一人でもたいへんなのだが、僕は「これも行、あれも行」といいながら、当たり前のことのように二人を介護している。
この婆ちゃん、知らない人ではない。ある料亭の女将なのだ。なんで京都から信州くんだりにまで来て、俺に介護されているのか。もう、さっぱりわからん。夢を理屈で理解しようとしても、わかるわけがない。
とにかくこの婆ちゃん、よくしゃべるのだ。お袋は一言も発しないが、この婆はしゃべりとおしにしゃべっているのだ。
オムツを替えるときだけ、「死んだふりしとき」というと、目を閉じて口も閉じる。「生き返ってもええか?」「まだ、あかん」を2、3回くり返して、「ええよ」というと、堰を切ったようにしゃべり出す。
来週この女将と顔を合わせるかもしれない。ああ、クワバラ、クワバラ……
いまお袋を介護しているが、もう一人介護する婆ちゃんが増えた。どうしてそんなことになったのかという経緯なんてわかるはずがない。お袋と同じ植物状態で四肢がマヒしているようだが、首から上は元気で、ボケているわけでもなく、ふつうに会話もする。
一人でもたいへんなのだが、僕は「これも行、あれも行」といいながら、当たり前のことのように二人を介護している。
この婆ちゃん、知らない人ではない。ある料亭の女将なのだ。なんで京都から信州くんだりにまで来て、俺に介護されているのか。もう、さっぱりわからん。夢を理屈で理解しようとしても、わかるわけがない。
とにかくこの婆ちゃん、よくしゃべるのだ。お袋は一言も発しないが、この婆はしゃべりとおしにしゃべっているのだ。
オムツを替えるときだけ、「死んだふりしとき」というと、目を閉じて口も閉じる。「生き返ってもええか?」「まだ、あかん」を2、3回くり返して、「ええよ」というと、堰を切ったようにしゃべり出す。
来週この女将と顔を合わせるかもしれない。ああ、クワバラ、クワバラ……
一件落着か?
元厚生次官殺害事件は、組織的犯行ではなく単独犯、飼い犬の死が動機ということでほぼ断定されたようだ。釈然としないね。メディアもあまり取りあげなくなった。小泉本人の供述およびくわしい情報は当局側にある。これからは当局が漏らす程度の情報しか、表に出てこないのだろう。
なぜ実家に電話をして手紙を送ったことを知らせたのか。その手紙には何が書いてあったのか。スッポン料理屋で会話もせず料金を払ったという女は何者なのか、「年金テロじゃない」とわざわざマスコミにメールを送ったのはなぜなのか。なぜ優しく暴力嫌いな少年が、ためらいもなく無関係の人間を殺してしまうほどの人間に変貌したのか。ぜひ解明してほしいが、当局には期待できないだろう。
暗殺されたという陰謀論がある。民主党の長妻議員は、殺された元次官を国会に呼んで証人喚問を予定していたという。この二人にしゃべられては困る権力側のある人間が口を封じたというものだ。
ペット仇討ちの単独犯なのか、謀略なのか、いずれにせよ、この事件は解明されないまま、闇に葬られてしまうような気がする。
この事件によって、厚労省内や元役人からのリークがなくなるかもしれないねえ。陰謀 と考えれば、そういう効果もあるわけだ。
なぜ実家に電話をして手紙を送ったことを知らせたのか。その手紙には何が書いてあったのか。スッポン料理屋で会話もせず料金を払ったという女は何者なのか、「年金テロじゃない」とわざわざマスコミにメールを送ったのはなぜなのか。なぜ優しく暴力嫌いな少年が、ためらいもなく無関係の人間を殺してしまうほどの人間に変貌したのか。ぜひ解明してほしいが、当局には期待できないだろう。
暗殺されたという陰謀論がある。民主党の長妻議員は、殺された元次官を国会に呼んで証人喚問を予定していたという。この二人にしゃべられては困る権力側のある人間が口を封じたというものだ。
ペット仇討ちの単独犯なのか、謀略なのか、いずれにせよ、この事件は解明されないまま、闇に葬られてしまうような気がする。
この事件によって、厚労省内や元役人からのリークがなくなるかもしれないねえ。陰謀 と考えれば、そういう効果もあるわけだ。