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集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~第2部

2014年8月23日


第2部 現状の国際関係に対する考察 ―集団的自衛権が必要とされる状況でもないし、集団的自衛権を行使するのは現実的に難しい―



<東アジア地域において戦争は本当に起こるのか>


前段で述べた、国際的な友好・平和の取り組みに対する認識に対し、右派の側からは以下のような批判もあります。


もう少し右側通行「『アジア安全保障協力機構』の実現に必要なもの」
http://rightabit.blog.fc2.com/blog-entry-47.html


ただ、上記の記事には現状認識としてはおおむね同意するものの、そこから導き出される結論には私は同意しません。むしろ、緊張を緩和するための流れを作ることはできると考えています(某新聞を含む、右派系の記事の中には非論理的なものがしばしば見られるのですが、このブログは、自称「ネトウヨ」の方が書かれたものですが、上記以外のエントリも含めて、丁寧な分析に基づき、左派に対しての鋭いツッコミとなっており、読み応えがあります。ただ、結論に関わるいくつかの点において私は同意しない部分はあります。おそらくその大部分は第二次世界大戦前後の世界的なレジームの変化・国際連盟と国際連合の違いをどう捉えるかの違いによるのではないかと思います)。私が、2013年7月19日に


「中国や北朝鮮は本当に『脅威』なのか?」

http://ameblo.jp/mot82yn/entry-11575954546.html


という文章を投稿しましたが(一言でざっくり言うと「中国も北朝鮮も自国の利益を最大化しようと貪欲である。「だから」日本を攻撃するのはかえって損になるから、しない、という推定)、「資源を獲得し続けなければ経済成長が維持できない」という考えは誤りであり、このことに中国が一刻も早く気が付き(もしかしたら既に気付いていて、何らかの他の思惑がある可能性も否定できませんが。例えば、中国共産党と軍との国内のパワーポリティクスが関わっている可能性は考えられると思います)、また、日本がそのように中国を諭し、経済的・政治的連携を強めてゆくことが必要と思います。


また、一方で、集団的自衛権を北朝鮮による拉致問題と絡めて、「こうした抑止力が無かったから、拉致事件が起きてしまった」という論調が一部にあります。しかし、そもそもこうした「テロ」事件は、第一義的には海上保安庁を含む警察権の強化が予防にとって必要であり、拉致が国際法上日本の主権の侵害になるとしても、それは日本の個別的自衛権の問題であり、既に日米安保条約がある中で、日本が他国を防衛する権利を得たところで、それが拉致の抑止力になる、という論理は俄かには信じがたいものです。以下の、Wikipediaの記事の「事件とその後の推移」には引用が付いておらず、具体的な出典を確認できませんが、「こういう指摘もある」という程度には参考になるかもしれません。


Wikipedia 「北朝鮮による日本人拉致問題」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%8B%89%E8%87%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C


また、「右派」というよりは「リアリズム」の観点から、以下のような指摘もあります。


羊谷知嘉 Whole Earth Museum「東アジア新秩序、集団的自衛権の閣議決定を強行した安倍政権の日印豪同盟構想」
http://chikahitujiya.com/2014/07/07/eastasia_abe/


安倍政権は、露中韓という軸に対し、日印豪同盟そして、できれば日本に好意的な東南アジア諸国を取り込むことでパワーバランスを取ろうとしているのではないか、そして、そのために「集団的自衛権」は「外交カード」として必要なのだ、という指摘です。確かに、この分析は、ある程度正鵠を射ていると思われますし、羊谷氏のブログの他のエントリ(例えば、ウクライナ情勢に関する記事)も読んでみると、リベラリズムの立場からは耳の痛いものだと認めざるを得ないものが多いと思います(多分、議論の出発点になっているのが人間に対する捉え方で、羊谷氏と私はそれが異なっているのだと思います。私はどちらかというと経済学が想定する「自己の利益にしか関心のない合理的な人間」を仮定していると自分でも思うので。「自己の利益にしか関心が無い」とは、自分が損をするのなら他人の足を引っ張ることはしない(行動経済学が教えるように、現実には自分が損をしてでも他人の足を引っ張ろうとする人はいるのですが)、「バックワード・インダクション」でゲームの手を選んでゆき、将来の期待に対しても十分考慮できるような合理的な経済人です。これは、ある意味、近代的な自我と自由の肯定なのです。それに対し、羊谷氏は人間はもっと近視眼的で非合理である、と認識されているのではないでしょうか)。ただ、この記事の最後の段落を読むと、羊谷氏が必ずしも無条件に現状を肯定しているわけではないように思います。「このような背景を理解したうえで、反対論をぶつけるべきだ」という思いが込められているように読めます。確かに、現在は国際的に緊張状態が全く無いかと言えば、そうではありません。だが、そこで終わっていいのか、長期的なwin-winの関係というものは必ずあるはずだ、そういう方向性を私は(おそらく羊谷氏も)目指してゆきたいと思うのです。


一方で、上記記事中でも指摘されているように、北朝鮮が拉致問題において日本に譲歩してきたような態度は、北朝鮮に対し、中国から原油の供給が停止され、日本に助けを求めてきたのだ、という見方もされています。


重村智計 日経ビジネス ニュースを斬る「中国と韓国が北朝鮮を崩壊させる戦略に転換~石油の供給を停止」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20140629/267727/?P=2&ST=smart


この背景に中国と共に米国が深く関与しているとすれば、米国と中国が共通利益のために一致できることを示しているのではないでしょうか。また、韓国も中国・米国のどちらか一方により「いい顔」をしても、それぞれに痛し痒しというところでもあると思われ、


tenten99 BLOGOS「米韓関係に激震か『韓国は米国の中国包囲網に参加してはならない』」

http://blogos.com/article/90325/


実際、韓国は「親米和中」という方向性を取っており、


姜尚中 ハンギョレ(日本語版)「ハンギョレ創刊25周年リレー寄稿② 考える国 平和のある韓半島」
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/14697.html

(ちなみに、原題は「大韓帝国になるのか、‘ベネルクス3国’になるのだろうか」となっているようです。韓国の新聞記事、そして姜尚中氏の寄稿ということで、いわゆる「ネトウヨ」の方々は、特に最初の方の「20世紀の初頭、韓半島は事実上、日本の植民地下に置かれ、その後、日本帝国の軛のもとで亡国の歴史を彷徨い」というあたりを読んだだけで、あるいは全体に韓国におもねるような書き方を見て、読む気を無くしてしまうかもしれませんが、「ハンギョレ」は韓国における中道左派系メディアであり、特に韓国の内政問題に関しては興味深い論考だと思います。)


実際に、軍事・安全保障面でも、中国を想定した、日米韓の同盟強化は進んでおり、ハンギョレ紙は、中国を取り込むことができなければ、北朝鮮の核問題の解決を遅らせる、と懸念を示しています(つまり、韓国左派メディアであるハンギョレ紙が懸念を示すほどに、米韓の関係は緊密ということです)。


ハンギョレ 「[社説] 中国を想定した‘韓-米-日軍事協力’は危険だ」
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/17512.html


こうした米国の立ち位置を考えると、羊谷氏の上記の記事にあるような、露中韓と、日印豪(+ 米)という二つの「同盟」が、直ちに互いに拡張主義を取ってきれいに分かれるものでもないと思います。



<仮定の話は常に恣意的であり、国際関係について「エビデンス」を示すことは難しい>


そうは言うものの、軍事力無くしては、戦争は抑止できない、という主張も根強くあります。


池田信夫 エコノMIX異論正論「戦争を防ぐには「戦争のできる国」になる必要がある」
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2014/05/post-837.php


上記の文章で、池田氏は「安全保障のジレンマ」として、「囚人のジレンマ」の例を出し、タイトルにある通り、「戦争を防ぐには戦争のできる国になる必要がある」と「抑止論」を正当化します(ただ、正しくは、本当に「戦争のできる国」になる必要は無く、「戦争ができる」というシグナルを発する(相手にそう信じさせる)だけで十分です。史実はともかくとして、織田信長の美濃攻めにあたり、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が墨俣に一夜で城を築き、敵の戦意を喪失させた、という逸話がありますが、この一夜城は張りぼてであった可能性があり、このシグナリング・ゲームを分かり易く表現してくれています)。ただ、そもそもこの問題は個別的自衛権に関わる問題であり、集団的自衛権とは関係がありません。また、この「シグナル」は必ずしも自前の防衛組織である必要は無く、集団安全保障でも良いわけです(あるいは、「核の曖昧政策」ではありませんが、「もしかしたら安保理による集団安全保障が発動される可能性があるかもしれない」という程度の確率のシグナルであっても有効かもしれません)。もしかしたら、池田氏は、集団的自衛権と集団安全保障を混同しているのかもしれません。一方で、この池田氏の主張は、その後の「抑止論」的構造によって生じる軍拡という新たな囚人のジレンマを完全に捨象しています。これはまさに、冷戦時代における「核抑止論」の通常戦力版焼き直しに過ぎず、冷戦の経験から何も学んでいないことになります。今日の平和の均衡は軍事力による抑止の均衡である、というのも、上記の文中では検証が全くされておらず、因果関係を特定できません。むしろ、私の持論ですが、第二次世界大戦という核兵器までもが実際に用いられ、連合国・枢軸国どちらの陣営にも軍民問わず膨大な犠牲をもたらした経験によって、また、その後の冷戦と核兵器の際限無い製造・保持を経験し、常に恐怖と緊張にさらされてきた経験によって、そして何よりも、現実問題として、軍事費の過重な財政負担に苦しんできた経験によって(例えば、米国において、いわゆるケインズ主義的政策を批判したはずのレーガン政権が、「軍事ケインズ主義」に走り、「双子の赤字」を招いてしまったことは皮肉なことでした)、人類はこの新たな「囚人のジレンマ」からの脱却を図るべく、「情けは人のためならず」という「フォーク定理」を信じ始め、「デタント」が起き、そしてついには、冷戦は終結した、ということではないのか、と思っています。


また、この手のゲームの模式化は恣意的(という言葉が嫌いならば、「テキトーに利得行列を決めた」とも言い換えられるでしょう)であり、本来ならば、十分な”sensitivity analysis”を行い、仮定によるパラメータの変化に対し、結果がどれほど依存的であるかを検証するべきでしょう(これは私自身の主張に対しても言えることですが)。費用対効果分析ではこのパラメータの変化によって、最終的に実現される場合(部分ゲーム完全均衡になる「手」)がどのように異なってくるか検証します。こうした単純な静学ゲームのモデルは分かり易いのですが、より現実的には動学ゲームとして捉え、また、情報が不完全(それまでの相手プレイヤーの取った手が分からない)、不完備(相手プレイヤーの利得が分からない)ような状態を想定し、費用対効果分析で行われるような詳細な検討が行われないと、誤った結論を信じてしまう可能性もあります(もちろん、この不完全情報の同時手番ゲームは、確かに国同士の駆け引きのある一面を表しているとは思いますが)。


一方、昨今、特に途上国の開発や医療などの政策分野において何かと「エビデンス」が強調されています。これは統計的手法により帰納的に結論を導き出す方法であり、仮定に依存せず(せいぜい母集団分布の仮定に依存して推定バイアスがもたらされる可能性がある)大きな強みがあります。しかしながら、世界には195か国(日本が承認している国家+日本)か、日本が承認していない国家・地域を合わせても高々200程度であり、そのなかで、さらに軍事的関係の効果を検証しようと思えば、サンプル数は統計的には十分でありません(無数に起きている内戦については研究がなされていますが、古典的な”nation state”どうしの戦争に関しては、研究が難しいのではないでしょうか)。したがって、帰納的な「エビデンス」を示すことは難しく、上記のようなモデルからの演繹的な議論にならざるを得ないため、どうしても恣意性が入り込んでしまうことは避けられないのかもしれません。したがって、集団的自衛権が紛争の抑止に効果があるとする側も、無いとする側も、「ラッセルのティーポット」ではありませんが、「絶対的に正しい答え」を見出す(証明する)ことは、極めて困難であり、「神学論争」に陥りがちであり、左右のイデオロギーの対立はそのパラメータの仮定の恣意性と事象の観測の不完全さゆえに生じていると言ってもよいかもしれません。とはいえ、私は、後で述べるように、仮にどんなに軍事的緊張が高まっているとしても、「個別的自衛権」で十分であり、「集団的自衛権」を衝突の回避のための手段として位置付けることは難しいという考えです。



<「抑止力」の先にあるもの>


もし、相手方が軍事力を増強している段階にあり、自国の安全を守るために自国の軍備も増強しなければならないとしましょう。それで、抑止の均衡が保たれれば良いのですが、その均衡のしじまを破って、相手が何らかのアクションを起こす可能性も考えておかなければ「抑止力」たり得ません。以下の記事にあるように、イスラエルは武器がハマスの手に渡るのを防ぐために、密輸段階で攻撃を行いました。しかし、それで軍事的緊張が解決してしまうことはなく、ガザへの無差別攻撃まで行わなければならなくなってしまったのです。


松本太 JBPress「ガザの悲劇から学ぶべき教訓 イスラエルに打ち込まれる憎しみのミサイル」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41294


松本氏は言います。「隣国ではハマスのミサイルよりも比較にならないほど格段に優れた精度と射程、そして弾頭を誇る数百に上る弾道ミサイルや巡航ミサイルが、日本列島を実際に物理的射程におさめているというのに、現代の日本の安全保障の議論は多分に空理空論に陥りがちである。(中略)残念ながら今回もまたガザの紛争は容易には止められないだろう。一方、私たちは、そうした悲劇からも多くを学ぶことができる。あるいは、悲劇であるからこそ学ぶべきなのだ。」なんと皮相な「学び」でしょう!松本氏は「悲劇」という言葉の意味を分かっているのでしょうか?もし、日本がイスラエルに「学」んで、近隣諸国の軍事的脅威に対抗せよというのなら、東アジアにおいて、リスクを覚悟で軍事的緊張を高めよと言っているに等しいではないですか。むしろ、国連総会決議181号(II)(パレスチナ分割決議)が反故にされ、既成事実がどんどん積み重ねられ、今日の混沌と悲劇を招いてしまった歴史に我々は学ぶべきではないでしょうか。



<集団的自衛権の行使例として挙げられる「事例集」は不自然>


日本を取り巻く環境の中で、本当に戦争は起きないのでしょうか?安倍総理はそうは考えていないようです。しかし、安倍総理が集団的自衛権の行使例として挙げたものは、本当に現実的なのでしょうか?安倍総理が記者会見で用いた、海外で有事があった際に、邦人を米艦が移送し、それを自衛隊が警護する場合ですが、以下の記事にある通り、警護する対象は米国の戦艦または航空機というよりは、その中にいる邦人であって、警察権または個別的自衛権の問題であり、集団的自衛権とは関係がありません。また、例えば、北朝鮮から米国本土に向かってミサイルが発射された場合にそれを打ち落とす事例については、技術的に不可能であり、また、そのような場合には、在日米軍基地も標的になるため、当然個別的自衛権で対応することになると指摘しています。


集団的自衛権と自衛隊(その1) 柳澤協二さん講演レポート
http://www.magazine9.jp/article/shudanteki-jieiken/13052/


なお、北朝鮮から米国本土に向かうミサイルが発射された場合、それを直ちに打ち落とすという事例を「集団的自衛権」という権利で以て合法性を主張するのは、ICJによる集団的自衛権発動の要件である、武力攻撃の直接の犠牲国による、
1) 武力攻撃を受けた事実の宣言
2) 他国への援助の要請
が必要という条件に合致するとは考えにくいことです。


また、北朝鮮の装備は貧弱であり、通常戦力においては米韓連合軍が圧倒しています。


zakzak「米韓軍“平壌没落”作戦「2週間で完全制圧」 北はゲリラ戦、生物兵器で抵抗か」
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130411/frn1304111820007-n1.htm


もし、北朝鮮が韓国や日本を攻撃するようなことがあれば、米韓連合軍による報復が想定され、北朝鮮の指導者・政府がそれを覚悟しているとは考えにくいことです。むしろ、現在の体制をなんとか維持し、「瀬戸際外交」によって、より有利な援助の条件を引き出した方が、彼らはぬくぬくと生活できるわけですし、もし仮に韓国が完全に北朝鮮によって占領されたとしても、インフラ等の破壊は免れず、有能な人員も大量に国外に流出することを考えれば、わざわざリスクを冒してそんなことをする意味がありません。
米韓連合軍が北朝鮮を圧倒しているからこそ、日本に「援軍」を頼む、というのもまた考えにくいことです。そうは言っても、「窮鼠猫を噛む」のでは?という意見もあるかもしれません。もしも、北朝鮮がそうした「合理的」な判断ではなく、「非合理」になって、彼らが失うものを恐れることなく日本を攻撃しようとしていると仮定するならば、日本がいかに軍事的防御を固めようとも、それは「抑止力」にはなり得ず、論理矛盾を起こしてしまいます。


また、中国軍の装備も近代化しているとは言えないという指摘もあります。


笠谷哲郎の仕事道・男塾
第56回「恐るるに足らず中国軍の戦力・本当は強い日本の自衛隊」
http://www.ishin-okayama.jp/otokojuku/column/detail.php?id=56
(ただ、最後の段落で「しかし、ハイテクの近代兵器で中国軍を圧倒する日本には最大の欠点がある。憲法9条の縛りで手も足も出せないことだ。」とありますが、もし日本に対して武力攻撃があった場合は、個別的自衛権で対応できるので、この文章はミスリーディングでしょう。)


毎日新聞「特集ワイド: 首相が急ぐ集団的自衛権行使容認 非現実的な「事例集」←専門家が指摘」
http://mainichi.jp/shimen/news/20140617dde012010008000c.html
(毎日新聞のサイトでは会員登録しないと記事が読めない場合がありますが、このタイトルで検索すると転載している他サイトも見つかります。)


しんぶん赤旗「主張 行使『事例集』 必要のなさが浮き立つばかり」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-05-28/2014052801_05_1.html


もし、仮に国際情勢が緊張し、日本が集団的自衛権を行使できることになったとしても、


上久保誠人のクリティカル・アナリティクス「集団的自衛権の行使容認で国民の命は守れるか?その本質は『他国と戦争に突入しやすくなる』こと」(DIAMOND online)
http://diamond.jp/articles/-/54265


の4ページ目にあるように「巨大な米軍に小さな自衛隊が加わったら、敵国に戦争を思いとどまらせる抑止力が高まるというのは、ロジックとして非常に苦しい」のです(ただし、上久保氏のこの一連のコラムには、政治に対して「品性」であるとか、法的枠組みよりも政治家の人間性を重視するような主張が出てくるのですが、私はこのような考え方には与しません。それは「法の支配」ではなく「人の支配」に繋がるものだからです。制度が人の善意に頼るようになってしまったら、それは制度設計としては失敗であると私は考えています)。


また、政府が想定しているような事態に対しては、集団的自衛権を認める必要は無く、自衛隊の部隊行動基準(武器使用基準)の緩和だけで十分対応できる、という意見もあります。


In the Eyes of an Étranger「長編コラム:集団的自衛権は、正しくも、必要も、抑止効果もない(概論と各論)」
http://in-the-eyes-of-etranger.blogspot.jp/2014/07/blog-post_5272.html


ただ、上記記事にある「共同部隊防護」が本当に日本国憲法上合憲とみなされるのかどうかは難しいところだと思いますが、それでも「集団的自衛権」の概念よりは随分狭いということは言えるでしょう。


(参考)
朝日新聞「新戦略を求めて 武器使用で日本は独自に制約」
http://www.asahi.com/strategy/0416a.html
(明石康氏へのインタヴュー。記事中に「元国連事務局長」とあるが、正しくは「元国連事務次長」)


なお、主要全国紙各紙のスタンスとこれまでの経緯をまとめた以下のサイトは参考になります。

Media Watch Japan 「集団的自衛権」
http://mediawatchjapan.com/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9-%E8%AB%96%E7%82%B9%E6%95%B4%E7%90%86/


私は、上記の記事の「反対派の主な主張」にある通り、「米軍を守るべき状況でも、個別的自衛権で対応できる」という主張に同意し、集団的自衛権を認める必然性は無いと考えます。なぜ、集団的自衛権を認めるべきではないか、については後述します。


また、国際関係に関するもう少し抽象度の高い議論から、以下のような論考もあります。少し分かりにくいのですが、「戦争を防ぐために集団的自衛権は不要であり、かつ有効ではない」という主張と読めます。


藤原帰一「集団的自衛権 ― 戦争はどう始まるのか」(東京大学政策ビジョン研究センター)
http://pari.u-tokyo.ac.jp/column/column113.html


朝日新聞「(集団的自衛権 行方を問う)国際政治の現実映していない 藤原帰一・東京大学教授」
http://www.asahi.com/articles/DA3S11053180.html


また、米国から集団的自衛権の行使を実際に要請された場合、どのようなジレンマが考えられるのか、ということも考慮して然るべきでしょう。


伊藤真のけんぽう手習い塾「安保法制懇報告書でみる『集団的自衛権』の危うさ(後半)」
http://www.magazine9.jp/article/juku/12826/



<「駆けつけ警護」論の非現実性>


集団的自衛権と自衛隊(その2)柳澤協二さん×伊勢崎賢治さん 対談レポート
http://www.magazine9.jp/article/shudanteki-jieiken/13144/


海外で活動を行うNGOはまさに “NON GOVERNMENTAL Organization”であるからこそ、信頼されるという側面は否定できないものであり、上記の記事で伊勢崎氏が言うように、「駆けつけ警護」というあり方自体が、国連の平和維持活動の現実からすると、やはりそれなりの無理を抱えていると言わざるを得ません。実際にNGO関係者からも懸念の声が挙がっています。


毎日新聞 「特集ワイド: 集団的自衛権の行使容認で『日本が失うもの』」
http://mainichi.jp/shimen/news/20140701dde012010008000c.html


特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター(JVC)
「集団的自衛権をめぐる論議に対する国際協力NGO・JVCからの提言
―紛争地の現実を直視し、武力行使で「失うもの」の大きさを考慮した議論を求めます―」
http://www.ngo-jvc.net/jp/projects/advocacy-statement/data/20140610%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9JVC%E6%8F%90%E8%A8%80%E6%9B%B8.pdf


一方でNGO関係者からも賛成の声があることも事実です。


NHK 「集団的自衛権 NGOからはさまざまな声」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140702/k10015670381000.html

(リンク切れ)


この記事だけからは詳細は分かりませんが、もし、集団的自衛権に肯定的側面があったとしても、「失うもの」との比較衡量が十分なされたとは言えず、今回の閣議決定に際して、少なくともこの点については議論が拙速に過ぎたことは否めません。

集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~第1部

2014年8月23日

 

第1部 「集団的自衛権」という概念の克服を

 

 

 

<集団的自衛権とは―「集団的自衛権」と「集団安全保障」を混同してはいけない―>

 

 

 

そもそも、「集団的自衛権」とは、「他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利」であり、

 

 

Wikipedia 「集団的自衛権」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9

 

 

国連憲章第51条に
「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」

 

と定められています。時折、「集団的自衛権」と「集団安全保障」は混同されることがありますが、国連憲章にあるように、安保理の決定に基づいて国際社会が一致して安全保障にあたるのが「集団安全保障」です。国連の原則はあくまでも「集団安全保障」であり、個々の国の武力行使は原則として禁止されています。ある国に対して武力攻撃があった際に、「個々の国の(個別的であれ、集団的であれ)自衛権だけで何とかしろ」というのでは、国連(あるいは安保理)の存在意義が無くなってしまいます。しかし、この「集団安全保障」は、必ずしもある国が何らかの攻撃を受けてからすぐに発動できるとは限らないので、安全保障理事会が適切な措置を取るまでの間、「集団的自衛権」が、その例外的措置として認められているものです。

 


<集団的自衛権は冷戦と無関係ではなく、常に濫用の危機に晒されてきた>

 

 

集団的自衛権という概念は、上記のWikipedia記事に簡潔にまとめられているように、長い歴史の中で慣習法的に認められてきた「個別的自衛権」と異なり、第二次世界大戦後の国連憲章において初めて登場した概念です。

 

 

松葉真美「集団的自衛権の法的性質とその発達 ―国際法上の議論―」(『レファレンス』 平成21年1月号)
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200901_696/069604.pdf

 

 

もともと、国連憲章の原案となった「ダンバートン・オークス提案」には、自衛権の根拠となるような条文は無く、一方で、集団安全保障を基礎としつつも、大国には、安保理において、有名な(悪名高い?)「拒否権」が与えられることになった(つまり、大国どうしの思惑が一致した時しか安保理が機能できない仕組み)ため、国連や地域的同盟機構が武力を伴う強制措置を取ることができなくなる場合が生じてしまうため、米州諸国どうしの集団的自衛権を規定した「チャプルテペック協定」を持つラテンアメリカ諸国がこれに懸念を抱きました。国連を設立するにあたって、サンフランシスコ会議が開かれましたが、この際に出された修正案には大きく分けて
① 地域的機構による強制措置の許可について、安保理の表決手続きを緩和する
② 緊急の必要性に迫られた防衛活動に限り、安保理の事前の許可を不要とする
という2つの流れがあり、チャプルテペック協定を支持ずる米国の②の提案が取り入れられ、現在の国連憲章第51条の形になりました。つまり、集団的自衛権を国連憲章に規定するにあたって、米国が関与していたことは間違いないのですが、はたして、米国がどれほどの思惑でこのチャプルテペック協定を支持していたかは分かりません。

 

 

平成18年(ネ)第499号 自衛隊のイラク派兵差止請求控訴事件 準備書面(23)
http://www.haheisashidome.jp/shiryou/kousosin/k05_zyunbisyomen23.pdf
(米国がソ連の拒否権によって米国の行動が制限されないように、集団的自衛権の概念を持ち込んだ、とする)

 

 

佐瀬昌盛著『集団的自衛権』
http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9%E2%80%95%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E7%80%AC-%E6%98%8C%E7%9B%9B/dp/456961616X
(そうは言っても、大国どうしで集団的自衛権という概念を導入することに合意できたのだから、これは米国の思惑でできたものではない、とする)

 

 

ただ、一方で、上記のいずれの文章にも述べられているように、冷戦のさなか、集団的自衛権は常に濫用の危機に晒されてきました(特に、「集団的自衛権の法的性質とその発達」を参照)。1981年のニカラグア事件に際して、国際司法裁判所(ICJ)は、「集団的自衛権を行使するためには、武力攻撃の直接の犠牲国による、武力攻撃を受けた事実の宣言及び他国への援助の要請」が必要であるとしたものの、その後の集団的自衛権の行使事例を見てみても、きれいな「善玉」対「悪玉」そして、その「善玉」を応援するための集団的自衛権、というような構図ではなく、いわゆるグレーな状態であり、たとえ武力攻撃を受けた国(必ずしも国家として一枚岩であるとは限らない)からの要請があったとしても、かえって状況を混乱させる可能性もあります。

 

 

最近では、他国から武力攻撃を受けた場合ではないので、集団的自衛権の問題と同列には論じられないかもしれませんが、ロシアがウクライナへの軍事介入に際して、政変によって大統領を解任されたヤヌコビッチ氏からの要請があったため、としてこれを正当化した事例を想起しました。先日、ウクライナ東部でマレーシア航空機が撃墜されるという、起こってはならない悲劇が起きてしまいました。犯行はウクライナ東部の親ロシア派分離勢力によるもの、との見方がされていますが、もし、仮に第三国が、親ロシア派を「国家に準ずる組織」とみなして集団的自衛権を発動して親ロシア派分離勢力を攻撃したらどうなるでしょう(現実的に起こる可能性は低いですが)?ウクライナ東部はクリミアとは歴史的経緯が異なるので、ロシアがこれに反撃する可能性は少ないと思いますが、もし仮にロシアがこの紛争に介入する事態になったとしたら、どちらが「正し」く、どちらが「防衛」している側なのか、というのはウクライナの歴史を紐解けば、そう簡単ではないでしょう(もちろん、ウクライナの政変に乗じたロシアによるクリミア半島「乗っ取り」事件は、およそ正統な手続きを経ているとは考えられず、正当化され得ないとは思っていますが)。

 

 

別の例を挙げましょう。先の例と同様に、政府と反政府勢力との間の紛争に第三国が介入する例ですが、攻撃を受けた側からの要請に基づいて、その紛争に介入するという点では、集団的自衛権の場合と構図は良く似ています。2013年、フランスはマリの反政府勢力を制圧するために軍事介入しましたが、その時、誰が「正し」く、誰が「防衛」する側だったのでしょうか?

 

 

NHK解説委員室「視点・論点 『アフリカとどう向きあうか(3) フランスのマリ介入と日本』」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/157910.html

 

 

Iran Japanese Radio 「フランスのマリ軍事介入、その目的の表と裏」
http://japanese.irib.ir/programs/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%83%85%E5%8B%A2/item/34885-%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BB%8B%E5%85%A5%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%9B%AE%E7%9A%84%E3%81%AE%E8%A1%A8%E3%81%A8%E8%A3%8F
(まあ、イランのメディアなので、割り引いて読む必要はありますが、おおむね妥当な分析だと思います。)

 

 

こうした事例は、東アジアから遠く離れた国の出来事であるから、日本にはあまり関係が無いと思われるかもしれません。しかし、「集団的自衛権」とは、「攻撃した側」と「攻撃された側」を峻別し、「攻撃された側」に肩入れしてこれを防衛するということなので、それがどんな帰結をもたらすのかということは十分に考えなければなりません。

 

 


<集団的自衛権という歴史上の「過渡的」権利の克服を>

 

 

第二次世界大戦後の国連の仕組みは、集団安全保障が基本であり、地域的なつながりにしても、

 

 

深草 徹『集団的自衛権を考える―北岡伸一批判』
http://members.jcom.home.ne.jp/katote/data35.pdf

 

 

にあるように、現代の平和主義は、19世紀的パワーポリティクスから脱し、欧州安全保障協力機構(OSCE)の「ヘルシンキ宣言」や東南アジア諸国連合(ASEAN)を中心とする「東南アジア友好協力条約」などに見られるように、武力の行使を放棄するような潮流がある中で、集団的自衛権にこだわるべきではないと思います。また、一方で、集団的自衛権は、近代的にして古典的な ”nation state” の間のためのものであり、テロや民族・宗教などによる内戦などのほうがむしろ不安定化要因になっている現代において今後も重要な権利概念であるとは思えません。

 

 

一方、今回の閣議決定では、「国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の『国連軍』は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている」と、「集団安全保障」の理想を否定しかねない論理によって、なし崩し的に「集団的自衛権」を維持・強化しようとしているのは、第二次世界大戦後、平和国家として積み上げられてきた日本の「ブランド価値」、即ち、平和国家として世界の中で必要とされる日本の役割、ひいては先人たちの努力の価値を棄損するものであり、方向を見誤っていると言わざるを得ません。先に引用した「集団的自衛権の法的性質とその発達」にもあるように、集団的自衛権の法的性質自体に様々な矛盾があり、歴史の中で作られた妥協の産物、例外的かつ過渡的な「権利」として、今後克服してゆくための一つの実証例を日本は提供できるかもしれなかったのに、その機会を逃すことになってしまった(なろうとしている)のは大変残念なことです。

 

 

 

 

【Facebook過去記事】 集団的自衛権の行使を容認する閣議決定に反対し、撤回を求める ~序文

2014年8月23日

 

原稿を書いてから、いろいろと忙しく、すっかり投稿が遅くなってしまいました。
7月1日、安倍内閣は集団的自衛権の行使を容認することを一つの柱とする以下の閣議決定を行いました。

 

 

「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/01/right-of-collective-self-defense_n_5549648.html

 

 

この件に関して、十分に判断するだけの情報を持ち合わせていないがゆえに何も意見を表明できないでいる “silent majority” が多いのではないかと思います。しかし、”Silence means consent.” と言う言葉もあるので、私のような影響力も何もない人間がこんなところに書いても何にもならないかもしれませんが、何らかの意見表明はしておきたいと思います。私は法律・外交・政治の専門家でも何でもない一素人に過ぎず、また、現在日本に住んですらいません(住民票が無い)が、日本国籍を持つ者の一人として、ほぼインターネットで見られる資料に依拠せざるを得ませんが、付け焼刃的知識で精一杯反論してみたいと思います。また、論文を書く際の正しい文献引用の仕方をしていないかもしれませんが、近傍にあるURLをお読み頂ければ、そこを参照・引用していることはお分かり頂けるかと思います。

 

 

もちろん、実際に集団的自衛権を発動するにあたっては、憲法解釈の変更だけでなく、自衛隊法の改正など、その他の法整備は必要になるのですが、憲法という国の在り方の根幹に関わる部分は、そうした法整備の論理を支える根幹として重要なものであり、見過ごすことはできません。

 

 


要旨

 


第1部 「集団的自衛権」という概念の克服を

 

「集団的自衛権」という概念の歴史的経緯をふまえ、これは歴史上の過渡的かつ未成熟な「権利」であり、これを今後も保持し続けるよりも「集団安全保障」の理想に立ち返るべきことを述べます。

 

 


第2部 現状の国際関係に対する考察 ―集団的自衛権が必要とされる状況でもないし、集団的自衛権を行使するのは現実的に難しい―

 

 

現在、東アジアにおいて軍事的緊張が高まっている、と見る向きがありますが、必ずしもそのような状況には無く、また、一方で、集団的自衛権がその緊張状態を緩和することに役立つとは考えられないことを述べます。

 

 

 

第3部 今回の集団的自衛権規定・武力行使要件の曖昧さ ―集団的自衛権は個別的自衛権とは根本的に異なるがゆえに歯止めがききにくい―

 

 

 

今回の集団的自衛権に関する解釈は「限定」的に容認する、というものですが、その「限定」性が曖昧であり、政府の国会答弁やその他の有事法制などを組み合わせると、拡大解釈に歯止めがかからなくなる余地を残してしまっていることを述べます。

 

 


第4部 「解釈改憲」という手続きの瑕疵

 

 

今回の閣議決定が憲法の解釈において妥当な範囲を逸脱し、実質的にその趣旨を変えている「解釈改

 

憲」であることを指摘し、このような方法を取ることは誤った政治であることを述べます。

 


第5部 日本の取るべき「国際協調主義」―「国際貢献」と「集団的自衛権」は同値ではない―

 

 

最後に、結論として、日本は集団的自衛権を認めなければ、「国際貢献」できない、という主張に対し、「国際貢献」には多様なあり方があり、必ずしも集団的自衛権を認める必要は無く、今後の日本の国際社会の中での「国際貢献」のあるべき方向性について意見を述べます。

 

【Facebook過去記事】 鳥取大学の新たな挑戦

2014年7月19日


新たな出会いが、新たな可能性を生みそうな予感。

【第6弾】未承認国家ソマリランドで挑戦!国内初の大学院設立!
鳥取大学に潜入!
https://readyfor.jp/…/somaliland_doragon/announcements/11945



それにしても、最近の鳥取大学はなかなか凄いんじゃないか?

農学部がJICAとの共催で、集団研修「乾燥地における持続的農業のための土地・水資源の適正管理」を行っています。
http://muses.muses.tottori-u.ac.jp/…/international/jica.html


私の博士課程の指導教員の先生(オーストラリア人)は鳥取大学や島根大学にもお勤めだったことがあり、鳥取大学では、多くのスーダン人留学生が乾燥地農業を学んでいた、と仰っていました。

また、鳥取大学は「グローバル人材育成推進事業」というものをやっています。
http://global.ciatu.tottori-u.ac.jp/ja


「えっ!? グローバルwwwww またか」みたいなものだと思ってもらっちゃ困ります笑 このプログラムは「グローバルな場でリーダーシップ キリッ(`・ω・´)」みたいなどこかの大学とは違って笑 開発途上国・新興国を活躍の舞台として想定しているところが売りです。内容を見てみると、特に国内プログラムにまだ改善の余地がありそうですが、「サミットレクチャー」というシリーズでは、エチオピア、ケニア、ウガンダの駐日大使を招いて講演会を行うなど、大学側の並々ならぬ意欲が伝わってきます。


昨日(7月18日)、税所篤快さんの講演会があったんですね。宣伝のタイミングを逃してしまいました。。。

国際開発研究会「そうごと」というサークルもでき、熱心に活動しているようです。
http://sogoto.blog.fc2.com/


ただ、鳥取大学は乾燥地農業の研究に秀でているために、どうしても農学部主導になりがちなのではないかと思います。保健分野や工業分野でも、どちらかというと理系主体の鳥取大学の強みを生かして、また教育学部から衣替えした地域学部も、教育という分野の垣根を越えて、コミュニティとの関わりの中で生かしてゆける知識・技能を学生たちに伝えてゆくことができれば良いのではないかと思います。鳥取大学の、世界を舞台にした今後の活躍に期待しています。

【Facebook過去記事】 「美しさ」と「醜さ」

2014年6月23日


"TIME"にこんな記事が載っていた。


Meet Peanut, the Ugliest Dog in the World

http://time.com/2909243/worlds-ugliest-dog-peanut/


記事の本旨からは外れるかもしれないが、「美しい」とか「醜い」とかの区別は、常に「私」の内にある。


先日、自宅の風呂場の壁を小さな「醜い」ゲジゲジが這っていた。シャワーのお湯がかかると、ゲジゲジはいそいそとタイルの割れ目の隙間に隠れていった。なんだかそのゲジゲジが健気に思えた。


美醜の基準は常に自分の内にあるならば、「美徳」というものも、人間が作ったものである以上、それはフィクションである。もちろん、その「フィクション」も、互いにより生きやすい環境にするために共有されたものである、という側面はある。だが、一方的に規範を振りかざすのは「宗教」であり、「フィクション」の共有体験としての「文化」ではない。究極的には「正しい」とか「誤っている」とかは無く、「快」か「不快」があるだけなのかもしれない。ただ、これは徹底的な価値相対主義とニヒリズムではない。個々人が「どのような世界が望ましいのか」という信念を持つことは必要であり、一方で、それは万人にとって絶対ではなく、ある価値観の実現を図る行為でしかないという限界を知るべきなのだろう。


よく坐禅会にお邪魔させてもらっていたお寺の住職が仰っていたことだが、(大乗)「大般涅槃経」にある「一切衆生悉有仏性」は伝統的には「一切の衆生は悉く仏性を有す」と読まれていたが、道元はこれを「一切は衆生なり、悉く有るものは仏性なり」と読んだそうだ。


「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。」「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(「ルカによる福音書」12章より)


以前、とある疑似科学の本が一世を風靡したことがあったが、「美しい」氷の結晶も、「醜い」氷の結晶も、それを「美しい」とか「醜い」とか言って価値判断をするのはナンセンスなのだ。自然(神)は区別しない。あるものがあるだけである。区別するのは人間である。

【Facebook過去記事】 アフリカ諸国のLGBT(性的マイノリティ)の人権

2014年6月1日

 

<アフリカにおける反LGBTの動き>

 

 

最近、アフリカ諸国では反LGBT(”L”はlesbian、”G”はgay、”B”はbisexual、”T”は、transgender、そして、"Questioning"も入れて"LGBTQ"と言われることもあります)とでも呼ぶべき、性的マイノリティへの抑圧政策が活発化しています(もちろん、法規定の面で言えば、これは今に始まったことではなく、イギリスは植民地に「反ソドミー法」(「ソドミー法」と呼ばれたり、「反ソドミー法」と呼ばれたりしますが、「ソドミー」行為を禁じる法律なので、ここでは「反ソドミー法」と呼ぶことにします)。を導入し、多くの旧英国植民地において、反ソドミー条項が現存している状態です)。実はこうした動きは欧米のドナー側とちょっとした外交・政治問題になっているのですが、日本ではどのくらい注目されているでしょうか?

 

 

ウガンダでは、最近、同性愛者に対し、最高で終身刑を科すことのできる法律が成立しました。

 

 

AFPBB News「ウガンダ大統領、反同性愛法案に署名 欧米の批判顧みず」
http://www.afpbb.com/articles/-/3009256

 

 

The New Classic「北欧諸国がウガンダへの開発援助を停止へ―反同性愛法成立を受けて」
http://newclassic.jp/9477

 

 

(追記)

 

後に、この「反同性愛法」はウガンダの憲法裁判所が議会での採決手続きに不備があったとして、無効とする判断をしています。

 

AFPBB News「ウガンダ憲法裁「反同性愛法は無効」、定足数満たさず可決」

 

http://www.afpbb.com/articles/-/3022117?pid=14145460

 

一方、以下の記事で述べられているナイジェリアの新たな反同性愛法は、同性婚を禁止するだけでなく、同性婚を求める活動を支持した人も処罰の対象となる法律であり、自由な言論に対する弾圧以外の何物でもありません。

 

 

AFPBB News「同性婚に禁錮14年…ナイジェリアで新法成立、世界から怒りの声」
http://www.afpbb.com/articles/-/3006463?ctm_campaign=txt_relation&3009256

 

 

以下の記事が、より詳しく現場の生の声に迫っています。

 


New York Times “Nigeria Tries to ‘Sanitize’ Itself of Gays”(英語)
http://www.nytimes.com/2014/02/09/world/africa/nigeria-uses-law-and-whip-to-sanitize-gays.html?_r=1

 

 

参考

Wikipedia「アフリカにおけるLGBTの権利」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8BLGBT%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9

 


<反LGBT政策の背景>

 

 

では、なぜ、このような反LGBTの動きが活発になってきているのでしょう?

 

 

分かり易く、おおまかな経緯を説明してくれているのが、以下の記事です。この記事では、(1) イスラム教とキリスト教福音派の影響、(2) 政治に対する不満のガス抜き、(3) 「欧米の価値観に屈しないリーダー」というイメージ作り、といった点が挙げられています。

 

 

THE PAGE「ウガンダで同性愛厳罰化 なぜアフリカは同性愛に厳しい?」
http://thepage.jp/detail/20140402-00000012-wordleaf

 

 

以下の記事がウガンダにおける固有の事情を詳しく説明すると同時に、それへの対処の難しさも語っています。

 

 

Tugende mpolampola「ウガンダ、『同性愛法』成立と『内なる敵』の創出」
http://mpola.exblog.jp/21981268/

 

 

また、その背後には、米ブッシュ政権時代に発足した、”ABC戦略”(禁欲 Abstain、貞操 Be Faithful、コンドーム Condom)などで知られる「大統領緊急エイズ救済計画」(PEPFAR)によるHIV/AIDS対策の失敗の影響があるのではないかと、以下の記事では指摘されています。

 

 

ジャックの談話室「ウガンダの反同性愛法」
http://jack4afric.exblog.jp/20585724/

 

 

稲場雅紀氏は、こうした動きを「魂のジェノサイド」という激しい言葉によってこれを強く批判するとともに、その政治的背景について述べています。

 

 

SYNODOS「『魂のジェノサイド』――ウガンダ『反同性愛法案』とその起源」
http://synodos.jp/international/7191

 

 

これらの動きは、ソチ・オリンピックの際に問題になった、ロシアにおける「反LGBTプロパガンダ法」と同様に、国内政治に対する不満から目を逸らすため「内なる敵」を創出するという、政治的思惑が働いているのでしょうか?

 

 

参考
All About 後藤 純一「揺れるソチ五輪——同性愛者を弾圧するロシア(2)」
http://allabout.co.jp/gm/gc/427315/
(長い記事ですが、特に6ページ目)

 

 

一方で、マラウイはウガンダとは異なった選択を取ったことは注目に値します。

 

 

開発メディアganas「ウガンダとマラウイ、反同性愛法への対応が『真逆』だったのはなぜか」
http://dev-media.blogspot.com/2014/03/blog-post_25.html

 

 


<政治的な言論弾圧への拡大適用の懸念>

 

 

1998年、マレーシアにおいて、当時のアンワル・イブラヒム副首相は、マハティール首相と対立し、支持者と共に同性愛の罪で逮捕されました。アンワル氏が実際に同性愛者だったのかどうかは分かりません。しかし、その背景事情から、政敵に対する弾圧と疑われても仕方がないかもしれません。

 

Wikipediaの記事で恐縮ですが……。


「アンワル・イブラヒム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%92%E3%83%A0

 

もしも、こうした「同性愛」を口実とした弾圧が広まるならば、前漢において、自分を呪う術を行ったとして政敵に弾圧を加えた「巫蠱(ふこ)の獄」のような、古代社会への逆戻りとなってしまいます。

 

 

参考
巫蠱の獄(ページの下の方)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%85%85#.E5.B7.AB.E8.A0.B1.E3.81.AE.E7.8D.84

 

 


<まだまだ理解されない性的マイノリティ>

 

 

人種差別は「過去のもの」として決別すべきもの、というコンセンサスが出来上がっています(少なくともタテマエ上は)。女性差別、障碍者差別、宗教や社会的門地などによる差別も、実態としてはまだまだ改善を要する状態ですが(特に、一部の文化圏における、女性に対する「名誉殺人」は深刻な問題です)、もはや、世界的な潮流として"politically correct" なものではあり得なくなっています。しかし、性的マイノリティに対する差別はまだまだ非科学的なイデオロギーが、先進国・発展途上国に関わりなく堂々と横行している状態であり(ムセベニ大統領の「同性愛の男性がなぜ『美しい女性らには目もくれず、男に引かれる』のかが理解できない」という言葉がまさに「なぜ?」と問うことなく、硬直したイデオロギーを一方的に押し付ける態度に他なりません)、「タテマエ」、”political correctness”の俎上にすら乗せてもらえないような社会があるということであり、「最後に残された、現在進行形の差別」だと思っています。別の言い方をすれば、性的マイノリティは「劣った」あるいは「間違った」存在であるがゆえに、性的マイノリティに対する差別が「正しい」ことである、と信じている人が、世の中にはまだたくさんいるということです(追記: しかし、その後の世界各地での排外主義のあからさまな盛り上がりを見て、性的マイノリティに対する差別のみならず、あらゆる差別に対し、なおも"NO"と言い続けなければならないのだ、と感じています)。

 

 

2008年、国連総会には、性的指向・性自認に基づく差別を撤廃し、性的マイノリティの人権保護を促進する声明が出されました(日本は当初から賛成、シエラレオネは当初は反対の立場をとっていましたが、その後賛成に転じています)。

 

 

Wikipedia「国際連合におけるLGBTの権利」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8BLGBT%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9

 

 

NHKオンライン | 虹色 - LGBT特設サイト「国連総会で人権と性的指向・性自認に関する声明が提出」
http://www.nhk.or.jp/heart-net/lgbt/kiji/entry/article_008.html

 

 

しかし、一方で、上記のWikipediaの記事にある通り、イスラム諸国を中心に反対声明も出されており、かなりの数の国がこれに賛同しているのが現状です。

 

 

ところで、よく「同性愛者は生殖という動物としての重要な役割に反する」という意見があります。しかし、実際には、人間以外の動物にも広く同性愛現象は見られるものであり、これを説明するために「ヘルパー仮説」、あるいは、同性愛遺伝子は生存に何らかの有利な作用をするのではないか、など、様々な説が提唱されています(時々、「同性愛は『生物学』に反する」と言って反対する人がいますが、生物が現にとっている行動を究明するのが生物学であり、これは自分の考える規範と「生物学」を混同した議論にほかなりません)。

 

 

みやきち日記「ゲイ男性は『巣の中のヘルパー』役をつとめることで一族の遺伝子存続に貢献」進化心理学者の研究で」
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20100211/p1
(このサモアにおける” fa'afafine”という「第3の性」の存在は、文化人類学あるいは社会学的に興味深いかもしれません。「性」というものが社会的文脈によって規定されるものであることの一つの例と言えるでしょう。)

 

 

また、一方で、生殖のみに過度にこだわる議論は、我々人類が、ヌクレオチドから構成された”gene”だけではなく、文化的所産”meme”をも後世に伝えてゆく存在であるということを無視した議論です。仮に、百歩譲って、生殖が極めて重要な役割だとしても、同性愛であろうが、トランスジェンダーであろうが、病気、障碍のためであろうが、何らかの理由によって子孫を残せない人は全て社会から抹殺されるべきであるとするならば、それは「劣った者を排除すれば優秀な者だけが残る」という科学的には全く誤った(進化ゲーム理論、動物生態学、遺伝学などに関心のある方ならお分かりでしょう)、ナチスの「優生思想」の再来に他なりません。また、もし、そうした「マイノリティ」を排除したところで、「マジョリティ」に対してはずっと数が少ないわけですから、ロシアのプーチン大統領の発言のように、「少子化対策」などと言うのは全く筋が通らない話です。

 

 

参考
47 News「同性愛宣伝禁止は人口対策 ロ大統領、人権問題否定」
http://www.47news.jp/CN/201309/CN2013092001000910.html

 

 


<アフリカを含む途上国のLGBT支援に向けて>

 

 

閑話休題。以下の記事では、ドナー側は一方的に「人権弾圧する奴らに援助はしないぞ!」と脅しをかけるのではなく、LGBTを支援するNGOなどを支援する方法を提案しています。

 

 

LGBTへの弾圧強めるアフリカ、人権を認めない国への援助はどうあるべきか
(上)
http://dev-media.blogspot.com/2012/10/lgbt.html
(下)
http://dev-media.blogspot.com/2012/10/lgbt_4.html

 

 

先の稲場氏のSYNODOSの記事でも出てきた、米国の「グローバル平等基金」もその一つであると言えるでしょう。

 

 

人権弾圧を行う国への援助は行うべきか、否か。これは非常に悩ましいジレンマであり、単純にLGBTの問題に限ったことではありません。しかしながら、LGBT問題は単に独裁者による一方的な弾圧というだけでなく、社会の中に広く共有されている偏見・差別意識が影響していることは否定できず、草の根からの活動は重要でしょう。

 

 

ミレニアム開発目標は母子保健や感染症の問題に注目していますが、途上国にも必ずいるはずの障碍者や性的マイノリティといった人々の人権・医療を含む生活基礎インフラへの差別なきアクセスは、十分にカバーしきれていないように思います(追記: その後の「持続可能な開発目標」では、障碍者への配慮が触れられていますが、性的マイノリティに関しては明示的には触れられていません)。もちろん、母子保健の状況がままならないような状態で全てを同時にこなすことは大変な困難が伴います。しかしながら、私たちは、こうした人々の存在を決して忘れてはならない、そう思うのです。

 

 


<参考1:同性婚は「個人の勝手」>

 

 

2008年、米国カリフォルニア州で、” Proposition Eight”という、同性婚の権利を廃棄する法案が可決されました。同国で人気のニュース・キャスター キース・オルバーマン氏はテレビでこの決定を”horrible!”と激しく批判しました。私には、その根底には、ある種のリバタリアン的態度があるように思えます。「異性間で結婚しようが、同性間で結婚しようが、それは個人の勝手であり、他人がとやかく言うことではない」という具合に。

 

 

隔数日刊─Daily Bullshit「オルバーマン翻訳」
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.html

 

 

ただし、この同性婚禁止条項は、2013年、連邦最高裁が、連邦法である「婚姻は男女間のもの」と規定した「結婚防衛法」を合衆国憲法に違反するという判断をしたことを受け、カリフォルニア州における裁判を連邦高裁に差し戻し、同性婚は再び「解禁」されました。

 

 

CNN Japan「米カリフォルニア州で同性婚承認、早速挙式のカップルも」

 

http://www.cnn.co.jp/usa/35034046.html

 

2012年、米国のオバマ大統領が二期目の選挙を迎えるにあたって同性婚を支持しました。彼の以下の発言は非常に説得力のあるものですが、ただ、(彼自身の考えなのか、保守的な価値観との妥協なのかは分かりませんが)” monogamous”という言葉が出てきており、polygamyに対し、無条件にこれを正しいものとする価値判断を行っている点は気になるところです(うろ覚えですが、マイケル・サンデル「これから『正義』の話をしよう」においても、同様の問題提起がなされていたと記憶しています)。もちろん、私は女性が男性の所有物であるかの如く扱われる、古典的な一夫多妻制の復活を望んでいるわけではありません。個人対個人の対等な関係としてのpolygamyというものがあったとしても、おそらく「二股」などというレッテルを貼られ、無条件にこれを「悪」であるとする価値観がかなり広く共有されているのではないでしょうか。”polyamory”という性的マイノリティへの理解はまだまだ時間がかかるように思います。

 

 

隔数日刊─Daily Bullshit「オバマのABCインタビュー」
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2012/05/abc.html

 

 

これを受けて、日本の報道番組で、ビートたけし氏が「同性婚が認められたらそのうち動物との結婚も認められるようになったりね」と発言し、批判を受けました。

 

まとめサイトで恐縮ですが…….。


NAVERまとめ「ビートたけしの揶揄とオルバーマンの演説」
http://matome.naver.jp/odai/2134871539429868601

 

私は、動物との合意をどうやって確認するかは問題だと思いますが、もしも、仮に動物が人間と同じように何らかの意思表示をすることが可能ならば、私は動物との結婚も認められて然るべきと思います。私はこの点については徹底的にリバタリアンです。

 

 

同じく、ビートたけし氏が「結婚した男2人が子ども育てるっていうけど、その子どもはどういう風になっていくんでしょうね。お前のお母さんはお父さん?とか言われるんじゃないの」という発言に対しては、レズビアン・カップルに育てられたザック・ウォルス氏の以下の演説が、一つの反論となっているでしょう。彼のロジックもまた、ある種のリバタリアン的態度によって見事に一貫しているように思います(ただし、「同性婚」と「同性カップルが子供を持つこと」は別次元の問題であり、分けて議論する必要があると私は思っています。私自身はそのどちらにも賛成ですが)。

 

 

YouTube 「レズビアンのカップルに育てられたザック・ウォルスのスピーチ『家族』」
https://www.youtube.com/watch?v=gWNsaJ2qwss

 

 

私の個人的な理想を言えば、結婚も養子縁組も統合して「政府および、一定の基準を満たして政府から認証された民間団体によって、任意の性別(セクシュアリティ)の任意の人数と、リスクシェアリングの最小単位としての『家族』というパートナーシップ契約を認証する制度」とすれば良いと考えています。かなりラディカルで、すぐには実現しそうにありませんが。ただ、家族というものが血縁関係に基づくべきである、という発想は必ずしも昔からあるものではなく、明治以前の社会では、血縁の無い人(居候や使用人など)も「家族」として受け入れていたようです。以下の記事を読んで、衝撃と感動を覚えました(ただ、私は前近代の社会の在り方を全て肯定しようと意図するものではありません)。もっと多様な家族の在り方があってもいいんじゃないか、そんなふうに思うのです。

 

 

たんぽぽのなみだ~運営日誌「家族は血縁という思想」
http://taraxacum.seesaa.net/article/377437542.html

 

 


<参考2:キリスト教の聖書において本当に同性愛は罪なのか>

 

 

もし、性的マイノリティの存在が、「キリスト教的に認められない」とするのであれば、「いや、キリスト教的にも認めることができる」という主張も、有効な反論となり得るのではないかと思います。

 

以下の論文では「ソドムの罪」に同性愛という要素を織り込むことはできない、と言います。

 

「ソドムの罪」は同性愛か : 「他の肉を追い求める」(ユダ7節)をめぐって
辻 学
関西学院大学商学部
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000033584

 

 

以下の論文では、パウロが批判したのは古代ギリシャ世界における「少年愛」文化であり(旧約聖書において偶像崇拝と関連付けられています。下記の「キリスト教では同性愛はいけないんですよね?」のパート3でも解説されています)、これは現代における「同性愛」とは全く異なるものであり、これらを同列に論じるのは適切ではない、と言います。

 

 

男と男が寝るのは罪か? : 一コリント6:9におけるAPΣENOKOITAI
小林 昭博
関西学院大学大学院
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006484744

 

 

以下のサイトでは、筆者の富田正樹牧師が聖書の記述を詳細に検討し、自由主義神学(ざっくり言ってしまえば、聖書はあくまでも人間が書いたものであり、書いた人のフィルターを通して間接的に神の言葉が語られているので、逐語的解釈ではなく、そこから「神の御心」を探り当てる努力をする読み方をしなければならない、とする、キリスト教(特にプロテスタント)の立場)の立場から、古代パレスチナ社会と現代日本社会との違いを無視するのはナンセンスであり、聖書通りの規定を現代社会にそのまま適用することは不可能、と言います。

 

 

iChurch.me 「Q. キリスト教では同性愛はいけないんですよね?」
http://ichurch.me/gesewa/c_homosexual.html

 

 

また、「ソドミー」に関するWikipedia記事では、「ソドミー」とは具体的に何なのか、ということについて、諸説列挙されています。上記に列挙した記事でもそうでしたが、聖書を読む場合は、翻訳された言語の意味に引きずられるだけでなく、原語の語義解釈にも注意が必要なようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC

 

 

 

【Facebook過去記事】 シエラレオネの観光業と地域開発

2014年4月26日



<John Bbey 海岸>


去年の暮れのクリスマス休暇のことでしたが、フリータウンから南、少し離れた所にある、John Obeyという海に行ってきました。近隣の村の様子からして、ここは元々は貧しい漁村だったようですが、ヨーロッパのNGOがやってきて、観光ビジネスによって収入をまかなう仕組みを取り入れたようです。水洗トイレなどもちろん無いので、用を足した後はおがくずをまき、堆肥にし、尿はトイレのすぐ横に植えられているバナナの木の栄養分になる、という見事な仕組みのコンポストトイレが設置されていました。







茅葺屋根のオープンテラス(?)になっている食堂ではおいしい食事が提供されます。手作り感あふれるコテージでは一人当たりUSD50くらいで宿泊もできます。夜はキャンプファイヤーやキャンドルのサービスがあります。釣りが好きな人は、別料金でボートを借りて、海に釣りに出かけることもできます。小規模ながら、なかなかに工夫のこらされた素敵な観光地でした。






<River No.2>


先週の金曜日から今週の月曜日にかけて、シエラレオネは4連休。日本より一足先にゴールデンウィーク気分を味わいました。John Obeyよりはフリータウンに近いのですが、River No. 2と呼ばれる川の河口付近の海水浴場に行ってきました。ここの売り上げは近隣コミュニティの開発に使われるそうです。新鮮なロブスターも提供されており、地元の漁師の収入にも一役買っているようです。外国人ばかりかと思いきや、現地人(といっても、中流以上の感じの人たちですが)でごった返しており、地元の人々に愛されている観光地なのだと感じました。伝統楽器の楽団によるおもてなしもありました。




最近、アフリカ諸国は観光開発にも力を入れている話をよく聞きます。「途上国支援」と聞くと、医療・農業・ハードインフラなどのイメージが思い浮かぶかもしれませんが、こうした観光開発も新たな可能性を秘めているのではないかと思いました。決して大規模なサファリの開発でなくとも、小規模な海水浴場の浜茶屋(というのは北陸方言のようで、全国的には「海の家」でしょうか笑)の営業一つでも、コミュニティの現金収入が得られるとすれば、コミュニティと共同した、ソーシャル・ビジネスのチャンスもあるのではないか、そんなふうに思いました。



【Facebook過去記事】 「エリート」なんか大っ嫌いだ!

 2014年4月6日

 

 

ああ、厭だ厭だ。最近、Facebookが僕を煽っているとしか思えない。

 

 

有名私立進学校出身、有名大学の学生や卒業生ばかりが出てくる。そしてベンチャー企業の社長やら、社会的にステータスが高いとされるような企業や官公庁に勤めていたりする。彼らのプロフィールが誇らしげだ。「東大卒の転職」の広告に至っては、僕が生え抜きエリートなどではないことを知っているくせに、これ見よがしに「勝ち組」の世界を見せつけてくる。

 

 

<エリート主義なんか嫌いだ!>


東大が推薦入試だって?


http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/pdf/20140129kishahappyo.pdf


を見てみる。何だと!? 「『世界的視野をもった市民的エリート』(東京大学憲章)を育成する」だと?こんなエリート主義の大学なんか大っ嫌いだ!「市民的」などという接頭辞を付けてごまかそうとしてもだめだ。「国際的な広い視野を持ち、高度な専門知識を基盤に、問題を発見し、解決する意欲と能力を備え、市民としての公共的な責任を引き受けながら、強靭な開拓者精神を発揮して、自ら考え、行動できる人材の育成です。そのため、東京大学に入学する学生は、健全な倫理観と責任感、主体性と行動力を持っていることが期待され、前期課程における教養教育(リベラル・アーツ教育)から可能な限り多くを学び、広範で深い教養とさらに豊かな人間性を培うことが要求されます。」そんなタテマエ主義はやめてくれ!「グローバルな場でリーダーシップ」だとか、もう聞き飽きた!だが、東大出身者がそういう素晴らしい人間性を持ち、社会を率いるリーダーになることを期待しているという、このステートメントは、裏を返せば、そうでない人はリーダー「以外」になることを期待している。そして、リーダー「以外」には「健全な倫理観」「責任感」「主体性」「行動力」「広範で深い教養」「さらに豊かな人間性」を持つことを期待していないということだ。もちろん、リーダーというものは役割分担であり、身分ではないと言われるかもしれない。だが、ヴァン・パリースがベーシック・インカムを擁護する際に主張したように、現実世界には「雇用レント」は存在すると思う。リーダーであることのレント。それを人々は「勝ち組」と呼んで羨望の的にするのだ。

 

 

<歴史を形成するのはエリートなのか?>


歴史における重要な変化は、一部のエリートが後押しすることも必要かもしれないが、社会の仕組みそのものが最早そのままでは耐えられないものになった時に起こる。社会の仕組みを構成する「調整ゲーム」の均衡が別の均衡へとジャンプするのだ。僕は英雄史観を明確に拒絶する。例えばシリアでは確かに戦争は「会議室」で作られているのかもしれない。だが、その発端は、”Newsweek”によれば、政権批判の些細な落書きをした少年が秘密警察によって逮捕されたことであり、シリアにおいてはごく日常の言論弾圧に過ぎなかった。しかしながら、これが戦争に発展するのは、そういう社会の趨勢が水面下で醸成されていたからに他ならない。現に、「会議室」は踊ってばかりで戦争を止められないでいる。ウクライナに目を転じれば、ウクライナ国内の混乱が無ければ、ロシアはあのような暴挙に出るタイミングはつかめなかったかもしれない。また、現に、安保理では、ロシアに対し、他国から厳しい批判が寄せられた。世界の均衡。それは単なるパワーバランスではない。数多の失敗を伴いながらも「常識」「コンセンサス」(時には「妥協」と言い換えることもできるかもしれない)を抽出するプロセスの繰り返しである。そしてその「常識」「コンセンサス」はエリートが形作るものではなく人々の日々の営みの中にこそあるという謙虚な姿勢なくしては、真実を導き出し得ない。今日のグローバル化をもたらしたのはエリートなのか?いや、そうではないはずだ。ビジネス(投資)、インフラ、インターネット、これらの拡大・普及が時代を新しいフェーズへと動かしているのだ。「アラブの春」は確かにまだ不安定な段階にある。しかし、ITがもたらした新たな時代のフェーズのベクトルは「民主主義」へと向かっている。”The United Nations”(連合国)が第二次世界大戦においてファシズムへの対抗軸として戦略的に言い出してしまった(であろう)「民主主義」「国際協調主義」というあり方は、戦後世界において「進化的に安定な定常状態」へと向かっているように思える。

 

 

<エリート主義の危険性>


ハーヴェイ・ロードに住まうエリートという新たな「階級」は民主主義とは本質的に相容れない(ただし、ここではケインズ本人を批判する意図は全く無い。自己成就予言的ナッシュ均衡、ルーカス批判などを念頭に置いているが)。エリート主義は「忌まわしき」哲人政治にも容易に豹変し得るものである。とある大阪市長の主張を聞くにつけ、僕は「哲人政治」の危険性を主張せずにはいられない。「決められる政治」とは、政治家選出のプロセスにおいては一応の民主主義の形をとりつつ、一旦政権の座に就けば、あらゆる問題に対して、我こそが、人々からあらゆる問題について白紙委任を受けた「哲人」であるとして、その弊害を覆い隠し、「哲人」でない人を攻撃する議論だからである。ハイエク流に言えば、「テシスとしての法」が「ノモスとしての法」に戦いを挑んでいるようで滑稽だ。もちろん、その「ノモス」は、おぞましいまでに残虐な人間という動物の殺戮と狂気の歴史の中で少しずつ形作られ、そしてこれからも「進化」してゆくものだろう。「囚人のジレンマ」では囚人同士は裏切りあう。だが、「フォーク定理」によれば「情けは人のためならず」、いかに人間は利己的であれ(それは「我が身かわいさ」という切実な願望に由来するものゆえ、全く以て責め立てることなどできやしない)、助け合うことを「美徳」というフィクションの上であれ、確立するに至る。

 

 

<一人一人の自由と幸福のために>


確かに、「開発独裁」のように、経済発展の途上においては、一部のエリートが社会を率いることが、マクロ的な成長にとっては効率的になる場合もあるかもしれない。一方で、そのような仕組みは民主主義に対しては相応の犠牲を強いるのだ ― カオティックで低成長な社会と、独裁的だが高成長な社会のトレードオフ ― 一概にどちらかが価値判断として「良い」とは言えないのかもしれない。それでもなお、僕は自由への侵害を著しく恐れる。経済発展と恣意的な「秩序」のための「滅私奉公」など御免だ。危険な「制限主権論」とその派生概念(としか思えないような、自民党の改憲案にある「公益及び公の秩序」第一論)に注意せよ(個人間における自由と幸福の均衡としての「公共の福祉」と対比せよ)!そして、誰もが住みよい社会、いわば、社会の「ユニヴァーサル・デザイン」化を求めるならば(そのようなものが厳密に満たされる社会の実現は不可能である、とケネス・アローから言われるかもしれないが)我々が目指すべきは、遍く人々の声を聴くことではないのか?(もちろん、そのアプローチの限界は認める)アーサー・ピグーは『厚生経済学』で何と言ったか?「経済学者がやり遂げようとしている複雑な分析は単なる鍛錬ではない。それは人間生活改良の道具である。われわれを取り巻く悲惨と汚穢、数百万のヨーロッパ人の家庭において消えなんとする希望の焔、一部富裕家族の有害な贅沢、多数の貧困家族を蔽う恐るべき不安―これらのものを無視するにはあまりにも明白な害毒である。われわれの学問が求める知識によって制御することは可能である。暗黒から光明を!」一人一人の自由と幸福の実現のために学問は役立てることができる。学問はエリートに独占されるものではない。断じてない!学問は遍く人々の共有財産である。あらゆる人々による、たゆまぬ改善と連帯のための、そして「凡庸な悪」に堕さないための共有財産である。エリートのための学問、エリートのための教育など、あろうはずもない。


おや!? お前は唯物史観に毒されたか?ああ、そうだとも。僕はエリートとは無縁の人間だ。下部構造を決める無数の人間のしがない一粒に過ぎない。

 

ああ、厭だ厭だ。またかつての自己卑下病が再燃しつつあるようだ。希望と使命感に満ち溢れた「意識の高い」若きエリートたちよ。どうぞ存分に素晴らしい世界を作って頂きたい。エリートでない僕は只、それにフリーライドするか、あるいは独り、消極的な反抗をするか。

 

 

 

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【Facebook過去記事】 シエラレオネの食事

2014年2月8日


時々、オフィスに弁当屋さんが来る。いくつかメニューがあるが、僕はこの日はココナッツ風味のクスクスをチョイス。クスクスとは小麦粉を小さな粒状に丸めて作ったもので、もともとはマグリブ(北西アフリカ)のベルベル人の料理。イスラム教の伝播と共にシエラレオネに入ってきたのか、それとも近代になってからレバノン系などの移民がもたらしたものなのかは、僕は知らないが、この国では人気のメニューの一つだ。胡椒がこれでもかというくらいに効いていて、汗がしたたり落ちる。ココナッツの甘い香りが、ほんの少しだけその辛さをまろやかにしてくれている。


価格は9000レオン(=約212円)。大衆食堂でのランチの相場が5000レオン(=約118円)だとすると、この弁当は、言うなれば、高級仕出し弁当だ。適度に身の締まったチキンは、いわばフリータウンの「地鶏」。直火焼きでスモーキーな香りが癖になる。




別の日は、ギーズ、プランテン(プランティーン)、アカラの詰め合わせをチョイス。価格は8000レオン(=約188円)。「ギーズ」は牛肉料理で、どうやって作るのかはよく分からないが、少し油っぽくて、超辛口の焼き肉のタレのような味?玉ねぎを細かく刻んで形が無くなるまで煮詰めたものが入っている感じがする。プランテン(プランティーン)はあまり甘くなくて固いバナナの一種で、普通のバナナのように生では食べられない。素揚げにすると、適度に甘みが出る。熱帯地方での主要な作物の一つだ。「アカラ」はバナナと米粉を混ぜて揚げたもの。バナナ風味のドーナツと言えば、なんとなく味は想像して頂けるだろうか。




また別の日。このところ、このお弁当屋さんはココナッツ入りの炭水化物系の料理をよく出してくる。今日はココナッツ風味のフライドライス、魚、更にオプションでチキンソーセージをトッピングして10000レオン(=約235円)の超豪華版!フライドライスは、どちらかというとピラフに近く、「炒飯」とは似て非なるもの。具は入っていないが、胡椒が効いており、やはり辛い。魚の種類は分からないが、白身ベースで、鯖の竜田揚げのような感じ。チキンソーセージは、一般に馴染みのあるポークのソーセージよりも、やや魚肉ソーセージに近い味かも(つなぎのせい?)。イスラム教徒が多いこの国ではポークのソーセージを出しても買ってくれない人が多いからだろう。



【Facebook過去記事】 小説『そして父になる』感想

2013年12月30日

 

日本にいた頃、東京 本郷の小さな書店で見かけて、「6年間育てた息子は、他人の子でした。絆をつくるのは、血か、それとも、ともに過ごした時間か」という帯のコピーに惹かれたものの、読む時間が無いと思い、結局買わなかった。だが、シエラレオネに来て、知り合いの日本人の方からお借りして読んだ。これももしかしたら巡り合わせなのかもしれない。
 

 

僕は映画は見ていないので、あくまでも小説だけを読んだ感想を書こうと思う。あらすじ自体は本の表紙にも書かれているし、各々読んで頂ければいいと思う。少々ネタバレになるが、「交換お泊り」に子供たちが文句を言うことなく素直に応じたり、子供の取り換えがあっという間に決まったり、と、不自然なスムーズさがあるが、作者が、読者が期待するような予定調和的で理想主義的な結末を導き出すために、話の展開の先を急いでしまっているのではないかと思った。しかし、これは小説なのだから、それは致し方ないとしよう。

 

作者の主張は明確だと思った。「絆」を作るのは、「血」ではなく、共に過ごした時間であり、注いだ愛情である、と。これには僕も同意したいと思う。なぜならば、「血」とは、人が、「この人と血の繋がりがある」と考えることによって、初めて認識されるものだからだ。その証拠に、野々宮家は慶多に、斎木家は琉晴に、取り違えが発覚する前までは、この上なく愛情を注いでいたのだ。

 

そこでふと考えるのが、僕にとっての家族の存在だ。僕の両親は確かに、血の繋がりはある。だが。これまで共に過ごした時間(それは、直接、顔と顔を合わせて触れ合った時間だけでなく、電話や、メールや、あるいは数えるほどしか無いが、手紙を通して触れ合った時間も含まれる)を思い返し、そして、今、遠く離れていても、心のどこかで「思って」いる時間の中に、「絆」を感じるのだ。物語の最後まで読むと、タイトルの「そして父になる」の意味が分かる。と同時に、「そして母になる」のであり、「そして子になる」のである(僕は「母親は子供を産んだ時から『母』である」というような母性神話には懐疑的だ)。そう、今、この瞬間、瞬間に、僕は「子にな」っているんだ。

 

一方で、自分の過去を振り返る。僕は慶多のように、優しい子だっただろうか?宮崎祥子の息子のように、継母をかばうような強い子だっただろうか?「子」としての自分を振り返ると同時に、自分は「父」になれるのだろうか、とも考える。僕は将来、結婚するのか、子供ができるのか、それは分からないが、血の繋がりがあろうとも無かろうとも、僕は「父になる」ことはできるのだろうか、と、不安がよぎった。自分には何があるのだろう?おそらく、多くの人が初めて子を持つ時、同じような不安を抱くに違いない。

 

だが、一つだけ、自分が「持って」いるものがあると思った。僕が幼稚園に通っていた頃、転校してきたばかりの子がいじめられて泣いていた。僕は幼心に、彼を可哀想に思い、顔を伏せて泣いている彼の耳元で「友達になろうね」と囁いた。その時のことはなぜか今でも覚えている。今の自分がハッとする、当時の自分の「強さ」を認識した(それを「強さ」と感じるのは、それが今の自分にとって譲れないポリシーだからに違いない)。その子とは仲良くなったものの、また親の仕事の都合でどこかに引っ越してしまった。もう彼の名前すら覚えていない。もし、僕が何かを子供に伝えるとすれば、子供の取り違えの話を聞いて動揺している父(良多)と母(みどり)とに挟まれてベッドで寝ている慶多が、異変を感じ取ったのか、二人の手をすり合わせて「なかよし、なかよし」と言ったように、優しさの分かる(押し付けられた規範としての「優しさ」ではなく、その意味が「分かる」ということ)子になれるよう、愛と、弱く小さな存在に共感できる心を伝えてゆきたいと思った(もちろん、この場面は小説ならではの「でき過ぎ」感はあるが)。

 

この物語は、良多が、これから「父にな」ろうとしているところで終わっている。小説のページは終わるが、この後、野々宮良多も斎木雄大も、まさに現在進行形で「父にな」っていっているのだ。きっとこの後も、スムーズにいくことばかりでなく、不安や葛藤を抱えて、慶多と琉晴という二人の子供に向き合ってゆくに違いない。だが、不安や葛藤はあっても、間違いなく、彼らは「父にな」っていっているのだ。きっと僕も(もし子供を持つ機会があればの話だが)、そうやって父になっていくのだろう。不安はぬぐいきれないが、親になること、家族を持つことにも、一歩を踏み出す勇気があれば大丈夫なんだ、作者からの読者へのそんな応援メッセージにも思えた。ある日の僕の父の言葉を思い出す。「そりゃ、どんな仕事に就くべきかなんて簡単に答えは出るもんでないよ。父さんだって、40年近く床屋をやってきたけど、いまだにこの仕事で良かったのかと考えることがあるもん。」思いもよらぬ、まさに現在進行形で人生を試行錯誤する父の言葉だった。子供から見れば、親ははるか遠くの次元の存在に思えるが、実は、自分の人生の延長線上と同じ次元に立っているのだ、と思った。もしかしたら僕の父も、僕が生まれた時、同じような不安を抱いていたのかもしれない。

 

ある時、僕が「自分も子供が欲しいと思うことはある。でも、それは親のエゴなんじゃないか?」と言ったところ、ある友人はこう言った。「確かに、そうかもしれない。でも、その親のエゴのお蔭で生まれてきたのが自分たちじゃないか。」親になるということには大きな決断が必要になる。だが、今、自分たちがこうやって曲がりなりにもそれなりに生きていることを考えれば、そう怖がるものでもないのかもしれない。