前回紹介した松田隆智『秘伝日本武術』(1978)に、「大東流発生と伝承の謎」と題して、以下の記述が見られる。

 

大東流が新羅三郎源義光によって創始され、会津藩に秘密武術として伝えられたという説には、疑問を持っている人も少なくない。

その理由として、

一、いくら秘密武術とはいえ、数百年も存在が知られずに、伝えられることがあるだろうか?(中略)御留め武術とされていた徳川藩の柳生新陰流、島津藩の示現流、南部藩の諸賞流など、藩外の者が学ぶことは不可能であっても、存在や伝承は明らかである。

(中略)

二、新羅三郎より甲斐武田家から会津武田家に至る頃までは、武術の中でとくに重要なのは、”甲冑組討ち”の技法であったが、大東流の武術は”素肌武術”の色彩が濃い(182頁)。

 

 

御留武術あるいは御留流というのは、江戸時代、他藩への伝授を禁じた流儀のことである。御留流という言葉は江戸時代にはなかったと主張する研究者もいるが、少なくとも明治年間にはこの言葉の使用例が見られる。また、御止流、御法度流という言葉も戦前使われていた。

 

示現流の場合、17世紀には石垣島にも伝書が伝わっていたという話を以前したことがあるが、確かに時代が下ると琉球士族でも学ぶのが困難になり、その分派の薬丸自顕流や小示現流を学ぶ例が増えていったと考えられる。

 

しかし、柳生新陰流にしろ示現流にしろ、他藩の者が学ぶのが困難でも、その存在そのものは知られていたし、また当時発行された伝書も現存していて、博物館や図書館に収蔵されていたり、郷土史料として翻刻されたていたりする。他方、大東流の場合、武田惣角以前の伝書はその存在が確認されていない。

 

甲冑組討というのは、柳生心眼流のように甲冑を着用して行う柔術のことである。

 

 

甲冑の重量は時代や身分によっても異なるが、約20kgほどある。当然、身動きは制約されるし、攻撃できる箇所も鎧や兜で覆われてない箇所を狙わなければならない。また投げ技や固め技の後、鎧通し(短刀)でとどめを刺す技法もある。他方、大東流の場合、甲冑を着用しての稽古は皆無であるし、その技法も基本的に平服着用を前提としている。「素肌武術」という言葉は松田氏の造語であろうか。

 

こうした理由から、松田氏は大東流は会津藩に伝わる柔術を幕末に誰かがまとめたか、武田氏が西郷頼母から教わった技法を、「実戦上の経験によって、さらに研究を重ねて」創作した可能性を指摘する(182頁)。

 

松田氏は今日では中国武術研究家としてよく知られているが、もともとは大東流の佐川幸義の門人でもあった。いくら研究者とはいえ、このように自流の歴史に疑問を呈するのはいささか異例ではある。しかし、佐川氏自身も以下のように語っている。

 

西郷頼母の写真を見るととても合気をやったとは思えない。鍛えた人とそうでない人はすわった時にもみた感じに違いが出てくるのだ。少し位は形は教わったかもしれないがやはり武田先生が考えたものだと思う(注1)。

 

 

このように、武田氏の弟子の佐川氏も大東流は武田氏による創作という説を主張する。

 

小川渉『会津藩教育考』(1931)によると、会津藩で稽古されていた柔術流派は、神道精武流、神妙流、稲上心妙流、水野新当流、夢想流等であり、大東流への言及はない。これらの柔術流派は会津藩校「日新館」や各師範の邸宅の稽古場で修行していた(注2)。

 

 

では、大東流はこれらの柔術流派のいずれかをベースにして武田惣角によって創作されたのであろうか。実はこれらの流派でも甲冑を着用しての稽古を行っていた。

 

甲冑は各流に一領づつ貸付おかれしにはあらねど、かねて学校には備ひありて時々これを著て稽古し、その許位に進めんとする時、学校奉行の閲見には必ず甲冑にても拗りしといふ(注3)。

 

柔術の図。沢田名垂「日新館教授之図」19世紀、福島県立博物館より。

 

また『会津剣道誌』(1967)によると、会津藩では「現在の柔術とは趣を異にして、時々甲冑をつけて柔術の稽古をしていた」という(注4)。

 

すると、武田惣角がもし会津藩で稽古されていた柔術を学び、それを改変したり改名したりして大東流を創作したのなら、なぜ「素肌武術」の色彩が濃いのかという疑問が生じてくる。仮に何らかの柔術を修行していたとしても、会津以外の地で学んだ可能性が高くなる。

 

会津以外での、武田氏の武者修行を「年譜」で確認すると以下の通りとなる。

 

1873年 東京で直心影流榊原鍵吉に剣、棒、槍、半弓、鎖鎌、薙刀などを師事。

1876年 大阪で鏡新明知流の桃井春蔵の道場で修行。

1879年 沖縄諸島で武者修行。

1880年 九州熊本の坂井道場で槍術を学ぶ。

 

上記のうち、武田氏が素手体術を学んだのは沖縄だけである。すると、やはり大東流には「沖縄手」の影響があるのであろうか。

 

 

注1 木村達雄『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』講談社、1995年、109頁。

注2 小川渉『会津藩教育考』会津藩教育考発行会、1931年、299頁。

注3 同上、300頁。

注4 会津剣道誌編纂委員会編『会津剣道誌』全会津剣道連盟、1967年、口絵参照。