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2016年7月10日 参議院議員選挙、自分の思想の源流 ~なぜ私は野党を支持するのか?~

明日、7月10日は参議院議員選挙です。もちろん、各自の考えのもと、投票して頂きたいのですが、私個人の思いとしては、野党候補、比例も野党に投票して頂きたいと思うのです。細かくは論じませんが、どうして私がそう感じるのか、という背景的な話を書きたいと思います。

 

 

<人類の答え>

 

 

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ。NHKニュースは最初「世界貿易センタービルで火災が発生している模様です」と伝えていた。しかし、それが航空機の突撃によるテロであることが明らかになり、世界に衝撃が走った。アフガニスタンで、いうなれば「報復」としての戦争が行われ、そして、イラクも大量破壊兵器を隠し持っているとされ、米国は2003年にイラクへと侵攻した。この直前、国安保理ではイラクへの武力攻撃の是非について侃々諤々の討論が行われた。深夜のNHKでの安保理の中継を、固唾を飲んで見入っていたことを覚えている。フランスのド・ヴィルパン外相の演説、そして「古いヨーロッパ」という言葉が話題となった。

 

フランスの日々
国連安全保障理事会:ヴィルパン外相の演説
http://www.francedays.info/2008/04/httpwww.html

 

 

「国連という殿堂において、我々は理想と良心の守護者である。我々の担う重い責任と多大な名誉が、我々に平和的な武装解除を優先させるはずである。」

 

 

折しも、英国ではイラク戦争の誤りを検証した報告書が出たばかりだ(ちなみに日本政府はイラク戦争を支持した誤りを認めていない)。

 

イギリスは、なぜ間違えたのか。調査報告書が審判した「根拠なきイラク戦争」 ハフィントン・ポスト
http://www.huffingtonpost.jp/2016/07/07/chilcot-inquiry_n_10850596.html

 

当時、私は世界がどんどん誤った方向に進んでいくことに危機感を持っていた。一方、テレビをつければ、アフガニスタンの現場をよく知っているであろう、ペシャワル会の中村哲医師がターリバーンを「田舎の国粋主義者」と捉えていたのに対し、自民党の議員は「ターリバーンは山賊みたいな奴ら。彼らを排除しない限り、アフガンに平和は訪れない!」と声高に主張していた。そういう、世の中を「善」と「悪」に切り分け、一方の価値観を押し付ける姿勢に疑問を感じ、当時、仏教や禅にはまっていた私は、これは現在の世界において、二項対立を超えた「スピリチュアリティ」が欠けているからではないか、と思っていた。

 

 

しかし、その後、国連英検を受ける機会があり、指定テキストで勉強して驚いた。

 

 

わかりやすい国連の活動と世界―国連英検指定テキスト
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E5%9B%BD%E9%80%A3%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C%E2%80%95%E5%9B%BD%E9%80%A3%E8%8B%B1%E6%A4%9C%E6%8C%87%E5%AE%9A%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E5%8D%94%E4%BC%9A/dp/4384039123

 

 

コフィー・アナン事務総長が国連のノーベル平和賞受賞を受けて行ったスピーチが冒頭に掲載されていた。

 

The Nobel Peace Prize 2001 United Nations , Kofi Annan Nobel Lecture
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/2001/annan-lecture.html

 

(日本語訳)コフィー・アナン国連事務総長 ノーベル平和賞受賞講演
http://www.unic.or.jp/news_press/messages_speeches/sg/1254/
(余談だが、私はこれを読んで、初めて「シエラレオネ」という国を知った。)

 

 

国連の理念や仕組みを勉強し、国連が世界の紛争防止、貧困の削減などに取り組んでいること、国連が掲げる「自由」や「人権」が決して武力による押し付けではないこと、などを知った。僕は拍子抜けしてしまった。なーんだ、人類は既にちゃんと答えを用意しているじゃないか!

 

 

小学5年生だったか、6年生だったか、社会科の授業で使うために日本国憲法に関する本を探していた時のこと。家に「小六法」だったか「地方自治小六法」だったかがあり(なんでこんなものが田舎の床屋の家にあったのか分からない)、日本国憲法前文を読み、その理想主義的で格調高い文章に新鮮な感動を覚え、何度も読み返したことも思い出した。

 

 

民進党が作った、ただ日本国憲法前文を読むだけの動画
https://www.youtube.com/watch?v=imDhsRATsa8&feature=youtu.be

 

 

には多様な人が登場する(僕としては、もっと多様な年代、多様な障碍、多様なジェンダー、セクシュアリティの人が登場してもよいと思ったが)。

 


この憲法前文の価値観は、1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」ともよく呼応している。
http://www.ohchr.org/EN/UDHR/Pages/Language.aspx?LangID=jpn

 

法規範が現実に合わないから法規範を変える、という話を聞く(私は決して合っていないとは思わないが)。しかし、我々の先達が目指した社会に近付けていないのならば、その先達が遺した法規範に、現実の方を近付ける努力を我々はしているだろうか?(ここでは各論には立ち入らないが、各論については、拙ブログの「社会」のカテゴリ http://ameblo.jp/mot82yn/theme-10035688370.html を参照頂きたい)

 

 

 

<困窮する暮らし、病気は自己責任?>

 

 


ジョン・ロールズは正義の原理を考えるにあたって「無知のヴェール」という思考実験を行った。これは不自然であるという批判もある。しかし、自分が受精卵だった時のことを考えてみよう。自分が日本に生まれるか、南アジアでダリットとして生まれるか、あるいは、アフリカの僻地で生まれて間もなく、マラリアで死ぬであろう子供として生まれるか、受精卵には分からないし、自分がその受精卵として命を宿すこともあり得るのだ。どのような障碍を持って生まれるか、どのようなセクシュアリティ、ジェンダーアイデンティティを持って生まれるか、受精卵には分からない。

 

国際社会を見渡せば、紛争の防止、貧困の削減、健康の増進などが重要だ(うまくいっているかどうかは別として、人類はすでに、ミレニアム開発目標、そして持続可能な開発目標という「答えの方向性」は既に分かっているはずだ)。ただ、今日は、テロにどう対処するのかという難しい問題も抱えていることは事実だ(先日のバングラデシュのテロ事件はよく知っている場所だけに僕自身もショックだったし、その後のイラク、サウジアラビアと続いたテロにも気分が落ち込んでいる。オーランドの銃乱射事件でもそうだったかもしれないが、もしかしたら、バングラデシュの裕福な高学歴のテロ犯も何らかの疎外感、不満を持っていたのかもしれない。だが、それは分からないからここで論評するのは控えよう。少なくとも、銃を含む武器が簡単に入手できないよう遮断することが、今のところ政治がし得る効果的な対策だろう)。

 

 

日本国内に目を転ずれば、東洋経済オンラインの鈴木大介氏の一連のルポタージュが書くように
http://toyokeizai.net/search?fulltext=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E4%BB%8B&category%5B%5D=TK%3E%E8%A8%98%E4%BA%8B&category%5B%5D=TK%3E%E5%A4%96%E5%A0%B1&_category%5B%5D=TK%3E%E8%A8%98%E4%BA%8B%3E%E5%8B%95%E7%94%BB&_catecode%5B%5D=hr

 

 

「エリート」と言わなくとも、中流だと自認する人にも想像がつかないような貧困の現実がある。困窮する生活は「自己責任」などという言葉では片づけられないはずだ。

 

 

一方、健康についてはどうだろうか?1998年にWHOは The Solid Facts という報告書を出した。

 

 

参考
LGBTと健康――あなたのことも生きづらくする、ありふれた7つのこと
清水真央、山下奈緒子 / medicolor共同代表 ~SYNODOS
http://synodos.jp/welfare/10242

 

 

貧困、差別、ライフスタイルなどが人々の健康に影響を及ぼしているということを統計的に実証している内容だ。

 

 

「健康の社会的決定要因」のWikipediaページには「どうしてジャクソンは病院にいるの?」という逸話が掲載されている(元のカナダの公衆衛生機関の原文では「ジェイソン」だが、訳ではなぜか「ジャクソン」になっている)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%9A%84%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E8%A6%81%E5%9B%A0#cite_note-12

 

 

これはあくまでも寓話であり、現実社会では因果関係の論理はそれほど明らかではないかもしれないが、健康の社会的決定要因に関する統計的エビデンスはこれまで、様々な状況において、十分過ぎるくらいに出ている。そして、これらを解決するのは政治だ(市場メカニズムでは解決できない「外部性」をケアすることが、政府が存在する理由の経済学的説明だ)。もちろん、民間のコミュニティが共助として支えとなるとういのは素晴らしい。しかし、それに「丸投げ」するのは政治の責任の放棄だ。

 

 

Twitterでは、京都の共産党候補陣営が作成した「それって政治です」というイラストが流れている(もっと広められてもよいと思うのだが……)
https://twitter.com/pfd1212/status/748412983726874625

 

 

これらを政治に要求することは贅沢ではない、自己の本来あるべき責任を放棄することでもなんでもない。むしろ、これこそが政治の責任なのだ。Twitterでは同様に「#なぜ社会保障だけ財源がないと言うの」というハッシュタグも使われている(片山善博氏が「時事放談」の中で語ったことでもある)。

 

野党は、安保法制だけでなく経済、福祉の分野でも共通政策を掲げている。

 

共産 民進 社民 生活 豊かに発展 4野党共通政策
参院選で安倍政権に代わる政治を
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-06-05/2016060501_04_1.html

 

 

一方の公明党はこれを批判しているが、

 


無責任な民進、共産など野党の共通政策
https://www.komei.or.jp/news/detail/20160621_20443

 

これは、4野党の政権展望のタイムスパンを見誤っている。長期的には政策が一致しないから4野党はそれぞれの党のままであり、一つの党にはならない。自公連立政権のような長期政権になることは難しいだろう。だが、野党が求めているのは、短期的な「4野党が共通して最悪だと思う選択肢の回避」であり、そもそも長期政権の展望は最初から無い(これはこれで無責任という批判はあるかもしれない)。だから、合意できるところは合意して、合意できないところは「棚上げ」する、という妥協をしているのであって、その後は国民の選択だ。もし、4野党政権誕生後に(今回の参議院議員選挙では、仮に野党が勝っても政権は変わらないが)、一通りのことをなし終えて、その後の長期のスパンを問うにあたって、与党となった4党が選挙で敗れたとしても、それは長期の展望に対して、国民はそれを望まないと選択なのであって、その時の「与党」がどんな敗戦の弁を述べるのか、今から楽しみだ、という皮肉は言われても仕方がない。だが、それは今回は甘んじて受け入れよう。

 

 

 

 

大学受験を考える<第4章 まとめ・キーポイント>

・ 自分の将来の目標を明確にする。あなたにとって「最高の人生」とはどんなものか?臨終の床に就いた時に後悔しない人生とはどんなものか?
・ 目標が決まったら、その夢を実現させるためにどうしたらよいか、具体的なプロセスを考え、実行に移す。
・ 周囲の人の意見も謙虚に聞きつつ、自分の人生の目標は確固として貫き通す。安易に、(時代と共に変動しやすい、従って何が正しいのか実はよく分からない)周囲の価値観に振り回されない。「まさか自分は振り回されていないだろう」と思っている人ほど、注意深く自分の選択に至る思考過程を振り返ってほしい。
・ 情報収集に努め、自分の人生設計にふさわしい進路を選ぶ。また、情報に基づいて判断することで、主観的な「思い込み」による判断を防ぎ、客観的な選択ができる。家族、先生など、周囲の人への「説明責任」も忘れずに。
・ 意志を持って勉強することは、「善い」ことである。例え、「受験勉強」であっても、勉強自体が、その先は人々の幸せを探求する力へと繋がっている。
・ 良き友を大切にする。
・ 生きる事自体に価値がある。
・ あなたには世界を少しでも幸せの方向へ向けるための、あなたに特異的な能力があり、そしてそれを生かす責任がある。そして、そのために、あなた自身の能力を開花させる責任がある。


なお、念のために強調しておきますが、ここで述べたことはあくまでも私の個人的意見であり、「参考程度」にお読みになって下さい。私の意見に対してはご批判も十分あり得ることは承知しております。


お忙しい中、最後までお読み頂き、有り難うございました。


大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (7/7)~他人も自分も大切に~

最後に一つだけ、これを読んでいるあなたにお伝えしたい事があります。あなたは時として誰かから批判・非難されたり、嫌われたりする事があるかもしれません。しかし、それがゆえにあなた自身に「生きる価値」が無いなどとは思わないで下さい。あなたはその批判に答えるためにも、多くの事を学んでゆかなければなりません。そして、その批判の受け入れるべき点を受け入れ、反論すべき点は誠意を持ってきちんと反論する事を目指せば良いのです。

 

仏教説話『ジャータカ』を起源として、『今昔物語集』などにも載っている、月の兎のお話はご存じでしょうか。

 

 

昔、山の中に猿と狐と兎が仲良く暮らしていました。ある日、疲れ果てて死にそうな旅人の老人が通りかかりました。3匹はこの旅人のために何かしてあげようと思いました。猿は木の実をたくさん集めてきました。狐は川で魚をたくさん獲ってきました。しかし、兎は何も持って来ることができませんでした。兎は嘆きます。「私って、だめね。」猿や狐は慰めます。「そんなことないよ、兎さんだって頑張ったじゃないか。これからもずっと友達なんだから心配しないで。」しかし、自分の能力の限界ゆえ、自分を無価値に感じた兎。そして兎はある行動に出ます。「猿さん、狐さん、火をおこして焚火をして下さい。」そして、兎は焚火近くの木に登りました。猿や狐は言います。「兎さん、そんな所に登っちゃ危ないよ。早く下りておいでよ。」しかし、兎は「おじいさん、ごめんなさい。私は何もしてあげることができませんでした。でも、私にもたった一つだけ、できることを見つけました。私を焼いて、私の体を食べて下さい。」そう言って、赤々と燃えあがる炎の中に飛び込み、兎は死にました。猿も狐も旅人の老人も泣きました。これを見て、神様は兎をかわいそうに思い、また、自分の命に換えてでも困窮する人を助けようとした心を立派に思い、兎を月の世界へ上らせて、そこで幸せに暮らせるようにしてやりました。

 

 

私は、NHK教育テレビの人形劇でこの話を見た時に、自分を兎に重ね合わせ、涙を流した事を覚えています。良寛も彼の長歌の中で

 

 

聞く吾さへも 白袴の 
衣の袖は とほりて濡れぬ

 

 

と涙を流しています。兎はなぜ、死ななければならなかったのでしょうか?私には、この話は、現実世界の一つの比喩のように思えてなりません。しかし(おそらく人形劇という性質上、子供向けにアレンジされているのでしょうが)、オリジナルでは兎の無能さが責められるフレーズが出てきますが、この人形劇では、猿と狐とが兎のことを気遣っているのが救いです。

 

 

自閉症の人は芸術や計算など、特定の能力が飛び抜けて発達していることがあります。先日、テレビで見たのですが、東日本大震災のとある避難所で、自閉症の子供が、人々の運動不足解消のため、ラジオ体操のピアノ伴奏をして、避難所の人々から喜ばれているという話がありました。食べ物を集めてくるというタスクにおいて能力の高い猿と狐、そして、(あくまでもそのタスクにおいて)相対的に能力の劣る兎、この3匹が手を携えて、互いの価値を認め合い、尊敬し合い、支え合う、そんな社会になってほしいし、そんな社会を作ってゆきたい、と思うのです。

 

 

どうやら元々は油屋熊八という人の言葉らしいのですが「生きているだけで丸儲け」という言葉があります。この世の中には様々な肌の色の人(「人種」という言葉は、差別などの社会的見地だけでなく、今日における生物学的正確性から見ても、あまり適切な言葉ではありません)、様々な文化を持った様々な民族、富める人・貧しい人、健常者・障碍者、健康な人・病気の人、異性愛者・両性愛者・同性愛者、様々な性自認の人、若い人・年老いた人がいます。また、安定した環境の中で暮らせる人々・戦争や自然災害等の被害を受けて苦しむ人々、様々な職業の人、また、それ以外にも様々に社会的役割の異なる人々が存在しています。そして、そういう違った一人一人がこの世界に「生きている」ということ自体に価値があるのです。ですから、他人を見下してはいけませんし、また、自分自身も見下してはいけません。世界に二人といない、そして過去にも未来にも存在しない、つまり、今この場にしか存在していない、あなたの持つ価値を社会に還元できるまで、あなた自身の価値を信じ続けて下さい。

 

 

私が兩手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(ぢべた)を速くは走れない。

 

私がからだをゆすつても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい

 

(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)

 

 

 

 

 

大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (6/7)~自分の選択は正しかった~

このシリーズの冒頭で私は「反面教師」であると書きましたが、年をとってから大学に入り直して後悔したことばかりかと言えば、そうではありません。私がゼミで指導を受けていた開発経済学の先生は国際機関などでの勤務経験のある、その分野の若手・中堅研究者の中では第一人者です。経済学の視点から国際開発問題を見ることによって、これまでの自分の視点がいかに狭かったかということに気付かされました。その後、大学院で指導を受けた国際保健学の先生も国際機関で世界的に活躍された方です。


学問的な面以外では、私より10歳も年下の、普段は気さくな学生が、ある時、真剣に「自分の限界に挑戦しながら生きていきたい。そして今を大事に生きる。後悔ほど無駄なことはない。」と言っていました。私はその時、彼は私の人生の中で最も尊敬すべき人の一人だと思いました(後で聞いた話ですが、彼は幼い頃、中国から日本に渡ってきて、家庭の事情で様々な苦労をしたのだそうです。帰化後のいわゆる日本風の名前だったので、全く気が付きませんでしたが、その苦労の中で、彼は自分を支えられるのは自分しかいない、と感じるようになっていったのでしょう)。彼の言葉を聞き、私は、蘇東坡(蘇軾)という中国の詩人の『登玲瓏山』という詩の「脚力尽くる時 山更に好し」という一節を思い起こしました。諦めるのではなく、自分の力を精一杯出して、そして、ついに力尽きて、到達できなかった山の頂上を見上げる時、山は以前よりも一層美しく見える(おそらくは、より高い次元から、今まで理解できなかった新たな「美しさ」に「あっ!」と気が付くのでしょう。とは言うものの、「頂上に到達できない」ことの苦悩は現に存在するのであり、私自身、そのように悩み、また同じように感じた事のある皆さんに適切な助言をしてあげることができないのが心苦しいところです)。


彼以外にも多くの尊敬すべき仲間たちと知り合うことができ、つくづく、自分は幸せ者だと思いました。学問に対する真摯な態度、弱者への共感と正義感を兼ね備えつつ、冷静に社会を見る目、そして優しく人に接する態度。まさに、近代経済学の大成者アルフレッド・マーシャルの言う”Cool heads but warm hearts”に通じる人々でした。私は彼らに出会う事によって、大いに刺激を受け、成長することができました。確かに、「反面教師」と言っておきながら、私のこの感覚はアンビヴァレントなものであると言われるかもしれませんが、皆さんが高校生・大学受験生である今のうちに少しでも早く、自分の進むべき道を明らかにした方が、時間的余裕という面において、人生における選択はより有利になるでしょう。


高校生・大学受験生の皆さんが、自らの希望を明確にし、必ずそれを実現させるべく、主体的に努力されることを期待致します。自分なりに真剣に考えて行動していれば、人生において行う選択は常に正しいものになるはずです。結果が辛くなったとしても、辛さから学ぶことがあれば、それは「正しい」選択です。「誤った」人生などというものは存在しないはずですから、自信を持って進んで行って下さい(正誤の基準、ひいては倫理というものすら、時代や環境・文化などに左右されます)。

大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (5/7)~学校の勉強は「役に立つ」~

ここでは数学を例にとってお話ししたいと思います。「なぜ数学を勉強しなければならないのか」というある生徒の問いに対して、ある中学校の先生はこう答えました。「思考力を養うため。」ある高校の先生はこう答えました。「分からない問題を一生懸命になって考えることで強い精神力が養われるから。」もちろん、こうした先生方の発言は何らかの方便として使われたものであり、真意は他のところにあるという可能性はありますが、もし、これらが本音と捉えられたのなら、数学が単に今日の技術のみならず、科学の論法の根幹を支えているということを生徒たちに伝えることに明らかに失敗しています。テレビの街角インタヴューで「社会で生きてゆくのに算数は必要だが数学は必要ない」という意見を言っている方がいましたが、その方の想定する「社会」は、電気もガスも水道も無く、ひたすらに自然の只中で生きる社会ということになってしまいます(もちろん、仮にそうであったとしても、「自然の中で生きよう」という、その価値観自体を否定するものではありません)。

 

「いや、私は将来、数学など使う職業に就く気はないから、わざわざ勉強する必要などない。」と考えている方がいらっしゃるかもしれません。しかし、それは本当でしょうか?将来になってみないと分からないではありませんか。意外と、自分に数学の優れた才能が隠れていることに気が付いていないだけかもしれないではありませんか。自らの将来の可能性の芽を、自らの手によって、今から摘んでしまうのはあまりにもったいないことです。高校生の時、幅広い科目を学ぶのは、高校生が将来どんな進路に行っても最低限の基礎を持てるようにし、選択肢が限定されてしまわないようにするためではないかと思っています。先にも書きましたが、18歳そこそこで人生の選択肢が限られてしまうのは酷な事です。ですから、大学選びは慎重にしなければならないと同時に、あらゆる科目を広く浅く学ぶ、いわゆる「受験勉強」も、長い目で見た人生設計には役立つのです(私が今、高校での勉強を「広く浅く」と書いた事を訝しく思われる方がいらっしゃるかもしれません。「こんなに難しいことを勉強しているのに」と。しかし、皆さんが大学でより深く学問を学ぶと、実は、高校で勉強する内容は、学問のごく表面をさらっているに過ぎないのだということが分かり、また、高校で習う内容が実は見かけほど難しいものではないのだ、ということに気付くと思います。「難しい」と思っている人は、それはあなたに才能が無いからではなく、「難しく見えている」ために委縮してしまっているに過ぎません。私が思うに、このことを伝えるのも教える側の責任であると考えています)。

 

 

それでも「自分は将来、文系に進んでやりたいことが決まっているから、数学は理系の人に任せておけばいい」と思う方がいらっしゃるかもしれません。しかし、文系でも数学はますます必要になってきているのです。例えば、もともと経済学は数学を多用する社会科学でしたが(「経済学」という名称が誤解を招きがちですが、人間が限られた条件の中で選択を行う際に、どのようなメカニズムに基づいて選択をするのか、そしてその結果、社会はどうなるのか、ということを探る学問です)、経済学は「統計学」(その最も基礎的な概念が、皆さんもよくご存じの「平均値」の計算です)、そして「ゲーム理論」と呼ばれる数学を用いた理論(例えば、ゲーム理論によって、じゃんけんにおける最適戦略を計算すると、グー、チョキ、パーをそれぞれ確率1/3で出すことが最適戦略になり、そしてそれが均衡状態となります。これは皆さんの直感とも合うと思います)を媒介として、社会学、文化人類学、心理学、政治学といった文科系学問との境目が薄れつつあり、また、医学・公衆衛生学と融合し、社会的な要因が人々の健康にどのように影響するのかを探る「社会疫学」と呼ばれる分野が拓かれつつあります。これらにはいずれも数学的議論が不可欠なのです。そしてまた、厚生経済学と呼ばれる分野は政治学や政治哲学と融合し、公平で公正な社会政策とはどのようなものかを、数学を使って示そうとしています。そう、数学は今や「より幸せな社会とはどのようなものか?」というところにまで、踏み込んで語り出そうとしているのです。

 

 

このように、私は、学問は人間を、社会を、環境を「豊か」にするためにあるものだと思っています。
もちろん、学問にも限界はあります。私が高校1年生だった1995年1月17日、阪神・淡路大震災がありました。2011年3月11日に東日本大震災がありました。また、つい先頃は、2016年の4月14~16日などに、熊本を中心として大きな地震がありました。もちろん、日本だけでなく、海外でも大きな災害が起こっています。きっと多くの方が、報道を見て、被災者の事を思い、心を痛めて涙を流したことだろうと思います。そうした時、学問には一体何ができるというのでしょう?学問を修めたとしても、自分自身の無力さを思い、狼狽した人もいることでしょう(もし、狼狽すらせぬというのなら、それこそ「偽善」として糾弾されるべきでしょう)。いや、学問に、すぐに行動に結びつく「技能」は無くとも、災害救援、復興、そして人々の悲しみを癒すことにおいて、知識を積み重ねてきたはずです。限界はありますが、決して無力ではないはずです。そして、災害だけではなく、この瞬間にも、シリアで、アフガニスタンで、リビアで、ソマリアで、そして世界の至る所で、人々が不条理の哀しみに耐えているのです。シエラレオネで、アンゴラで、中央アフリカ共和国で、そして世界の至る所で、妊産婦や乳幼児が次々と死んでゆく哀しみに耐えているのです。「学問には何ができるのか?」これは、私自身、そして、皆さんにも突き付けられている課題です。

 

 

一方で、学問は学問だけで完結している、学問はただ、真理を追究するためのものである、と考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、例え、ある人(その人は「社会」という集合の一要素であることに注目して下さい)が「学問は学問として完結している」と主張して、その人自身の内側で完結する効用を上げようとしたとしても、それでその人が「豊か」になっており、結果として「社会」という集合全体がその分だけ豊かになるのですから(少々テクニカルな話ですが、この「効用」は基数的にカウントできるものと仮定します)、この定義に包含されます。

 

 

 

 

 

大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (4/7)~勉強って悪いもんじゃない~

大学受験制度に対して反感を持たれる方もいらっしゃることでしょう。正直なところ、私は高校生の頃、受験勉強と大学受験の制度に、権力による抑圧の一形態であるような印象を感じていました。授業で先生からの質問に答えられなかった学生に対し、その先生はこう言いました。「なぜちゃんと予習をして来ない。そんなことでは大学に行けないぞ!」彼は黙っていました。授業後の休み時間に私は彼に問いました。「なんで、あの時黙っとったんけ。『俺は大学になんか行かん!』と、なんで反論せんかったん?」しかし、彼はこう答えました。「いや、今時、大学くらいは行っておかんと、就職に影響するし……。」私はその瞬間、口にこそ出せなかったものの、心の中では彼に対して失望を禁じ得ませんでした。私の実家は自営業で、父は通信制高校中退、母は高卒でしたから、「大学に行って当たり前」といった雰囲気に、私は違和感を抱いていました。大学に行っていなければ、まっとうな人生を送れないと言わんばかりの雰囲気に。もちろん、私の両親の時代と私の時代とでは、大学というものの社会の中での位置付けがずいぶんと異なっていることは事実です(余談ですが、では「大学のレベルが下がった」かと言うと、私は必ずしもそうは思いません。学問は益々発展しており、「(2/7)~大学院重点化の「ココロ」~」で述べたように、教授が好きな事を喋っていれば良かった時代は既に終わり、今やシステマティックに複雑な内容を教えければならない時代になっているからです)。また、世界的に見れば、大学に行くことは、決して当たり前ではない、特別なことだからこそ、大学に進学した皆さんには大学で多くを学んでほしい、と思うのです。

 

また、おそらく当時の自分は、中学時代、自分の周囲にいた、いわゆる「不良」少年たちの家庭環境の事を慮ると、「自分は過保護に育てられ過ぎなのではないか」「学校で勉強ができて、『良い子』・『優等生』でいるということは偽善なのではないか」という、ある種の「申し訳なさ」「後ろめたさ」のようなものが私の感情を支配し、そうした、社会から少しはみ出てしまいそうな少年たちに対して、大人の側は抑圧という方法を取り、彼らが心の内に持つエネルギーのわだかまりを真に解放することと真逆のことをしているように見え、大人社会へのある種の不信感を持っていました。また、別の例ですが、今でも忘れられないのが、私が高校生の頃、ある先生が授業中に私語をしている女子生徒たちに「いつやめるか思っとったけど、いつまで喋っとんがんよ!」と感情をむき出しにして、彼女たちの頭を叩いていた光景です。今ならば「体罰」として問題になることでしょうが、当時はまだ体罰に対してルーズな雰囲気がありましたから(教師が手、問題集の角、出席簿などで生徒の頭を叩くことは、私の中学・高校時代を通して日常茶飯事でした)、私も当時は社会がこのような行為を当然のこととして認めている、と感じる一方で、教師が生徒の頭を叩くことが正当化される「常識」に極めて強い違和感を持ちました。もしかしたら、それはその教師一個人の問題なのかもしれませんが、私が感じ取ったのは、そのような抑圧の権力構造が正当化される世界が「学校」であり、「教育」の世界なのだと感じたのです。

 

 

もちろん、大人社会が自覚していなくても、高校生、あるいは子供たちを、「勉強しろ」という命令する側、される側という関係の固定化を通じて、権力構造が生じていることは否定できないと思いますが、「教育」というものに対して、今では当時の考え方に比べて大分変わった見方をしています。私のゼミの同期で極めて優秀な、そして誰に対しても優しい人格的にも優れた学生がいたのですが、彼が大学卒業後に選んだ進路は青年海外協力隊として、あるアフリカの国のエイズ孤児施設にボランティアに行くことでした(青年海外協力隊の場合、現地での最低限の生活は保証されますので、決して無償ボランティアではありませんが)。また、彼はエイズ孤児に対する差別の社会的要因を、データの厳密な統計分析により、素晴らしい卒業論文にまとめました(加えて、彼は大学の夏休みを利用して、ある南アジアの国の学校でボランティア活動も行いました)。高校でも、大学でも一生懸命勉強をし、そして人々の幸せのためにそれを役立てたい、という強い意志により、彼はその進路を選んだのでした。学校で勉強をする、という行為は決して立身出世のためだけの「偽善」ではない。私は、この尊敬すべき、誇るべき友人を目にし、今、自信を持ってこの事が言えます。

 

 

私から見ると、勉強したいだけできる高校生の皆さんが羨ましく感じられることもあります。最終的に、あなた自身で、あなた自身のために勉強をすることを選択したとしたら、そうした権力関係に反発する必要は無くなります。あなた自身が「勉強したい」という衝動に駆られて勉強するのですから。これをお読みになっている高校生・大学受験生の方の中には(かつての私のように)「それは詭弁だ!Yoshitakaは大人社会に毒されたに違いない!」と思う方がいらっしゃるかもしれません。しかし私の正直な気持ちは、本当に高校生の皆さんが、好きなだけ勉強ができて、ただ羨ましい、ということに尽きます。くどいようですが、私は決して「勉強しろ」と言うつもりはありません。ただ「勉強することは面白いし、そう悪くないもんだ」という感覚を高校生の皆さんと「共有」できたら良いなと思っています(蛇足ながら、今、私は改めて独りで数学を学び直し、高校生の頃には感じたことの無かった、この上ない喜びを感じています)。

 

 

私は高校生の頃、漢文の時間に『論語』の以下の一節を習った記憶があります。
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。朋有り遠方より来たる。亦楽しからずや。」
当時の私はこの言葉に、ある種の居心地の悪さを感じていました。イメージとしては、大人/教師は生徒たちに「勉強って楽しいだろ?友達と一緒に勉強するって楽しいだろ?」と問いかけ、生徒たちは暗黙のうちに強制された ”Yes” を言う。「勉強することの楽しみ」という虚構のペルソナが両者の間を隔てている事に大人たちは気付かず、満足げにしている。なんとシニカルなのでしょう!しかし、今、改めて論語のこの言葉を読み感じることは、そこにはそうした余計な感情のわだかまりは無く、ただ「ああ楽しいな」という、孔子のナイーヴなまでに無邪気な喜びが表現されている、あるいは、酸いも甘いも知り尽くした、人生の悲喜交々が凝縮された上での静かな喜びの表現ではないか、と思うのです(この二つは全く違ったものに思えるかもしれませんが、私には何か共通するものがあるように思えるのです)。

 

 

おそらく、私が先の論語の一節に対してそのように感じた原因の一つに、大人社会の「ダブルスタンダード」が挙げられるかもしれません。大人は学校では受験を通じて学歴社会を正当化する一方、他の場所では「学歴社会は良くない、勉強だけが評価の軸じゃない」と、掌を返したようにそれを否定してみせる、そういう姿勢に「自分は大人とは違う子供の側に立っている」と自認していた私にとって、それは大人社会の壮大にして滑稽な欺瞞の構造に見えたのでしょう。子供は大人社会のそのような首尾一貫性の無さを見抜いています。これは大人たち自身が「勉強すること」の意味を見出せずに混乱している事を示すものかもしれません。私は、大人社会は勉強というものが学歴社会の正当化のためだけにある狭隘なものではなく、「勉強することは善いことである」と、堂々と主張すれば良いと思うのです。「学歴社会」においては、「学歴だけが評価の基準になる」ということも問題かもしれませんが、戦後日本の伝統的な採用方法であった新卒一括採用、終身雇用の制度のもとで、「やり直し」「再出発」が極めて困難であったことがより大きな問題だったのではないでしょうか。そして、やり直しがきかないからこそ、一度失敗してしまった人は、学歴社会を恨み、自分たちの子供世代には同じ経験をさせたくないと思い、あるいは、そうした世間的な意味における「成功者」であったとしても、子供にも同じ「成功者」としての道を歩ませることが、その子にとっても「幸せ」なのだ、と考え、いずれにしても必死になるのです。ですから、大人たちは子供の将来のために憎まれ役を買って出ている、とも言えるかもしれません。ただ、この態度の背後には「現在の社会の仕組みが将来も不変である」ことを前提条件として想定していることに注意しましょう。しかし、このような新卒一括採用の仕組みは今後変わっていくでしょうし、また、既に制度的疲弊を起こしつつあり、変わらなければならないと私は思っています。

 

 

また、現実的な話として、大学に入れば、ご家族からの仕送りがあるにせよ、何らかのアルバイトをして日々の糧の助けとすることが大なり小なり求められるでしょう。その場合、高校できちんと勉強をしておけば、家庭教師や塾講師といった、一般に給料が良いとされる職を得る事ができます。もちろん、これらの仕事にはそれなりの大変さがあるのですが、まさに高校で身に付けた「人的資本」がダイレクトに生かせる職業です。とりわけ、教員志望の学生には、将来のための勉強という意味でも人気のある職業です。

 

 

 

 

 

大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (3/7)~大学教育の重要性と限界~

大学に入ってからは、遊ぶのも良いですが、なるべく、高校生の頃と同じように予習・復習、また、自分で関連する文献を調べてみるなど、勉強に心がけた方が良いと思います。英語に自信のある方は、英語で書かれた原著論文にあたるのも良いでしょう。自然科学や、経済学・心理学などの一部の人文・社会科学分野においては、最新の研究成果や、あるいは現在の研究の進展状況をまとめた「レヴュー」と呼ばれる論文などは、常に英語で出版されます(日本語で論文を書いても、日本語が分かる人以外には読んでもらえないからです。現在、こうした学術論文は、Google scholarなど、様々ななデータベースに所蔵され、少なくとも論文の要約部分はインターネット上で読むことができ、世界中の人がアクセスしています)。したがって、研究者の世界や、私が身を置いていたような一部のビジネスの分野では英語は完全に世界の共通語としての地位を確立しており、英語ができることは「当たり前」で、その上で、どのような仕事ができるかが求められます(インターネット上の英語で書かれたウェブサイトを見れば分かるように、高校英語は決して「死んだ」英語ではなく、まさに「生きた」使える英語なのだということは、信じて下さい)。このようにして大学の勉強を徹底的に活用する方が、学費に見合うだけの内容が身に付くと思います。もちろん、勉強以外にも、部活動、ボランティア、インターンシップなど様々な社会活動は学生時代にしかできないことであり、それらの重要性は言うまでもありません。そして、大学で学べば学ぶほどに、高校での勉強を単なる「受験勉強」に終わらせてはもったいない、ということに気付くのです。「良い大学に入ること」がゴールになってしまってはいけません。重要な事は、大学は「更に学ぶ」ための場所であり、そこで学んだことを仕事や学問的研究を通じて社会に還元してゆくことです。だからこそ勉強することは意味のあることですし、受験勉強を「単なる受験勉強」に終わらせないためにも、一見、逆説的であり、トートロジーのようにすら思われるかもしれませんが、高校生のうちにできるだけ勉強しておくことは悪くはないことなのです。2010年、ノーベル化学賞を受賞した根岸英一氏の「私は日本の(悪名高い)受験地獄の支持者だ」。高度な研究になればなるほど、「基本が大事になるから」という発言は、そういう意味だろうと私は思います。

 

では、大学ではどのように学べばよいのでしょう?

 

 

大学は「世の中にはこのような学問・研究分野がある」というメニューを紹介する場であり(従って、大学はいかにバランスのとれた必要十分なメニューを紹介できるかが重要なのです)、個々の料理は自分でじっくり味わってみないと、その味は分からないのです。インターネットの発達した現代においては、ウェブサイト上の情報はほぼ無制限に得られ、入手困難な本もオンラインで注文でき、独学でもよさそうなものですが、自分の考えている世界は意外と狭いもので、大学は自分の知らなかった多様なメニューに気付かせてくれ、他の学生や先生と討論する場が設けられることによって、独学ではどうしても偏りがちになる自分の学習の幅を広げ、内容を深めてくれる場です。

 

 

高校の教科書に書かれていることには全て正解がありますが、大学の教科書には「おそらく~らしい」であるとか「この点については未だよく分かっていない」といった記述がよく見受けられます。学問研究は発展途上であり、これだけやれば完成、というものではなく、勉強・研究には切りがないのです。そうした未知の分野に自分なりの考えを巡らせてみるのも悪くないかもしれません。

 

 

私は中学生の頃、老子の「絶学無憂」を文字通りに解釈してしまい(ある本に書かれていた解説を鵜呑みにしてしまったためですが)、英検を受けろと言われた時、「知識は捨てなければいけない。英検など受けない。」と言うひねくれた中学生でした。しかし、現在の私はこの老子の言葉を次のように解釈しています。この言葉は、学問をするなという意味ではなく、学問を身に付けた上で、その限界を見極めるべきである、また過度に知識のみに依存することを戒める意味の言葉であり、科学者にとって「科学の論理以上の何か」である「倫理」や「善悪」などの価値判断が求められるように、学問が「傲慢」になってしまわないよう、謙虚さを求めた言葉であると。ちょうど、論語の「学びて思はざれば則ち罔く、思ひて学ばざれば則ち殆し。」のうち、「学びて思はざれば則ち罔く」の方を強調した言葉だと言えるかもしれません。大学とはまさに、そのように、「学びて思ふ」場だと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (2/7)~大学院重点化の「ココロ」~

前回の記事で少し触れた大学院教育に関して、補足をしたいと思います。大学院重点化に伴い、大学院の門戸が広がったことで「教授が『プロ』で、昔の大学院生は『セミプロ』だったが、今の大学院生は『アマチュア』だ」と嘆いておられる先生がいましたが、私は、大学院重点化とは本質的にそのような面があるものであり、そのことを嘆いても始まらない、その「アマチュア」を、まずは「セミプロ」に育て上げる教育をしなければならないのではないか、と思うのです。つまり、(分野によって多少の違いはあるでしょうが)過去の「徒弟制度型」の日本の大学院から、欧米式の「詰め込み教育型」大学院に変わっていかなければならないことを意味していると思うのです(もちろん、これは基礎的部分についての事であり、実際にその先を勉強して研究で成果を挙げるのは大学院生自身の責任である事は言うまでもありません)。一方で、私が修士課程のころ師事していた先生は「大学では教授が好きなことを講義で喋っていれば良かったのは、過去の帝国大学の時代の話だ。今や学問は極めて複雑多岐になり、私たち研究者ですら日々必死に勉強しなければ追い付けないまでになっている。ましてや学生にとっては、大学でシステマティックな教育が施されなければ、そうした学問体系を統一的に理解することなどできやしない。」と仰っていました。とすれば、これは教える側の責任なのですから、皆さんが「自分は『アマチュア』だからだめだ。大学院に入る資格は無い」などと卑下する必要はありません(ただ、誤解の無いように念のために付け加えておきますが、特に理系の大学院生の方々は非常に熱心に研究しておられますし、私自身もそうした方々を多く見てきました。今後の日本の科学技術の下支えのためには無くてはならない存在なのです)。


確かに、アカデミックポストの数自体は昔とはあまり変わっていないでしょうから、その点だけを見れば大学院の定員は過剰になっているのですが、この大学院重点化の「ココロ」は、日本を再び技術立国・知識立国として再生すべく、高度なスキルを身に付けた職業人を(も)養成する事なのではないか、とすれば、民間企業が、必ずしも研究職でなくとも、その周辺の職業として大学院修了者をもっと雇用するべきではないのか、と私は思うのです。あるいは、優れた技術を持つ「町工場」が彼らを受け入れても良いと思うのです(ただ、現実問題として、給与体系が学歴によって決められる現実がある以上、博士課程修了者が高賃金ゆえに中小企業に雇用されにくいという事実はあるでしょう<註1>)。ある本で、ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英氏が「大学は博士課程の学生に、先端技術を持った中小企業への就職を紹介するべきではないか」という主旨の事を書かれていましたが、まさに「我が意を得たり」と感じました。江崎玲於奈氏や中村修二氏が後にノーベル賞を授与されることになる研究は、彼らが企業において行ったものでした<註2>。


註1

学部卒と大学院卒の給与水準は、初任給の時点ではほとんど変わらないか、むしろ学部卒の方が高くなる傾向があるものの、生涯賃金としては、大学院卒の方が高くなる、という研究があります。ただし、少々専門的なポイントですが、元論文の脚註8にあるように、クロスセクションデータに基づく研究であり、特定のコホートの追跡調査ではないこと、また、脚註9にあるように「大学院卒」には修士課程修了者と博士課程修了者が混在していることなどに注意が必要です。


マイナビニュース

「生涯賃金、大学院卒は学部卒より高額--年収差は最大312万円」

http://news.mynavi.jp/news/2014/06/17/368/


経済社会総合研究所ディスカッションペーパー

「大学院卒の賃金プレミアム ―マイクロデータによる年齢-賃金プロファイルの分析―」

http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis310/e_dis310.html


註2

益川氏以外にも、高名な研究者が、企業は博士課程修了者をもっと活用すべきである、と述べています。

読売新聞社・NHK主催

「科学フォーラム札幌 科学の礎を築く―創造力と教育の可能性」

https://info.yomiuri.co.jp/group/yri/n-forum/archive/nf20091010.html

(「会場とのQ&A」参照)


大学受験を考える<第3章 勉強・受験で悩んでいる人へ> (1/7)~大学受験制度の正負両面~

もしかすると、皆さんの中には大学受験制度に一度は反発を抱いたことのある方がいらっしゃるかもしれません。しかし、「受験」という制度は様々な問題を孕んでいることを指摘されてはいるものの、長い歴史の中で、形を変えつつも淘汰されずに残っています。なぜ現在でもこのような制度が生きているのか、ということの理由を制度変革が硬直的であるということにだけに求めるのは、いまいち説得力が無いように思います。私は、大学受験とは、社会の側が大学に入るにあたって、また、その後社会に出るにあたって、身に付けておくことを期待されている知識を試す、という意味合いがあるのではないかと思っています。もちろん、高校卒業時の受験、そして大学名だけでその後のキャリアが決まってしまうのは不条理なことです。確かに日本の「学歴社会」にはそのような面があることは否定できませんが、もし、高校卒業後に入学する大学だけでその人の能力が判断されるとしたら、それはその後に受ける大学での教育自体には何も期待していないということであり、大学教育そのものの否定につながってしまいます。従って、受験で身に付ける知識は社会に出るために身につけておくべき知識の必要条件ではあっても十分条件ではありません。


では、なぜ、大学受験時の学力のみがその人の評価基準になりがちが現状があるのでしょうか?アメリカの大学は全国的に質が担保されるような仕組みになっていますが、日本にはそうしたシステムがなく、各大学の教育は独自のやり方に任されています。すると、大学が教育に力を入れても入れなくても、それが社会の側から観察・立証が不可能であれば「モラルハザード」(ここでは、詳しい説明は省きますが、経済学の用語として使っています。経済学の用語としての「モラルハザード」と、しばしば報道などで使われる「モラルハザード」は若干定義が異なると思われる場合があり、混同しないよう、注意が必要です。このような分野に興味のある方は、大学で経済学を勉強されると良いでしょう。)とよばれる状態が起こり、大学はいいかげんな教育システムで、学生をまともに教育せずに社会に送り出してしまうことになります。残念ながらそのような事態も確かにあるわけで、日本の社会は大学教育に対してはあまり高い評価を与ず、大学受験を代わりに評価基準にする、という考え方が出てきてしまうことになります。大学である先生が指摘していたことですが、社会の側が大学教育を評価しない端的な例が「就職活動」です。企業が平日に試験や面接を行う、という採用スケジュールは、学生に対して「大学の授業なんか出なくていい」と言っているに等しいのです(きちんと学問を修めた優秀な学生を採用したい会社ならば、採用担当者に休日出勤手当を払ってでも土日・祝日に面接や試験を行うでしょう)。昨今は大学院重点化政策(国策として大学院の定員や予算を増加させること)が推し進められており、また、いわゆる「学歴インフレ」(かつては学部卒でよかった職種が、現在では修士修了者でないと応募できないような状況になっていること)が起きている中で、「高学歴ワーキングプア」の問題にも表れているように、残念ながら、大学に対する社会の側の評価が低い、況や大学院をや、というのが日本の現実の状況なのです。


皆さんは金沢工業大学の教育システムをご存じでしょうか。この大学は受験偏差値で言えば、必ずしも上位校ではありませんが、大学1年次から、徹底したキャリア教育、そして技術を身に付け、能力を引き出す、という教育を行い、全国的に見ても高い就職率を誇り、企業からの信頼も厚く、ぜひとも金沢工業大学の学生を新入社員として採りたい、という会社が多くあります。もちろん、「大学は就職のための予備校なのか?」という批判も確かにあります。しかし、これはこれで、大学が、受験という制度による学生選抜システムの上にあぐらをかくことなく、大学の独自の教育によって、学生を育て上げている一つの優れた例ではないかと思うのです。


参考

大学タイムズ

「キャリア教育力分析~金沢工業大学の取組み例~就職率の高さは従来の徹底したキャリア教育にあり」

http://times.sanpou-s.net/special/carrier/2.html


一方で、わずかな期間ではありますが、私が会社に勤務をしていた時の経験から感じたのは、「学歴と仕事の能力との間には必ずしも強い相関は見られない」ということです(決して過度な一般化をしようとするものではありません)。もちろん、「仕事の能力」をどのように定義すべきかという問題はありますが、ここでは直観的な議論をお許し頂きたいと思います。有名大学院を修了していても、安定を求めて小さく縮こまっている人もいれば、専門学校卒業者であっても、ずば抜けて能力が高く、周囲からの信頼も厚い人がいます。先に述べた受験制度に関する意見と整合的になるように話をまとめれば、分野によるでしょうが、「大学での勉強が仕事にダイレクトに生きる職場もあれば、必ずしも直接的延長線上に無いがゆえに、工夫しないとそれを生かすことができない職場がある」ということです。何の前提条件も付けずに、単純に「学歴が高い方が仕事がよくできる」という短絡的図式ではなく、適切な(そして複雑な)前提条件が同じである場合(ラテン語で”ceteris paribus”という用語がしばしば使われます)の議論として、学歴と仕事の能力・賃金などの相関が言われているのだと思った方がよいかもしれません。実際に(アメリカの教科書に載っている例ですが)、「学歴は賃金に対してどの程度影響を及ぼしているのか」という問題は、計量経済学という数理統計学を駆使して経済現象の実証分析を行う学問分野での有名な検討課題の一つです(勘の鋭い方は既にお分かりかもしれませんが、ここから言えるもう一つのことは、「より良い仕事に就くためには、より世評の高い大学に行かなければならない」か、というと、他の要素が関与している以上、必ずしも常に正しいわけではないということです)。


一文でまとめるならば、現在の日本の大学受験制度はそれなりに意味のあるものではあるが、万能ではなく、改善の余地もある、といったところでしょうか。

大学受験を考える<第2章 進路をどう選ぶのか> (8/8)~様々な入試の特性に応じて柔軟に~

私は学士編入学という制度を利用しました。多くの大学・学部にこうした学士編入学、あるいは、他大学を2年次まで終了した人や、短大・高専卒業者のための編入学制度があります。しかし、最初から皆さんが編入学を前提として希望の大学に入学しようとすることは、ややリスキーなことであり、積極的にお勧めするわけではありません。一般入試の場合は過去の出題傾向と対策、合格ラインの偏差値などが明らかになっていますが、こうした編入学の場合、どこまでやれば合格できるのかが分からない場合が少なくなく、対策が立てにくく、下手をすると運任せになってしまうこともあるからです。また、最初の大学・短大・高専等で好成績が取れていなかった場合、卒業後に編入学を思い立ったとしても、選考は厳しくなることが予想されます(「どうせこんな大学なんて」という投げやりな気持ちで勉強をせずに過ごし、編入学で希望の大学に入ろうと思っても、それは難しい話です)。


一方で、一度大学を出れば、蓄えた知識の幅は広がりますし、また、一度社会人を経験してから学ぶと、同じことを学んでも、高校・大学といった「学校」という世界しか知らない人がなんとなく受け流してしまうようなポイントでも「ああ、これはそういうことなのか」という気付きが多く得られることがあります。高校卒業後の大学受験によって人生の全てが決まるわけではありません。「進路」とは人生において毎日直面するものであり、高校卒業後の進学のみが「進路」ではありません。社会に出てからも、通信制や夜間に開講している大学や大学院などで学ぶことは大いに有意義なことです。だからと言って、高校生のうちに大学進学を真剣に考えなくてもよいということではありません。さまざまな大学入試・大学院入試の特性を生かして、日々の「進路」を柔軟に切り拓いていってほしいと思います。