大学受験を考える<第1章 序章~私の選択> (1/4)~社会人になってから、再度大学へと至る道~
世間では国立大学の後期日程の合格発表も終わり、受験生の皆さんは喜びの中にいるか、モヤモヤした思いを抱えながら、第一志望でない大学に入るか、あるいは、もう一年かけて再起を誓っているか、いろいろな方がいらっしゃると思います。また、新たに高校3年に上がる皆さんは、どんな気持ちでいるでしょうか?ワクワク感でしょうか?それとも、プレッシャーに押しつぶされそうになっているでしょうか?
本稿は私の合格体験をつづったものであると同時に、私の受験や大学のあり方に関する考えをつづったものでもあります。私自身、18歳の頃に、それほど世間が見えていたわけでもなく、後から振り返ると、「大学受験とはこういうことだったのか」という思いが沸き上がってくることもあります。なお、これから書く一連の記事は、何か具体的な受験のノウハウを提供するものではありません。どちらかというと、高校生・大学受験生のために、「そもそも、どうして大学受験なんかしなきゃいけないの?」という問いに対して答えるために書いたつもりです。予めご了承下さい。
大学受験を目指す皆さんが、雑誌、インターネット、あるいは周囲の友人、家族、先生などからいろいろな情報を受け取ると思いますが、そうした情報過多の状態の中で不安になってしまうことが無いよう、私なりの考え方の筋のようなものをご紹介したつもりです。ご参考にして頂ければ幸いです。もちろん、そうした情報を提供してくれる周囲の方々は、皆さんを思う愛情ゆえのそのようにされているのですから、感謝の念は忘れてはなりません。さあ、では、ご一緒に「受験」について考えてみることに致しましょう。書き溜めた原稿を少しずつアップしてゆきますので、気長にお付き合い頂ければ幸いです。
パリでのテロ事件とトリコロール(フランス国旗) (4/4)
<ISさえ叩けば良いのか?>
IS(いわゆる「イスラーム国」)が今回のテロを起こしたのか、という点について疑問が出されています。
パリ同時多発テロを戦争へと誘導する未確認情報の不気味|川上泰徳|ニューズウィーク日本版 http://www.newsweekjapan.jp/kawakami/2015/11/post-3.php
ただ、上記の記事を「陰謀論」的に読んではいけないと思います。4ページ目に「『イスラム国の指令』はあったとしても、二次的な要素である」とあるように、決して「ISとの戦争のために仕組まれた陰謀である」というような見方ではなく、ISが強力な統制によって実行犯を動かしているというよりは、フランス社会の中に、もともと何らかの条件があり(それはもしかしたら差別や貧困かもしれません)、そこにISがうまく付け込んだのであり、そうした社会的素地にアプローチしない限り、ISへの空爆だけで問題が解決するわけではない、という指摘であると読むべきでしょう。上記の記事にも、そして、最初の節で取り上げた志葉玲氏の記事にも、自爆テロの実行犯となる若者は絶望に打ちひしがれている、という記述があるのは注目すべき点ではないかと思います。
なお、なぜ、イラク、シリアにおいてISが台頭することになったのか、については、下記の山尾大氏の連載記事が参考になりました。根本には、イラク戦争後の統治の失敗があります。
シノドス 山尾大(イラク政治)
http://synodos.jp/authorcategory/yamaodai
テロについてではありあせんが、紛争が起きる原因については、”Greed versus Grievance?”(貪欲か不満か?)というという論争があります。ISがその支配領域で産出する石油が一つの重要な資金源になっていることを考えると、資源の収奪という観点から見ることも一つの重要な視座かもしれません。
「資源紛争の再検討」松尾 雅嗣(広島大学)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/35/Part3.pdf
こうした慎重かつなるべく客観的な研究をふまえて、どのような手段(の組み合わせ)が最も有効か、を検討してゆくべきでしょう。
<悲しみに共感して祈ること>
最後に。とりあえず、今は静かに祈りましょう。哀しみの淵にある人が、その哀しみから癒されますように。そして、再び、新たに哀しむ人が出ませんように。人々が、それぞれにささやかながら幸せな暮らしができますように。
<補足>
私は、Facebookのプロフィール画像をレインボーカラーにしています。これは単にセクシュアル・マイノリティ(LGBTs)にとどまらず、あらゆる多様性を祝福する意味を込めています。何らかの共通要素に基づいて個々人をカテゴリ分けをすることは便利ではありますが、この世界のあらゆる存在がそれぞれ別個の存在であるのですから、そのカテゴリに基づいて一律に受け入れるカテゴリと受け入れないカテゴリを作るというのは、おかしいのではないか、と思うからです(これは、経済学的には「シグナリング」と「リスク回避的態度」あたりから「合理的選択」であるという説明ができるかもしれませんが、社会生活において「受け入れる/受け入れない」の選択の自由が確保されるとしたら、「受け入れられる」側の選択の自由(「受け入れる」側への社会参加)が一方的に制限されることになり、「自立した個人と選択の自由」という(私が考える)経済学の根本イデオロギーに矛盾してしまうので、背理法的にこの正当化理論は採用できません)。
(完)
パリでのテロ事件とトリコロール(フランス国旗) (3/4)
<憎悪の連鎖を断ち切ること、しかし、個人的感情に過度に原因を求めない>
イスラームをテロと結び付けるのはもちろん間違っています(イスラームをサラフィー・ジハード主義的なものとして捉えるのは、私がインドネシア、バングラデシュ、シエラレオネを見てきた経験から考えるに、明らかに間違っています。もちろん、これらの国々は、イスラーム世界においては「周縁」であり、(あくまでも鍵括弧付きで)「中東」的な価値観からは隔たりがあるでしょう。しかし、私はこういう「周縁」的イスラーム世界のありかたの方が、サラフィー・ジハード主義的なものから距離を置いているという点において、実はイスラームの本質をよく保存しているのかもしれない、と思える部分が個人的には多々あります。念のために付け加えますが、決して中東の本質がサラフィー・ジハード主義的なのではなく、サラフィー・ジハード主義的なものが中東における政治的混乱の空隙を突いて入り込んでしまい、善良なムスリマ、ムスリムたちが被害を受けていると見るべきでしょう)。私たちは、テロに警戒するとともに、イスラモフォビアがテロと言う炎の燃料となることにも警戒すべきでしょう。
現に、今回のテロの実行犯の一人は元々、決して敬虔なイスラム教徒というわけではなかったようです。
【パリ同時多発テロ】自爆死の女容疑者 飲酒にミニスカ、イスラム教と無縁も…なぜ過激主義に走ったのか - 産経ニュース
http://www.sankei.com/world/news/151121/wor1511210026-n1.html
被害を受けた立場からすると、憎しみを乗り越えることは簡単なことではありません。しかし、憎しみの連鎖はただ哀しみを生むだけであることを考えれば、憎しみを乗り越える強さが求められるでしょう。
「憎しみは与えない」 テロリストへ妻亡くした男性投稿:一面:中日新聞 http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015112002000288.html
このメッセージを書いたレリス氏には、きっと大きな心の葛藤があったに違いありません。あまり他者が論評すべきことではないのかもしれませんが、きっと深い深い哀しみの中で、それでも「テロリストが栄養源とするもの」は何か、を考え、勇気ある発言をしたのだと思います。
また、貧困がテロと関係があるのか、と言われると、シャルリ・エブド襲撃事件の時もそうでしたが、フランスでフランス人として育った人が犯人に含まれているようで、必ずしも、中東貧困層と欧州社会との社会的・経済的格差に対する恨みが原因というものではないようです。
【パリ同時多発テロ】3部隊に分かれた組織的犯行 実行犯7人は全員死亡、うち1人の身元特定 死者129人に - 産経ニュース
http://www.sankei.com/world/news/151115/wor1511150051-n1.html
(なお、犯人にフランス生まれのフランス人がいることを考えても、トリコロールが「犠牲者」への哀悼の表明として適切ではないと私は考えるのです。それは犯人に「お前はフランス人に非ず」という烙印を押す、排除と分断の論理になってしまうと同時に「フランスvsフランス以外の何か」という安易な対立構造を想起させてしまうことになりかねないからです。)
とは言うものの、では、どうすれば良いのか。事はそう簡単ではありません。憎悪と差別を避けるべきことは言うまでもありません。しかし、実社会は人間の内面的な動機(「善意」と言ってもいいかもしれません)だけではなかなか変わらないものです。武器取引の規制強化、テロへ組織への資金の流れを断つこと、テロ組織に参加しないようなインセンティヴ構造を埋め込む政策(例えば、日本のNGOペシャワール会はアフガニスタンにおいて旱魃に苦しんでいる農民に農業指導を行い、収入を得られるようにしました。それまでは、生活のために、給料が得られるからと、人々はターリバーンに参加していたのです。もし、農業に従事する方が、ターリバーンに参加するよりも儲かるなら、経済学ではこれを「人々は農業を選択するインセンティヴがある」と言います)など、様々な対策が求められるでしょう。難民問題も同時に考えなければなりません。ゼノフォビア、イスラモフォビアに基づく一方的な難民排除は事態をより深刻にするだけです。一方で、いたずらに武力によって事を解決しようとする姿勢は、下から火に炙られつつ、中の水が沸騰しているやかんの蓋と口を無理やり押さえつけているようなもので、たとえその場は凌げても、火を消さない限り、やかんが暴発する危険はいささかも減少しないでしょう。これまでの「テロとの戦い」という名のもとの戦争を見ても、武力によってテロを無くすことなどできなかったことは明らかです。
(続く)
パリでのテロ事件とトリコロール(フランス国旗) (2/4)
<枝葉末節の議論よりも、世界をどう変えるのか?ということ>
ところで、ここまで長く書いておきながら話の腰を折るようなことを書きますが、外野から「プロフィール画像をトリコロールにするべきか、せざるべきか」という議論は、人によってはどちらにしても不快に感じる人もいるかもしれないので、重要ではありますが、テロの無い世界を目指すという点においては、あまり本質的な問題ではありません。敢えて「左翼的」な言い方をすれば、世界を解釈することではなく、世界を変えることの方が大事なはずです。ただ批評することは本質ではありません。
とは言うものの、今回はこの問題をきっかけに、多くの人が世界で今起きていることに対して関心を持つきっかけとなったという意味では重要な機会だったかもしれません。また、少なくとも現在は「服喪期間」というか、批評やテロ撲滅のための行動よりも、被害者の悲しみに寄り添う祈りと癒しの時間が必要だと思いますので、人々が何らかの形で祈りを表現することはむしろ肯定的に捉えても良いと思います。ですから、「祈っても何も変えられない」という意見には与しません。中には、プロフィール画像にトリコロールを重ねる人々を偽善者呼ばわりする意見さえありますが、これはある種の「炎上商法」だと思いますので、ここにリンクを貼ってそれに加担することはしません。様々な社会問題について言えることですが、Facebookに「いいね」をするだけでは途上国の貧困は無くならない、デモだけで世の中は変わらない、確かにそうかもしれません。しかし、冷笑主義はそれ以上に世界を変える力など持ち得ませんし、自分が寄付などの行動を起こしたところで、それはその人の善意に裏打ちされているはずであり、他人が何をしようが関係ないはずです。寄付などの行為をする人は大いに尊敬に値しますが、その善意は自己の選択であり、他人には無関係なのですから、他の誰かを「偽善者」呼ばわりする必要性は全くありません。
人間は祈らずにはいられません。なぜならば、祈ることは心を整理し、次の行動への第一歩となるからです。そして、人々は祈ったうえで、テロや暴力の無い世界を実現するためにどうすれば良いのでしょうか?
(続く)
パリでのテロ事件とトリコロール(フランス国旗)(1/4)
事件が起きてからしばらく経ってしまいましたが、11月13日にパリで大きなテロ事件がありました。犠牲者のご遺族や親しい人々、また、その場に居合わせた方々の悲しみはいかばかりかと思います。いかなる理由であれ、無辜の市民に暴力を向けるこうした理不尽なテロは絶対に受け入れることはできません。遠く離れている国であり、私にとって身近な人がテロに巻き込まれているわけではありませんが、深い悲しみの只中にいます。犠牲者の方々に哀悼の誠を捧げたいと思います。
<プロフィール画像にトリコロールを重ねることの是非>
さて、既にあちこちでこの話題が出ていますが、Facebookでは、哀悼と連帯の意を示すために、プロフィール画像にトリコロール(フランス国旗)を重ねることができる機能が提供されています。トリコロールをプロフィール画像に重ねるべきか、やめるべきか、それは個人が各々、考えて選択をすればよいと思います。
多くの人がプロフィール画像にトリコロールを重ねる中、この動きに対して疑問の声が上がりました。
『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと(ふじいりょう) - Y!ニュース
http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiryo/20151115-00051471/
パリでのテロは報道されるが、中東でのおびただしい数のテロや虐殺(直前にはレバノンでも大きなテロ事件がありました)は、これほどまでの関心を集めたでしょうか。他の方のSNS上の投稿・議論も参考に考えましたが、おそらく、西欧vs中東とか、キリスト教vsイスラム教とか、力を持つ国vs力を持たない国、とかいう対立構図ではなく、単純に、予見不可能vs予見可能という点が大きいような気がします。よく「人が犬に噛まれてもニュースにならないが、犬が人に噛まれるとニュースになる」と言います(実際には人が犬に噛まれる事は、それはそれで大変なことであり、ニュースになるのですが)。悲しいことに、中東でのテロは、ニュースとしてのバリューが乏しいのでしょうか?パリでの大規模なテロが起きるということを予想することは難しかったがために、人々に与える衝撃がより大きかったのかもしれません。
Taejun(慎泰俊)「代弁されず報道されず死んでいく人たちのこと」
https://note.mu/taejun/n/n0714249144e2
もちろん、この記事で書かれているように「悲劇は比較するようなものでもなくて、『アラブ諸国で殺されている無実の人がより多いのだから、西側諸国は黙れ』みたいな言説はおかしいと思う」というのは全くもってその通りだと思います。数の多寡ではなく、誰であれ、自分が哀しみを共有する人を決めるのは、その人にとって全く個人的な事柄であり、他の誰かと比較するような性質のものではありません。
人間と言うのは身近な人には思いを寄せることができますが、遠くの見ず知らずの人に思いを寄せることは難しいものです。自分の友人に悲劇があれば深く悲しみますが、地球の反対側で、おそらく一生会うことも、名前を聞くこともない子供がマラリアに罹って死んだとしても、それを深く悲しむのは難しい。これは人間として仕方のない事だと思いますし、人間は悲しんでばかりでは生きられません。フランス、そしてパリは、日本や他の先進国に住む人々にとって、中東やアフリカよりは少し身近だったということなのかもしれません。
ですから、一方で、この記事のように、
ISを空爆するより、Facebookプロフをフランス国旗化するより、大事なこと―パリ同時多発テロ(志葉玲) - Y!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20151117-00051529/
アラブ世界(「イスラーム世界」ではない)に深くコミットしている側からすると、プロフィール画像にトリコロールを重ねることは違和感を覚えるものになるのでしょう。なぜならば、その人にとってはアラブ世界こそ近しい存在であり、パリはそれに比べればいくらか遠いのだとすれば、それは先程のパリへの哀悼と全く対称的な構造になっているからです。
従って、このFacebookの機能と並行して、「敬愛するパリよ、貴女が目にした犯罪を悲しく思います。でもこのようなことは、私たちのアラブ諸国では毎日起こっていることなのです。全世界が貴女の味方になってくれるのを、ただ羨ましく思います。」という言葉も広く拡散しました。
パリ同時多発テロでFacebookアイコンを「トリコロールに変える」ことと「変えない」ことの相違と相似 | BUZZAP!(バザップ!)
http://buzzap.jp/news/20151116-facebook-tricolor-icon/
私はプロフィール画像にトリコロールは重ねないことにしました。トリコロールがフランス国旗である以上、外国人も犠牲者に含まれていたことを考えると(もちろん、今回のテロはフランスという場で起きたものであるが故に、トリコロールを用いることは、哀悼と連帯の表明として適切であると考える人もいるでしょう)、フランス国旗が犠牲者への哀悼と犠牲者に近しい人々への連帯の意を表すものとして最善なのか、というと、私は疑問を感じます。
時事ドットコム:103人の身元確認=仏首相
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201511/2015111500213&g=soc
BBCニュース - 【パリ連続襲撃】犠牲になった人たちは
http://www.bbc.com/japanese/34829396
「いや、フランス国民が犠牲になっていることは間違いない、フランス国民に哀悼の意を示したところで、フランス国民以外に哀悼の意を示さないことにはならないだろう」という反論があるかもしれません。しかし、次のような例を考えてみたらどうでしょう?10人の人がいて、そのうち9人がAさんの友達、1人はBさんの友達です。AさんとBさんがテロに巻き込まれて、9人が「Aさんを悼む」とだけ言ったとしましょう。残りの1人は「Bさんのことも悼んでほしい」と思ったとしても、9人は「Bさんのことを悼まないなんて一言も言ってないじゃないか」と言ったとしたら、そのたった一人のBさんの友人はどんな気持ちになるでしょうか?それで慰められるのでしょうか?上記の慎泰俊氏の記事には「震災があったときも日本が日の丸で囲まれて、非日本人である僕はなんなんだろうと思うことがあった」とあります。国旗が国民国家の象徴として分かちがたく結びつけられている現実がある以上、その理屈で行けば、国旗は今回のテロ事件の犠牲者と「同値」にはならないし、フランス国籍でない犠牲者・関係者に対して、少なくとも連帯や哀悼などの何らかの明示的なメッセージを送ることはできない、という限界があるのです。
ですから、私はトリコロールを哀悼の意を表す印としては用いません。しかし、人々の悲しみに寄り添いたいと思います。もし、誰かがSNSのプロフィール画像にトリコロールを重ねていなかったとしても、それは決してその人が哀しみを表していないわけではない、という点は心に留めておくべきかと思います。Aという意見を表明する人は、他者から「あの人はAという意見を表明している」と分かる一方(逆に、画像のように単純化されたメッセージは、大枠ではAという意見であっても、留保条件のようなものを示すのには限界があります。最初のふじいりょう氏の記事にあるように、トリコロールを掲げることは、本人が意図しようがしまいが、国民国家としてのフランスへの連帯というメッセージが含まれてしまいます)、何も意見を表明しない人は、Aに反対なのか、Aでも良いと思っているが、Bの方がより良いと考えているか、あるいは、Aに対して特に何も思っていないか、他者からは分かりません。こうした点を十分考慮した上で、その「意見表明」の本質には何があるのか、を冷静に見る目が必要だと思います。
(続く)
私が安保法制に反対する理由
※ 本投稿は、あくまでも私の個人的見解を述べたものであり、私の所属する団体の見解とは関係ありません。予めご了承下さい。
各ポイントについてあまり細かくは論じませんが、以下の6つの点から、今回の衆議院での安保法案の強行採決に抗議するとともに、参議院での慎重な審議を求めます。なお、書いていて気付いたいのですが、かなり一般的な視点も含んでおり、今回の安保法制だけにとどまらない点もあるように感じています。政治家の方々は高邁な「初心」があったはずですが、ぜひともこうした視点を忘れないで審議をして頂きたい、と思うのです。
1) 今回の安保法制は日本の防衛とは無関係
今回の安保法案の骨子は「集団的自衛権」を認める閣議決定を受け、これを行使できるように法整備をすることです。昨年の閣議決定の段階で、私はこれへの反論をFacebookならびにブログに書きましたが、現在でも、私の基本的な認識は変わっていません。
「集団的自衛権」を骨子とするこの法案は、そもそも日本を防衛するための法案ではありません。現実には難しい局面はあるとしても、法律上は、自衛隊が米軍と共にどこまでも出かけて行って軍事作戦に加わることを許容する法律であり(いかに安倍総理が「そんなことは無い」と言おうとも、法律上できてしまうため、このような事態が起こった時に、たまたまその時、総理大臣である人物がどこまでを「存立危機事態」とみなすのか、裁量の余地を残してしまっています)、また、長谷部恭男氏が言うように、「自衛隊を世界中に拡散させるなど、日本の防衛にとっては愚の骨頂」なのです。それだけでなく、自衛隊員そして日本国民のリスクはかえって高まることになってしまうのです。「中国の脅威が云々」と言う人はその点を十分に考えて頂きたいと思うのです。日本が集団的自衛権を認めることによって、米国との同盟関係がより深まり、そして、その同盟関係の深化によって戦争の抑止力となる、という理屈はにわかに信じられるものではありません(補論をご参照下さい)。しかしながら、ネット上の議論(匿名の議論だけでなく、高等教育を受けたであろう高名な方々さえ)では、なぜか、中国の脅威から日本を防衛するための法律であるかのような誤解が多く見受けられます。これは、私にはどうしても理解できないのです。
2) 「法の支配・立憲主義」をなし崩しにする、という、世界への誤ったシグナル
憲法(国民が、統治者に「ここまでの範囲内で政治をして下さいね、という約束」)に違反します。たとえ選挙で多数の議席を得ても、憲法に定められた範囲は超えることができません。例えば、選挙で多数を得たからと言って、現行憲法のもと、直ちに「政府に少しでも異論を唱えた人は全員死刑にする!」という法律を作ることは許されるでしょうか?憲法が民主主義と基本的人権を侵すことは許されない、としているから、こういう法律は作れません(ここでは極端な例を上げました。厳密には憲法改正の限界について論じることもできますが、ここでは割愛します)。もし、どうしても必要な政策だと言うならば、先に国民の合意を得て憲法を改正すべきでした。日本は、中国等を念頭に置き、力による一方的な現状変更の試みに反対し、法の支配を世界に向かって唱えているのに、日本国内において、法の支配、立憲主義をないがしろにする国である、ということを自ら示してしまう事態になってしまいました。これでは、中国から「日本の言う『法の支配』は説得力が無い」と言われても言い訳ができなくなってしまいます。世界に向けて、誤ったメッセージを発してしまいました。
3) 「中国脅威論」の誤り ~中国は「貪欲」だからこそ、戦争などしない~
1) では、今回の安保法制は「中国の脅威」などとは無関係であるということを述べましたが、そうは言っても、「中国の脅威に対する抑止力となる」という誤解がかなり広く見受けられます。この「中国の脅威」という点にも反論しておく必要がありそうです。
私は、以前に、
「中国や北朝鮮は本当に『脅威』なのか」
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11575954546.html
という記事を書きましたが、中国が自国の利益を最大化しようとするならば、日本を侵略する、というシナリオは極めて考えにくい事です。
伊勢崎賢治「(その2)改憲か、違う道を行くのか、待ったなしの選択を。『敵を減らすこと』こそ究極の国防」
http://www.magazine9.jp/article/other/20036/
ここでも述べられているように、中国が現在の覇権を維持したいと思えばこそ、現在の世界秩序に挑戦することは自分で自分の首をしめることになるので、そんなことはできないのです。
また、台湾有事の可能性を言う人がいますが、私はこれも疑わしいと思います。確かに、台湾で独立派の動きが強くなると、中国との間に軍事的緊張は高まることがありましたが、国共内戦終結後、現在に至るまで北京の中国共産党政府は一度も台湾を征服することなどできませんでした。それに、習近平氏はかつて福建省で働いていたことがあり、対岸の台湾財界とのつながりもあります。
台湾人実業家 地方幹部時代から付き合いある習近平をホメる
http://www.news-postseven.com/archives/20150504_318890.html
まあ、週刊誌の記事ですので、割り引いて読む必要があるかもしれませんが、習近平氏にとってみれば、台湾、そして台湾と経済的依存関係にある福建省は利権基盤であり、自らの利権を自分でぶっ壊すような馬鹿なことはするはずが無いのです。多くの日本人が「中国による台湾侵略の危機が迫っている」などと考えることも無く、喜んで台湾に観光に訪れていることが、平和の何よりの証左ではないでしょうか。
もちろん、中国が南シナ海でフィリピンやベトナムなどに領土争いをしかけていることは、まことに憂慮すべきことです。おそらく、中国としては、少し駒を進めてみて、様子見をし、そして、国際社会が有効な手出しができないことを確認して、そしてまた少し駒を進める、というしたたかなことをやっています。しかし、ASEANは「南シナ海における関係国の行動宣言(DOC)」を中国との間に取り交わし、更に、これに法的拘束力を持たせた「南シナ海行動規範(COC)」を締結しようと努力しています。ASEAN諸国内でも、中国との政治的距離が異なる国どうして紆余曲折があり、COC締結までの道のりは平坦ではありませんが、こうした根気強い取り組みこそが、第二次世界大戦後の国際社会が目指すものであったことを今一度確認すべきではないでしょうか。かつて反目し合った東南アジア諸国が、ASEANという共通の枠組みのもとで国際社会の秩序維持に取り組もうとしている、という歴史の流れに着目すべきです。
(シーレーン防衛については私自身は知識不足ですが、補論をご覧下さい。)
4) 安保法制はこれまでの選挙でほとんど争点とされなかった
安保法制は、2012年衆議院選挙、2013年参議院選挙、そして2014年衆議院総選挙でも、いずれも、ほとんど争点とされませんでした。私は、2014年衆議院選挙の際に、たまたま姫路で自民党候補者に対する安倍総理の応援演説を聞きましたが、集団的自衛権には全く触れられませんでした(抽象的に「日本を守る」ということだけ、一言言及したに過ぎません)。2012年の自民党のマニフェストには、集団的自衛権について一言だけ触れられていましたが、その後のマニフェストには、「集団的自衛権」という言葉はただの一度も登場しません。いずれも「アベノミクス」と呼ばれる経済政策と東日本大震災からの復興が大きなテーマでした。ちなみに、マニフェストのキャッチフレーズは、「日本を取り戻す」(2012年衆議院選挙)、「実感を、その手に」(2013年参議院選挙、正式なタイトルは「参議院選挙公約2013」ですが、キャッチフレーズ的に掲げられているものを取り上げました)、「景気回復、この道しかない」(2014年衆議院選挙)でした。
「国民が明示的な選択をしていなくても、国のために必要なことは政府が行う必要がある」という判断は、あくまでも国民の明示的な選択を基準として類推し、抑制的に行わなければなりませんし、ましてや、政府が哲人政治を気取って余計なパターナリズムを持ち込むことには同意できません。
5) 小選挙区制による「見かけ上の多数」
与党は国会で多数の議席を持っているとはいえ、それは、小選挙区制度によって作られた「見かけ上の多数」です。小選挙区の議席においては、得票率は49.54%なのに、議席占有率は78.64%です。比例代表では、46.82%の得票率で、議席占有率は52.22%と、開きは小さくなりますが、全体として、48.18%の得票率で68.63%の議席占有率なのです。投票率が52.66%でしたので、全有権者の1/4ほどの得票率で7割ほどの議席を得ていることになります。また、2014年の衆議院選挙の「1票の格差」は2.129倍、2013年の参議院選挙の「1票の格差」は4.769倍でした。決して、「国会での多数」は「国民の多数」ではありません。現行制度がそのような仕組みである以上、仕方がないと言えば仕方がないのですが、少なくとも、国会議員はそのことに対して十分に自覚的であるべきと思います。
6) 「民主主義=多数決」 ではない。
もし、「民主主義=多数決」ならば、マイノリティの権利は徹底的に無視され得ますし、選挙で過半数を得た時点で、議会を開く必要が無くなってしまいます。「民主主義=多数決」というのは、「多数派による独裁」であり、議会制民主主義を否定する議論なのです。また、今回の安保法制については、その国民の多数の賛成も得ているとは言い難いものです(ただ、「多数vs少数」とうい点は少々込み入った論点がありますので、補論をご参照下さい)。
※ 1) についての補論
A. 私が昨年7月の閣議決定の際に書いたブログ記事
集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~序文
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11964073242.html
第1部 「集団的自衛権」という概念の克服を
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11964078443.html
第2部 現状の国際関係に対する考察 ―集団的自衛権が必要とされる状況でもないし、集団的自衛権を行使するのは現実的に難しい―
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11964094054.html
第3部 今回の集団的自衛権規定・武力行使要件の曖昧さ ―集団的自衛権は個別的自衛権とは根本的に異なるがゆえに歯止めがききにくい―
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11964099608.html
第4部 「解釈改憲」という手続きの瑕疵
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11965469603.html
第5部 日本の取るべき「国際協調主義」―「国際貢献」と「集団的自衛権」は同値ではない―
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11967211821.html
B. 高橋洋一氏の「集団的自衛権巡る愚論に終止符を打つ!戦争を防ぐための「平和の五要件」を教えよう」という記事を見つけました。
Yahoo!ニュース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150720-00044269-gendaibiz-pol
現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44269
この中で、高橋氏は、John R. OnealとBruce Russettの”Triangulating Peace”という書籍を引用し、「同盟の深化が戦争の抑止力となる」と説きます。一見、もっともらしい議論のようで、Yahoo!ニュースのコメント欄には「この記事を多くの人に読ませたい」といったコメントが散見されます。私は同書を読んでいないので、細かな指摘はできませんが、Amazon.comにかなり詳しい読者レビューが掲載されています。
おや!? 「同盟関係」については述べられていませんが、高橋氏が上記記事でほとんど端折った「経済的相互依存」こそが紛争を抑止するために最も重要であると書いてあるではありませんか。さらに、「米国の単独主義的行動は危険であり、多国間主義こそが世界の平和と安定に寄与する」「中国とロシアをこのカント的システムに取り込むことが世界の平和と安定に寄与する」と本書は主張している、と書いてあるではありませんか!
また、同じ著者によって、本書とほぼ同時期に出版された論文
Causes of Peace: Democracy, Interdependence, and International Organizations, 1885-1992
http://www.isn.ethz.ch/Digital-Library/Articles/Special-Feature/Detail/?lng=en&id=156542&tabid=48581085&contextid774=156542&contextid775=30417
では、「同盟(alliance)」は必ずしも紛争のリスクを減らさないし、小規模な紛争に至っては、寧ろリスクが高まる、としています(ただし、この論文中では、紛争は2国間を対象に分析がされており、「同盟(alliance)」もこの2国間についての関係性を変数として取り込んだものと考えられます。したがって、2国間の同盟(例:日米同盟)と第3国(例:中国)との紛争リスクはこの分析の対象外であり、もし、”Triangulating Peace”も同じ分析のフレームワークを基に書かれたものであるなら、高橋氏の認識は、全くの誤読ということになる可能性があります)。したがって、この論文では、NATOの拡大は”central Europe”(旧共産圏の東欧諸国のことか?)の安定化には効果的ではない、中国は民主的ではないからこそ、民主化と経済的依存関係こそが大事で、核抑止力に頼るなど、それこそ悲惨だ、などと主張しています。また、この論文でも、軍事的能力の差が紛争の抑止に有効ではあるとしつつも、紛争の抑止のためには、軍事力の差をおよそ50倍に引き上げる必要があり、これは現実的ではない、として退けています。
また、中国が本当に脅威なのか、については興味があったので、少し調べてみましたが、
James Robert Masterson “Analysing China’s economic interdependence and political relations with its neighbours” China Information, March 2012
http://www.researchgate.net/profile/James_Masterson2/publication/239770949_Analysing_Chinas_economic_interdependence_and_political_relations_with_its_neighbours/links/546ec8ae0cf2bc99c2155c54.pdf
によると、経済的相互依存が平和に寄与することは間違いないとしても、確かに、リアリズムの立場が主張するように、相対的なパワーバランスも重要である、としています。しかし、重要な指摘があります。中国は1987年から2001年にかけて、世界の軍事力に占める割合を24%増加させました。しかしながら、予算レベルで見ると、1987年に6.7億米ドルであったものが、2001年には46億米ドルと、実に587%の上昇であり、中国の軍事予算の10%の増加によって、世界の軍事力に占める割合は、わずか0.41%しか上昇させることができないのです。軍事によって平和を保つという手段は非常にコスト高なのです。
C. 余談ですが、告白すれば、私がこうした考えを持つようになった原点は、2004年の東京大学 駒場祭で行われた、日本共産党の志位和夫委員長による「もう一つの世界」と題された講演
http://minseikomabahongo.web.fc2.com/kikaku/04shii.html
を聴いたことでした。当時は小泉政権下であり、まさに自衛隊のイラク派遣が大きな論争の的となっている時でした。私は「平和は大事だ、憲法9条を守るのは結構だ。だが、それでどうやって日本を防衛するのか?」という疑問も感じていましたが、「もう一つの世界」というタイトルに何か惹かれるものがあり、聴いてみたところ、大変に感激したことを覚えています。今から見れば、多少古臭い議論も含まれていますが、オーソドックスなリベラリズムをベースとして、アフリカ社会主義的な「アジア社会主義」とでも言うか、ある種の左翼ナショナリズムのフレーバーを加味したような主張に感じます。後に同党は、青空に映える富士山の写真を使い、「ストップ TPP この国を愛する政党です」というポスターを作りましたが、やはり、アフリカや南米諸国に見られるような、左翼ナショナリズム的思考がある政党なのだと感じました。
ちなみに、ネット上には、同党が中国共産党の手先であるかのようなソース不明のデマが蔓延していますが、同党がソ連共産党や中国共産党からのスパイによる干渉によって混乱させられ、分裂した(現在の同党は、親ソ連派、親中国派を徹底的に排除して出来上がった流れ)歴史を見れば、たとえ中国共産党との党としての外交関係を修復したとは言え、同党がそうやすやすと他国の共産党の干渉を受け入れるとは到底思えません。また、同党は歴史的にベトナム共産党と親しい関係にあり、現在の中国とベトナムの関係を考えれば、中国共産党との関係が良いとは考えられません。ただし、国会に議席を有する政党として、中国の外交や人権問題に対し、「内政干渉」にならないように、あまり面と向かって物を言えないというジレンマがあるのだと思います。
D. 「日本は戦争をしているわけではなく、実際に他国を侵略している中国やロシアなどの国の大使館の前で抗議すべきではないか」「中国のチベットやウイグルといった少数民族に対する人権侵害の方が問題ではないか」といった声があります。確かに、日本の左翼はもっと外国の人権問題に敏感になった方が良いと思います。世界の貧困解決も含めて、せっかく、日本が「人間の安全保障」という概念を外交の基軸として打ち出しているのですから、この点はもっと注目されてもよいと思います。
ただし、次のような例を考えてみましょう(ここでは、「良いこと」と「良くないこと」の判断は客観的にできるものと仮定します)。
Aさんが良くないことをしている。
Bさんが良くないことをしている。
ここで、私がBさんの友人だったとしましょう。そこでBさんに「それは良くないよ」と注意したとします。しかしBさんは「Aさんのやってることの方が悪いことだ。なぜAさんに注意しないんだ」と言ってきたとしましょう。しかし、これは「だからBさんに注意しなくてもよい」「私がBさんに注意をしたのは不当だ」という理屈になり得るでしょうか?
例えば、私は、個人的には、以下のように考えます。
・ 今日の核不拡散体制によって、一部の国にのみ核兵器の保有が認められることは不公平だ
→ 誤った主張: 日本も核兵器を持てるようにする。
→ 望ましい主張: 核無き世界を目指し、核保有国に核廃絶を呼びかける。
・ 第二次世界大戦中の日本の侵略行為と人権侵害(従軍慰安婦やアジア諸国の人々の虐殺等)について、アジア諸国から非難の声が挙がっている
→ 誤った主張: 日本だけではなく欧米列強など、他国もやってきたことではないか。戦時においては普通のことだ。なぜ日本だけ謝らなければならないのか。
→ 望ましい主張: 日本は過去の戦争中の人権侵害行為を謝罪し、欧米諸国にも過去の植民地主義・帝国主義の謝罪と清算を主張する(私は、米国のハワイ併合を謝罪したクリントン大統領、豪州のアボリジニの人々への人権侵害を謝罪したラッド首相、アイルランドのジャガイモ飢饉に対して、当時の英国(連合王国)政府の責任について謝罪したブレア首相、あるいは、旧ソ連による日本人のシベリア抑留を謝罪したロシアのエリツィン大統領など、これらの点においては共感します)。
・ 辺野古への新基地建設について、沖縄の人々から強い反対の声が挙がっている
→ 誤った主張: 一部の者のわがままを聞いていたら国防に影響が出る。中国の脅威が差し迫っている。チベットやウイグルの人々のように弾圧されたいのか?
→ 望ましい主張: 民主主義の原則に従って、沖縄の民意を尊重し、辺野古移設に関しては米国と改めて交渉する(現に海兵隊を置く場所が辺野古である必然性は無く、また、海兵隊は戦闘初期の「抑止力」にはならないのです)。中国の少数民族に対する人権侵害に対しても、国際機関や人権NGOなどを通して抗議し、改善を求める。それだけではなく、世界の人権問題に対して国際機関を通じて改善を働きかけてゆく(直接相手国に言うと「内政干渉」になりかねないので、慎重な外交戦略が求められます)。
3) についての補論
中国からの防衛として、シーレーンの話がよく出てきます。私自身、まだ不勉強ですので、この点についてはもう少し知識が必要だとは思いますが、以下のような指摘もあることを挙げておきましょう。
小西 誠「再び煽動される南西諸島への自衛隊増強=『シーレーン防衛論・海峡防衛論』の虚構を暴く!」
https://www.facebook.com/notes/makoto-konishi/%E5%86%8D%E3%81%B3%E7%85%BD%E5%8B%95%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E5%8D%97%E8%A5%BF%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E5%A2%97%E5%BC%B7%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3%E9%98%B2%E8%A1%9B%E8%AB%96%E6%B5%B7%E5%B3%A1%E9%98%B2%E8%A1%9B%E8%AB%96%E3%81%AE%E8%99%9A%E6%A7%8B%E3%82%92%E6%9A%B4%E3%81%8F/812886968787592?fref=nf
安原和雄の仏教経済塾「「生命線」・シーレーンの確保」
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/blog-entry-211.html
白砂青松のブログ「シーレーン防衛という幻想 (2)」
http://plaza.rakuten.co.jp/whitesand72/diary/200710260000/
つまり、「シーレーン防衛」という概念が、かつてのソ連に対する防衛戦略の焼き直しに過ぎないこと、また、世界的に経済が依存し合っている今日においては、現実的に不可能なこと(防衛する側も、権益を確保しようとする側も)だ、という指摘であると理解しています。
5) についての補論
時折、「今回の安保法制は国民の『多数派』の意見ではない」という理屈で反対の論陣を張る場合が見受けられます。民主主義において「多数決」は本質ではなく、議論による総意の形成、マイノリティの包摂であり、「多数派と異なるから認められない」という論法になるとすれば、自分たちが多数派となった場合にそのまま返ってくるものであり、このような論法を使う場合、使用する言葉には慎重になるべきと考えます。「マイノリティ」とは多数か少数かではなく、「放っておけば構造的に抑圧される側」と言っている方がいました。もし、逆に、少数に有利になるような政治であれば、それは寡頭政治であり、多数派は、本来の語句の意味からは外れるかもしれませんが「マイノリティ」として抑圧される側に回ってしまいます。したがって、数の多寡ではなく、なるべく意見が排除される人が少なくなるように、納得できるような妥協点を探るのが、民主主義において不可欠なのです。
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「イスラーム国」の日本人人質事件に対する、日本のイスラーム団体等の声明
今回、「イスラーム国」によって日本人二人が人質となるという事件がありました。この文章を書いている段階で、そのうちの一人、湯川遥菜さんが殺害されたのではないか、という情報もあります。
こうした「イスラーム」の名を騙ったテロ行為に対し、日本のイスラーム関係の諸団体からも非難・抗議の声明が出されています。「彼らはテロリストだ!」と一方的に非難するだけでは、彼らは私たちをますます「イスラーム」に対抗する「悪者」と見るでしょう。彼らは西洋的価値観とは対立する「イスラーム」の価値観に従っているつもりでも、それはイスラームではなく、イスラームはテロを許さないということを伝えるべきだと思います。
どうぞこのリンク集をSNS等で拡散し、人質の解放を呼びかけて頂きたいと思います。
This time, two Japanese men became hostages by "Islamic State". At the moment of writing this post, it is reported that one of them Mr. YUKAWA Haruna was killed.
Various Islamic organizations in Japan issued statements which protest against terrorism which is done pretending as if it is “Islam”. Just accusing saying “They are terrorist!” makes them think that we are “bad guys” against “Islam”. Even if they follow the value of “Islam” conflicting with the value of “Western world”, it is important to tell them the value they are following is not true Islam and that Islam never allows terrorism.
Please share this links using SNSs to request safe release of the hostages.
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【「イスラーム国」による日本人人質事件に関する声明 (Statements criticizing Japanese hostage crisis by “Islamic State” 】
<イスラミックセンタージャパン(Islamic Center Japan)Facebook>
“Islamic Center Japan Denounces ISIS’s Threatening To Kill Two Japanese Nationals” (English, Arabic)
https://www.facebook.com/islam.japan/posts/802359909836350
「イスラミックセンタージャパンは、2人の日本人の人質を殺害するというイスラム国の脅迫に対して、抗議します。」(Japanese; same contents as above)
https://www.facebook.com/islam.japan?fref=nf
<日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(Japan Visual Journalists Association, JVJA)>(※イスラーム団体ではありませんが、アラビア語、英語での声明も出しています。)
「IS( イスラム国) による日本人人質事件に対する声明 (Statement on IS (Islamic State) Japanese Hostage Incident)」(Japanese, Arabic, English)
http://www.jvja.net/JVJA_IS.htm
<東京ジャーミー&トルコ文化センター(Tokyo Camii & Turkish Culture Center)>
“JAPANESE HOSTAGE CRISIS” (English)
http://www.tokyocamii.org/news-notices/news/japan-hostage-crisis
<宗教法人 日本ムスリム協会(Japan Muslim Association)>
「『イスラーム国』人質事件に関する声明」(Japanese)
http://jmaweb.net/info/823518
<宗教法人 日本イスラム文化センター / マスジド大塚(Japan Islamic Trust)>
「イスラーム国における日本人人質事件について」(Japanese)
http://www.islam.or.jp/2015/01/23/20150123/
<日本アハマディア・ムスリム協会(Ahmadiyya Muslim Community Japan)>
「ISIS(イスラム国)による日本人人質事件に対する日本アハマディアムスリム協会の非難声明)」(Japanese)
http://www.ahmadiyya-islam.org/jp/ibento/2015/01/21/isisi/
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【イスラームとしてテロ一般を非難する声明 (Statements which denounce terrorism issued by Islamic organizations)】
<A Brief Illustrated Guide To Understanding Islam (イスラーム理解の図解付ガイド)>
“What Does Islam Say about Terrorism?” (English)
http://www.islam-guide.com/frm-ch3-11.htm
「イスラームにとってのテロリズム」(Japanese; same contents as above)
http://www.islam-guide.com/jp/frm-ch3-11.htm
<The Religion of Islam>
“Was Islam Spread by the Sword?” (English)
http://www.islamreligion.com/articles/677/
「イスラームは剣によって広められたのか」(Japanese; same contents as above)
http://www.islamreligion.com/jp/articles/677/
<東京ジャーミー&トルコ文化センター(Tokyo Camii & Turkish Culture Center)>
「イスラムはテロを認めていません。」(Japanese)
http://www.tokyocamii.org/ja/news-notices-ja/notices-ja/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%83%86%E3%83%AD%E3%82%92%E8%AA%8D%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%80%82
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【日本国 外務省によるメッセージ】
日本の200億ドルの支援は人道援助目的であり、軍事目的ではありません。
Japanese assistance of USD200 million to Middle East region is only for humanitarian aid including support for refugees in that area and absolutely not for military action.
Message from Japan regarding the incident on warning of Japanese nationals' execution (English)
http://www.mofa.go.jp/me_a/me2/page16e_000004.html
(Arabic)
http://www.mofa.go.jp/files/000065768.pdf
「邦人殺害予告事案に対する日本からのメッセージ」(Japanese)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/page16_000010.html
集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~第5部
8月23日
第5部 日本の取るべき「国際協調主義」―「国際貢献」と「集団的自衛権」は同値ではない―
<集団的自衛権を行使できないと、「国際貢献」していないことになるのか?>
日本が集団的自衛権を行使できないと、国際的に貢献していないかのような論調が時折見られます。
nippon.com 苅部直「『右傾化』のまぼろし――現代日本にみる国際主義と排外主義」
http://www.nippon.com/ja/in-depth/a03201/
確かに、上記の記事にあるように、集団的自衛権に関しては、これまでも長い論争があり、それを「右傾化」と安易に結びつけることはできないかもしれません。しかしながら、上記の記事は、「集団安全保障」と「集団的自衛権」を混同していると思われます。また、この記事で取り上げられている南原繁の質問を読んでみると、
歴史資料「南原繁と憲法九条」
http://yamushokey.com/modules/picoarchive/content0020.html
これは、「国連憲章は国家の自衛権を承認している。国連には兵力の組織がないので、必要な時、各加盟国はそれを提供する義務を負う。将来、日本が国連に加入を許された場合に、果たしてかかる権利と義務をどうするのか」ということであり、以下にあるように、日本国内の法規がそれを許さないから、それはできなくても仕方がない、と言う前提で日本は国連に受け入れられたようです。
日刊ゲンダイ「元参院議員・平野貞夫氏『見るに堪えない集団的自衛権議論』」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/150627
(4ページ目以降)
苅部氏の記事にある「憲法が前文で掲げる『いづれの国家も、自国のことにのみ専念して他国を無視してはならない』という国際協調主義の原則を貫くならば、集団安全保障の実行に日本も加わることができるようにしなくてはいけないという主張」というのは、苅部氏による解釈でしょう。
文部省「あたらしい憲法のはなし」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html
の「三 國際平和主義」の項目を読むと、この憲法前文に書かれた「国際協調主義」は、国内において、人権どうしが衝突した時に、それを調整するための「公共の福祉」に相当するものである、と読むことができるでしょう。個人と、「擬制」としての国家を安易に混同しようとするものではありませんが、「あなたは『公共の福祉』のために、自らの身体が危険にさらされることを顧みず、他人の喧嘩の仲裁に入らなければならない」と、憲法は要請するでしょうか(もちろん、喧嘩を防ぐことは大事ですが、これが義務化されるとすれば、それは「公共の福祉」の「一元的外在制約説」と同じく、何らかの超越的価値を認めることになりはしないでしょうか)?
一方、集団的自衛権を認めないと、日本は本当に国際的に貢献したことにはならないのでしょうか(もちろん、集団安全保障にかかわる部隊の多くが途上国から出ていることに対して、「先進国と途上国の命の重さが違うのか」という批判があるかもしれません。しかし、貧困にあえぎ、教育や保健・医療が十分でない(つまり、そのために戦闘以外の原因での死亡率が高い)途上国において貴重な外貨獲得の手段になっているならば、その仕事を先進国が代わりにやることが本当に公平なのか、と言われれば、そうとは言い切れないでしょう)。そのような論調は、これまでの日本のODAをはじめとした途上国援助、そして国連に多額の資金を供給している日本の多面的役割を過小評価するものなのではないか、と思います。人の命を守る手段はただ一つではありません。空虚な議論によって集団的自衛権を行使できるようにしておくことが「国際貢献」なのならば、例えば、エボラ出血熱に苦しむ患者、地域コミュニティのために直ちに支援を行うことの方が、よほど地に足の着いた「国際貢献」ではないでしょうか?
戦後の日本の「悲劇」は、日本国憲法第9条を持つことによって、個別的自衛のための必要最低限度の実力以上の軍隊を持てなかったがゆえに「国際貢献」できなかったことではなく、日本の国連加盟に際し、重光葵外相が「日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります」と演説したこととは裏腹に、東西冷戦の荒波の中で、日本国憲法 第9条の非戦の理想、前文の国際協調主義の理想、またその他の条文の人権擁護の理想を世界に広めるためのイニシアティヴを取ることができなかったことではないか、そう私は考えるのです。ただ、遅まきながら、日本が「人間の安全保障」を外交の軸に据えていることに、私は将来への期待を抱いています。
外務省 分野別開発政策「人間の安全保障」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/index.html
<「安全保障」、「国際貢献」と「武力」の関係 ―日本にしかできない「国際貢献」をしなくてどうする―>
「安全保障」とは「人間の安全保障」の概念にも表れている通り、必ずしも武力を伴うものではありません(それこそ、吉田茂首相の時代には「武力無き自衛権」という概念が人口に膾炙していたのです)。例えば、国際保健は、19世紀は植民地支配のための「熱帯医学」、20世紀は博愛主義に基づく援助でしたが、21世紀においては、国境を越えて広がる感染症や、途上国の安定に関わる問題として、「安全保障」の問題である、という認識が広まりつつあります。そして、日本はその強みを生かすことができるのです。
渋谷健司「グローバルヘルスが日本を強くする――日本人の多くがまだ気がついていない国家戦略 」
http://synodos.jp/welfare/6770
日本は、これまでも国際保健分野において、世界の潮流に対して重要なイニシアティヴを取ってきました(しかし、必ずしも国民に広く知られているとは言えないかもしれません)。
Wikipedia 「国際保健」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BF%9D%E5%81%A5
(「日本とグローバル・ヘルス」の項目を参照)
また、2010年には、当時の岡田克也外務大臣が世界的な医学誌 “The Lancet” に、日本の母子保健支援政策(”Ensure Mothers and Babies Regular Access to Care (EMBRACE)” policy)について寄稿し(おそらく、ドラフトしたのは外務省と専門家の人でしょうが)、日本の国際保健、途上国援助政策を専門家に対してアピールする重要な機会を得ました。
Katsuya Okada “Japan’s new global health policy: 2011–2015” (“The Lancet” Vol 376 September 18, 2010)
http://www.mofa.go.jp/policy/oda/sector/health/pdfs/Lancet_1009.pdf
日本語訳
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/health/pdfs/lancet_1009_j.pdf
また、2008年、TICAD IVにおいて当時の福田康夫総理はアフリカでのコメの生産倍増計画や「水の防衛隊」などの戦略を打ち出し、国際社会(「国際社会」とは、米・中・韓・北朝鮮、それから一部の先進国だけを指すのではありません)に日本の存在感を示しました。
AFP BBNews「アフリカでのコメ生産高を今後10年で倍増へ、福田首相が「TICAD IV」で演説」
http://www.afpbb.com/articles/-/2397179?pid=2973671
JICA「プレスリリース アフリカへの『水の防衛隊』本格始動!!」
http://www.jica.go.jp/press/2008/20081105_01.html
これらの戦略は、とりもなおさず「日本の安全保障」の一環である、という視点があります。
このように、安全保障、国際貢献は必ずしも武力だけによるものではありません。国際保健然り、経済開発などの援助然り、国連の分担金拠出もまた、国際社会に日本の信頼を繋ぎ止める重要な要素だと思います。現に、中国は、「中国や北朝鮮は本当に『脅威』なのか?」に書いたように、途上国への支援を強化することによって、国際社会における自国の存立基盤を、より強固にしようとしているではありませんか。また、Paul Collier と Anke Hoefflerの研究によれば、援助によって経済発展を促すことにより、間接的に紛争リスクを低下させることができます。これが直ちに日本に直接的に影響を及ぼすわけではないと思いますが、こうした「紛争の芽」を摘むことは、国際社会の安定化にとって重要でしょう。
Paul Collier & Anke Hoeffler “AID, Policy and Peace: Reducing the risks of civil conflict” Defence and Peace Economics Volume 13, Issue 6, 2002
http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10242690214335#.VJZftarCB
ちょうど、ヴェン図を描けば、安全保障、国際貢献、武力行使はそれぞれ別の集合で、そのごく一部が「交わり(積集合)」を作っているに過ぎません。日本はこうしたソフト・パワーでの「国際貢献」が十分できるし、しなければならない責任があるし、そのために集団的自衛権は必要ではないし、紛争抑止に有効でもない、と考えています。
長文、最後までお読み頂き、有り難うございました。
集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~第4部
8月23日
第4部 「解釈改憲」という手続きの瑕疵
<日本国憲法と判例の解釈における誤解・曲解>
これまでの政府解釈では、憲法9条は戦力の不保持を定めたものだが、憲法13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という規定などから、もし他国から侵略された場合であっても、国は国民を保護する義務があるため、「戦力」にはあたらない必要最小限度の自衛のための実力組織(つまり、現在の自衛隊)を持つことは合憲である、しかし、それ以上の事はできない、という解釈を取ってきました。
木村草太の力戦憲法 「法解釈とはどういう作業なのだろうか?」
http://blog.goo.ne.jp/kimkimlr/e/3fe5800d57e211c9a472b37d2c5e3d96
朝日新聞 「(集団的自衛権 行方を問う)解釈改憲には訴訟リスク 憲法学者・木村草太氏」
http://www.asahi.com/articles/DA3S11177550.html
一方で、日本国憲法が集団的自衛権を認めているとする解釈を導き出すために、その立場を取る人々によって「砂川事件」の最高裁判決がたびたび引用されてきました。私から見れば、なぜ、集団的自衛権を認めたものではない(本判決は、日米安保条約に基づく在日駐留米軍が、憲法が保持を禁じている「戦力」にあたらない、ということを言おうとしている)この判決をわざわざ引用しようとするのか、理解に苦しみます。
南野森「現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/minaminoshigeru/20140307-00033318/
参考までに、これ以外にも、南野氏の論考は参考になるものがあります。
南野森の南野的憲政論評室
http://bylines.news.yahoo.co.jp/minaminoshigeru/
もしかしたら、砂川事件の判決文
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf
における「今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係がある」という文言に集団的自衛権の概念を読み込もうとしたのかもしれませんが(例えば、中谷元氏など)、これは、裁判官全員一致の判決理由ではなく、田中耕太郎裁判官の「補足意見」に書かれているにすぎません。英米法体系とは異なる日本の裁判の判決文において「傍論」が判例としての拘束力を持つかどうかについては、肯定する立場と否定する立場があるようですが、「傍論」を分けて考えることを認めない園部逸夫氏の論でも「最高裁判所の判決では、私の経験では、傍論的意見は裁判官の個別意見か調査官解説に譲るのが原則である。」と述べているほどで、
(参考)
Wikipedia 園部逸夫 (「2001年の論文」の項目参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E9%83%A8%E9%80%B8%E5%A4%AB
この「補足意見」は、明らかに、裁判官全員が本件判決の主文を導くにあたって用いた論ではありません。もし、この田中耕太郎裁判官の「傍論」にも拘束力を認めるのならば、小谷勝重裁判官、奥野健一裁判官、高橋潔裁判官の「意見」(「統治行為論」を少なくとも一部は否定し、判決理由については多数意見に反対している)も、同様の拘束力を持つと考えなければならなくなり、判決の解釈に混乱をきたしてしまいます。更に、2008年、名古屋高等裁判所は、航空自衛隊がバグダッドで行った空輸活動を違憲とする判断を下し、その後これが確定審となりましたが、政府は、この判決文における、自衛隊の活動の違憲性を認めた部分については「傍論」であるとして、これに従う必要は無い、という立場を示しています。
名古屋高裁イラク派兵違憲判決確定に対する政府の見解に関する質問に対する答弁書
(答弁書第一四一号)
http://www.mod.go.jp/j/presiding/touben/169kai/san/tou141.html
つまり「傍論」の判例としての拘束力を考えるにあたって、政府は自らの立場に都合の良い解釈をしてしまっている、と言われても仕方がないかもしれません。
<法解釈の整合性、その「知の蓄積」が気に入らなければ、改正するしかない>
もし、集団的自衛権を認めたいのであれば、きちんと憲法を改正すべきであり、条文の解釈のみを変更するというのはあまりにも無理があり過ぎます。
今回の閣議決定が「解釈改憲」でない、と内閣官房の「一問一答」ではしきりに弁明していますが、全体に非常に苦しい弁解に終始しており、むしろ自ら墓穴を掘っているとしか思えないのは私だけでしょうか?読んでいて痛々しくすら感じました。
「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/anzenhoshouhousei.html
小林節氏は改憲派として知られていますが、こうした「解釈改憲」には強く反対しています。
神奈川新聞「集団的自衛権を考える(8)許されない「憲法泥棒」 慶応大・小林節名誉教授」
http://www.kanaloco.jp/article/71855/cms_id/82565
これまでの政府の憲法解釈を、安保法制懇の北岡伸一座長代理は「知的アクロバット」と表現しました。
「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」第7回会合
柳井座長及び北岡座長代理による記者ブリーフィング要旨
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai7/yousi.pdf
(追記)
この文中で柳井座長が「吉田茂総理の時には、自衛権は、自衛のための戦力も、自衛権も全部放棄した」と発言していますが、吉田茂総理は「自衛権自体は放棄していないが、自衛権の行使としての戦争は放棄した」(いわゆる「武力無き自衛権」論)と言うのが正確です。吉田総理の国会答弁を見てみると、国連憲章の集団安全保障の考え方と非常によく呼応していることが読み取れます。また、当時の議員と吉田総理とのやり取りには、「これまで人類はズルズルと現実に流されるがままにやってきた、しかし、それでは人類は進歩しない。法の支配と国際協調主義によって平和を保とう、そのためにも、現実に流されるのではなく、日本が先駆けて平和国家の名乗りを上げることが大事なのだ」という意気込みが感じられいます。一方の安保法制懇の議論はどうでしょうか?
(参考)
深沢明人「憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している」
http://blogos.com/article/88961/
おそらく、自衛隊は「戦力」ではない、自衛隊の部隊行動基準は「交戦規定」ではない、といった解釈を揶揄しているのでしょう。しかしながら、吉田茂が「近年ノ戦争ハ多ク国家防衛権ノ名ニ於テ行ハレタルコトハ顕著ナル事実デアリマス」と言ったことをご存じの方も多いかもしれませんが、私が思うに、戦後における政府の日本国憲法解釈は、こうした「自衛」戦争が多発する世界において、本当の意味での、許されるべき「自衛」とはどこまでの範囲なのか、ということを真摯に追及してきた結果なのではないでしょうか。それでも憲法・法律が現実にそぐわないのであれば、それを改正するのが筋であり、先人たちが積み上げた法解釈の一貫性を「知的アクロバット」などと揶揄するのは反知性主義とも取られかねない発言だと私は思っています(北岡先生ゆかりの方々からは嫌われてしまうかもしれませんが笑)。私はこのように考えます。その「自衛」の範囲をできるだけ広げる解釈変更を戦後の政府が行ってきたものの、それは法解釈の整合性の範囲内であるが、今回の集団的自衛権を認める閣議決定は、「どうやっても越えられない解釈の一線」を越えるものである、と。
これまで「専守防衛」の任務に就いていると思っていた自衛隊の方にとっても、集団的自衛権が認められることになれば「そりゃ、話が違うよ!」ということになるでしょう。
泥 憲和 「街頭にて」
https://www.facebook.com/norikadzu.doro/posts/331946086956229
<政府は法解釈の整合性を超越して「時流に合った」憲法解釈を独占的に行うことができるのか?>
自民党の野田聖子総務会長は会見で「憲法改正が筋という意見が多かった。しかし、憲法改正を待っていたら、結果としてやれない」と言ったそうですが(Twitterなどからの情報)、これは「自分たちが国民に先駆けて正しいことをしている」という「哲人政治」を気取った、民主主義と近代立憲主義の否定であるだけでなく、(「法の支配」とは異なる)「法治主義」すら否定するものであり、受け入れがたいものです。もし、本当に、国民の間に「集団的自衛権は必要」という認識が共有されているのであれば、きちんと憲法に定められている手続きによって改正できるはずです。例え、民主主義が「衆愚政治」になろうとも、国民が自ら選択を行い、その結果の責任を国民が自ら引き受ける、という一貫性に、例えば「国益」という抽象的で定義が不明確な言葉を持ち出して、政府(統治能力を持つ側)が無用なパターナリズムを持ち込んではいけないのです。政府は国民の代理人として、選挙公約によって認められた政策(力点の置き方、バランスも含む)を進めなければなりません。
また、民主主義の手続きには十分な話し合いとマイノリティの人権保護を常に意識せねばならず、単純な多数決ではない、ということは今一度確認しておく必要があるでしょう。「多数派による独裁」は、民主主義とは呼べないものなのです(仮に「集団的自衛権は認めるべきでない」という意見が多数派で、「集団的自衛権を認めるべきである」という意見が少数派であったとしても、手続きは同じです)。
About the USA「民主主義の原則 多数決の原理と少数派の権利」
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-principles2.html
あやめ法律事務所「民主主義と立憲主義のはなし」
http://www.ayame-law.jp/article/14288064.html
<どんなに民主的に選ばれた政府でも常に国民と法によって監視されなければならない>
こうした状況に対し、「そうは言っても、国民が選んだ政府だ。政府を信用すべきだ」とか、「国民が選んだ政府なのだから、いざという時に、国民を守るための適切な判断をしてくれる」という反論があるかもしれません。しかし、本当に政府というものは信頼できるものなのでしょうか?
経済学には「プリンシパル=エージェント理論」と呼ばれる、プリンシパル(依頼人)とエージェント(代理人)との関係に関する理論があります。
Wikipedia 「プリンシパル=エージェント理論」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%91%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E7%90%86%E8%AB%96
もし、プリンシパルたる国民が、エージェントたる政府の役割を完全に観察・立証することができないならば、エージェントは国民が望んでいない政策を実行しようとする、あるいはそこまでいかなくても、国民が望んでいる政策に関してはサボり、国民がそれほど望んでいないにも拘らず、自己の関心の高い政策に力点を置くようになる「エージェンシー・スラック」が起きる可能性がありますし、仮にインセンティヴ契約が結ばれたとしても(現実に国民が政府に対して行うのは難しい)、エージェンシーの側がリスクを引き受けなくて良いのであれば、よりハイリスク・ハイリターンな行動(例:戦争)を取る「モラル・ハザード」が起きる可能性があります(注:ここでは経済学用語として使っており、単純に「倫理観の欠如」というような意味での「モラル・ハザード」は本来の用語の意味からすると誤用)。
Wikipedia 「モラル・ハザード」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89
確かに、政府は国民の代表ではあるものの、全く同一の主体でない以上、政府のモラル・ハザードが全く起こらないという保証は無いでしょう。政府の行動に対し、憲法・法律によって明確な枠組みを作る(モラル・ハザードが起きた場合の懲罰が働くならば、インセンティヴ契約の一形態と言えるかもしれません)、常に国民が政府の行動を監視し、必要とあらば他の政府に替えることも時には必要かもしれません。
日本国憲法第12条に「この憲法が國民に保障する自由及び權利は、國民の不斷の努力によつて、これを保持しなければならない。」とあります。ただ、憲法というものが、政府に対して課せられた縛りであり、国民に対して課せられたものでないと解釈すれば、憲法学会の通説がどういうものか分かりませんが、国民はこの「自由及び権利」を守る権利を有し、政府はその働きかけを受け入れる義務を有する、と解釈できるかもしれません。
集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~第3部
2014年8月23日
第3部 今回の集団的自衛権規定・武力行使要件の曖昧さ ―集団的自衛権は個別的自衛権とは根本的に異なるがゆえに歯止めがききにくい―
<要旨―集団的自衛権の「限定容認」における「限定」は曖昧―>
次の段落から、今回、集団的自衛権の行使が「限定」容認されたことが、「限定」にはなり得ていないことを述べようと思いますが、長いので、時間の無い方は、とりあえず以下の記事を読まれると良いと思います。私自身の考え方は、必ずしも100%同じではありませんが、岡田氏に近いと思うからです。
Diamond Online「濫用されやすい集団的自衛権 抽象的な「限定論」では認められない――衆議院議員 岡田克也元外務大臣に聞く」
http://diamond.jp/articles/-/54932
<集団的自衛権の「新3要件」は個別的自衛権の3要件とは根本的に異なる>
集団的自衛権の行使にあたっては、これまでの、個別的自衛権の3要件(国際法上の通説と言っても良い「ウェブスター見解」と合致)がありましたが、これが「武力行使3要件(新3要件)」に替えられることとなります。
極東ブログ「集団的自衛権・閣議決定、雑感」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/07/post-c440.html
に手際よくその違いがまとめられています。
しかしながら、これまでは「わが国」(日本)に対する攻撃という誰が見ても明らかな基準から大きく脱し、「密接な関係にある他国」という文言が加えられました。私が思うに、まさにここが解釈に恣意性を与える重要な点、個別的自衛権と集団的自衛権の本質的な違いです。特に左派系メディアが今回の閣議決定を問題視していますが、そのほとんどはこの点に由来する問題と言っても過言ではないでしょう。
しんぶん赤旗
「無限定の武力行使変わらず 自民・座長が修正案 集団安保に抜け道 公明は調整へ」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-06-25/2014062501_02_1.html
弁護士深草徹の徒然日記「『集団的自衛権の行使を容認する閣議決定』を読み解く」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-date-201407.html
同 「注釈:集団的自衛権などに関する想定問答」
http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-date-201406.html
東京新聞「戦争の歯止め、あいまい 集団的自衛権 安倍内閣が決定」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014070202000101.html
(リンク切れ)
安倍総理は「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことはこれからも決してありません。」と言いますが、仮に安倍総理がそのように思っていても、後の国の指導者が「世界情勢が変わったから、この要件の解釈も変更する」と、まさに今回の閣議決定と同じ論理で(「我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから」という文言など)言ってしまう可能性を排除できないのです。つまり、最悪の場合、集団的自衛権に反対する人々の「日本を『殺し、殺される国』にするな」という主張は、あながち飛躍した感情論ではなく、ここから導き出され得る一つの帰結です。法律・制度というものは、「自分でない人が判断しても、同じような結論が導き出されるか」ということを常に意識して制定や解釈の共有をしていかなければなりません。
<集団的自衛権とその他の有事法制が組み合わされると拡大解釈に歯止めがかからなくなる>
最初の段で「集団的自衛権」は「集団安全保障」が機能するまでの例外的措置として認められている、と述べました。もし仮に、日本に対して武力攻撃があり、安保理決議に基づく集団安全保障が機能した場合、「自衛権」は停止するのが国連憲章の原則です(下記の記事の例えで言えば「強盗に襲われた人が殴りかえすことが許されても、警官が駆けつけて強盗を取り押さえにかかったら、警官にまかせるのと同じ」)。ところが、政府が民主党の大野元裕参議院議員の質問に対する答弁書では、安保理決議に基づく「集団安全保障」が発動されても、引き続き自衛のための武力行使が可能かどうかについては、ケース・バイ・ケースであり、そのために、集団安全保障が発動されても、(少なくとも、日本への直接攻撃に対する個別的自衛権の場合については)引き続き武力行使が可能である、と回答しました。また、この答弁書は集団的自衛権を容認する閣議決定の前に閣議決定されたものであり、集団的自衛権を容認することを前提に答えることはできない、として、集団的自衛権との関わりについては回答を避けています。
第186回国会(常会) 質問主意書 質問第一七五号「自衛権と集団安全保障の関係に関する質問主意書」
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/186/syuh/s186175.htm
答弁書 答弁書第一七五号
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/186/touh/t186175.htm
毎日新聞「政府:集団安保、答弁書で容認…日本へ攻撃時」
http://mainichi.jp/select/news/20140628k0000m010102000c.html
(リンク切れ)
一方、産経新聞は
MSN産経ニュース「政府答弁書が波紋 集団安全保障下での日本の防衛は許されない?」
http://www.sankei.com/politics/news/140701/plt1407010001-n1.html
において、毎日新聞を批判していますが、これは下記の赤旗記事中にある「(1)と(2)を合わせると」という視点を見落としており、集団的自衛権を発動した場合に、この答弁書が示す基準が実際にどのような行動選択につながる可能性があるのか、個別的自衛権の場合とは異なることを説明できていません。
しんぶん赤旗「他国への武力攻撃排除が『専守防衛』?『言葉遊び』必ず破たん 想定問答集」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-06-30/2014063002_02_1.html
もし仮に、日本(または日本と密接な関係にある他国)に対して武力攻撃があり、安保理決議に基づく集団安全保障が発動された場合、「自衛権」は停止するのが国連憲章の原則であると述べましたが、日本がその「集団安全保障」の一員として日本の防衛にあたることは(日本国憲法上認められるかどうかは別として)国連憲章上は認められると考えられます。もちろん、そのような場合には現実には日本が他国の集団安全保障において武力行使はできない、という現在の憲法解釈と矛盾してしまうため、このようなダブル・スタンダードを考えざるを得なかったのだろうと思います(特に、個別的自衛権の場合、日本国憲法・国際法上の大きな問題だと思うのですが、これに対して明快な解答を見つけることはできませんでした)。確かに、こうした場合、「日本はどのような法的根拠に基づいてその武力を行使しているのか」が問題となり、「有事だから」という理由で超法規的措置を野放図に認めることはできないため、何らかのガイドラインは必要でしょう。しかし、集団的自衛権が「自衛」である、とし、集団安全保障が発動されても、他国においてその「自衛」の措置を継続できることになってしまう、つまり、国連安保理の決定に左右されることなく、「日本と密接な関係にある他国」とそれを攻撃した国への戦争に常に介入できることになってしまいます。この二つ閣議決定の文書は、意図してか意図せざるものか分かりませんが、そのような結論を導き出せてしまう余地を残してしまったのです。
一方、集団安全保障に関しては今回の閣議決定では触れられていませんが、新たな武力行使要件は(集団安全保障の一環である)従来の
外務省「国連平和維持隊への参加にあたっての基本方針(いわゆるPKO参加5原則)」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/pko_sanka.html
とは全く目的・性格を異にするものであり、日本のPKO活動にが直ちに変質するものではないと思いますが、前段で引用した「集団的自衛権と自衛隊(その2)柳澤協二さん×伊勢崎賢治さん 対談レポート」にあるような軍事力を行使しない国連の平和維持活動に影響が出る可能性があります。
直接的な関係はありませんが、参考までに
伊勢崎賢治の15歳からの国際平和学「番外編:緊急インタビュー(その2)日本の特性を活かした国際協力の『オプション』とは?」
http://www.magazine9.jp/isezaki/071017/071017.php
(2007年 当時、民主党の代表であった小沢一郎氏が、アフガニスタンで展開するISAF(国際治安支援部隊)への参加は、国連軍への参加であり、違憲ではない、としたことについて、現場においても軍隊派遣の法的根拠は重要であり、ISAFの法的根拠からこれはできない、と批判する文章です)
一方、憲法の解釈だけでなく、関連する法律の整備にあたって、以下のような検討がされていると報じられました。
毎日新聞 「<集団的自衛権>「危険切迫」で行使可能 武力事態法改正へ」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140712-00000012-mai-pol
(リンク切れ)
記事にある通り、「同法は武力行使を「(外国からの)攻撃が発生した」場合に限定して認めていますが、「攻撃が発生する明白な危険が切迫している」場合でも武力行使を可能とする」改正が検討されています。「攻撃が発生する明白な危険」という文言はそのままでは曖昧で拡大解釈の余地を残しかねないのですが、
リアリズムと防衛を学ぶ(移転済)「日本国憲法は意外と先制攻撃を認めている」
http://www.riabou.net/entry/20090601/1243840974
に書かれている類型化にしたがって言うならば、さすがに「予防攻撃」まで認めることはあり得ないでしょうが、「『武力攻撃の目的をもつ軍事行動が開始された場合』には自衛権の発動が可能という解釈」(先制的自衛)まで含まれる可能性が出てきます。これが集団的自衛権を発動する場合にも認めるということは、もしかしたら北朝鮮から米国に向かってミサイルが発射されようとしている(「されようとしている」という点が重要)状況を想定しているのかもしれませんが、これを「先制的自衛」によって攻撃できることになってしまい、ICJが示した集団的自衛権の発動要件との間に齟齬をきたしてしまいますし、そもそも「予防攻撃」と「先制的自衛」との区別は実際には難しく、濫用の危険があることは注意せねばなりません。ましてや、日本ではない他国に攻撃を行うとなると、判断は難しく、返って状況の悪化と混乱を招くことにもなりかねません。
清水隆雄「国際法と先制的自衛」(『レファレンス』2004年4月号)
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200404_639/063902.pdf
仮に百歩譲って、集団的自衛権が戦争を抑止する効果があるとしても、その副作用は極めて大きいものです。抗生物質が無かった時代に梅毒治療のために患者を一旦マラリアに感染させて高熱を出させて梅毒トレポネーマを死滅させ、その後、キニーネでマラリアを治療するという方法や、精神疾患の治療のために脳に外科的手術を行うロボトミーのように、確かにある症状は治療できても、それを上回る重大な副作用(死亡したり、脳に大きな障害が残ったりしてしまう)がある治療を恒久的に認めるべきではないでしょう。私は、集団的自衛権にはそのような面があると思っています。

