志々田文明・成山哲郎『合気道教室』(1985)に以下の記述がある。

 

西郷隆盛の蹶起(けっき)の気運高まるなか、惣角は神職を放棄し九州に出立します。東京で榊原鍵吉から渡された添書をもって西下した惣角は、前記のように大阪堺の桃井春蔵の道場を訪ね、剣術の修業に励んでいますが、西郷挙兵の報に接し、急ぎ九州に向かいます。惣角は九州に上陸しますが、西郷軍との合流には結局失敗し、西南戦争も終結をみます。この後、惣角は軽技師の一団に加わり各地を巡回し、九州熊本で沖縄手(空手)使いの者と素手で立合い、これを倒し、さらに達人を求めて沖縄諸島にまで足をのばしたといいます。惣角はのちに、岩手県の当身技と実戦技に定評のある柳生心眼流師範田野崎幸右ェ門らを倒しますが、これは若き日の拳法研究の賜といわれています(229頁)。

 

 

上記は、先日紹介した『武田惣角と大東流合気柔術』(2002)の年譜とほぼ同様の内容であるが、武田氏が柳生心眼流の師範らに打ち勝ち、これは若き日の拳法研究の成果だという内容はなかった。もっとも出版時期は『合気道教室』のほうが先である。

 

上記の出典は不明であるが、著者の志々田氏は武田氏から免許皆伝を授かった弟子の久琢磨と交流があったので、あるいは久氏からの情報かもしれない。

 

柳生心眼流に勝ったという逸話は、柳生心眼流の名誉にもかかわるので、同時代史料から立証されない限り、慎重に取り扱われるべきであろう。いずれにしろ、武田氏は沖縄で武者修行をした結果、実戦技法に磨きをかけたという口碑が伝わっているということである。

 

ところで、大東流の伝書は「大東流柔術秘伝目録118ヶ条裏表」や「秘伝奥儀之事36ヶ条裏表」といったように、数字が含まれている。また個別の技法名はなく、「第一条、第二条……」と数字が振られ、技法解説が記されている。これは日本武術の伝書様式から逸脱するもので、武田惣角以前の大東流の伝書が存在していないこととも相まって、大東流は武田氏の創作によるものだという説の主たる理由の一つになっている。

 

さて、「118ヶ条」はもともとは「108ヶ条」だったという説もある。108には空手にスーパーリンペイ(108)という型がある。また36にはサンセールー(36)という型がある。これは単なる偶然だろうか。

 

また「大東流」という流派名について。大東流の名称は武田惣角以前は史料で確認できないため、その由来については今日諸説がある。たとえば、立山一郎『合気の術』(1956)に、以下の一文がある。

 

他方、武田信友の門人の大東久之助は、武田家滅亡とともに、これまた浪人して会津にのがれ、武田流を名乗るをはばかつて、大東流と称していたが、世に認められることなく秘かに伝授していた(注1)。

 

しかし、大東久之助という人物は同書以前にその記載がなく、その存在が確認できない。今日この説を支持する研究者がいるとは考えがたい。

 

また『日本武道全集 第5巻』(1966)に以下の一文がある。

 

武田家は清和源氏の流れをくみ新羅三郎義光を始祖とする武田一族の系統であるという。義光が幼少のおり、滋賀県大東に館を築き、館三郎また大東三郎と称したところから大東の名をとったといわれている(注2)。

 

この説はしばしば引用されるが、滋賀県に大東という地名はないし、源義光が大東三郎と呼ばれていた事実も確認できない。館三郎(たてのさぶろう)という呼称は頼山陽『日本外史』(1827)に記載があるが、大東三郎はない。大東三郎という呼称は、戦後の大東流関連の文献にしか登場しない。

 

頼山陽著、 頼又二郎 補『日本外史 巻2 源氏正記 源氏上 増補』頼又二郎、1876年、より。

 

「大東」という地名は日本にそれほど多くある(あった)わけではない。大半は20世紀以降の市町村合併や区画整理で誕生した地名である。明治時代だと、島根県大原郡にあった大東町(注3)か、明治18(1885)年に沖縄県に編入された大東諸島くらいしかなかった。武田氏が島根を訪問したという話は聞いたことがない。

 

大東諸島はもともと無人島で日本政府が調査の上日本の領土として宣言して、沖縄県に編入された。筆者は武田氏が廃藩置県の年の明治12(1879)年に沖縄へ渡航するのは現実的ではない、もう少し後ではないかと述べたが、明治18年くらいなら大いにあり得たのではないだろうか。おそらく大東諸島の編入は当時の沖縄でもそれなりに話題になったはずである。それゆえ、沖縄で大東という地名を聞いて、武田惣角が流派名に採用した可能性もありうる。

 

 

注1 立山一郎『合気の術』真実社、1956年、110頁。

注2 今村嘉雄、小笠原清信、 岸野雄三編『日本武道全集 第5巻 (柔術・空手・拳法・合気術)』人物往来社、1966年、503、504頁。

注3 吉田東伍『大日本地名辞書 上巻 二版』冨山房、1907年、1054頁。