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杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(7)

第7節     多様性の価値

 

これまで述べてきたように、我々の社会は様々なアイデンティティ、様々な経済状態に置かれた人々など、多様性に満ち溢れている。最後に、我々が目指すべき社会のあり方としての「多様性」について述べて、まとめとしたい。

 

「我々の社会は多様性を確保すべきだ」という言説をよく聞く(注1)。私も直感的にこの結論自体に異論はない。だが、これを導くためには、いくつかの考え方があるように思われる。

 

1)    真に価値があるのは「自由」であり、「多様性」はその結果

「多様性」そのものに価値がある、という観点で論じるのではなく、むしろ、個々人が、他人の人権を侵害しない限りにおいて自由が最大限保証された結果、そうした、自由と配慮の均衡として社会が「多様」になる。ただ、この場合、「自由」に価値があるのはなぜか、という問いは残される。

 

2)    多様性はヒトの生存戦略(合目的的)

かつて、ネット上で、「自然界では『弱肉強食』が掟のはずなのに、なぜ、人間は弱者を生かすのか?」という質問に対するYahoo!知恵袋の回答が素晴らしい、と話題になったことがある。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463546664

 

きわめてオーソドックスな生物学的見解に思われる。と同時に、当然のことながら優生思想がまったく非科学的なものであることも示している(注2)。一方で、この回答者は意図して「価値」の問題を論ずることを避けているように思われる(これは賢明な判断だと思う)。目的論的に多様性の「有用性」を論じることはできるが、「価値」そのものを論じることはできない、と私は思う。私は、我々の社会は「多様性」を「価値あるもの」とすべきだとは思うが、その理由についてはまだ私の中で答えは出ていない(注3)。だが、生物の世界は本来、多様で雑多なものであり、そこに様々な「規範」を持ち込んだのは人間の脳の方だから、次の観点が導き出せる。

 

3)    「なぜ多様性が重要なのか?」と問うよりも、「なぜ、本来、多様な存在に縛りをかける規範を持ち込まねばならないのか?」と問う方が正当なのかもしれない。前節で述べたように、「規範」や「秩序」、あるいは「普通であること」は歴史的偶然により、一方的に確立することがあり、その「正しさ」は自明ではない(注4)。 ある規範としての「幸せ」の押しつけは無意味であり、暴力的ですらある(杉田議員の論考がまさしくそうだ)。多様で雑多な世界において、前節で紹介したセンが「正義のアイディア」(注5)で採ったアプローチのように、「幸せ」を阻害するもの、リスクを取り除くことによって、より「正義」に近い、共存可能な「寛容な」社会が少しずつ実現されてゆく、と私は信じたい。

 

本論の結びにかえて、金子みすゞの有名な詩『私と小鳥と鈴と』を掲載しよう。野暮な解説などは付けないでおこう。

 

私が兩手をひろげても、

お空はちつとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のやうに、

地面(ぢべた)を速くは走れない。

 

私がからだをゆすつても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のやうに、

たくさんな唄は知らないよ。

 

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがつて、みんないい

 

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注1: 経済格差に関して言えば、「多様性を維持する」とは、決して貧困にあえぐ人々をそのままにしておけ、という意味ではなく、あらゆる人が欠乏なく生きられる持続可能な社会を目指すべきだ、ということである。

 

注2: 優生思想が、「科学はどうあれ、こういう価値観なのだ」と開き直るのならまだ良いのかもしれない。だが、優生思想が科学的であるかのように装ったことは一層罪深い。また、LGBTが「子孫を残すという生物学に反する」などと言う人が少なからずいるが、現実に存在しているLGBTを存在しないがごとく扱う方が、よほど非科学的ではないだろうか?

LGBTは自分の意思で選んだものではなく、「自然とそうなった」という感じで、だからこそ、性的指向に関しては、「性的嗜好」ではなく「性的指向」という言葉が使われる(異性愛者に「あなたはなぜ異性が好きになるの?」と訊いても、ほとんどの人は「自然とそうなったから」としか答えられないだろう)。少なくとも性的指向に関しては、何らかの遺伝的要素が絡んでいるであろうことは有力視されている。

GigaZine

「『ゲイの遺伝子』は存在するのか?」

この記事の中で紹介されている「全ての人はゲイの遺伝子を持っているが、メチル基が特定の場所のDNAにくっついて遺伝子が『オン』になるかどうかで同性愛が発現するかが変わる」という仮説(以下に紹介する総説を読むと、この説明は必ずしも正しくないようだ)には、以下のリンクが付けられている。

 

http://www.ashg.org/press/201510-sexual-orientation.html

ここで紹介されている、Tuck Ngun氏の論文を、PubMedやGoogle Scholarでざっと探してみたが、性的指向へのエピジェネティックな影響に関する研究の筆頭著者のものとしては以下の総説(レビュー)くらいしか見当たらなかった。

 

http://biology-web.nmsu.edu/~houde/biological%20basis%20of%20sexual%20orientation.pdf

こちらもざっとしか読んでいないが、遺伝子のメチル化のパターン、発生初期の特定のホルモンの影響など、複雑なエピジェネティックな影響が示唆されている。

 

しかし、子孫を残さないはずのLGBTが聖書に書かれるほどの昔から現在に至るまで存在し続けているのはなぜだろう?生物学的には「ヘルパー仮説」(上記の記事中では「ゲイの叔父さん仮説」がそれに相当するだろう。ただ、必ずしもこの仮説が現実の現象をうまく説明できているわけではない。これは人間の社会的規範(同性愛者であることがスティグマとなり、かえってヘルパーとして働くことを妨げている)の影響が大きいように思われる)など、様々な仮説が立てられている。)。だが、生存にとって何らかの有利な作用をもたらす遺伝子がそうしたSOGIの決定に関わっているのかもしれない。進化ゲーム的に何らかの均衡状態として、SOGIにおける少数派が、長い歴史の中でずっとある一定割合を保ちながら存在し続けてきたのかもしれない。ならばこそ、そうした少数派を「存在しないもの」あるいは「罪」としてきた歴史の暴力性があばかれる。

 

注3: 第5節で紹介したベンヤミンの「暴力批判論」においては「生命の尊さ」という概念が「存在の方が正しい存在よりも高くにある」という命題であるとして、批判し、拒絶している。だが、ベンヤミンのこの批判は必ずしも自明なものではなく、私には大いに疑問がある。

 

注4: レインボーパレードなどにおいて、露出度の高い「奇抜な」恰好をした人が練り歩くことがある。これに対してLGBT当事者からも「あんな奇抜な格好をしたら、我々が変な存在だと思われる。もっと『普通』にしてほしい。余計に偏見を持たれるからやめてほしい」という意見が聞かれる。だが、これは、世間の「普通」に合わせるという、第4節で紹介した「同化」戦略にほかならない。祭りにおいて、褌に法被姿は「奇抜」であるとはみなされないが、普段、道を歩くときに、同じような格好をしていたら、きっと「奇抜」で「変態的」だとみなされるだろう。それはなぜだろうか?もしかしたら、「ハレ」と「ケ」の違いとして説明され得るかもしれない。では、同じ論理で考えるならば、レインボーパレードという、「ハレ」の場で、同じように露出度の高い恰好が許されないのは、なぜなのだろうか?

 

注5: アマルティア・セン『正義のアイディア』

https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2-%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2-%E3%82%BB%E3%83%B3/dp/4750334944

 

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杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(6)

第6節     私は時に「マジョリティ」時に「マイノリティ」

 

我々一人ひとりは、様々な特性を持っている。ゲイであり高所得な人、身体障碍を持っているが、シス・ジェンダーかつヘテロ・セクシュアルである人、在日コリアンでトランスジェンダーの人、いろいろな可能性がある。アマルティア・センが述べたように(注1)、一個人のアイデンティティは複数存在し得る。

 

私はゲイであるということはマイノリティに属する。しかし多様なセクシュアル・マイノリティの中では多数派である。一方、特に大きな身体障碍を持たず(しいて言えば眼球振盪があり、眼鏡やコンタクトレンズを付けてもあまり視力が上がらないが)、日本国籍を持ち、大学院の博士課程まで出ることができ、それなりの収入のある仕事に就けている。また、シエラレオネで道を歩いていると、時に中国語の真似をしてからかわれるが、おそらくかなりの確率で、私は彼らよりも高い収入を得ている(注2)。カネというある種の「権力」を持つ側である私は、自分がこの国で単純に「マイノリティ」であると考えるのはいささか躊躇してしまう。第4節で述べたように、LGBTと便宜的にくくっていても、一人ひとりは多様であり、現実世界においてある一つのアイデンティティを共有する集団が存在するわけではない。また、その内部が多様であることに目をつぶってはならない(だからこそ、LGBTの中でも時に意見が対立する)。「LGBTはかくあるべし」という規範の押しつけがあるならば、それは多様性とは逆行する(もしろん、互いに議論し、合理的な批判をし合うことの重要性はいささかも減じるものではない)。従って、ある一定のアイデンティティの共有を前提とした「アイデンティティ・ポリティクス」は有効ではあるものの、おのずと限界がある。LGBTの中にも裕福な人もいれば貧困にあえぐ人もいる。そして、富裕層は貧困層に転落する可能性があるし、貧困層が富裕層へと発展する例もあり得る。「LGBTへの支援が必要だ」とは言っても、その中で特に重要だと思われるのは、LGBTであることを理由とした就職差別や、同性婚が認められないために(注3)、経済的に不利益を被る人に対する支援だと思う。「アイデンティティ」に加えて、経済的に恵まれているか、恵まれていないか、というもう一つの軸を持ち込む必要性が浮かび上がってくる。古臭い言い方をすれば「階級闘争」の復権である。これを理解するためには、以下の論考が参考になる。

 

松尾匡

「右翼と左翼」

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html

 

「市民派リベラルのどこが越えられるべきか」

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_71225.html

 

ただし、松尾氏のこれらの論を読む限りにおいては、議論をシンプルにするためだと思われるが「アイデンティティの複数性」にはあまり注意が払われておらず(注4)「強者アイデンティティ」「弱者アイデンティティ」という一次元の軸に落とし込まれてしまっている。また、明白な人権侵害であるヘイトスピーチの問題を考えるにあたっては、アイデンティティ・ポリティクスを軽視すべきではない。なぜならばヘイトスピーチを向けられた側が富裕層であれ貧困層であれ、同様の精神的ダメージをもたらすものだからだ。また、在日コリアンは歴史的経緯によって日本国籍が与えられなかったために(帰化もまた、大変な労力と金銭的負担を伴う)、日本における選挙権・被選挙権が無いのは富裕層であるか貧困層であるかに拘らず同じである。これらは些末な問題だろうか?ちなみに、富裕層の方が貧困層よりも平均寿命が長いことは社会疫学では「健康格差」としてよく知られている。だが、米国においては所得水準を調整しても、白人よりも黒人の方が平均寿命が短い、あるいは心疾患などのリスクが高いことが示されている。即ち、交絡因子を調整しても、なおも残る人種格差は差別による心理的なストレスなどが影響していると考えられる。一例を挙げると、

 

D. Williams “Race, Socioeconomic Status, and Health, The Added Effects of Racism and Discrimination”

https://deepblue.lib.umich.edu/bitstream/handle/2027.42/71908/j.1749-6632.1999.tb08114.x.pdf?sequence=1&isAllowed=y

 

LGBTに関していうと、杉田議員が過去の動画において「同性愛の子どもは普通に、正常に恋愛できる子どもに比べて自殺率が6倍高い」と、笑いながら紹介していたが、これは若干誤りである。第2節でも紹介したが、都市部の同性愛・両性愛・クエスチョニングの男性における自殺企図率が、多変量ロジスティック回帰した場合のオッズ比が約6倍高い(p値は1%有意)という研究結果がある。LGBTであるというアイデンティティは、自殺企図に関しては高リスク群であることは間違いない。

 

元論文

Y. Hidaka et al. “Attempted suicide and associated risk factors among youth in urban Japan”

http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.615.3886&rep=rep1&type=pdf

 

ただし、所得水準に関しては調整されていないので、そこは今後の課題だろうとは思う。同じ筆頭著者の別の論文では、大卒者は高卒者に比べて自殺企図率が有意に低いので、学歴や年収による差、マイノリティ集団内部での格差には注意が必要であろう。

 

Y Hidaka, D Operario “Attempted suicide, psychological health and exposure to harassment among Japanese homosexual, bisexual or other men questioning their sexual orientation recruited via the internet”

https://jech.bmj.com/content/jech/60/11/962.full.pdf

(ただし、著者自身も論文中で述べているように、インターネット調査によるサンプリングバイアスの限界もある。)

 

日本語で読める解説としては、

「わが国における都会の若者の自殺未遂経験割合とその関連要員に関する研究」

http://www.health-issue.jp/suicide/result02.html#sub09

 

SYNODOS

日高庸晴×荻上チキ「セクシュアルマイノリティと自殺リスク」

https://synodos.jp/society/2252/4

 

BuzzFeed News

籏智 広太「14%が自殺未遂を経験。ゲイ・バイ男性の抱える『生きづらさ』とは」

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/suicide-lisk?utm_term=.pv1ngD7mz#.qtYMWD2pd

 

 

松尾氏が言うように、「人権」概念がいかに「きれいごとのお説教」であっても、第4で述べたように、それは多数派が自身の置かれている特権的状況(これは経済的な格差とは限らない)に無自覚なだけである。ただ、松尾氏の本論考で注目すべきは、脚注2である。「各自の異質性への配慮が否定されるわけでないのも言うまでもない。むしろもっと徹底されるべきである。これまでの市民派リベラルには、集団アイデンティティへの配慮のあまり、各集団内部での個性の圧殺を見のがしてしまうきらいがあった。」この指摘は重要である。松尾氏は「右翼と左翼」において最後に「横に切るか縦に切るかに中間はない」と言う。だが、松尾氏自身が「縦の壁も横の亀裂もそれぞれそれなりにあるのは事実だ」と言う通り、世界を横に切る方法と縦に切る方法は複数存在するし、それらは同時に共存し得る。だが、本論考ではその点への関心は、(おそらく意図して)ほとんど触れられていない。あるイシューに取り組む場合、一つの切り分け方に着目し、他の切り分け方を捨象する必要もあるかもしれないが(数学的に言うと、偏微分のような)、切り分け方自体が複数あることに自覚的であることこそがことこそが重要なのだ。私もあなたも、時に差別者側に回る可能性があるし、時に被差別者側に回る可能性があるのだ。

 

アイデンティティ・ポリティクスの限界とマイノリティ集団内部での多様性に目を向けることの重要性については、私は以前にもこんな記事を書いた。

 

「保毛尾田保毛男」と「差別」をめぐって

https://ameblo.jp/mot82yn/entry-12315734425.html

また、上記記事では、多数派と少数派のバーゲニング・パワーの違いを無視できないことを「コースの定理」の、現実社会への誤った当てはめを例にして論じている。

 

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注1: アマルティア・セン『アイデンティティと暴力: 運命は幻想である』

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%81%A8%E6%9A%B4%E5%8A%9B-%E9%81%8B%E5%91%BD%E3%81%AF%E5%B9%BB%E6%83%B3%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B-%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3/dp/4326154160

 

注2: バラッサ・サミュエルソン効果(先進国の方が途上国よりも物価水準が高くなる)によるところも大きい。

 

注3: LGBTへの支援のあり方として、ざっくりとした分け方だと、同性婚推進派と、婚姻制度廃止派がある。伝統的感覚の残る家制度と結び付いた婚姻を同性カップルに拡大することへの懸念、そもそも婚姻という制度自体が婚姻していない人に対する優遇であるという批判などがある。私は同性間のパートナーシップは伝統的な婚姻制度の拡大ではなく、公的保証を最大限に行いつつ、それでも拾いきれない部分のリスク・シェアリングをする最小単位としての「家族」という、個人間の契約が、今日の「婚姻届」のように簡便に行える制度にすれば良いと思っている。

 

注4: もちろん、松尾氏がセンの「アイデンティティの複数性」に関する議論を知らないはずは無く、以下の論考ではそのことをメインテーマとしている。

 

SYNODOS

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

「『獲得による普遍化』という解決──センのアプローチをどう読むか

https://synodos.jp/economy/14513

 

 

 

 

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杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(5)

第5節     差別はなぜ温存されるのか

 

今回の件をきっかけに、ここまでLGBTへの理解が進んだであろうことが分かったことを喜びたいが、一方で、差別的な発言はまだ多い。前節で見たように、所与の初期条件によって、その均衡が運命づけられており、それに慣れっこになってしまってはいないだろうか。最近では、お茶の水女子大がトランス・ジェンダー学生の受け入れを決めた際、百田尚樹氏が「よーし、今から受験勉強に挑戦して、2020年にお茶の水女子大学に入学を目指すぞ!」などと下劣な冗談で茶化したし、ネット上にはこれでもかというくらい差別的発言が溢れている。あまりに圧倒的な量の前に、ただ、ため息をついて受け流すしか術はない。そして、ただ、ため息をつくだけで、直接の抗議はおろか、不快感を表明する気力もなくなる。だが、それでは世の中は変わらない。

 

ヴァルター・ベンヤミンの「法措定暴力」「法維持暴力」という言葉(注1)を拡大解釈して援用すれば、神話的に(一方的に)宣言された、法措定暴力としての社会の「秩序」は均衡を形成し、そしてそれは自己保存的に法維持暴力と化し、ゲームの位相図の蟻地獄ならぬ「パレート劣位均衡地獄」の中に人を引き込む。そのような(マルクス的に言うと「疎外」された)「秩序」は、ローザ・パークスも、マーティン・ルーサー・キング Jr. も、ネルソン・マンデラも、アウン・サン・スー・チーも、劉暁波も、「社会の秩序を乱すもの」として抑圧するだろう。また、「差別に対して抗議したい気持ちは分かるが、その言い方はないだろう」という主張は「トーン・ポリシング」と言われ、少数派が多数派の専横に対して抗議の意思を示す際に、それを容易に無効化する手段として用いられる。しかし、百歩譲って、たとえ言い方がまずくとも、抑圧されている側からの抗議の声を無視してよい、ということにはならない。既に存在しているルールに対する抗議の方法が適切かどうか、という点が問題にされるのに、そのルールそのものの妥当性を問うことはあまり積極的になされず、ひたすら現状追認が繰り返されるのだ。

 

次のような逸話を考えてみよう。この話のどこが「おかしい」と感じられるだろうか。

 

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40人のクラスの中に、一人、A子さんという人がいます。A子さんは「歩き方が気持ち悪いから」という理由で、いつもみんなから「もっとちゃんとしろ。歩き方なんて癖なんだから直せ。直さないのは本人が怠けているから」と言われています。でも、実はA子さんは昔の怪我が理由でちゃんと歩けないのです。もちろん本人は懸命にしっかり歩こうとがんばっています。

ある日の学級会で「A子さんは怠け癖のある人間なので、毎日教室の掃除をしてもらいます。僕たち39人は掃除をせずに帰る権利があります」という事が多数決(39対1)で可決されてしまいました。反対したのはA子さんただ一人。そして「そんなのおかしい!私の歩き方のせいで誰かを傷付けましたか?」と抗議しましたが、39人は「おとなしくしてれば認めてやろうと思っていたのに、抗議をするなんて生意気だ!先生!A子さんが多数決に逆らって『暴力的』な主張をしています!僕たちはいつも先生の言いつけを守っています。どちらがこの教室のためを思っているのか分かりますよね?」と騒ぎ出しました。

さて、このクラスをより良くするには、どのようにすればよいのでしょうか?

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この話を、悪玉人間対善玉人間のような単純化された図式で捉えてはいけない。誰もが「A子」さんになる可能性があるし、誰もが、「A子」さん以外の39人のうちの一人になる可能性がある。次の節ではそのような様々な可能性について考察する。

 

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注1: ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』

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杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(4)

第4節     LGBT当事者どうしの抗議に対する温度差

 

LGBT当事者の中でも「きちんと批判・抗議をすべきだ」という人と「余計な波風をたてるな。面倒くさい人たちだと思われる」という人がいる。厄介なことに、これはLGBT当事者の間に対立をもたらす論点である(注1)。また、抗議をする場合に、自らのSOGIについて曖昧にしたまま話をすることは往々にして難しく、明確に示すことが無言の圧力となる場合があるかもしれない(現実に常にそうだというわけではない)。とすると、これは「カミングアウトすること」と言い換えてもよいかもしれない。私はたいした知識もないが、知ったかぶりして書くと、このような社会の状態は、以下のような「囚人のジレンマ」の変型版のようなゲームの構造で考えると分かり易いかもしれない(表1)(注2)。どちらも自分の利得を最大化しようとしていることに変わりはないのだが、見据えている均衡の状態が異なる。

 

 

多数派(シス・ジェンダーかつヘテロ・セクシュアル)は差別をせず、配慮を示すことで少数派(LGBT)と共存するが、LGBTに自分たち多数派への同化を求めて差別をする(配慮をしない)こともできる。同化を求める方が、多数派にとっては楽な選択ではあるが、LGBTがカミングアウトして問題提起をすると、多数派はLGBTを「面倒くさい」人たちだと思い、配慮を迫られ、あるいは不快感から利得が少し減るとしよう(「面倒くさい」と感じて配慮をしている状態と「差別をしない」ことによって配慮をしている状態を同じ利得で表してよいのか、という批判はあるかもしれないが、多数派の内心は分からないとして、何らかの外形的な行動は同じであると仮定しよう)。一方、LGBTの側は、カミングアウトせず(波風立てず)多数派と同化すれば、それはそれで自らへのダメージを防げるかもしれないが、窮屈でみじめな思いをしながら生きていくことにもなるだろう。一方、自らのSOGIをカミングアウトして、多数派との間に差異がありながらも共存することもできる。しかしながら、多数派が差別をする場合、カミングアウトしていない状態ならばその差別を真正面から受けずに済むが、カミングアウトすると差別に傷付くことになるかもしれず(先程の多数派の配慮の仮定とはやや矛盾するが、二人のプレイヤーによる静学ゲームでの表現の限界もある)、LGBTの利得は下がる。上記のゲームの数値例の場合、多数派は、LGBTがカミングアウトする場合は「差別する」「差別しない」のどちらを選んでも利得は同じだが、カミングアウトしない場合は、LGBTの我慢を強いることによって「差別する」という戦略が優位となる。一応、この数値例で計算しておくと、最適反応曲線は、図1のようになる。

 

 

多数派が差別しないという確率pが 1/4 より大きい場合は、LGBTはカミングアウトを選択する(青点線)が、残念ながら、多数派にとっては、少数派がカミングアウトする確率qが1以上(つまり、現実にはほとんど実現不可能ということだ)にならない限り、「同化(差別する)」が最適戦略となる(赤実線)。pが1/4を下回ると、位相図のベクトルは原点((p, q)=(0, 0)、すなわち、多数派は「同化(差別する)」を選び、LGBTは「同化(カミングアウトしない)」を選択する)へと引っ張られる。かくして、多数派は「同化(差別する)」、LGBTは「同化(カミングアウトしない)」が現実的なナッシュ均衡となる。しかしながら、この状態は(「共存(差別しない)」,「共存(カミングアウトする)」という状態と比べて、パレート劣位である。一方(「共存(差別しない)」, 「共存(カミングアウトする)」)という均衡は不安定だが、望みがないわけではない。私たちはどのような社会を目指すべきなのだろうか?

 

なお、この「共存(差別しない)」、「同化(差別する)」といった戦略は、最近、東京医科大学での女子受験者の差別的な取り扱いが批判を浴びたが(注3)、歴史的に形成された権力構造によって格差のあるジェンダーとしての男女、健常者と障碍者、日本国籍者と在日コリアン、あるいは移民などにも置き換えられる。また、更には、富と繁栄を享受する先進国と、貧困にあえぐ途上国との対比も、初期条件の違いによってもたらされた均衡と考えると、同じ枠組みで理解できるかもしれない(注4)。レインボー・アクションの島田暁氏の言葉を借りるならば、「マイノリティ」とは、数の多寡が問題なのではなく、「放っておくと構造的に抑圧されがちな立場のこと」である。

 

島田 暁
@Akira_Shimada

https://twitter.com/Akira_Shimada/status/584680623043776512

 

 

つまり、このゲームの構造の含意するところは、あらゆる「マジョリティ」と「マイノリティ」の関係に応用可能である。

 

また、少数派がこのようにカミングアウトして権利を主張すると、多数派から「あなた方がわがままを言うせいで、我々多数派が不利益を被っている。特別扱いを求めることは許さん」という意見が必ずと言ってよいほど出てくる。そして、多数派のそのような態度を恐れ、カミングアウトし、権利を主張することをためらう少数派がいることも理解できる。

 

参考:レインボーフラッグは誰のもの「「ボクは日本に住んでるけど幸せです。挙式もできたし、仕事もある。友達もいる」と語ることの何がいけないのか~モデル・マイノリティとデュアル・アイデンティティ」

http://rainbowflag.hatenablog.com/entry/2018/08/01/212509

 

私は、このような態度は行動経済学におけるプロスペクト理論である程度説明できると思っている。

 

参考:プロスペクト理論

「ホモ・エコノミクス(経済人)は概念で、存在しない」

https://emotiva.amiyazaki.biz/IRRATIONALITY/Theory_of_Prospect.html

 

初期状態では多数派に有利なように権利が割り当てられているが、少数派に配慮してそれを譲ってゆくと、その「損失」によって効用は急激に低下する。一方、少数派にとってはその過程ではどんどん多数派の理解が得られてきていると感じ、効用は急激に増加するだろう。しかし、例え多数派が「少数派に配慮し過ぎた!彼らを特別扱いするな!」と感じる点でも、実は、多数派と少数派の平等は達成されていない可能性もある。Wordのフリーハンドで描いた汚い図で恐縮だが、以下の図2ようになるだろう(注5)(注6)。

 

 

そして、砂川秀樹氏が指摘するように、少なくない人にとって、既に実現されている権利には違和感を覚えないが、まだ実現されていない権利を主張することは「行き過ぎ」と見える、ということはそう珍しいことではないようだ。おそらく、どの時点を「初期配分」として知覚するのか、という点が関係しているのではないかと思う(注7)。

 

砂川秀樹 
@H_Sunagawa

https://twitter.com/H_Sunagawa/status/791807841807896576

 

参考:

高史明氏の論考によれば、「被差別集団は能力的に劣った存在だから差別しても構わない」とする「古いレイシズム」に対し、「実際にはもはや差別など存在しないのに、特定の人々が差別だと騒ぎ立て、不当に利益を得ている」と主張する、より巧妙なロジックの「新しいレイシズム」が出てきている、とされる。

Synodos

「古くて新しい、在日コリアンへのレイシズム『レイシズムを解剖する』著者、高史明氏インタビュー」

https://synodos.jp/newbook/16538

 

現代ビジネス(高史明)

「データで読み解く『在日コリアン』への偏見とネットの関係」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48886

 

これは上記のような効用の感じ方からすると、多数派の少なくとも一部の人にとっては、感情的には事実なのだろう。だが、それは、平等な状態が本当に達成されているかどうかは、上記のごとく別の問題である。

 

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注1: もちろん、LGBTと便宜にくくっているが、単に「多数派ではない」ということでくくっているだけであり、「シス・ジェンダーかつヘテロ・セクシュアル」という多数派に対する「その他」というくくりに等しい。一人一人はあくまでも独立した個人であり、考え方も多様だ。

 

注2: やや極端で恣意的な設定かもしれないが、分かり易さを優先した。

 

注3: 「医療現場をまわすために男性医師に犠牲になれと言うのか」「現在の医療水準を諦めろと言うのか」など、誤った二分法に基づく反論が間々、聞かれる。だが、このような「現実を見ろ」という声は、ここで紹介するゲームの構造のパレート劣位均衡(皮肉めいた言い方をすれば「みんなで仲良く不幸せになる社会」)に引きずり込もうとする位相図のベクトルにほかならない。

 

注4: これをヨハン・ガルトゥングは、暴力行為の主体が明らかではないが、社会の構造によって引き起こされている暴力であるとして、「構造的暴力」と呼んだ。

 

注5: このグラフでは、少数派の効用と多数派の効用が重ねあわせられているが、両者が基数的に比較できる必要があることを言っているわけではない。多数派、少数派各々の内心の問題だからだ。

 

注6: 以前、ある友人から、「人間の感覚は対数的らしい」と聞いたことがある。例えば、音階は1オクターブ上がると周波数はほぼ2倍になるという指数関数的な関係にある。だが、ピアノの鍵盤を順番に下から上に叩いていった時に、我々は「直線的に音が上昇している」と感じるだろう。つまり、指数関数的に増加する周波数を無意識のうちに対数変換していると考えることができる。

 

参考:人間の五感は対数に変換されている

http://sky.geocities.jp/bunryu1011/5kanlog.html

 

また、別の例では、コンビニ各社はまだ暑い時期からおでんの販売を始めるのははぜか疑問に思われる方がおられるかもしれない。私は学生時代に某コンビニエンス・ストアでアルバイトをしていたが、店舗オーナーによると、おでんの売り上げが最大になるのは寒さが最大の時期ではなく、これから寒くなってゆく加減が最大の時期(経済学風に言えば「限界寒くなる率」が最大の時)に売り上げが最大になるのだそうだ(実際にコンビニ各社もそのように考えて販売戦略を立てているらしい)。気温の変化は、厳密には指数関数的な変化ではないかもしれないが、無意識のうちに前日の気温との比較や、日中と朝晩の気温の比較を通じて、比率で変化を感じているのだろう。

 

注7: LGBTへの支援は実際には進んでいないとしても、理解が広がりつつある現状は、一部の人にとっては「度が過ぎる」と見えるのかもしれない。だが、米国において黒人に対する差別の歴史を振り返るとき、50年後の人々が現在の私たちをどのように評するかを想像してみると興味深いかもしれない。

 

参考:

2008年、米国カリフォルニア州で、”Proposition Eight” という、同性婚の権利を廃棄する法案が可決された。同国で人気のニュース・キャスター キース・オルバーマン氏は、黒人差別の歴史を振り返り、この決定を ”horrible!” と激しく批判した。

 

隔数日刊─Daily Bullshit「オルバーマン翻訳」

http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.html

 

ただし、この同性婚禁止条項は、2013年、連邦最高裁が、連邦法である「婚姻は男女間のもの」と規定した「結婚防衛法」を合衆国憲法に違反するという判断をしたことを受け、カリフォルニア州における裁判を連邦高裁に差し戻し、同性婚は再び「解禁」された。

 

 

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杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(3)

第3節     我々は先人たちの「肩の上」に立っている

 

現在、社会が変わろうとしているように感じられるが、それは、これまで何もなかったところに突然、こうした変化が訪れたわけではない。これまでも真摯に活動して来られた方もたくさんいるわけで、今日の変化はそうした先人たちの努力に負っていることは心に留めて、敬意を払うべきだろう。今日の学問が先人たちの積み上げた先行研究という「巨人の肩の上」に立って世界を眺めることができるように、今日の社会のありようもまた、先人たちの「肩の上」に立っている。

 

参考:包帯のような嘘(マサキチトセ)

「小松サマースクール講演原稿全文(高校生向け)」

http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/24053

(引用)「その人たちはみんな、『それはおかしいよ』ということを、きちんと言葉にして、何がおかしいのか、どうしておかしいのかを世の中に説明する努力を惜しまなかったんです。1回1回は無駄に終わっても、いつか社会を変えるかもしれない、そういう言葉を、きちんと社会に向けて発してきたんです。たとえば、ローザ・パークスだけじゃなくて、実はそれよりうんと前から、同じように怒って逮捕された黒人はたくさんいました。」(引用終わり)

 

確かに、世の中を変えるのは一朝一夕にはいかない。障碍者問題を例にとって考えてみよう。今日の日本では、バスに車椅子スペースが付いているのは半ば当たり前だが、かつての「青い芝の会」による「川崎バス闘争」などの障碍者の権利運動がなければ、このような進展はなかっただろう。一方で、昨年のバニラ・エアにおける車椅子を使用している乗客の搭乗を巡るトラブルで、ネット上では「事前連絡せよとの会社のお願いも聞かず、わがままな乗客だ!」という批判が行われた。つまり、障碍者と健常者の無差別(indifference)性を担保出来ない状況を当たり前の状態だとみなしているのだ。私は端的に言ってこれが「差別」であると思う。LCC(格安航空会社)が障碍者を排除することによってコスト低減を図るのならば、それは不公正・不合理なコスト低減であり、他の乗客はそのコストを負担すべきだ。そして、何度「『差別』と『区別』は違う」という言い訳に辟易としてきたことか(注1)。しかし、東京オリンピック・パラリンピックも見据えて、国土交通省は各航空会社に支援設備の完備を義務付ける方針を決めた。

 

朝日新聞「車いす搭乗、スムーズに 国が航空各社に設備義務づけへ」

https://www.asahi.com/articles/ASL817DH5L81UTIL056.html

 

参考:赤木智弘「理不尽なルールは正していこう」

http://blogos.com/article/232196/

 

このように声を上げることなしに、社会の変化はあり得ない。しかし、一方で、既存の社会のありように順応することで問題を回避しようとする考え方・態度もある。次節ではそのことについて詳しく見てみることにする。

 

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注1: 前出の杉田議員の動画でも何度も「『区別』であり『差別』ではない」と繰り返される。だが、その両者の違いがどのように定義されるのか、まったく言及されていない。

杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(2)

第2節     なぜ、今回は抗議活動が「盛り上がった」のか?

 

杉田議員による当該論考そのものに対する批判は、前節で挙げたような優れた論者に譲るとして、なぜ、これまでの政治家による様々な差別的発言に対する抗議以上に、今回の杉田議員に対する抗議は特に盛り上がったのか、という疑問について考えてみた。

 

ハフィントンポスト

宇田川しい「杉田水脈議員の「差別発言」に抗議するデモに、なぜ5000人も集まったのか」

https://www.huffingtonpost.jp/2018/07/28/lgbt-demo_a_23491398/

にあるように、ネット上で杉田議員が過去に行った発言の動画なども合わせて広く拡散され、またSNSで抗議が呼びかけられたという影響があることは間違いないだろう。

 

参考:

Buzzap「『同性愛の子どもは自殺率が6倍高い』と笑いながら話す杉田水脈議員の動画をごらん下さい」

https://buzzap.jp/news/20180724-lgbt-sugitamio-movie-kids/

(注1)

 

今回の抗議の盛り上がりは、楽観的に捉えれば、LGBTに対する理解が広がってきたということの証左ではないか、という気はしている(注2)。Tokyo Rainbow Pride (TRP)(注3)を中心とした、どちらかというと「商業主義」的な色彩のあるLGBT運動(注4)の功罪のうち「功」の面だろうと思う。また、とりわけ「生産性」という言葉(本論考においては「生殖」とほぼ同義に用いられているが)が直截に優生思想と関連するものであったため、LGBTに限らず、障碍者や、他のマイノリティも幅広く巻き込んだ議論となった。確かに、一部の人が指摘するように「生産性」に関する言及は本論考においては必ずしも紙幅が割かれているわけではない。だが、本論考においては、LGBTへの公的支援が必要ない理由の一つとして挙げられており、それに反駁することは不当な批判ではないし、むしろ本質的な批判であろう。更に、一方においては、本論考をきっかけとして、ネット上にはまさに「生産性」を理由としたLGBTやその他のマイノリティに対する差別的言辞が溢れる結果となったことは注視すべきだと思う(注5)。逆に、「LGBTだって生産性があります!」という押し出し方だった、商業主義的LGBT運動にとっては皮肉な側面でもある。とは言うものの、時に商業主義的色彩が強いとして批判されることのあるイベントである「東京レインボープライド」の主催団体であるTRPがきちんと抗議をしたのは良かった。

 

Tokyo Rainbow Pride

「#0727杉田水脈の議員辞職を求める自民党本部前抗議」でのスピーチの全文

https://tokyorainbowpride.com/news/9631/

 

本スピーチは自民党にも配慮した内容になっており、これを以て「反日左翼」だの「パヨク」だの言われているのだとしたら、自民党には一切なんの意見も言えないことになってしまう(もし、自民党が野党だとしても、こうした意見は「反日」になってしまうのだろうか?)。それはもはや民主主義国家の政党ではない。こうした批判を受けて、自民党は杉田議員に対し「今後、十分に注意するよう指導した」。声を上げないと意見は届かない。

 

立憲BACKERS★京都
@CDP2017KYOTO

https://twitter.com/CDP2017KYOTO/status/1022481875875422209

(ツイートの埋め込みがうまくいかないので、リンクを貼ります。)

 

自らもゲイ当事者である、京都府 長岡京市議の小原明大議員(日本共産党)が「日本の政権政党の議員として、政権政党として、正しくあって欲しい」旨を呼びかけられたそうだが、これこそが抗議の本来的な動機であることを見誤ってはならない。

 

一方、そのような楽観的な見方(LGBTに対する世間の理解が深まった)は取らないとすると、次のようにも考えられる。杉田議員はこれまでにも様々な問題発言を繰り返してきたし、特に伊藤詩織さんのレイプ事件についても、詩織さんの側に「落ち度」があった、とBBCの番組で発言したことで、大きな批判を浴びた。

 

BBC News Japan

「『日本の秘められた恥』  伊藤詩織氏のドキュメンタリーをBBCが放送」

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44638987

 

とすると、今回の抗議の「盛り上がり」は #MeToo 運動の延長線上にあると考えることができるかもしれない。そう、I’m LGBT, too!! 更に言うと、その源流には東日本大震災後の反原発デモ、SEALDsによる安保法制反対デモなど、社会運動全般の盛り上がりの経験があったように思う(注6)。

 

いずれにしても、おそらくは複合的な要素が絡み合って、何かをきっかけとして盛り上がった。その中で、これまで発言を恐れていた人たちも「あ、自分も主張していいんだ!」ということに気付き、安心して発言を始める。閾値を超えたということなのかもしれない。「王様は裸だ!」と、空気の読めない子どもが叫んだ瞬間に、皆「本当のことを言っていいんだ!」と気付き、雪崩を打ったように発言を始める(注7)。

 

それはちょうど、経営学における「イノベーター理論」(注8)のごとく、最初は少数の賛同者を得、そして徐々に賛同者を集めてゆく(注9)。しかし、一定程度、どうしても賛同しない人も出てくるだろう。

 

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注1: 全体を見ても、ツッコミどころ満載の破綻した論理のオンパレードだが、この場面では、信じられないことに、同席している中山恭子氏、すぎやまこういち氏と共に笑いながら話している。この指摘に対し、反論らしい反論もせず「LGBTの知識を学校教育で教えることは必要ない」という結論をどういう論理で導き出しているのか、全く理解不能である(その直後で、「どれだけ正しい知識を先生が子どもたちに教えられるんですか、誤った知識を教えてしまったらおかしいじゃないですか」と言うが、教員の側に知識が無いのなら、教員に対して研修をすればよいし、それを理由に学校で教えないのだとしたら、学校教育においては、教員がこれまで知らなかったことは何一つ教えてはならないことになる)。ただし、「同性愛の子どもは自殺率が6倍高い」とういのは若干間違いであり、都市部の同性愛・両性愛・クエスチョニングの男性における自殺企図率が約6倍高いという研究結果が元情報と思われる。第6節でも改めて紹介する。

 

注2: だが、杞憂かもしれないが、杉田議員が女性だから叩きやすい、といったミソジニー的要素を含んでいるとしたら非常に残念だし、あるいは、ただ単に杉田議員が「叩いてもよい存在」とみなされただけなのではないか、という一抹の不安もある。もちろん、杉田議員の当該論考は到底許容できないものであることは間違いないが。

 

注3: あるいは、ネット上では揶揄を込めて「渋谷系LGBT」などとも呼ばれる。渋谷区の同性パートナーシップ制度の制定に貢献した人々がいたが、彼ら・彼女らは商業主義的マーケティング力には優れていたが、本来、これは人権に関する問題である、という論点は置き去りにされていたのではないか、という点が批判されている。

 

注4: 商業主義的LGBT運動が一概に悪いわけではない。「LGBTは未開拓の市場」といった捉え方によって、市場参加者のインセンティヴとなり、(マルクス的に言えば)そうした「下部構造」がLGBTであれ誰であれ「お金を出してくれるお客様はいいお客様」という無差別(indifference)性の文化という「上部構造」を下支えするかもしれないからだ。もちろん、市場に依存した戦略である以上、「市場の失敗」によって引き起こされる問題には全く無力である。ただ、そうした問題は、LGBTに特有のものばかりではないだろうし、これはこれで別途対処すべき問題のように思う。第6節における「アイデンティティ・ポリティクス」と「階級闘争」についても参照されたい。

 

注5: これを「差別扇動効果」というらしい。私は以前、政治に差別の構造が織り込まれていたり、政治家が差別的発言をしたりしたところで、国民一人一人は自分の信念を持っているはずだから、政府や他人が何をしようが、個人の思想・信条には影響はないはずだと思っていたのだが、英国の”Brexit”や米国のトランプ大統領選出の際に排外主義が盛り上がったように、政治家がこうした発言をすることによって、露悪的とも言える差別を堂々と開陳する人々がわらわらと湧いてくるのを見て、人間というのはそんなに強いものではないのかもしれない、と思うようになった

 

注6: これを以て、「我々のレインボーフラッグがパヨクに乗っ取られた!」と不快感を覚える保守派・右派のLGBT当事者もいるかもしれない。だが、そう思うのならば、連帯できる点は連帯し、同意できない点については、レインボーフラッグを自らのものにするために立ち上がり、議論を重ねることが必要ではないだろうか?「誰も何もするな」と言う先には何の変化もあり得ない(レインボーフラッグは性的マイノリティと取り巻く環境の変化を求める運動の象徴であり、現状維持という「対案」は、むしろレインボーフラッグにはふさわしくない)。日本では55年体制のもと、現状の秩序に「革新」を迫るのは「左翼」であったが、それは必ずしも「革新」であることと「左翼」であることが同値(必要十分条件)であることを保証するわけではないのだ。また、「LGBTが政治利用されている」などという意見も散見されるが、そうした人たちには、まるでLGBTが無色透明な存在であり、一人一人が多様な思想・信条を持った人間であるということが見えていないようだ。

 

注7: 参考:松尾匡著『はだかの王様の経済学』

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%AF%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%8E%8B%E6%A7%98%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E6%9D%BE%E5%B0%BE-%E5%8C%A1/dp/4492371052

 

注8: 参考:イノベーター理論

ビジネスのためのWEB活用術。

「【イノベーター理論】市場に普及させる5つのマーケティング戦略」

https://swingroot.com/innovator-theory/

 

注9: これをナイーヴに解釈すると商業主義的LGBT運動のようにも思えるが、人権に関することであっても次第に人々の理解を広げてゆくという本質は同じだと思う。

 

 

 

 

杉田水脈衆議院議員の『新潮45』における差別的言説と、マイノリティを巡る社会の変容(1)

第1節     杉田水脈衆議院議員のLGBTへの差別的論考とそれへの批判

 

自民党に所属する杉田水脈衆議院議員が『新潮45』2018年8月号に寄稿した以下の論考が激しい批判を浴びている。

 

Skeltia_vergber on the Web

「杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)」

http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/51543955.html

(注1)

 

私もこの件について意見を述べたいと思う。ただ、現在、シエラレオネに在住していることを言い訳にさせて頂くと、参照できる資料が限られており、やや粗雑な論考になっている可能性は否めない(特に、学術論文のように全てに出典を付けると膨大な労力と量になってしまいそうなので、ある程度、省略させて頂いた)。読者諸賢のご寛恕を請いたい。もちろん、何か誤りがあればご指摘賜りたい。

 

これまでも政治家によるLGBT(LGBTQ+、性的マイノリティ)(注2)への差別発言というのはあったわけだが、今回、ネット上でも路上でも、杉田議員の当該論考、ならびに、これまでに杉田議員が各種メディアで行ってきた発言への抗議が「盛り上がった」。

 

最初に、広い意味でのCOI(利益相反)の開示をしておくと、私自身はシスジェンダー・ゲイである。だが、杉田議員の論考はLGBTに限らず、人権と差別の本質に関わるものであり、自分のためだけではなく、世の中の様々なマイノリティのためにも発言しなければならないように思う。杉田議員の論考に関する批判はネット上などで数々行われており、優れた批判もある。例えば

 

illegal function call in 1980s

「『新潮45』2018年8月号杉田水脈「『LGBT』支援の度が過ぎる」精読」

(01) http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/07/22/215633

(02) http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/07/24/093041

(03) http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/07/25/085510

(04) http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/07/27/225332

(05) http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2018/07/30/080249

 

あるいは、

 

iRONNA

尾辻かな子「同性愛公表、尾辻かな子が徹底反論『LGBT杉田論文の度が過ぎる』」

https://ironna.jp/article/10433

 

音声で聴けるものとしては、Session 22で荻上チキ氏が当該論考のほぼすべての論点にコンパクトで的確な反論をされている(注3)。

 

TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」

【音声配信】「“マジレス”の必要あり〜自民党・杉田水脈議員のLGBTに関する『新潮45』原稿に対し、荻上チキが渾身の応答」2018年7月23日(月)放送分

https://www.tbsradio.jp/275561

 

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注1: 全文転載は著作権の問題があるかもしれないが、批判を行うにあたっての、この方による「引用」と理解することにしよう。

 

注2: LGBTはLesbian, Gay, Bisexual, Transgenderの頭文字を取ったものだが、SOGI (Sexual Orientation 性的指向と Gender Identity ジェンダー・アイデンティティ、性自認)は実に多様であり、人の数だけSOGIがあると言ってもよいくらいだ。また、自らのSOGIが分からない人、決めたくない人(”Questioning”などと呼ばれる)、更には、これにも当てはまらない人を含めて「+」を付けて、LGBTQ+などとも言われるようになってきた。あるいは「性的マイノリティ」「セクシュアル・マイノリティ」と総称されることもある。ここでは、杉田議員の論考において「LGBT」が用いられていたのでこれを用いることにするが、決して、L, G, B, Tの四つの枠組みに当てはまらない人を排除するものではない。

性自認については、身体の生物学的性と、自らの性別の認識(いわゆる「心の性」)が一致している場合を「シス・ジェンダー」、一致していない場合を「トランス・ジェンダー」と言う。化学における幾何異性体の「シス」「トランス」から連想されている。

 

参考:Tokyo Rainbow Pride “About LGBT”

https://tokyorainbowpride.com/lgbt/

なお、よく電通ダイバーシティ・ラボの調査による「LGBTは7.6%」という数字が出てくるが、これはウェブ調査によるものであり、私は、サンプリング・バイアスによる過大推計になっているのではないかと懸念している。

 

注3: ただし、その中で指摘されていた「指向」と「嗜好」の区別については、私はそんなに単純な議論ではないと思う。他人の人権を侵害しない限りにおいて、「嗜好」もまた、差別の理由とはならないからだ。

【ややネタバレあり】映画『君の膵臓をたべたい』感想文

仕事で羽田からパリに行きの飛行機に乗り、「君の膵臓をたべたい」

 

http://kimisui.jp/index.html#/boards/kimisui

 

を見た。「号泣もの」との評判を聞いていたが、僕は泣けなかった。たまたまその時、泣けるような気分ではなかったのかもしれないが、全体に、俳優の舞台演劇調な、やや大袈裟な演技(多分、意図しての演出だろうけど)や、ストーリーとして「でき過ぎている」のが感情移入を妨げていたのかもしれない(原作をなぞる以上、仕方がない面もあるかもしれないが)。いや、もっと重要な点は、この映画においては最初から山内桜良の死は確定している。だから、常々、生と死について恐れ慄き、不安に駆られる僕にとって、この映画は、他人事として「泣ける」映画なのではなく、「もし死ぬのが怖いって言ったらどうする?」と、志賀春樹(劇中の「僕」)に問うた桜良の気持ちそのものとして迫ってきたから、「泣く心の余裕が無かった」と言う方が適切なのかもしれない。

一方で、さくらの意外な死の形と(高齢者の事故死のニュースを見るたびに、私は人間って、本当にいつ死ぬか分からないんだな、と思うし、常に”Memento mori”を心にとどめておかなければならないのだと感じる)、それに対して春樹が吐露する「甘え」が、春樹の「お門違いだけど、もう、泣いていいですか?」という言葉を表層的なものにしていない。単なる別離の悲しみだけではなく、日々、桜良のことが心配でたまらなかったが、実は桜良に対してきちんと向き合えなかったのではないか、一日一日の重みをしっかりと見つめていなかったのではないか、そして、桜良が、春樹と過ごしたことによって、ささやかながら幸せを感じられたことへの喜び。あるいは、自分はもう「お門違い」の人間ではなかったのだ、という気付き。そうした、言語では到底表現し得ない感情が「もう、泣いていいですか?」に集約されている、と私は感じた。映画を見る人それぞれが、「もう、泣いていいですか?」に込められたメッセージを自分なりに読み取ることだろう。

この二人の関係性を以って、この映画を「恋愛映画」と評する意見もあるが、僕はそうは思わない。『君の名は。』の瀧と三葉の関係性にも同じようなものを感じたが、恋愛という感情を超えた、もっと人間として普遍的な結びつきのように思える。むしろ、そうでなければ、この映画の価値は無いと言ってもいい。そして、この映画のテーマは、互いの相対性・相互補完性という意味において、自説経(ウダーナ)の「此有るが故に彼有あり、此生ずるが故に彼生ず。此無きが故に彼無し、此滅するが故に彼滅す」なのだと思う。生きるとは他者と関わること、そしてまた、関わらないことによって生起する事象。桜良は「全ては偶然ではなく、自らの選択が引き起こす」と言う。そして、桜良と春樹という、人生に対する向き合い方が正反対の二人が、互いを認め、その多様性が織りなす世界を祝福する。映画の最後で明かされる、極めて技巧的なシンメトリーがそれを印象付ける。ただ、全く以って個人的な感覚だが、映画だとその技巧性が鼻に付いてしまい、見終わった後のある種の清々しさのような感情をどこか捻ってしまう。きっとこれが舞台演劇だったら、もっと素直に受け入れられたかもしれない。まあ、私の感性が捻くれているだけかもしれないが。

演出の技術的な面としては、高校生時代と大人になってからとで、配役を(全く似ても似つかぬ俳優に)変え、制服の色も変えることで、映画を見る人が「これ、いつの時代の描写?」と混乱することなく分かりやすくなっていた。高校生時代の延長として大人時代が描かれるのではなく、そういう「リアリティ」をむしろ積極的に放棄し、二つのストーリーの重ね合わせとして見せていたように感じられた。BGMも、主として弦合奏とピアノだけ(時々フルートが使われるが、他の管楽器はほとんど使われていないように思われた)の、良い意味で痩せた音楽が寂寥感を駆り立てる。

映画の中で、春樹は、苦しみ、悲しみを感じている本人ではなく、他人がそのことを悲しむのは「お門違い」と言っていた。昨年末、私のある友人が親友を亡くし悲嘆にくれていた。僕はその亡くなった人のことを知らないから、僕がそれを悲しんだり、慰めの言葉をかけたりするのは、「お門違い」だと思い、何か言葉をかけたかったが、結局言葉をかけられず、しばらく時間が経ってしまった。この映画において、桜良とは、周囲の人々にとって何者なんだろう?何者だったんだろう?「膵臓」が象徴するのは「霊」「魂」ではないか、と思った。以前、読んだ本に、仏教各宗派に「霊魂」とは何かについて訊いたアンケートが載っていた。ある宗派は「霊とは、その人の生前の生き様であり、思い」だと答えていた。とすれば、例えその人が亡くなったとしても、その霊は私たちの中で生き続ける。人生の中で関わった人を良くも悪くも無かったことにはできない。必ず、私たちに何らかの変化を刻印する。「霊を弔う」とは、その人の「思い」に向き合って生きて行くことではないのか。時にこれは辛く重荷かもしれないが、それが遺された者の務めなのだと思う。残酷な言い方だが、亡くなった人が天国から本当に私たちを見つめてくれているのかは分からない。だが、生きている我々からの「片想い」だったとしても、亡くなった人の「思い」「霊」はしっかりと私たちの中で「ここで生き続けているよ!」と囁く。ちょうど『ヨハネの手紙一』が神の愛について説いたのと同じように。そして、その話を聞いた私自身にも、その友人を介して、会ったことも名前も聞いたことも無い人の記憶が刻まれたのだ。

人間は自信が無い時、映画の中の「真実か挑戦か」のように、運に委ねる。私もこのメッセージが彼に伝わるかどうか、運に委ねよう。君の深く友人を想う生き様を見て、君は嫌がるかもしれないけど、僕は君の膵臓をたべたい。
 

 

 

 

 

 

ODA, NGO/NPOに関する各党の政策

国際協力クラスタ必見!

 

【自民】
https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/pamphlet/20171003_bank.pdf...
p.35, IV 国の基本
「国益をより重視した大綱のもと、わが国のODAと民間の投資を有機的に結合し、日本経済の海外進出を一層強固にしつつ、ODAの成果の評価を行うことで納税者の理解を得られる効果的な開発協力を推進します。」

 

【公明】
https://www.komei.or.jp/…/shuin…/manifesto/manifesto2017.pdf
p.20, ⑤安定した平和と繁栄の対外関係
⑵「 人間の安全保障」の理念の下での持 続可能な開発目標(SDGs)の達成に向 けた協力等

 

また、過去には、
「人間の安全保障」に基づく平和外交推進を申し入れ
https://www.komei.or.jp/news/detail/20160525_20132

 

中東の難民支援 進めよ
https://www.komei.or.jp/news/detail/20151210_18710

 

といった提言あり

 

 

【こころ】
https://nippon-kokoro.jp/news/policies/policy290930.php
直接的な言及無し

 

 

【希望】
https://kibounotou.jp/pdf/policy.pdf
直接的な言及無し

 

 

【維新】
https://o-ishin.jp/policy/
直接的な言及無し

 

 

【立憲民主】
http://cdp-japan.jp/teaser/pdf/pamphlet.pdf
差別解消や情報公開のための民間団体、NPOとの連携・支援の記載はあるが、ODA関係のNGO/NPO政策については直接的な言及無し

 

 

【共産】
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2017senkyo-seisaku.html
35、NPO・NGO
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2017/10/2017-35-NPO-NGO.html
61、ODA――人道援助への転換、生活分野支援、後発開発途上国支援
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2017/10/2017-61-oda.html

 

 

【社民】
http://www5.sdp.or.jp/poli…/policy/election/…/commitment.htm
憲法 活かします
11 平和憲法は変えさせない
「『誰一人取り残さない』という2015年に国連で採決された『持続可能な開発目標(SDGs)』の考え方を、内政、国際協力の両面で適用し、貧困や飢餓の解消、基礎教育、誰もが保健医療にかかわる体制の整備、ジェンダー平等の推進に取り組みます。『持続可能な世界と日本』の実現をめざします。」

 

 

<筆者コメント>
比較的新しい政党はまだODA政策をきちんと詰められていないのか、言及が無いところも多くあります。そうした中、共産党は細かな点もよく調べており、情報量は突出しています(各政党のウェブサイトの過去記事を全てくまなく調べ尽くしたわけではないことをご了承ください)。ODAに対する根本的な考え方は、自民党と、公明・共産・社民との間に開きがあるように感じられます(ものすごくざっくり言ってしまえば、「投資」か「人道」か)。

ODAに関する政策は選挙報道ではあまり注目されないかもしれませんが、日本が国際社会の中でどのような存在でありたいのか、どのように存在感を示したいのか、という点では重要なのではないかと思います。

「保毛尾田保毛男」と「差別」をめぐって

先日、フジテレビの番組で、「保毛尾田保毛男」という同性愛者を揶揄するキャラクターを復活させ、視聴者から多くの批判が寄せられた(私も幼い頃にこのキャラクターを見ていたが、明確に、古典的な男女のジェンダー規範から逸脱する人物や行為を嘲笑の対象としていたという記憶がある)。

 

ハフィントンポスト「『保毛尾田保毛男』批判に、フジ・宮内社長が謝罪 」

http://www.huffingtonpost.jp/2017/09/29/fuji-tv_a_23227139/

 

一方で、これに対し、性的マイノリティ当事者からも、「それは騒ぎ過ぎだ」という反論も寄せられた。

 

 

【「朝田理論」の誤り】

 

「何でもかんでも『差別』だと騒ぎ過ぎ。そんなことを言っていると言いたいことも言えなくなって息苦しくなる」という人は、その背後に部落解放同盟の「朝田理論」的なものを感じているのかな?となんとなく思っていたが、例のテレビ番組への批判に対して、明確に「朝田理論擁護だ!」という人が現れた。しかし、このような反発は、逆に朝田理論による、反差別運動に対する「有害」な影響であるといえよう。

 

朝田理論

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E7%94%B0%E7%90%86%E8%AB%96

 

は、確かに、「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」とする。ここで注意しなければならないのは、確かに、差別の痛みを知っている被差別者にしか分からない気持ちがあるとしても、何が「差別」であるかは、被差別当事者にしか決められず、「差別」の客観的基準が曖昧であること、また、部落民以外は悉く差別者である、として、部落排外主義、アイデンティティ・ポリティクスの陥穽に陥っている。レインボー・アクションの島田暁さんが、「『マイノリティ』とは、数の多寡よりも、放っておくと構造的に抑圧される側」と仰っていたが、「マジョリティ」対「マイノリティ」という構図には、背後にどのような権力関係の差があるのか、という文脈効果を抜きには考えられない(これは、ヘイト・スピーチ問題を考えるうえでも重要)。朝田理論の欠点は、そうした権力関係の平準化を図るのではなく、逆転させることによって、例えば八鹿高校事件のような暴力へと繋がってしまった。更に「被差別部落」対「被差別部落以外」という線引きが絶対となり、それぞれの内部にある多様性を半ば意図的に見逃すこととなってしまった。

 

参考

泥憲和「アイデンティティ・ポリティクスへの警戒」

https://togetter.com/li/652625

 

こちらは、部落解放同盟とは対立する人権連(旧全解連)側からの説明になるので、私自身、公平を保てているかどうかは分からないが、朝田理論の何が誤っているのかを理解するのに役立った。

 

雑賀光夫「『朝田理論』と部落解放運動」

http://saikamituo.exblog.jp/18467255/

(ただし、誤字・脱字が散見される。また、本文献初出時の時代的制約があるのかもしれないが、私は一部同意できない部分もあるが、枝葉末節の部分であり、本論の趣旨にはあまり影響がない)

 

5「朝田理論」の克服は、なぜむずかしいのか。

①     正しい理論とあやまった理論は紙一重

 

という項目で、現実の世界を円で表し、現実の世界の一部を捉えつつも、誤った理論をそれへの接線で表現しているが、実にうまい表現だと思った。したがって「差別だ!」と声を上げること自体が朝田理論の全面擁護に自動的になるわけではない、ということには注意しなければならない。

 

 

【人権と人権がぶつかる時】

 

マイノリティ側が差別に心を痛めて声を上げる、すると、マジョリティ側は「そんなことを言うと表現の自由が委縮する」と反応する。背後にある権力関係を抜きにして考えると、これは人権対人権のぶつかり合いであるから、「公共の福祉」という調整メカニズムによって何らかの解決を図ることが要請される(私は法学の専門家ではないので、これ以上の詳しい言及はできない)。「何でも『差別』と騒ぎ過ぎ!」と言っている人のイライラ感は、「マジョリティ」対「マイノリティ」の構造で捉えると、ちょうど、環境経済学でよく出てくる「コースの定理」に対する「市民」の違和感の裏返しになっているように感じる。

 

小島寛之「コースの定理は、非人間的か?」

http://archive.wiredvision.co.jp/blog/kojima/200710/200710041100.html

 

同「コースの定理と経済学のクールさ」

http://archive.wiredvision.co.jp/blog/kojima/200710/200710091100.html

 

上記の例で言えば、「工場がなぜ漁民に補償せねばならないのだ!我々の自由な経済活動が阻害される」という感じか。しかし、このコースの定理は、取引費用がかからない、など様々な仮定が置かれているし、上記の記事でも指摘されている通り、工場側、漁民側のいずれが補償しても、社会的にはパレート効率的な資源配分が実現されると言っているだけで、双方の利益配分は異なり得る。工場と漁民のバーゲニング・パワーの違い(取引費用の不公平性)を考慮するならば、「工場の自由な経済活動」には制約がかけられてもやむを得ない、と考えられるだろう。それはちょうど、「マイノリティ」対「マジョリティ」の関係にも当てはまる。

 

 

【アイデンティティ・ポリティクスの限界を超えて】

 

ある特定のアイデンティティ集団(必ずしも物理的な集団が存在するわけではない)のマイノリティ性により、社会から差別を受けることは避けねばならない。しかし、アイデンティティ・ポリティクスは、時として、あるアイデンティティを共有する集団は一様であり、その内部には多様性は存在しない、という誤解を招いてしまうことがある。同じアイデンティティ集団の中にも貧富の格差があり、抱えている困難もそれぞれに異なる。また、意見も一人ひとり、様々に異なる。それは、我々は、ある面において「マジョリティ」であり、同時に、別の面において「マイノリティ」でもあり得ることとも関係している(私は、シエラレオネに住む日本人としては、「マイノリティ」であり、時に「チンチョン!」などとからかわれるが、日本という高所得国に生まれたがために、何もしなくても、バラッサ・サミュエルソン効果の恩恵を受けている、という面において、お金というある種の力を持つ側にいるから、私が単に「マイノリティ」であるとナイーヴに考えないようにしている)。「何でも『差別』だと騒ぎ過ぎだ!」と性的マイノリティ当事者が発言したことを以て、まるでそれが当事者の「お墨付き」を得たかのように解釈するのは誤りだ。そのように感じる人もいれば、そのように感じない人もいる。

 

音声配信「当事者が痛いと言っているから、足を踏むな~”保毛尾田保毛男”問題に荻上チキがコメント」▼2017年9月29日(金)放送分(TBSラジオ「Session-22」)

https://www.tbsradio.jp/186379

「当事者でも不快に感じない人もいる。だが、不快に感じる人もいて、その告発を無効化することはできない。繊細な人もいる。」

 

そうした中で、マサキチトセさんが仰るように、

https://twitter.com/GimmeAQueerEye/status/911385685071880192

 

「社会全体の構造による不利益の蓋然性の差」が「差別」であるならば、障害学における「社会モデル」のように、この構造はゲーム理論的にも説明し得る(このあたりは、松井彰彦先生の本なんかをもっときちんと読まなきゃ、と思う)。人間の行動は、セクシュアリティとか、人種とか、民族とか、障碍の有無とか、そういう「アイデンティティ」によって決められている部分もあるかもしれないが、その多くは、所与のものとして存在している社会においてどのような行動が有利になり、また、不利になるか、を、意識的にせよ、無意識的にせよ考えた結果、生成される。だから、そうした不利益を解消するためには、社会の構造が変わらなければならない(これは観念的なものだけではなく、もっと物質的なもののこともある。例:階段のある駅にエレベーターが設置されているか、など)。したがて、アイデンティティ集団という区分だけで世界を切り分ける必然性はない。性的マイノリティ集団内部でも、差別表現に傷付かない人が「マジョリティ」であったとしても、それは、より「繊細」な、その内部の「マイノリティ」を無視してよいということにはならない。一般論として、あるマイノリティ集団の中で「こんなの問題にされる方がおかしい。もっと『普通』に合わせなければ」という気持ちを抱くことは、ある社会秩序からの明示的であれ、暗示的であれ、抑圧を感じ、その社会秩序に「合わせる」ことによって自由と人権が担保されるとの思いがある可能性があり、そのこと自体は否定しない。しかし、私は「もっと自由でいいんだよ」と言いたい。「常識」「社会秩序」を疑うことを躊躇する必要はない、と言いたい。一方、自分が「マジョリティ」の立場に置かれた時、「マイノリティ」側からの告発は予想もしなかったもので、びっくりしてしまうかもしれない。「そんなつもりじゃなかった」と。しかし、私たちは、そうした対話を重ねることによって、「常識」を疑い、より良い社会を作ってゆけるのだと信じたい。

 

 

参考

議論が拡散しそうなので、細かい言及は避けるが、障害学における、川越敏司先生の「情報保証と自由」という、語りかけるようなスライド

http://www.fun.ac.jp/~kawagoe/disability/kawagoe.ppt

(PowerPointファイル)

は、「差別」とは何かを考える点で参考になったが、ますます分からなくもなった…..。先日の、バニラ・エアと障碍者をめぐる問題を考えるうえでも参考になる。