先日、Facebookで空手史研究における「思い込み」についてコメントをいただいた。先入観、先入見、偏見と言ってもいい。要は固定観念にとらわれて、新しい事実を受け入れられない心的態度のことである。
空手史に関する書籍を読んでいると、しばしばこのような心的態度に基づいて推論しているのではないかと思われる記述に出くわす。最初からほしい結論が決まっていて、それを「証明する」ために推論を重ねるのだが、その過程で都合のいい証拠だけ取り上げ、都合の悪い証拠は無視する。心理学では、こうした心的態度は確証バイアスとも呼ばれる。
この確証バイアスは、宗教や風習といった非科学的領域にだけ見られる態度ではない。学問の分野でも見られる。自説を裏付ける実験データだけを集め、都合の悪いデータは無視したり過小評価したりする。有名な例では、メンデルの法則にも確証バイアスが見られるとの指摘がある。
空手・古武道の分野では、前回取り上げた取手の場合がそうである。「空手は突き蹴りの武術だ」という固定観念のある人にとって、沖縄に取手が存在したという事実は容易には受け入れられない。
しかし、実際には糸洲安恒の「糸洲十訓」の中に、「取手の法」の記載がある。また、糸洲先生に師事した徳田安貞も『球陽 第18号』(1909)で、糸洲十訓を紹介して、取手の法(柔道の投げ業の如きもの)と但書を付けている。
唐手表藝は數多練習し、一々手數の旨意を解し、是れは如何なる場合に用ふべきかを確定して練習すべく、且入受はづし、取手の法(柔道の投げ業の如きもの)等ありて是又口傳多し。
意味は、「空手の型はたくさん練習しなさい。その際、分解も意識しなさい。受け外しや取手(柔道の投げ技のようなもの)の技法もありますが、これらは秘伝ですので師匠から弟子へ口伝えで教えることになっています」というものである。
つまり取手は明治時代の沖縄には存在したのである。それゆえ、なぜ沖縄からその後取手が一般に失われたのか、そして空手は突き蹴りに限定した武術になってしまったのか、その原因を考えることが大切である。
糸洲先生は取手は「口伝」だと書いている。武術において、口伝とは秘伝のため伝書には記さずに口頭で伝授する技のことである。日本の古武道修業者には馴染みのある考えだが、現代のスポーツ化された空手の修業者には理解しがたいかもしれない。
それゆえ、上原清吉が取手は秘伝技だと言い続けたのは別にもったいぶったある種の「宣伝文句」だったのではない。まさに沖縄の伝統に即した理解だったのである。
いずれにしろ、確証バイアスを避けるためには、謙虚な気持ちで歴史を真摯に学ぶことが大切である。