先日、武田惣角が柳生心眼流の師範、田野崎幸右ェ門に勝ったが、これは若き日の沖縄での武者修行の成果であるという逸話を紹介した。ただし柳生心眼流の名誉にも関わるので、同時代史料から立証されない限り、この逸話は慎重に取り扱われるべきだとも述べた。

 

その後、この逸話に関して、松田隆智『秘伝日本武術』(1978)に関係する記述があるとのコメントを頂いた。同書によると、明治33(1900)年、田野崎幸右衛門(宮城、柳生心眼流師範)が武田氏に入門したという(194頁)。

 

 

事実だとしたら興味深いが、あいにく出典は書かれていなかった。また、勝敗についても書かれていなかったが、当時武田氏は「仙台を中心にして宮城県各地の著名な武術家と試合をして、自らの門人に加えている」(192頁)との記述はあった。

 

入門の事実に関して、武田氏が肌身離さずもっていた「英名録」(門人帳)に名前が記載されているのかもしれないが、英名録は非公開なので確認することはできない。

 

ただ英名録に記載があっても、必ずしも門人だったわけではない事例もあったようだ。天津裕「朝日の〝久さん〟との思い出」(2001)に以下の記述がある。

 

それから、英名録は門人帖とは違うんですよね。「英名録には朝日の社会部長の名前がありますよ、僕が最初の編集局員じゃないね」と言ったら、武田先生が社会部長に会わせてくれと言うんで会わせたら、部長が名刺をくれたんで、武田先生は喜んで、英名録に名前を(久先生に)書いてくれと言ったんだと。だから実際に習った門人の名前と会ってくれた有名人の名前とごっちゃになっているんじゃないですか。

 

天津氏は武田氏から免許皆伝を授与された久琢磨の弟子である。朝日新聞の編集局員というのは記者のことである。昭和11(1936)年、武田氏は大阪朝日新聞の道場で大東流を教授し始めたが、久氏らは庶務部の所属で、弟子に編集局員(記者)はいなかった。

 

それで、天津氏は朝日の編集局員では初めての大東流の門人だと言われたが、英名録に社会部長(記者)の名前があると指摘したところ、その人物は武田氏に名刺を渡して面会しただけで、英名録に名前はあるが門人ではないと久氏から言われた、ということである。

 

武田先生は軍人と警察官をたいへん尊敬されていたので、英名録には軍人や警察官の名前が多い。だからそのなかには習った人もいるだろうけど、習わなかった人もいる。

 

さて、もともと「英名録」には門人帳の意味はない。「英名」とは優れた名声という意味である。したがって、英名録は「紳士録」とか「人名事典」の意味である。

 

したがって、英名録=門人帳という理解は、本来の語義に照らし合わせれば「誤用」であると言わざるをえない。事実、この意味はもっぱら大東流やその分派にしか通用しない。なぜ武田氏はこのような誤用を犯したのであろうか。

 

おそらく元々は旅先で出会った名士や武術家に名前を書いてもらうつもりで、本来の意味で英名録と命名したのであろう。しかし、そこに門人の名前も書いてもらうようになって、次第に門人帳へと意味が変わっていったのであろう。

 

したがって英名録に名前が書かれていたからといって、実際にその人物が門人だったかはより慎重に判断する必要がある。武田氏は英名録のほかに「謝礼録」という領収帳も所持していて、そこには門人がいくら料金を払ったか書かれているというから、それと照らし合わせれば、より正確に門人か否かを判断できるかもしれない。

 

ところで、新井朝定編『皇国武術英名録』(明治21年、1888年)という本がある。内容は「武術の達人事典」のようなもので、著名武術家がイラスト入りで紹介されている。

 

 

直心影流、榊原鍵吉

 

武田惣角の英名録は明治32(1899)年からその記述が始まるが、ひょっとしてこの『武術英名録』から名前を採ったのではないであろうか。武田氏は一般には文盲だったと言われているが、新聞とかは読んでいたという証言もあるので、読む方は問題なかったのかもしれない。とすれば、『武術英名録』を読んで、英名録という言葉が気に入って採用したのかもしれない。

 

 

参考文献

季刊『合気ニュース』 №129(2001夏号)、どう出版、2001年。