富木謙治「柔道原理と剣道原理」(1972)に以下の記述がある。

 

柔術の伝書の多くが、大陸伝来の経穴経路の生理的急所を図解し、殺傷力の効果を強調している。だが、その後の歴史に、「当身技」は、形としても、また、練習法としても、その内容が乏しく、見るべきものが伝承されていない。大正12年(1923)沖縄という特殊な歴史的背景の中で発達した「空手」が内地に伝来するまでは、ほとんど忘れられていた。

ここで一つの疑問に遭遇する。江戸時代に流行したという「当身技」に、はたして沖縄空手にみるような威力や、「わざ」の種類、練習法などが行われていたであろうか(注1)。

 

富木謙治(1900 - 1979) は嘉納治五郎(柔道開祖)と植芝盛平(合気道開祖)に師事した武道家で、合気道に乱取試合を取り入れた富木合気道の創始者である。また、大正11(1922)年の講道館での船越義珍と儀間真謹による唐手演武を参観した人物でもある。

 

一般に柔術では当身(打撃技)は限定的である。そもそも柔術には空手、ボクシング、ムエタイのように当身で敵を打倒(殺傷)するという発想が希薄である。したがって、柔術の当身は相手の腕や袖を取りやすくするために、軽く当身を入れるとか、抵抗力をそいで固め技を確実にするために当身を入れるとか、主として柔術技法の「補助」として用いられ、当身による打倒を目的としていない。

 

また、空手の巻藁突きのような、当身の威力を増すための鍛錬法も柔術には一般にない。本部御殿手では、かつては貫手を鍛えるために、砂浜で指で砂を突いていた。柔術では当身の威力を増す部位鍛錬の工夫がされてこなかった。それは単に怠慢というよりも、後述する思想的背景によるものであろう。

 

近年では、空手のような敵の打倒(殺傷)を目的とする当身を「本当て」、柔術のような敵の打倒を目的としない当身を「仮当て」として区別する分類もなされている。現代風にいえば、柔術の当身はライトコンタクトということである。

 

もちろん柔術には失伝した流派も含めて多数の流派があり、中には当身を重視する流派もあるので、上記は一般的傾向を述べたものであることを断っておく。

 

なぜ柔術では「本当て」を追求してこなかったのか。その理由として、日本には「神武不殺」の思想があったからだという説明がなされることもある。この言葉は中国の『易経』に由来するものだが、この説明がどこまで歴史的に正しいのか、筆者は詳しく調べたわけではないのでわからない。おそらく山鹿素行等、江戸時代の儒学者が広めた思想で、それほど古いものではないのではないか。

 

ただ江戸時代の日本人の美意識、倫理観として、当身を「下品」と捉えていたふしがある。刀による殺傷は「上品な殺傷」で、当身による殺傷は「下品な殺傷」とみなしていたふしがある。特に蹴り技に対する忌避反応は強かったのではないか。

 

その影響は20世紀になっても残っていた。植芝盛平は蹴りや脚を使った締め技は「汚い」と言って、合気道からは削除したという(注2)。「汚い」というのは美的概念である。つまり技術的有効性とは関係なく、美意識から蹴り技が排除されたということである。

 

そもそも江戸時代の武士は腰に刀を差していたわけだから、殺傷を目的にするなら当身を稽古するより剣術を稽古したほうが合理的である。つまり、「本当て」を追求する合理的理由がなかった。しかし、明治維新後の廃刀令や近代刑法の整備によって、護身目的でも刀を使用することが許されなくなり、「本当て」の重要性が増した。

 

そうした時代背景のもとで、沖縄から空手が、西洋からボクシングが入ってきたから、一部の柔道家が危機意識をもったのではないであろうか。戦前の講道館での「離隔態勢の研究」もそうした危機意識のもとで行われたのであろう。

 

いずれにしろ、柔術と空手の当身では、敵の打倒を目的とするかしないかで、本質的な違いがあったということである。

 

 

注1 『柔道 43(9)』講道館、1972年、6頁。

注2 パイエ由美子「創成期における植芝合気道思想」『同志社大学 日本語・日本文化研究』第12号、 同志社大学日本語・日本文化教育センター、135頁。