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東北の被災者は本当に「甘え」ているのか?

すっかり記事にするのが遅くなってしまったが、先日、とある友人から以下のブログ記事を紹介され、彼女自身も記事に共感し、被災者には「補助ではなく自立を」と述べていた。


菅谷信雄さんのブログ

「マーキュリー通信」no.1828【奇人変人の異見-170「1億総甘えの構造の日本を変えない限り、日本再生はない」】
http://mercurytsushin.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/no1828-170-3571.html

この記事の中では、石巻のパチンコ屋には長蛇の列ができている、というワールドビジネスサテライトによる報道が引用されていた。


対応迫られる被災地の”雇用〟
http://wbslog.seesaa.net/article/245799612.html
(僕自身はテレビでの放送内容自体は見ておらず、このブログによる「ログ」を参考にさせて頂いた。)


しかし、僕はこれらの記事に少々違和感を覚えたので、彼女に対し、以下のように返答した(一部、加筆・修正した)。


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この記事を最初から最後までよく読んで、ワールドビジネスサテライトが主張している論点をじっくり追ってみると、パチンコ屋のエピソードは、はっきり言って本題とはほとんど関係のない余談のように思えます(ワールドビジネスサテライトの論旨そのものは決して的外れとは思いませんが、パチンコ屋のエピソードが、菅谷信雄さんのような誤解を生む元になっているような気がします)。このワールドビジネスサテライトの記事と、菅谷さんのブログの記事を合わせて、いくつか疑問点を提示したいと思います。



疑問点1. パチンコ屋に並んでいる人はビッグ・ママの求人と関係があるか?


正社員を募集している「ビッグ・ママ」は洋服の仕立て直しが仕事ですよね?僕は決して古典的・守旧的ジェンダー観を持っているわけではありませんが、おそらく、その技術からして、女性がメインの職場じゃないかと思います。一方、パチンコ屋に並んでいるのは、この「ビッグ・ママ」に応募しなかった人なのかどうかは全く分かりません。おそらく、ほとんど関係のない男性なのではないでしょうか?まさに、ワールドビジネスサテライトが「ミスマッチ」と言うように、労働力を必要としている側が要求する技術と、労働力を提供したいと思っている側が提供できる技術にミスマッチが起きているのであって、これを「甘え」の言葉で片付けることはできません。「実際は資格が必要なものが数多くあります」とも書かれています。また、僕のブログの震災関連記事にも少し書いてありますが、東北の被災地は震災があろうが無かろうが、本来、過疎化・高齢化という問題を抱えており、どんな仕事にでも自由に移動できる人ばかりではない、という点も注意されるべきでしょう。



疑問点2. これは石巻市、ひいては被災地全体の傾向なのか?


「この日はおよそ100人が並びました」とあります。石巻市の推計人口は(震災の影響がどの程度考慮されているのかは分かりませんが)2012年1月1日現在で150,177人です。
http://www.pref.miyagi.jp/toukei/toukeidata/zinkou/jinkou/suikei_top/240101suikei.pdf


その行列の100人を見て、この石巻市全体の様子であると、はたして言えるでしょうか?パチンコ以外に娯楽が何も無くなったために、たまたまパチンコに集中しているのかもしれません。また、100人全員が失業者なのでしょうか?仕事はしているが、その時、たまたま休みだった人もいるかもしれません。



疑問点3. 彼らは「甘え」から失業を選んでいるのか?


また、これもワールドビジネスサテライト自身が言うように、


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公共事業など短期雇用の震災特需が続いています
しかし・・・

「求人票を見ると(賃金が)大体12~13万円」

失業手当の給付額(石巻)
平均11万円

求人票にある賃金とあまり差がありません

「(失業手当と)賃金の差があまりない」
「様子見にならざるを得ない」
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非正規雇用で将来が安定しない、しかし職に就くと、雇用保険の失業等給付は受けられなくなる。となると、ここにあるように「様子見」をするのは極めて冷静で合理的な判断です。きっと誰でも同じ立場に置かれたならば、同じように様子見をするでしょう。「仕事があるのに働かない」という見方は、本当にその一文で片付けられるような単純な図式なのかということは慎重に見なければなりません。「しんぶん赤旗」のサイトが人々の肉声に迫る取材をした記事を多く載せています。特定の政党に偏ったを主張するつもりはありませんが、とりあえず色眼鏡で見ずに、記事を読んでみてほしいと思います。


被災地“仕事ない”年の瀬の宮城で聞く“働きたいのに…政府は実態見て”
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-23/2011122301_01_1.html


迫る失業手当切れ 被災者の実態は… 社会保険つかぬ求人 家族5人、手取り12万円では… ハローワーク石巻前
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-12-23/2011122303_01_1.html


「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、一方、遠くから森だけを見ていたのでは、木々の一本一本に潜む問題は見えてきません。「森を見て木を見ない」ような議論にならないよう僕は常々注意したいと思っています。僕が今いる研究室の教授が授業で言っていたことですが、集計されたデータだけを見ても、現場で何が起きているのかは分からないのです。現場で起きていることを知るためには、household survey(家計調査)をしてミクロ・データを集める以外に無いのです。



疑問点4. 本当に被災地の失業者は何もしていないのか?


これはあくまでも少数の事例であり、パチンコ屋のエピソード同様に一般化できないものではありますが、こんな、まさに自立に向けての支援、そして、被災者自らによる自立の取り組みもなされているようです。


宮城・気仙沼市 地元中小建設業に補助金「再建へ道見えた」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-01-04/2012010401_01_1.html


東日本大震災10カ月 ワカメ養殖 若い世代も 漁業者 再生へ自らの手で
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-01-11/2012011101_01_1.html



疑問点5. 本当に「自立支援」は安上がりなのか?


一方、菅谷さんのおっしゃる「自立支援」とはいかなるものなのでしょうか?具体的な事柄が何も書かれていません。


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自立支援という考え方に変えていくと、国家の歳出は一気に削
減できます。
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本当でしょうか?自立支援のために相当なハードウェア(施設など)とソフトウェア(技術指導をする人など)を整備しなければなりませんし、しかも、それが「ミスマッチ」の無いものでなければ意味がありません。自立支援NPOに対して「ワールドビジネスサテライト.Log」を書かれている方がコメントされているように


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*ハローワークの求人と
*このNPOがやる講習会にミスマッチはないのか?
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という懸念を今度は国主体の「自立支援」策が抱え込むことになりかねません。NPOがそれぞれ工夫をこらして自立支援を行うのは素晴らしいことですが、NPOはその経営基盤からして小規模にならざるを得ないでしょうし、とすると広範囲の失業をそうしたNPOが全てカバーしきれるわけもなく、政府としては補助を続けざるを得ないでしょう。



疑問点6. この特別失業手当は「際限のない国家の支出増」という話と結び付くか?


特別失業手当は「通常の失業保険90日分+210日分、計300日分」なわけです。300日が終われば、手当を受給することはできなくなります。「際限のない支出」ではありません。おそらく年金問題などと絡めたかったのでしょうが、これらの問題の一因として背景にあるのは「お上より恵んであげるという発想」が根本なのではなく、急速な少子高齢化という社会的事実に「お上」が対応しきれていないだけの話だと思います。



疑問点7. 現在の政府に「自立支援」の考え方は全く無いのか?


現在も、ハローワークは職業訓練を提供しています。


職業訓練を受けたい
http://www.mhlw.go.jp/bunya/koyou/safety_net/40.html


就職活動等の支援
https://www.hellowork.go.jp/member/unemp_question03.html


もちろん、これだけでは不十分なので、ハローワークの職業訓練がカバーしきれいてない分野や地域をNPOなどが補完していくことが求めれるのでしょう。



疑問点8. 本当に自立できない人をどうやって見分けるか?


菅谷さんは「もちろん自立できない人には、当然行政支援は必要です。」とおっしゃいます。しかし、現実問題として、その本当に「自立できない人」はどういう基準で見分けるのでしょうか?時々、暴力団関係者が生活保護を受給していることが問題になります。一方で、本当に生活保護が必要なのに、打ち切られてしまって問題になる、という話もあります。現実的には、誰が本当に生活保護が必要としていて、誰が必要ないのか、ということを見分けることにはある程度の困難を伴います。自然科学における実験と同じように、誤差はつきものです。これは以前にある先生から習った事ですが、本来受け取るべきでない人が受け取ってしまう過誤のことを"inclusion error"と言います。一方、本来受け取らなければいけない人が受け取れない過誤を"exclusion error"と言います。そしてこの両者は互いにトレード・オフの関係にあります。inclusion errorをなるべく少なくしようとすると、その分、exclusion errorは大きくなってしまいます。逆も同様です。では、inclusion errorとexclusion errorは、どちらがより深刻な問題かと言えば、exclusion errorの方です(人の生き死にに関わっていますから)。そこで、このトレード・オフ関係を極限まで突き詰めて考えると、inclusion errorには完全に目をつぶり、exclusion errorをゼロにしよう、という発想が、国民全員に一定額を給付する「ベーシック・インカム」の考え方です。そんなことをしたら、国民全員が「甘える」んじゃないの?と思われるかもしれませんが、一橋大学の吉原直毅先生の以下の日本語論文で「ベーシック・インカム制度で実行される資源配分では就労インセンティヴが損なわれるが故に、労働供給の過少が問題となると主張できる根拠は無いと言わざるを得ない」と指摘しています。


『経済セミナー』2009年2.3月号
連載「福祉社会の経済学」:その10 ベーシック・インカムの実行可能性
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/semi200901.pdf
(この論文は基本的には厚生経済学の論文ですが、大学院レベルのミクロ経済学の知識が要求される個所があり、また政治哲学などとも絡めて議論が展開されており、正直、難しかったです。)



以上、ちょっと力が入ってしまい、長々と書いてしまいました。"evidence based medicine"という言葉がありますが、社会科学でも同様にエビデンスに基づく政策が求められており、マスメディアの報道を鵜呑みにせず、自分の目で確かめない限り、本当のところは分からない、そしてエビデンスに基づいた「科学的」な議論をしなければならない、というのが僕のスタンスです。だから、もしかしたら本当に甘えている人もいるかもしれませんが、甘えている人ばかりでもない、というのが最も妥当な表現でしょうか。物事をスパッと一つのストーリーで語るとイデオロギーとしては分かりやすくなりますが、事実を正確に述べようとすると「甘えている人もいるかもしれないし、そうでない人もいるかもしれない」というような極めて曖昧な言い方にならざるを得ない場合がほとんどではないかと思います。


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体調不良 ~ ここでもまたバングラデシュの医療格差について思いを巡らす ~

先週のとある深夜。突然激しい寒気を感じ目が覚めた。布団の中でガタガタ震える。どんなひどい状況でも眠れてしまうのが僕の長所であり短所でもあるのだが、とりあえず日本から送ってもらった葛根湯を飲み、朝まで眠る。朝、目が覚めると案の定、つらい。熱を測ると39℃を超えている。さすがに葛根湯も手遅れだったようだ。解熱剤を飲んでも熱が下がらない。しばらくすると水様便の激しい下痢に見舞われた。ただ、とにかく1日寝れば何とかなるだろうと思ったものの、午後になっても熱は下がらず、しんどさは増すばかり。アパートのcare takerのおばさんに助けを求めたところ、ICDDR,Bの担当者に連絡をとってくれた。ICDDR,Bの担当者によると、ダッカのアメリカン・スクール内にICDDR,Bのtraveler’s clinicがあるから、予約をとってあげるので、そこで受診するようにと言われた。


翌日、大使館などが密集するBaridhara地区のアメリカン・スクールにリキシャで向かう。一見するとクリニックなど無いように見えるが、建物内にいわば「保健室」のような感じでクリニックがあった。待合室の患者さんは当然ながら外国人、それから金持ち風のバングラデシュ人もいた。医師は、英語の発音からしておそらくイギリス人の女性。それにバングラデシュ人の看護師が一人。医師の診察を受け、トイレに行き、便を取り、そして血液を採取される。バングラデシュでここまでやってくれるとは、逆の意味で驚きだったし、清潔なディスポーザブル・シリンジや1枚ずつパックされたアルコール綿などを見て、なんとなく「安心・信頼」できる医療のように感じた。その日はとりあえず吐き気止め(ドンペリドン)を処方され帰宅する。


支払金額は、


診察料       4000タカ
一般便検査     200タカ
サルモネラ、赤痢、腸炎ビブリオ、カンピロバクター検査
          800タカ
一般血液検査   500タカ
マラリア検査    250タカ
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計         5750タカ


(どうしてもレイアウトが崩れてしまうので、桁が揃っておらず、見にくくなっていることはご容赦下さい。)


これ以外に、更に薬局でドンペリドン3日分200タカを支払っている。僕は海外旅行保険に入っていたから(ICDDR,Bでは海外旅行保険に入っていないとインターンを受け付けてくれない)後でそれを請求すれば良いだけだが、自費で支払うとなると大変だ。保険に入っていない人の場合、もっと安くなるらしいが、診察料はどうなるか分からないが、少なくとも検査代はほとんど実費に近いだろうから、最低でも1750タカを下回ることはないと思われる。もしこれが、バングラデシュにおける、いわゆる「プライベート診療」(以前のエントリ「バングラデシュの病院 ~医療格差~」)の相場なのだとしたら、お茶が1杯5タカ、水が500mlで15タカ、コーラが500mlで35タカのこの国で、地元の一般人がそう気軽に受診できるようなものではない。


翌日、電話とe-mailで、便中に白血球が多数存在しているとの知らせを受け、e-mailで抗菌剤(シプロフロキサシン500mg)を12時間ごとに飲むようにという処方箋が送られてきた。早速、家から最も近い薬局に行く。シプロフロキサシンは3日分で84タカ。それほど高くはない。日本から持ってきた解熱剤も無くなりかけていたので、同時にイブプロフェンも購入。そして、帰宅してまた寝る。食欲も無く、ほとんど物が食べられないが、care takerのおばさんが「ジャウ」と呼ばれるバングラデシュ風のお粥を作ってくれた。お米に加え、トウモロコシのような穀物やショウガが入っている。それにグリーンバナナを裏ごししたものを混ぜて食べる。普通の黄色いバナナと違い、全く甘くなく、渋くて、正直言ってまずい。おばさんによると、お腹の調子が悪い時は、このグリーンバナナがいいんだそうな。そして下痢で脱水症状にならないように、Tasty ORS(普通のORSはあまりおいしくないが、Tasty ORSはスポーツドリンクのような味になっており、飲みやすい)を少しずつ飲んでいた。


翌日、なかなか下痢の調子は良くならないが、熱は37℃代まで下がった。きっと解熱剤のせいだろう。3日たっても治らないとは、これまで生きてきてほとんど経験が無い。その後の週末もあまり無理な外出はしないようにして、アパートでゆっくり過ごした。


週明け、体調もすっかり回復し、再び日常生活に戻る。クリニックから再び電話とe-mailがあり、僕の病気の原因はカンピロバクター症だと告げられた。ただ、便から検出されたカンピロバクターはシプロフロキサシンに対して耐性を示したそうだ。それでも不思議なことに治っているのだから、自分の自然治癒力が回復したということだろうか(医師は「よくあることだ」と言っていた)。潜伏期間などを考えると、もしかしたら先週、Shahzadpurに行った際の食事が原因かもしれない、と思った。


ちなみに、「英辞郎 on the WEB」に面白い会話例が載っている。
http://eow.alc.co.jp/search/example?q=%e3%82%ab%e3%83%b3%e3%83%94%e3%83%ad%e3%83%90%e3%82%af%e3%82%bf%e3%83%bc&ref=ex&exp=PA-D-063&dn=2244877&dk=JE&pg=1


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よく人間は病気になって初めて健康の有り難みを感じると言うが、病床に伏すと何だか弱気になってしまった。自分はこんなに体が弱いんだったら、途上国で生活なんかできないな、と。でも日本で小さく生きるとしたら、どうやって生きていけばいいんだろう?そんなことを考える。「哲学的になる」なんて言ったら哲学者に対しておこがましいだろうし、そんな体系だった「哲学」があるわけでもないから、せいぜい「思索的になる」とでも言っておこうか。僕の頭の中では、かりゆし58の『少年』がこだましていた。「生きる事は簡単だ だけどひどく難しい そしてとても面白い」人間なんて、どうせ死ぬんだったら何のために生きるのか、そうだとしたら、目標を持って生きるとか、自己実現とか、そんなの一体何の意味があるんだ?でも、今、こうやってこの世界を見て、聞いて、触れて、感じることは愛おしい。「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」とアルベルト・アインシュタインは言ったそうだが(あるいは彼のいとこで音楽学者のアルフレート・アインシュタインの言葉かもしれない)、死とは、まさにそんな愛おしい世界から引き離されることに他ならない。意味も目標も無い、この世界。しかし、とてつもなく愛おしい、この世界。


生きることに「与えられた」意味は無い。しかし、自分で意味を見出すことはできる(あるいは見出さねばならない)。それが難しい。今まで自分が築き上げてきた「目標」のようなものが全てチャラになってしまうかのような、弱気な心に支配されそうになったが、でも、それでも、と思い直す。こうやって自分と同じように病床で苦しむ人はいる。そんな人たちに、漏れなく医療を提供したい。なんとなく心の底からそう思えたわけではないような気がしたが(美談に仕立て上げるならこんなことは書かない方がいいのかもしれないが、何かどこかで自分をごまかしているような、そんな違和感が拭えないのだ)、とりあえず、今日はそう思うことにした。


バングラデシュの地方の母子保健

JICAが行っている、バングラデシュの地方の母子保健プロジェクトの評価にほんの少しだけ関わらせて頂くことになった。


母性保護サービス強化プロジェクト
http://www.jica.go.jp/project/bangladesh/0602298/


バングラデシュでは母子保健の改善、とりわけ、国連ミレニアム開発目標にあるように、乳幼児や妊産婦の死亡率を下げるべく、政府が主体となって、Skilled Birth Attendant (SBA)と呼ばれる人々を養成し、各地域で活動している。SBAは出産介助や母親の産前産後の検診、またそれ以外の様々な保健活動を行う。バングラデシュのような途上国では、特に僻地においては、医師や保健師の数は圧倒的に不足している。従来は、Traditional Birth Attendant (TBA)と呼ばれる、伝統的「産婆」が出産介助を行なってきた。しかしながら、彼女たちは正規の教育を受けていないことが多く、医学的には有害な迷信的習慣に束縛されていたり、衛生に関する知識が不足しており、例えば、消毒されていない不潔な刃物で臍帯を切断するために、母子に感染症を引き起こしてしまう、などといった問題を起こすこともあった。政府は、TBAに教育を施して知識・技術の向上を図ろうとしたことがあったものの、あまりうまくいかなかったようで、TBAとは別に、SBAを養成することになった。結果として、SBAが広く受け入れられてゆくと、TBAは次第に淘汰されてゆくことになる。ただ、TBAの再教育に関しては様々な意見があるようだ。


SHARE 国際保健の基礎知識 TBA
http://share.or.jp/health/library/knowledge/tba.html


しかしながら、政府が運営するSBAだけではカバーしきれない地域も出てくる。そこで、NGOやJICAなどがp-CSBA (private Community-based Skilled Birth Attendant)を養成し、政府系SBAの補完的役割を果たすことを期待されている。


現地の様子を見せてもらったり、p-CSBAにインタビューを行ったりするために、これまでに、Narsingdi、Pabna、Shahzadpurを訪れた。Narsingdiはダッカから車で2時間くらいで行けるが、PabnaやShahzadpurは車で7~8時間ほどもかかる。それでも、昼に出れば、その日の夜には到着できる。首都ダッカから近い所ではこうした取り組みも行いやすいだろうが、ダッカやその他の大都市から遠く離れた土地、つまり、1日、2日では行けないような土地で行うのは容易ではないだろうから、そうした土地の医療・保健はどうなっているのだろう、と思った。


さて、Shahzadpurを訪れた際、あるp-CSBAから話を聞くことができた。彼女はJamuna川の広大な中洲地域で活動している。ここには政府系SBAはおらず、NGOやJICAなどのp-CSBAがその穴を埋めている。p-CSBAには出産介助のための道具、医薬品などは提供されるが、仕事としてはほとんど収入にならず、ボランティアベースである(他に職業を持っていたり、夫に養ってもらっていたりする)。事実、彼女もp-CSBAとしての収入がほとんど無いことは苦しいと言っていたが、それでもなぜ、その仕事を続けるのか、と問われれば、「その地域で必要とされているから」と答える。「自分がやらねば誰がやる」という使命感を持って活動しているのだと感じた。


政府系・非政府系含めて、ShahzadpurにおけるSBAの活動拠点を確認してみると、ある程度全体をまんべんなくカバーしてはいるものの、まばらだな、という印象だった。その時、僕は自分の「原点」のようなものが、ふっと心に浮かんだ。日本ならば(必ずしも100%の信頼ではない場合があるにせよ)医療サービスが受けられないことはそれほど心配しなくてもよいが、途上国の田舎においては、それは決して「当たり前」ではない。まだバングラデシュは(少なくとも一部の地域では)途上国の中でも先進的な取り組みが見られるマシな部類なのかもしれないが、「エビデンス」を云々する前に、このような僻地の村に必要最低限の医療を行き渡らせること自体が明らかすぎる要請ではないのか(もちろん、予算制約ゆえに効果のエビデンスを議論しなければならないことは承知している)。そのための手助けをしたい。そう、もう一度心に思った。



<Narsingdiにて>


Yoshitaka&#39;s blog-Narsingdi GoB SBA

政府系SBAによる、妊婦とその家族への産前産後の基礎知識に関するセッション。
日本から、恵泉女学園大学の大橋正明ゼミの学生さんたちも見学に来ていた。


関連記事
国際協力NGOシャプラニール 菅原駐在員のブログ
http://www.shaplaneer.org/blog/sugahara/2012/01/post-32.html


イラストの描かれたカードを使い、母親には栄養を十分とらせることや衛生に関する知識を教えていた。「牛に餌をたっぷり与えると、牛乳がよく出るようになります。人間も同じです。」「お客さんが来る日には、家の中をきれいに掃除して出迎えますね。新しい赤ちゃんを迎える時も、家の中をきれいにして、手を洗い、お湯を沸かして迎えましょう。」という話をしているのを聞いて、うまい説明だと思った。


Yoshitaka&#39;s blog-Narsingdi 手術室


病院の手術室。日本の手術室と比べると設備面・衛生面で見劣りするが、それでも一応、一通り揃っている。


Yoshitaka&#39;s blog-Narsingdi 5S


病院の薬局に掲げられた"5S"のポスター。日本語ならば「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「躾」だが、英語にすると、それぞれ、"Sort" "Set" "Shine" "Sustain" "Standardize"となる。分かりやすいようにするためか、日本語とは少々順番が変えられている。



<Pabnaにて>


Yoshitaka&#39;s blog-Pabna SBA training


Pabnaにおけるp-CSBAのトレーニングセッション。I博士によると、彼女たちは最初はあまり喋らなかったが、今では積極的に意見を発言するようになっており、このプロジェクトの副次的効果である「女性のエンパワーメント」のanecdotal evidenceなのだと言っていた。



Yoshitaka&#39;s blog-Narsingdi 分娩室


病院の分娩室



Yoshitaka&#39;s blog-Pabna 病院


病院の近くでは牛がのびのびと草をはんでいる。



<Shahzadpurにて>


Yoshitaka&#39;s blog-Shahzadpurへの夕日


Shahzadpurへと向かう道の夕日



Yoshitaka&#39;s blog-Shahzadpur FGD


p-CSBAの皆さんに集まってもらい、意見交換・問題点の提起などをしてもらい、活動の改善につなげる。



Yoshitaka&#39;s blog-Shahzadpurの子供たち


Shahzadpurの子供たち



Yoshitaka&#39;s blog-Shahzadpur 民家


民家



Yoshitaka&#39;s blog-Shahzadpur 牛小屋


牛小屋。「古き佳き時代」の面影、と言えば聞こえは良いが、大量の蠅が飛び交い、衛生的な環境とは言い難い。ジャーッと音がして振り返ると、牛が突然放尿し出した。

物乞いたち

ダッカ市内を歩いていると、ストリート・チルドレンや物乞いに出会わないということは無い。道の至る所で、物乞いは「お金をくれ」と手を差し出す。特に自分のような外国人が通るとなおさらだ。車に乗っていて渋滞で速度が落ちると、ストリート・チルドレンたちが近づいてきて、お金をねだる。自家用車を持っているのは金持ちに決まっているからだ。


そうした物乞いたちの中には重度の障碍を負っている人も多い。手や足の無い人。知的障碍を持っているであろう人。僕は最初は、「この人にはお金をあげて、あの人にはお金をあげないということはできない。そんな不平等な渡し方はできない。だからお金は誰にもあげない。お金をあげたところで何の解決にもならないから。」と考えていた。また、そうした物乞いの中には、元締めのマフィアに使われている人もおり、せっかくあげたお金もマフィアの資金源になってしまうという話を聞いたことがあるから、なおさら警戒していた。では、そんな物乞いたちに対して地元の人はどうしているのだろう?僕が住んでいるアパートのお手伝いさんに訊いたところ「1タカか2タカ程度はあげるよ。その後で周りから集まってきて、あまりにもしつこく付きまとわれるようだったら、『もう無い』って言う」と言っていた。そう、ここバングラデシュでは、公的な社会福祉は期待できない。それに代わって、人々が自発的にお金を渡し、物乞いたちはそれで日々を食いつないでいく。こうした寄附は、いわばインフォーマルな社会福祉としての機能を担っているのだ。


ある日、頭に大きな腫瘤のある小さな赤ん坊を抱きかかえているストリート・チャイルドが "Hey, boss! Taka." (ねえ、旦那、お金を)と言ってしつこく付きまとってきた。さすがに僕も根負けして、財布の中に入っているお札の中で一番額面の小さな10タカ札を1枚渡したら離れていった。本来ならば、この赤ん坊はきちんとした医療を受けるべきなのだろうが、それを受け入れるだけの医療施設は無いだろうし(前回も書いたが、バングラデシュの公立病院は診療こそ無料だが、提供される医療の質は低い)、このストリート・チャイルドもそこに連れて行ってきちんと病状を説明できるだけの教育もきっと受けられていないだろう。たかが10タカを渡したところでどうにかなるわけではない。でも、僕にはそれ以外に何もできないんだ。


別の日、片目が白濁している女性が近づいて来る。一見して白内障だと分かる。日本ならば、日帰り手術もできるというのに(つまり「不治の病」などではなく、適切な医療が施されれば、必ずしも根治はしないとしても、ほとんどの場合、症状を十分に改善できる病気なのだ)、ここではそれすら満足に受けられない人がいる。その人もお金をねだってきた。僕はまだうまくベンガル語が話せないので、その場にいた英語の分かる人が親切にも通訳をしてくれた。僕は「公立病院ならば診療費は無料だから、そこに行けばいい」と言ったが、その通訳をしてくれた人によると、彼女はその説明を理解できなかったそうだ。ただ、後で、例え公立病院に行ったところで、白内障の手術ができるところなんかそうそう無いんじゃないだろうか、と思った。ここは日本じゃないんだよ、と。先進国では、もはや失明の原因としては割合の小さくなっている白内障が、発展途上国においてはいまだに失明原因の第1位だ。


Causes of blindness and visual impairment(英語)
http://www.who.int/blindness/causes/en/


交差点で信号待ちをしていると赤ん坊を抱きかかえた母親がこちらに近付いて来た。どうやら子供の具合が悪いと言っているようなのだが、何を言っているのかよく分からない。ここでお金をあげたところで、その赤ん坊が実は「借り物」で、単にマフィアの資金源になるだけかもしれない、そう考えると警戒してしまった。でも、もしかしたら子供は本当に病気かもしれない。僕はその時、名案が浮かんだ。「薬局に行こう!」母親を薬局へと連れて行った。その母親は薬ではなく、粉ミルクが欲しいと言ったので、僕が代金の200タカを払い、母親に渡した。彼女は特に嬉しがる様子も見せずに立ち去った。そうだ、現金ではなく、現物支給にすればマフィアに利用される可能性を排除できる。


市場で物乞いたちが僕に金をくれと手を差し出してくる。今年はバングラデシュは例年になく寒い冬になった。実際にホームレスやストリート・チルドレンが何人も寒さゆえに亡くなっている、と英字新聞の記事にあった。きっとこの人たちも寒いだろう、と思い、1枚600タカの毛布を買って渡した。しかし僕が買ってきた毛布は5枚だけ。噂を聞きつけたのか、またたく間に物乞いたちが僕の周りを取り囲んだ。たった5枚でおしまい。それも残酷だ。そう思い、近くのタオル屋で1枚400タカの大きなバスタオルを毛布替わりに買った。そして、それをまた配る。それでも足りない。僕は自分の財布の中を覗いてみた。これ以上、気前よくバンバン配ることはできない。物乞いたちはバスタオルを奪い合おうとする。僕はみんなでシェアし合ってほしいと思い、1枚のバスタオルを広げて、並んだ3人の物乞いの肩にかけたところ、こころなしか彼女たちの顔がほころんだような気がした。取り合うのではなく、分け合ってほしい、と思ったが、それは単なる綺麗事に過ぎないんだろうか。


余談だが、新約聖書の各福音書に「パンと魚の奇跡」と言われている話が出てくる。イエスが、たった5つのパンと2匹の魚を増やして、5000人以上の腹を満たした、という奇跡物語だ。この「奇跡」の解釈として、もともと人々は銘々に少しずつ食べ物を持っていたが、自分の分しか無く、分け合うつもりは無かった、だが、そこでイエスや弟子たちがわずかなパンを分けあったために、人々の間に分かち合いの気持ちの連鎖が起き、皆に少しずつ行き渡った、という話を、僕が小さい頃に聞いたことを思い出した。インターネットでいろいろ探してみると、こんな記事を見つけた。


“少年”のような信仰
http://www5b.biglobe.ne.jp/~saitama/mikotoba/hajime.htm


古代の話だから、きっと今の発展途上国よりももっと食糧事情は厳しかったかもしれない。「愛すること」とか「分かち合うこと」というのは聞こえはいいが、当人にとってみれば、文字通り死活問題であり、「分け合いなさい」というのは決して生易しい言葉ではない。だが、そうやって古代の人々も命をつないできたのかもしれない。ふと、そう思った。


現金を渡すだけなら、2タカ、5タカ程度で済むかもしれないが、粉ミルクや毛布のように、何か物を買うとなると、自分の出費はずっと大きくなる。ただ、現物支給なら、マフィアに吸い上げられてしまう可能性は排除できるし、物乞い自身がその現金で何かを買いに行くとなると、特に身体に障碍を持っている場合は、それすら大変だから、それを代わりにやってあげていることにもなる。もちろん、もしかしたら僕が渡すものは、とんでもなく頓珍漢な、的外れな物資かもしれない。だが、僕はベンガル語がほとんどできないし、知的障碍を持っている物乞いの場合、仮にベンガル語ができたとしても意思の疎通が困難なことが予想される。そんなことを考えて、自分の行為を正当化している。最近は道端の店でよくオレンジやバナナなどのフルーツを買い、物乞いたちに渡している。きっと彼らにはビタミンが不足しているだろうし、そもそもビタミンとは何かということ知るだけの教育も受けていないだろう。そう考えて、パターナリズム的ではあるが(つまり、現金を渡す場合に比べて、彼ら自身の選択の自由を制限している)、僕は彼らにフルーツを渡す。すぐ近くの露天の売店で買うから、売店の人にとってもメリットがある。これは、海外から大量に物資を持ち込んで、かえって現場の経済を破壊してしまう紐付き援助とは違う、とも考えている。


これでいいんだろうか?本当に?本当にこれでいいの?みんなに平等に物を分け与えることはできないし、もしかしたら、僕は自己満足のためにこの社会の秩序を乱しているだけなんじゃないか?そう自問自答する。でも、「援助」の本質って、そんなものじゃないのか?ある国のある部門にはお金を出すが、全世界のあらゆる部門にお金を出すことはできない。規模が違うだけで、国だって、NGOだって、個人だって、寄附をする先を選別しないとやっていけない。人間は「全人類」を愛することはできないし、「全人類」を助けることはできない。ただ、自分に何らかの縁のある人を助けるしかない。今、目の前に来た人が、自分にとって「縁のある人」だ。ただ、一人一人にとって「縁のある人」は少しずつ違うから、そうやってリスク分散されて、物乞いたちに物やお金が回っているんじゃないのか、と信じたい。現に、本当に物もお金も回っていないのであれば、物乞いたちは今ここに生きていることはできないはずだ。また、「『平等に』みんなにお金はあげない」と全員が言ったとしたら、物乞いは餓死してしまう。


いや、これはバングラデシュの人々自身の責任だ、日本人の責任ではない。そう言われるかもしれない。しかし、ここバングラデシュでは、インフォーマルな「助け合い」が、フォーマルな社会福祉の代わりをしている。とすると、そこには “give and take” の関係や責任のある・なしを問うという発想そのものが無い。道を二人で歩いている人がいた。一人は物乞いの前を過ぎ去り、もう一人はポケットからお金を取り出し、物乞いに渡す。おそらく彼らにとって、目の前の物乞いは「たまたま出会った」他人でしかない。だが、そんなことは彼にとっては関係がない。彼はただサダカ(自発的な喜捨)を行い、陰徳を積んでいるのだ。サダカは義務ではないが、そうやってイスラームの人々は古代から自発的相互扶助の仕組みを育んできた。


「物乞いたちが自立できるような援助が必要だ」そう言う人がいるかもしれない。確かに、その通りだ。彼らが自立できなければ根本的な解決にならない。しかし、そう言って目の前の物乞いに対して何も行動を起こさないとういのは、僕が以前のエントリ「映画『僕たちは世界を変えることができない。』~知識 vs. 情~」に書いたように「毒矢の材質が分からない限り、刺さった毒矢を抜かない」と言い張っているのと同じだと思う。


自分がしていることは良いことなのか、悪いことなのか、あるいはそんな抽象的なレベルではなく、もう少し具体的なレベルに落とすならば、その物乞いにとって過ごしやすい今日一日をもたらすのか、それとも単なるありがた迷惑に過ぎないか、それは分からない。でも、多分、自分には、今こうやっているように、目の前の人に、何らかの現物を渡す。それ以外に選択肢は考えられない。


バングラデシュの病院 ~医療格差~



先日、ダッカ近郊の公立病院、ならびにICDDR,B (the International Centre for Diarrhoeal Disease Research, Bangladesh)のMatlab病院を見学させてもらった。

 

 

<ダッカ近郊の公立病院>

 

 

 

この病院は、僕と同じくI博士に指導を受けている、BRAC大学の公衆衛生学コースのインド人留学生Rさんが調査フィールドとしている病院だ。今回、彼の調査に同行させてもらった。ダッカ市内から郊外へバスで1時間ほど行った所にその病院はある。バスは超満員で老朽化が激しい。おそらく、かつて日本で観光バスとして使われていたものだろう。お洒落な天井のデザインが朽ち果てており、この「元」観光バスにとっての予期せざる第二の人生に思いを致した。

 

 

この病院は入院患者用に50床あり、30床は女性患者向けである。患者は、緊急搬送、または各地の診療所などからの紹介(referral)で来院する。交通事故や出産、また中毒(”poisoning”と言っていたが、何の中毒なのかはよく分からなかった)などだそうだ。

 

Yoshitaka&#39;s blog-病院の受付

 

バングラデシュの公立病院は基本的に無料である。検査がある場合は、費用は20~100タカほど(ちなみに、ダッカの物価だと、500mlペットボトルのミネラルウォーターが15タカほど、コーラだと30~35タカくらい)。

 

Yoshitaka&#39;s blog-臨床検査ラボ

基本診療が無料ならば良い制度ではないか、と思うかもしれない。しかし、第一に、病院のインフラは劣悪である。Rさんは、他の病院と比べればここはかなり良い方、と言っていたが、他の病院の写真を見せてもらったが、衛生状態は恐ろしく劣悪なようである。臨床検査もまともにできないらしい。確かに、ここはそうした病院と比べれば「マシ」なのかもしれないが、日本の病院が「当たり前」だと思っていた自分にとっては「なぜ、もっときれいに整備・清掃がされていないのだろう?」というのが正直な感想だった。第二に、医師たちは14:00~15:30くらいで帰ってしまう。ひどい時は、病院に行っても医師がいないこともある。そして、自宅でプライベートに診療を行う。日本と違って、保険点数で医療費が決められているわけでもなく、このプライベートな診療は高額であり、もちろん日本のような国民皆保険制度など無いから、貧富の差により、医療サービスへのアクセスに格差ができてしまう原因となっている。しかし、なぜ医師たちは病院での診療をさっさと切り上げて、自宅でプライベート診療を行おうとするのだろうか?I博士によると、医師の給与水準が低いためだという。つまり、医師は病院に勤務するだけでは所得の確保が困難なので、高額なプライベート診療を行うインセンティヴが働くとういわけである。

 

もう一つ、バングラデシュの病院で見られるのは、「ブローカー」の存在である。公立病院では、必ずしも満足のゆく医療サービスが受けられないため、公立病院で順番待ちをしている患者に対して、自分の所属する私立病院へと患者を引き抜くブローカーが紛れ込んでいる。Rさんがブローカーとおぼしき人に声をかけたところ、彼は製薬会社の調査員であり、自社の薬の評判を調べているのだと言う。僕はすっかりそれを信じていたのだが、Rさんは後で「彼は本当のことを言っていない。彼はブローカーに間違いない。」と言っていた。

 

 

この病院は数々の問題を抱えている。救急車は壊れていて埃をかぶっているし、

 

Yoshitaka&#39;s blog-埃をかぶった救急車

医療スタッフの数を増やすことができないため、病床数も増やすことができず、需要側のニーズに応えきれていない。しかし、貧富の差による医療格差を少しでも無くそうと、この病院は独自の取り組みをしている。個人的な寄附を募り、病院独自の基金を立ち上げ、貧困層に資金的援助を行っている。公立病院というフォーマル・セクターは、基本診療費が無料であり、本来ならばセイフティ・ネットの働きをするはずであるが、実際には最も健康リスクに対して脆弱であると思われる貧困層のセイフティ・ネットの役割を果たしておらず、こうした「志ある」インフォーマル・セクターが代わって担っているのだ。つまり、政策の持つ精神としては、決してアメリカ型「個人主義」「自己責任」イデオロギーではなく(交通規制など、他の分野でも言えると思うのだが)、社会福祉政策のエンフォースメントの弱さ、そして、医師の給与水準を低く抑えておきながら無料で病院の経営を行う、といった、政策そのものの矛盾が問題の根底にあるのだ。医師が国外ではなく、プライベート診療という別市場に「頭脳流出」していると捉えることもできるだろう。ただ、今回はプライベート診療の実態がどのようなものか十分に把握できていないので、何が良い解決策なのかに関しては、今のところは分からない。

 


<ICDDR,BのMatlab病院>

 

 

“Matlab”といっても、数値解析ソフトウェアのことではない。ダッカから南東に車で3~4時間ほど行ったところにある田舎の村の名前である。広い道を走ったあと、ひたすらデコボコの細い田舎道を走り、橋の無い川を車ごとフェリーに乗って渡り、ようやくMatlabへと辿り着いた。ダッカの汚い空気から離れ、しばし田舎を堪能できた、と言ったら不謹慎だろうか。ここではコメの二期作が行われているが、水田の風景は日本のそれと変わらない、そう思った。

 

Yoshitaka&#39;s blog-橋、小舟、水田

 

(参考)
Matlab fact sheet(英語)
http://www.icddrb.org/images/stories/TrainWithUs/ConsideringFieldExp/matlab%20fact%20sheet.pdf

 

 

もともとこの地域はコレラのワクチンを開発するための地域として選ばれた地域だった。そこにICDDR, Bが病院を作ったわけだが、こんな片田舎の病院としては、おそらく得られるものを総動員して、やれるだけのことをやっている、と思った(もちろん良い意味で)。公立病院と同様に、基本的に診療は無料である。ここでのメインターゲットは母子保健である。母親と乳幼児はICDDR,Bの病院にかかれるが、大人の男性や出産とは関係のない女性は少し離れた公立病院に行かなければならない。これは病院のキャパシティ上やむを得ないのかもしれない。

 

 

途上国においては、医師・看護師といった「フォーマル」な医療従事者を増やすのにはコストと時間がかかり、莫大な需要にとても応えきれない。また、立派な病院を建設するような莫大なお金も用意できるわけがない。そこで「コミュニティ・ヘルス・ワーカー」と呼ばれる、一定程度のトレーニングを受け、予防接種や初期診療などにあたる人々が活躍している。このMtlab病院の傘下には多くのコミュニティ・ヘルス・ワーカーの「診療所」があり、病院‐サブセンター‐診療所というピラミッドの底辺に位置し、住民に最も身近な医療施設となっている。今回は、中央の病院から最も近くの診療所を訪れた。木造の納屋のような診療所だ。予防接種のある日には、黄色い旗が掲げられ、村人に知らせられる。

 

Yoshitaka&#39;s blog-予防接種を知らせる旗 Yoshitaka&#39;s blog-予防接種

予防接種、鉄分・葉酸などの栄養剤、抗生物質などが得られる。また、日本は既に「少産少死」社会であるが、この村は「多産多死」であった。そこで、出生率を減らす努力が行われ(これは決して「上から目線」で指導しているわけではなく、確かに村人の間にも「出生率を減らしたい」という要望がかねてから存在している。あまりに子供が多いと、家計がかえって苦しくなってしまうからである)この診療所でも経口避妊ピル、注射するタイプの避妊薬、コンドームが得られる。そして、日本の母子手帳のように、子供の予防接種歴、健康診断の結果などを記録した専用のノートが配られる。診療所の裏にはマスタード(からし菜)の畑が広がっており、菜の花のような黄色の花が満開だった。

Yoshitaka&#39;s blog-マスタード畑と少年

 

続いて、末端の診療所よりも一段上の施設である、サブセンターを訪れた。分娩室や男性の性感染症を診る部屋もある。

 

Yoshitaka&#39;s blog-分娩室

ここには「リキシャ救急車」がある(「リキシャ」とは東南アジア・南アジアで広く見られる人力の乗り物の、ここバングラデシュでの呼び方で、日本語の「人力車」を語源とする。後ろに人が乗って、前で運転手が自転車を漕ぐ)。これはうまい考えだ、と思った。

Yoshitaka&#39;s blog-リキシャ救急車

ガソリンエンジンで走る自動車の救急車など、この村でメンテナンスするのは極めて難しい。しかし、自転車ならばずっと簡単にメンテナンスできるし、燃料の心配もしなくていい。ここでは助産師がコミュニティ・ヘルス・ワーカーのように一般的な初期診療も担当している。また、コミュニティ・ヘルス・ワーカーがこのサブセンターに月に2回集まり、お互いに情報交換をして研鑽を積んでいる。ここでも箱にコンドームが入れて置かれており、欲しい人は自由に持って帰れるようになっている。そして箱の上にはコンドームの使い方が絵入りで説明されており、イスラム教国なのにオープンだな、と思った。

Yoshitaka&#39;s blog-コンドーム使用方法

 

最後に、中央の病院である。

 

Yoshitaka&#39;s blog-病院外観

ここは病院だけではなく、世帯調査なども担っており、出生、死亡、移住などの記録を取っている。昔は手書きだったが、今やフィールドワーカーはPDA(”iPAQ”と書かれていたので、最初、”iPad”のパチもんかと思ってしまったが、ちゃんとしたHewlett-Packard Companyの製品だ。いや、失礼。)を手に各世帯を回っている。こうした数多くのフィールドワーカーの地道な努力があってこそ、家計の個票データに基づく、evidence basedな医療保健・開発援助プログラムへの道が拓かれる。

Yoshitaka&#39;s blog-フィールドワーカーの努力を称える Yoshitaka&#39;s blog-世帯調査用PDA

 

 

病棟では多くの母親と子供がベッドにいた。ベッドの中央部には穴があいており、ベッドの下のバケツにつながっている。先進国ならば拒否反応を示す人がいるかもしれないが、下痢が引き続く状態で、限られた資材でいかに衛生的に保つかという点で、これもうまく考えられた仕組みだと思う。

 

 

Yoshitaka&#39;s blog-下痢症患者用ベッド上面Yoshitaka&#39;s blog-下痢症患者用ベッド側面

ここでも、患者の看護の記録にPDAが使われている。

Yoshitaka&#39;s blog-患者看護記録用PDA

案内してくれた医師の話によると、 この季節の子供の下痢はロタウイルスによるものが多いそうだ。下痢の子供は胃腸が弱っているが、日本のようにどこでも点滴が手に入るわけではないから、砂糖水か重湯が与えられる。また、ORS(Oral rehydration saline)は、バングラデシュの有名な発明品の一つである。

 

(参考)
ORS
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%8F%A3%E8%A3%9C%E6%B0%B4%E5%A1%A9

 

 

また、この病院では新生児室もある。この部屋にだけ暖房が入っており、黄疸治療のための光線治療機(といってもライトの周りを幕で囲っているだけだが)があるが、先進国のNICUのような設備はない。ここでは、カンガルーのようにお母さんが赤ちゃんを抱く「カンガルーケア」が行われている。お母さんの体温によって、赤ちゃんの体温が安定する、などの効果がある。余談だが、カンガルーケアについて調べているとこんな記事を見つけた。

 


「カンガルーケアって危ないの?」
http://allabout.co.jp/gm/gc/188783/


この記事中で渡部医師はお母さんが上半身を起こした状態で抱くことを勧めているが、新生児室にいたお母さん達の様子を思い出してみると、確かに、皆ベッドの背中に当たる部分を起こしてリクライニングチェアのような角度で座っていた。

 

検査ラボは先の公立病院とは比べものにならないくらい、しっかりとした設備が整っていた。顕微鏡はもちろんだが、血液検体中のイオン濃度を計測する機械やインキュベーター、ローテーター、遠心分離機も揃っていた。しかし、相当年季の入った古い遠心分離機もまだ現役で、検査技師の方も「そろそろ博物館に入ってもよさそうな古いものだが、今でも全然問題なく動くんだよ」と言っていた。

 

Yoshitaka&#39;s blog-古い遠心分離機

 

このようにMatlabの病院は、途上国の片田舎の病院としては極めて質の高い医療サービスを提供しており、コミュニティ・ヘルス・ワーカーを通じて、広い範囲に医療を提供している。また、それだけではなく、地元の人々の雇用にも一役買っている。ある警備員が人懐っこく僕に話しかけてきたが、彼は地元の人だという。また、病院の敷地内には池があり、魚の養殖を行い、年に数回それを売って収入の一助としているそうだ。また、敷地内にはモスクもあり、地元の人の祈りの場として開放されている。実に見事だ。

 

 

だが、と僕は思った。その時、僕の頭の中をよぎったのは「ミレニアム・ビレッジ」だった。僕自身、アフリカ各地のミレニアム・ビレッジを自分の目で見たわけではないので、あまり自信を持っては言えないが、限られた地域に集中的に資金を投入して、成長の足がかりとする(もちろん、Matlabは医療がメインであって、経済成長を意図しているわけではない)というのは分かるが、果たしてそれが(理想論ではなく、現実論として)持続可能な援助たり得るのか、国連ミレニアム開発目標の達成に実際にどれだけ役立っているのだろうか、という批判もある。ここMatlabも多くのドナーからの資金援助無しには持続し得ないだろうし、

 

Yoshitaka&#39;s blog-援助ドナー

このような高水準の医療サービスを他地域へ広げるのも難しいだろう。ICDDR, Bの著作物などでは、隣接地域の公立病院と比べて、ICDDR, Bの病院がいかに乳幼児死亡率や母子保健の改善に実績を上げてきたかが述べられている。確かに、そうだ。しかし、その隣接地域の公立病院がカバーする地域にも人は住んでいるのである。病に苦しむ赤子を抱きかかえる母親がいるのである。もちろん、それは政府機関でも何でもないICDDR, Bの責任ではなく、バングラデシュ政府の責任だと言われるかもしれない。I博士は「私たちがいくらエビデンスに基づいた政策を提言しても、政治家たちは聞く耳を持たない」と嘆いていた。ならば、消極的ではあるが、Matlabで達成された実績を政治家たちにアピールして、公立病院でも取り入れえもらえるように説得するくらいしか無いのかもしれない、と考えると、ひたすらICDDR, Bの実績を強調している意味が分かった気がした。

 

 

 

体罰と戸塚ヨットスクールを批判する

以前に、ある友人から、戸塚ヨットスクール、そして体罰に関して質問された事があり、その時に自分なりの考え方をまとめたので、その友人から許可を頂き、少し加筆・改訂してここに掲載する。少々まとまりがなく読みにくいが、ご寛恕願いたい。



<最初のメール>


> 教育問題で、体罰は賛成ですか反対ですか?
> 僕は100パーセント反対ではないです。場合によってはありかなと思っています。
> 実は最近戸塚ヨットスクールの戸塚宏のインタビューをみていて結構納得できる所がいくつかあったので、彼は今引きこもりや非行少年に対して改善のためのヨットスクールをやっているらしいです。
> 彼が言うには特に引きこもりの子供なんかは本能がきちんと育っていないためだと言う。
> 「人間の理性は本能の上に作らなければいけない」
> 「そのためには死に近づけるような体験が必要」
> 「大人が子供の本能を刺激してあげる必要がある」
> まあこんな事を言っていたんですが、僕も最近自分の本能と言うのが正常に機能しているのかどうなのか凄く不安になっていて、よく思うのが今自分は腹が減っているのか減ってないのかがわからなくなったり、(すし屋よく味見をするもんで)今自分は寒いのか暑いのかわからなくなったり、(どこでも冷暖房完備なため)僕は最近の草食系男子もこのことが原因なのではないかと思っています。


ちなみに、今「草食系男子」と言われている世代は、かつて「キレる17歳」と言われていたんですよ。マスメディアが作る流行語はあくまでも「流行語」として楽しむものです。


戸塚宏さんの主張をきちんと確認しようと思い、先日、彼の本を書店に探しに行ったのですが、全て在庫切れ。インターネット上の情報から、彼の主張を確認してみました。結論から言うと、あれは「トンデモ論」「カルト」です。


僕は体罰は100%ダメとは言いません。しかし、それは最小限に抑えられるべきであって、むやみやたらにやるものではありません。あくまでも、非常時の最終手段と位置付けるべきです。僕は小さい頃、親から叩かれる事はありましたが、それでも「頬やお尻を叩くのはO.K. でも頭を叩くと馬鹿になるから、それは反則」と、体罰の「ルール」的な話も聞いていました。また、ある先生は「不意に殴るから怪我をする。叩く前には、しっかり歯を食いしばるように言って、これから叩くぞ、ときちんと言ってから叩くと怪我をしない。」と言っていました。例え体罰が必要だとしても、「啐啄同時(そったくどうじ)」の言葉があるように、師弟が互いに信頼し合い、十分に期の熟した時を見極めなければ、意味のある「体罰」とはなり得ないでしょう。戸塚ヨットスクールの場合は、明らかに「体罰」の域を越えて「虐待」「傷害」「暴行」です。僕はお寺の坐禅会に時々参加していますが、一般の在家修行者はこちらからお願いしないと警策で叩いてくれませんが、専門の修行僧は、坐禅中に姿勢が悪かったり、居眠りしていたりすると、警策で叩かれます。しかし、その際は、力任せにバシバシ叩くのではなく、叩く側、叩かれる側ともに、作法が細かく決められています。つまり、その作法を逸脱して叩く事が無いよう、制限がかけられているのです。


「戸塚ヨットスクールについて語るスレ」
http://vip2ch.com/read/read.php?dat=0605271745055

は、2chにしては結構まともな議論がされていますが、その中にあった意見と絡めて僕の立場を言うと、「体罰は一度認めてしまうと歯止めがきかなくなるから、原則禁止。ただ、どうしても必要な場合には、極めて抑制的になるよう、一定の制限がかけられるべき。」といったところでしょうか。


ただし、体罰が「更生」(これも何を以て「更生」と定義すべきか問題があると思いますが)に有効であると、統計的に有意差が示された研究を寡聞にして知りません。これから体罰を受ける子供と受けない子供を無作為に割り付けて実験をする、というのは倫理的に認められないでしょうから、おそらく、ケースコントロル・スタディにならざるを得ないでしょう。
http://www.chikennavi.net/word/case-control-study.htm


つまり、健全な人と、問題行動を抱える人との間で、体罰がどのくらい有意に改善に作用していたかが検証されないと、いくら自分の主義主張で「体罰は有効」と言っても、それは単なる「個人的経験」であり、科学にはなり得ません。


「戸塚校長・知多児相・対談」 平成20年12月25日(「記録動画」の所)

http://www.totsuka-school.sakura.ne.jp/
は、「対談」の体をなしておらず、戸塚さんが一方的に自説を展開し、批判を一切受け付けず、「あなた方は間違っている」と言うのみです。しきりに「科学」と言いますが、単なる思い込みであり(「西洋」と「東洋」の一方的カテゴライズと我田引水的解釈なども含む)、そもそも「結果」も何を意味するのか不明です。これは途上国援助などでも言える事ですが、「結果が出なかった → 効果が無かった」というのは間違いです。戸塚さんは統計学を理解していません。結果が出なかった「ように見えた」のは、もしかしたらもっと悪くなるはずだったのを食い止めて、なんとか現状を維持したという結果なのかもしれませんし、児童相談所に来る子供と戸塚ヨットスクールに来る子供の質が同じでないと、その結果を単純に比較はできません。もし、児童相談所に来る子供の方が、何らかの理由で潜在的な更生の可能性が低いのであれば、それは児童相談所のせいではなく、その「サンプリング・バイアス」によるものです。あるいは、戸塚ヨットスクールで更生したのは体罰のためではなく、ヨットスクールでのその他の教育プログラムのせいであるかもしれません。


このビデオの中で、「人間を行動に駆り立てるのは不快感だ」「褒めて育てるのは間違い」という主張が出てきますが、もし、戸塚さんが経済学を知っていたら、もう少し違った考えができたんじゃないかな、と思ったりします。経済学では、個人が限られた予算制約の中で、楽しい、美味しい、気持ちいいといった「効用」を最大化しようと振る舞うと想定します。不快感は言うなれば「負の効用」です。つまり、「効用」として快感と不快感を連続的に捉えるならば、不快感を味わわされるかもしれないという恐怖によって行動を変えるということと、褒められて嬉しいから行動を変えるということの間には何ら矛盾は生じないことになります。逆に言うと、褒めることで正の効用が得られるのならば、わざわざ負の効用を持ち出す必要も無いとうことになります(もちろん、ここには、あまり褒められ慣れると有り難みを感じにくくなってくる、という「収穫逓減」の問題はあるということは認識しています。ただ、それを議論すると非常に長くなりそうですし、僕自身も整理できていない部分がありますので、ここでは割愛します)。


『ハラスメントは連鎖する』
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E9%80%A3%E9%8E%96%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%80%8C%E3%81%97%E3%81%A4%E3%81%91%E3%80%8D%E3%80%8C%E6%95%99%E8%82%B2%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%91%AA%E7%B8%9B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E5%86%A8-%E6%AD%A9/dp/4334033997


僕はこの本は読んだことはありませんが、この著者の講義は受けた事があります。安冨先生によると、親から受けた仕打ちを「嫌だ」と素直に思えばそれを自分の子供にはしないのですが、「あれは自分の教育のためだったんだ」と考えると、同じ事を「教育」と信じて自分の子供あるいは他人にしてしまう、という虐待の連鎖を指摘していました。よく虐待を行った親が逮捕された時に「しつけと思ってやった」というのは、言い訳ではなく、本当にそう信じているらしい、ということのようです。戸塚さんご自身も「自分の命の大切さが分からないから、他人の命の大切さも分からず、秋葉原で起きたような無差別殺人事件が起こる」と言っていますが、ならば、そのように「大切にされる」経験の方こそ重要なのではないでしょうか。


ついでながら、この動画の中で戸塚さんは「権利はぶつかり合うことがあるのだから、これは科学ではない」と言っていますが、どうもよく意味が分かりません。分子どうしが衝突して化学反応が起きることを示しているのは「科学」ですよね?もちろん、ある一定の法律なり社会のルールなりは必要でしょうが、互いに権利を主張すれば、最終的にはミクロ経済学で言う、一定の予算制約のもとで「ワルラス均衡」がもたらされるようなもんじゃないか、と僕は思っています。もちろん、ワルラス均衡が成り立つためには、互いの保有物の「価格」を認め合い、交渉を重ねる、という、互いの権利を認め合う事が必要でしょうけれど。福沢諭吉の「権理通義」は、まさに、そういう他人との権利の同等性を認めようとしたものであって、一方的に「権利など認めるとおかしなことになる」と決めつけているものではないと思います。


少々、話が横道に逸れますが、戸塚さんの様々な主張
http://www.totsuka-school.jp/book/ningengaku/gokutyuu.htm
は頷ける部分はあるものの、一方的に決めつけている部分が多々あり、また、仏教に対する理解も誤解と曲解に満ちています。


「獅子の子『サーティ』」
http://www.totsuka-school.jp/book/ningengaku/syuki8.htm
なんだか頓珍漢な解釈です。

伝統仏教の解釈としては、少々長いですが、以下にリンクを張ります。
http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-2.html


「六芸 <書、数 Ⅱ>」
http://www.totsuka-school.jp/book/ningengaku/syuki13.htm
の般若心経理解の誤りは、
http://www.youtube.com/watch?v=VZd95e5ix5I
で ”yugezanmai2600” さんがコメントされている通りです。般若心経は成立年代も比較的新しく、密教的色彩が強い経典です。また、このビデオの中で戸塚さんが仰っている「お坊さんは先生だから尊敬すべき」というのも間違っていて、僕が以前、ブログ記事に書いたように、先生はあくまでも仏であり、
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-10861331514.html
お坊さんは自分の代わりに仏道修行に専念して下さるから尊敬するのです。まあ、確かに江戸時代の寺請制度によって葬式仏教化してしまったお坊さんは仏道修行しているのか、と問われるべきなのは尤もだとは思いますが。戸塚さんに対して正直に「いやあ『空』の定義は難しくって」と言ったお坊さんは学問・宗教に対して誠実な方なんだろうな、と推測します。実際に難しいんです。上座部仏教ならば、そもそも「空」を認めないでしょう。僕には専門知識は無いので口は挟めませんが、僕も「『空』とは何か」と言われたら、よく分かりません。



閑話休題。



> 彼が言うには特に引きこもりの子供なんかは本能がきちんと育っていないためだと言う。
> 「人間の理性は本能の上に作らなければいけない」
> 「そのためには死に近づけるような体験が必要」
> 「大人が子供の本能を刺激してあげる必要がある」


戸塚さんの論法に従って言うならば、その「本能」の定義とは何ですか?と返したいですね。例え、「本能」が定義されたとしても、引きこもりと「本能」の未発達との因果関係を示す必要があり、それをしないのであれば、それは「科学」たり得ません。そもそも「本能」は鍛えるべきものでしょうか?本来の意味からすれば「本能」は動物が生まれながらに持っている(と想定しないと説明のできない)ものなわけですから、鍛えるも何も無く、その「本能」が低下しているのならば(例:自己保存欲・食欲・睡眠欲・性欲などが無い)、それは単に「体調不良」であり、医学的治療がほどこされるべきなのではないでしょうか?


もし、敢えて人間の動物としての「本能」を挙げるならば、それは「動く事」です。人間は動かずにはいられない。そのことをじっくり観察して、自分が生きていることを見つめる、それが「ヴィパッサナー瞑想」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3


戸塚さんも瞑想の有用性を説いていますが、それが体罰とどう結び付くのか分かりません。ヴィパッサナー瞑想(「観」の瞑想)あるいは坐禅(「止」の瞑想)は、瞑想中に動いてはいけません。それは動きたくなる本能に不快感を与えて我慢する力を身につけさせるためではありません。例えば、「頭がかゆい」と思った時に、無意識に手を動かしてポリポリ掻いてしまったのでは、自分に何が起こったかが分からないのです。「頭がかゆい」と思ったら、そのかゆみを感じる部分に意識を向け「かゆみが生じている」ということをじっくり観察するのです。そして、かゆみが消えてゆくことが観察されるでしょう。そしてまた別の所にかゆみや痛みなどが起きてくる事も観察されるでしょう。動くのをやめることによって、自分の中で、何らかのエネルギーのようなものが動こう動こうとしているのが感じられます。



> あと2年位前からインドに行きたくて、と言うのは火葬しているところがみたいと思って、どうも今の自分がなんとなく生きているという感覚が凄く強くて、死体を見ることによって自分の「生」と言うものがもっと輝くのではないかという期待があるんですよね。これもある意味自分を死に近づける行為だと思うんですが・・・


確かに、「不浄感」「死随念」といった瞑想法があります。
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/ded920a316e1162db0ebeca6b203a04c

僕も、ブログに書いたように「死」を直視してみたい、という思いはありました。
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-10861382914.html
http://ameblo.jp/mot82yn/entry-10861383998.html


しかしながら一方で、今回の震災や台風など、多くの方々が亡くなっている現実を考えると、これは単なる興味から来る自分本位の考え方なのではないか、とも思うようになりました。自分の「生」を輝かせようとするために、そのインドで「死体」となった人を手段として用いるのが良い事か?性急な結論を出そうとするわけではありませんが、そのことは自問自答されるべきではないか、と思います。僕が最初にいた学科は医学部内にあったため、医学科の解剖実習を見学させてもらったことがあります。その見学の前に先生が「私たちはご遺体を解剖させて頂くが、そのご遺体を献体された方々にはそれぞれ生前の歴史があり、医学の発展と医学生の養成のために、というその尊いご遺志によって献体をされたのだ。くれぐれもご遺体に対して失礼の無いように。」と前置きをされました。ちょっと関係無い話ですが、昔、テレビで宇宙人の死体の解剖映像(現在では、これは捏造であることが明らかになっています)に関する番組を見た事があります。ゲストの一人に、どこかの医大の解剖学の教授が出ていたのですが、「ご遺体ですから、ちょっと血が出過ぎのような気もしますが」と言っていました。他の人がみんな「宇宙人の死体」と呼ぶのに、その人だけは「宇宙人のご遺体」と呼んでいました(単なる癖なのかもしれませんが)。そうですよ、宇宙人だって宇宙人なりの人生があったはずです。「宇宙人」ではなく、ちゃんとした名前があったはずです。母国ならぬ、母星に家族を残してきているかもしれません。そして不幸にもUFOが墜落してしまい、お亡くなりになったのです。そのことに思いをはせようではありませんか。



> ちなみに「イキガミ」って言う漫画知ってますか?漫画の話ですが「この方法があったか!」と思いました http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%82%AC%E3%83%9F


僕は別にこんなことをしなくても、人間は死を意識しながら生きていくことはできると思います。それをするのは教育かもしれませんし、今回の震災のような災害かもしれません。日本のメディアは内向きなので、日本で災害が起きないとなかなか伝えませんが、リビアで起きている事、ソマリアで起きている事、スーダンで起きている事、などなどをもっと日本のメディアが報じれば、人々は死を意識し、苦しい境遇に置かれた人々に共感するのではないか、と思っています。あくまでも個人的な思いですが。



今回はちょっと力を入れ過ぎてしまい、長くなってしまいました。あんまりそんなに質問しないで下さいよ(笑)



<次のメール>


> そんなこと言わずにこれからも僕の質問に答えてくださいよー(笑)


いやぁ、僕も適当に答えればいいものを、ついつい力を入れて書いてしまうんで、一日仕事になるんですよ。



> でもいろんなところがきになったんですが、僕は経済学を勉強した事はないですが凄くカバーしている範囲が広いんだなあと思いました、快感とか不快感とかそういったことまで考えるんですね。


「経済学」という名前が誤解を与えているような気がします。「数理社会科学」とでも名前を変えた方がいいのかもしれません。一言で言うならば、「人間はどのようにふるまおうとするのか」を数式に落とし込んで考えるのが経済学です。もちろん、現実世界をうまく表わすために、統計学(計量経済学)による実証が重ねられてきましたし、また、ゲーム理論の導入によって他の社会科学分野との境目が薄れつつあり、社会学、文化人類学、心理学、政治学などと融合し、「総合社会科学」へと発展しようとしています。


エリノア・オストロムという政治学者が2009年にノーベル経済学賞を受賞しましたが、「なぜ、政治学者なのに経済賞?」と思われるかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A0

彼女は、森林の入会地のように、「個人のものでもない、国家のものでもない、誰のものでもない」所有権の中途半端な土地が、なぜ荒らされずに、互いに協力し合って維持されてゆくのか、ということをゲーム理論を用いて説明しました。「利己的なはずの人間がなぜ、誰かの指示があるわけでもないのに協力し合うのか?」という問いに対する一つのインプリケーションと言えるでしょう。



> あと「人間は動かずにはいられない」と言うのは本当に考えさせられました。いろいろな方法論があるんですね。


アルボムッレ・スマナサーラ長老というスリランカのお坊さんが主催する瞑想会に行った時に、彼はこんな事を言っていました。「お釈迦様は『一切皆苦』人生はすべて『苦』なのだ、と仰った。例えば、正座をしていると、だんだんと足が痛くなってくる。そこで足を伸ばす。でも、伸ばしっぱなしにしていると、それもまた苦しくなってくる。そこで、また態勢を変える。つまり、本質的には、ある状態は『苦』であって、それが別の『苦』に移り変わっているに過ぎない。そして、その『苦』が別の『苦』へと移行する間を、人間は『楽』と感じるのだ。」と。ここからは、少し僕の解釈が入りますが、つまり、その「苦」から逃げ回るために、人間は動き続けなければいけないのかもしれません。



少し、前回の話の補足をします。以前に、僕が大阪の教育条例案に対して、こんなつぶやきを書き込みました(「日経」の記事はリンク切れ)。


教育への政治関与強まる?「大阪維新」条例案に波紋 http://s.nikkei.com/rnFyQ7 内田樹氏の意見に賛成。教育とは総合的に「人間を育てる」ことだとすれば、マルチタスキング・エージェンシー問題にぶち当たる。(09月04日)


マルチタスキング・エージェンシー問題とは、一人の人に、例えば、タスクAとタスクBという複数のタスクを課し、タスクAの方がより評価の基準として重視される場合、タスクを課された側は、タスクAは一生懸命にやるが、タスクBは相手から見えない範囲で手を抜く、というものです。
参考
http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~uowan/3742%20066page.pdf


大阪の条例案では、教師に対してある特定の評価基準が導入され、それによって解雇されることもあり得るのですから、教師は自分の身を守ろうと思ったら、当然、言われた事だけを唯々諾々と行い、それ以外のことは行わないようになってしまいます。確か、上記の記事中で内田樹氏は「教師をイエスマンばかりにしてしまっては、子どもの人格を作り上げるためのまともな教育はできなくなる」と批判していたと思います。このタスクAを「体罰を避けるための行動」と考えてみるとどうなるでしょうか?つまり、子どもは体罰という極めて強い不快感を伴うものを避ける(= 最も強いインセンティヴ付けをおこなうタスク、= 評価で最も重きが置かれるタスク)ことだけに一生懸命になり、子どもの総合的な人格を養成するためには、むしろマイナスに働く場合があります。「殴られなければO.K.」というわけです。


岡崎哲二先生の『コア・テキスト 経済史』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88-%E6%9C%80%E5%85%88%E7%AB%AF-%E5%B2%A1%E5%B4%8E-%E5%93%B2%E4%BA%8C/dp/488384093X
にこんな話が出てきます。

アメリカでは南北戦争以前、南部の綿花やとうもろこしのプランテーションでは奴隷が働き手として使われていました。奴隷には、鞭打ちといった体罰が課せられる事もありましたが、マルチタスキング・エージェンシー問題により、奴隷は体罰を避けることに一生懸命になり、いつもビクビクしていなければならず、作物を育てる上で、注意深さが犠牲になることがありました。でも、それは問題ではなかったのです。なぜならば、綿花やとうもろこしは一年生植物だから、多少乱暴に扱っても、来年はまた新しい綿花やとうもろこしが植えられるからです。ところが、ヨーロッパではぶどうやオリーブといった多年生植物が栽培されており、これらには作物を扱う上での注意深さが必要とされたため、奴隷という働き方はむしろ、これらの植物を育てるためにはマイナスであり、ヨーロッパでは奴隷制はそれほど長く続かなかったのです。この奴隷を子どもに置き換えてみるならば、子どもは一年で死ぬわけではなく、何年も生きて人生経験を重ねてゆくわけですから、強烈な体罰を加えることが、日常活動の注意深さなど、全般的な人格の発達に対してプラスどころかマイナスであることが示唆されます。また、奴隷と聞くと、バシバシ鞭で打たれていたようなイメージを持ってしまいがちですが、歴史的な記録によれば、鞭で打たれる回数は一人当たり、年間平均0.7回です。一度の鞭打ちの機会を1回と数えるのか、それとも鞭一振りを1回と数えるのか分かりませんが、意外と少ないと思いませんか?つまり、そんなにバシバシ体罰を加えることは、綿花やとうもろこしの生産にとってさえ、そんなに有用ではなかったのでしょう。


バングラデシュ滞在日記 ~到着・休日編~


私が受講していたGlobal Health Leadership Program


http://www.ghlp.m.u-tokyo.ac.jp/


の一環として、この12月から3箇月にわたって、バングラデシュの首都ダッカにあるICDDR,B (the International Centre for Diarrhoeal Disease Research, Bangladesh)


http://www.icddrb.org/


にてインターンをすることとなった。


出発直前は本来の研究の結果もある程度出さなければならず、ゆっくり準備をする暇が無く、徹夜作業などのせいで体調も万全ではなかったが、とにかく飛行機に飛び乗って出発することとなった。


ダッカの空港に降り立つと、入国審査には長い列ができている。そしてなかなかその列が進まない。しばらくすると僕の名前を書いた紙を持った人がこちらに向かって歩いてくる。ICDDR,Bのスタッフが迎えに来てくれたのだが、まさか入国審査のゲートの外まで来ているとは思わなかった。


突然、空港内の電気が消える。停電が多いとは聞いていたが、早速当たったか、と一瞬思った。入国審査のコンピュータにも障害が発生しているようで、ただでさえ進まない列が完全に立ち往生してしまった。だが、ICDDR,Bのスタッフによれば、バングラデシュでもこんなことはそうそう起こらないらしく、珍しいことだと言っていた。しばらくすると電気が復旧し、歓声と拍手が起こった。日本にいると当たり前に見えることでも、背後には発電・送電システム、コンピュータ・システム、そしてそれらを動かす人々がいるわけで、それらを「当たり前」に動かす人々の努力に思いを致した一瞬だった。


Yoshitaka&#39;s blog ICDDR,Bの車に乗せてもらい、僕が3箇月を過ごすことになるアパートへと向かう。

アパートといっても、広い家の一室を使わせてもらう、という感じだ。部屋の広さは8畳くらい、ベッド、鏡台、机、タンス、ユニットバスが付いて、家賃3万タカ。この家の持ち主はイギリスに住んでいるらしく、メイドのおばさん(ここバングラデシュでは、メイドさんがいることは、そう珍しいことではない)と、それからゲストの案内役のおじさんに写真を撮らせてくれ、と言うと、おじさんは腰巻姿だから恥ずかしいから撮らないでくれ、と言う。どうやらこの腰巻、部屋着のような感じで、極めてラフな格好らしい。じゃあ、腰から上だけ撮るよ、と言うと、それなら、と応じてくれ、おばさんはサリーを頭からきちんとかぶった。


Yoshitaka&#39;s blog おじさんに案内してもらい、リキシャに乗り、ICDDR,Bへと向かう。初日に、いつ、誰に会うのか、きちんとしたアポイントメントを取っていなかったのが失敗だった。玄関で「ICDDR,Bからの招聘の書類はあるのか」など訊かれ、守衛室のような所に通された。僕がICDDR,Bからの招聘状を見せるとI博士のもとへ通された。I博士は日本で研究していた時期もあるそうで、部屋には平仮名と片仮名の表が貼ってあった。


Yoshitaka&#39;s blog その後、僕のsupervisorとなるA博士と面会した。私が現場と研究との間のギャップを繋ぐことをしたい、と言った所、A博士は大いに共感してくれ、「それこそが私たちがやってきたことだ。」と言っていた。


再びリキシャに揺られ、アパートへと帰る。僕と案内役のおじさんの二人を乗せたリキシャ引きは力強くペダルをこぐ。そして、少々荒っぽい。車列の前が渋滞で詰まると声を荒げ、横のリキシャが邪魔だと言って、手で押しのける。後ろから車が迫って来ようが、なんのその。堂々と道の真ん中を走る。ICDDR,Bの人が「過剰なリキシャのせいで交通渋滞がひどくなっている」と言っていたが、それだけではないだろうが、確かに、それは一つの大きな原因のように思った。政府がリキシャ引きに対して、リキシャをCNG(液化天然ガスで走る三輪の乗り物)に変えられるように補助金を出して、車と同じ速度で走れるようにすれば、渋滞は軽減されるかもしれない。それをrandomized control trialで検証する実験があってもいいんじゃないか、などと思った。


そして、これは途上国によくありがちなのだが、道の至る所にゴミが捨てられている。川からは異臭が漂ってくる。以前に聞いた話では、果物の皮などは、道端に捨てても土に返るが、それと同じ感覚でプラスチック包装を捨ててしまうのだという。交通量の多い道では車の排気ガスで空気が汚れている。中国などでもそうなのだろうが、急速に経済が発展している国において、外部不経済に対する規制が追いついていないのだろう。私は日本の高度経済成長時代を知らないが、日本だって同じ道をたどって来たのかもしれない。現地の人々は気にしていないのかもしれないが、やはりこの状態は不衛生であり、私は問題だと思う。現代のヨーロッパ人だって、中世から近代においては建物の窓から捨てられる排泄物を避けるために、マントやハイヒールが発達したことを初めて知った時、昔のヨーロッパ人の感覚を疑うかもしれない。つまり、「汚くする」と「きれいにする」という二つの戦略があるゲームを考えると、時代と共に「汚くする – 汚くする」という、囚人のジレンマ的ナッシュ均衡から「きれいにする – きれいにする」というナッシュ均衡へと、時代と共に変わって行くのだと信じたい。


あたりはすっかり夕暮れ。モスクのドームの先端とミナレットの先端に、高層ビルによくあるような、飛行機に高い建物があることを知らせる赤いランプが灯る。屋台では火が焚かれ、歩道の店先には多くの電燈が灯る。船着き場もなぜか風情を感じる。吉田兼好が『徒然草』の第191段で「夜に入りて」という文章を書いている。


「万のものの綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きらゝかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。」


黄昏の空気の中で、なぜか辺りが美しく見える。


Yoshitaka&#39;s blog

もうすっかり暗くなったので、買い物に行くのはやめた方が良いと思い、アパートへ帰り、メイドのおばさんに夕食を注文した。このアパートでは朝食は無料で提供され、昼食・夕食はそれぞれ400タカで注文できる。おばさんは、ニラとニンジンと玉子の入ったスパイシーな塩焼きそばみたいなものを作ってくれた。内心「これで400タカは高いだろ」と思ったが(これは高級レストラン並みの価格である)、適度な辛さで、おいしく頂いた。おばさんに「モジャ(おいしい)」「ドンノバット(ありがとう)」と伝える。


部屋にゴミ箱があるのだが、紙とプラスチック包装を分別しなくても良いのか、おばさんに聞いたところ、分けなくてもいいらしく、”Mix, no problem.”なんだそうだ。”Mix! Bangladesh, mix!” とおばさんは何だか嬉しそうだ。


その日は疲れが出てやや熱っぽかったので、日本から持参した薬を飲んで早めに寝ることにした。



映画『僕たちは世界を変えることができない。』 ~知識vs.情~

すっかり記事にするのが遅くなってしまったが、先日、


『僕たちは世界を変えることができない。』
http://www.boku-seka.com/


を見てきた。以前に本屋で


石松浩章(この映画の「本田君」のモデル?)著
『マジでガチなボランティア』
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%81%A7%E3%82%AC%E3%83%81%E3%81%AA%E3%83%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%9F%B3%E6%9D%BE-%E5%AE%8F%E7%AB%A0/dp/4062764849


(ちなみに、こちらはドキュメンタリー映画になっているようだ
http://www.majigachi.jp/ )


を見かけて、パラパラと内容は見た事があったので、医大生たちが、突然の思いつきによってカンボジアに学校を建ててしまおう、という話だということは知っていた。なぜこの映画を見ようと思ったのかと言えば、将来は途上国などで開発援助絡みの仕事をしたいと思っている自分にとって、こうした「ファッショナブル」なボランティアを志す人々は一体どのようなモチベーションで行っているのかを知ってみたい、という思いを改めて感じたからだ。

 

アカデミズムの世界で開発援助に関して勉強すると、どうしても開発援助なり、ボランティアなり、そうした事柄に対してシニカルな見方に少なからず遭遇する。とりわけ経済学をやっている人は(少なくとも私にはそう見える)「NGOなどで働く人は『自分たちは正しい事をしている』と思い込むことで、アウトカムの評価に対して『正義バイアス』を持ち込んでしまう」のだと言う(もちろん、これは単に、薬の治験と同様に二重盲検であるべき、あるいは利益相反の問題につながることを言っているに過ぎないのだろうから、私がいちいち目くじらを立てることでも無いのだろうが、アカデミズムの世界にいる人々の現場否定のようにも思え、初めてこれを聞いたときは腹が立ってしまった)。確かに、「その援助は本当に現地の人々から求められており、そして、役に立っているのか?」という問いは常に発し続けなければならないだろう。仮に、ODAなどで、正確な科学的裏付け無しに大規模な援助を行った場合、そのために集められた国民の血税をドブに捨ててしまうようなことにもなりかねない。(大規模援助には適さないかもしれないが)randomized control trialによって、なるべく正確に援助の効果を定量しようという努力も行われている。こうした「エビデンス」に基づく援助は確かに追求されるべきだろう。だが、ひたすら正確に「エビデンス」を積み上げた所で、世界は変わるのだろうか?

 

 

『僕たちは世界を変えることができない』の中で、主人公たちは開発援助に関する何の知識も無く、壁にぶち当たりながら、野暮ったく、泥臭く、必死にもがいてゆく。そう、タイトルにもある通り、そんな彼らのやることは、ちっぽけな事でしかなく、世界を変えることなどできやしないのだ。最悪の場合、「ありがた迷惑」の可能性だって否定できない。

 

 

しかし彼らはカンボジアの人々と出会い、そして「情」に突き動かされていった。人と人が対面して、そして心を通わせる時、「エビデンス」の議論をするのは野暮というものだ。なぜならば、その通い合った「情」こそが、アウトカムであり、議論する余地など無いくらいに明らかだからだ。そして、そうした彼らを見て、周囲の人々も、その「情」に突き動かされてゆく。もしかしたら、世界を本当に変える力を持っているのは、こうした「情」の積み重ねではないか。映画を見終わった後、そう思った。

 

 

映画館を出て、本屋に立ち寄った。「NGO・ボランティア」の棚には専門的な本ばかりでなく、こうした熱意に溢れる学生が著した本も何冊か置かれていた。熱過ぎるくらいに熱意にあふれたものもある。そこには、「とにかく前に向かって突っ走りたい」というような(少しシニカルな言い方をすれば、ナイーヴなまでに)真っ直ぐな思いが溢れている。もちろん、若いうちにこうした真っ直ぐな思いを持つ事は好ましいことだろうが、どんな仕事であれ(開発援助も例外ではなく)正確な知識・経験、科学的裏付け無くしては、意味のある援助になるかどうか心もとないのだ。

 

 

もしかしたら、アカデミズムの人たちは、こうした「若い学生」的な熱血漢を冷笑し、熱意にあふれた若い学生やNGOで働く人々は、アカデミズムの人々を「机上の空論を振り回し、データを取ることしか考えていない」と思っているのかもしれない。こんなことでは両者の溝はいつまでたっても埋まらない。

 

 

以前に、こんな論文を読んだことがある。

 


School and Community Health Project: Part 1: A community development and health project in Nepal
JMAJ 51(4): 225–234, 2008
Masamine JIMBA, Kalpana POUDEL-TANDUKAR, Krishna C. POUDEL
http://www.med.or.jp/english/pdf/jmaj/v51no04.pdf#page=9

 

もちろん、これは論文というよりは日本医師会の活動報告なので、科学的厳密性を求めるのは筋違いなのだろうが、女性の識字率が乳幼児の死亡率に影響があるということで(残念ながら、引用元の文献を見つけられなかった)、School and Community Health Projectを拡大してゆくための実践の記録といったところだろうか。現地スタッフからの手紙も紹介されており、「情」に訴えかける内容になっている。事後評価も、コントロールが置かれているのかすらよく分からないし、アウトプットよりもインプットの方が殊更に強調され過ぎているような気もするし、最終的なアウトカムの評価基準も何を以て”positive outcomes”としているのかよく分からない。おそらく、このような「知的」体裁をとった論文であるがゆえに、NGOの人々は関心を示さないかもしれないし、「エビデンス」に基づく援助を求める人々からは、「ダメダメな研究デザイン」として酷評されるだろう。しかし、「なんだかよく分からないが、識字率を上げるとか、女性のエンパワーメントとか、それっぽいことをやっていたら、何となくその地域の人々の気持ちが好ましい方向に転換した」という事実は注目すべきではないかと思う。転換の背後にあるメカニズムなんぞはよく分からない、でも結果が良ければ、まあ、いいじゃないか。そういう「おおらかさ」も時には必要ではないかと思う。私はこれを”pragmatic optimism” と呼びたい。

 

 

仮に、こんな回帰式を考えてみよう。

 

 

援助の効果 = 定数項 + その援助の根拠となるエビデンスの強さ + 人々を動かす「情」の強さ + その両者の交差項 ( + 間違った援助をすることによる負の効果 + それと情との交差項) + 誤差項

 

 

とりあえず、どんな基準で評価するのか、とか細かい話は抜きにして、ざっくりとした言い方をすれば、エビデンスも大事だが、情も大事、そして、その両者が共に強い時、援助は最大限の効果を発揮するだろう。

 

 

以前にある先輩から「学問の世界では100%正しくなければならない(少なくとも95%の信頼度で)。一方、ビジネスの世界では、60%くらい正しいと思ったところで見切り発車しないとタイミングを逃してしまう。」と聞いた事がある。開発援助もビジネスと同じように最適な「タイミング」があるとすれば、いつまでも「エビデンス」探しばかりやっているわけにはいかない。かといって、あまりにも下手な鉄砲を打っていたら、どんなに数を打っても的に当たらないどころか、他人や自分に弾が向かって来て危険なこともある。エビデンス探しと援助のimplementationとの間には時間的トレードオフがある。科学的厳密性か、情か、という両極端ではなく、適当な落としどころとして”pragmatic optimism”はもっと追究されても良いのではないかと思う。

 

 

私は12月から3箇月間、バングラデシュでインターンをすることになるのだが、ビザを取得するためにバングラデシュ大使館に行くと、偶然、高校時代の同級生であり、都内の某私立大学でマクロ金融を教えている旧友に出会った。彼は僕にこう言った。「君はまだ日本でもたもたしていたのか。君の性格からして、一刻も早く、途上国へ行って、そこで活動すべきなのに。」私はこれまでアカデミズムの世界にいる人は、きちんと勉強すること無しに情熱だけで何かをやるのは危険だということを殊更強調していると思っていたのだが、彼のこの言葉は思いもよらないものであり、アカデミズムの世界にいる人から発せられた言葉としては拍子抜けしてしまった。そうか、毎日「この程度の知識でいいんだろうか」と悩んでいた自分にとって、そろそろ"pragmatic optimism"の点に達しているのかもしれない、と思った。

 

 

マッジマ・ニカーヤ(漢訳:中阿含経)に「毒矢のたとえ」という話が出てくる。マールンキャプッタが釈迦に対して、霊魂の存在や輪廻といった形而上学的な事柄を尋ねた時、釈迦はマールンキャプッタに「毒矢のたとえ」の話をして、そうしたことを思い煩うよりも、今現在の生きることの苦しみから逃れられるように、今の一瞬一瞬を大事に修行に励むべし、と諭す。毒矢に刺された人がいるとして、その毒矢を射った人はどんな人だったか、どこから毒矢が飛んで来たか、毒矢の材質は何であるか、などを詮索しているうちにその人は死んでしまう。あなたが真っ先にしなければならないのは、その毒矢を一刻も早く抜くことだ、と。

 

http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/63041041.html

 

もちろん、当たり所が悪く、不用意に矢を抜いてしまうと、かえって出血して、その人は死んでしまうかもしれない。しかし、推測だが、おそらく古代インドの毒矢は天然から抽出した毒を使っているだろうから、じわりじわり毒が広がってゆくのだとしたら、早く毒矢を抜いてしまう方が、確率的に生存率は高くなると予想される。

 

現在の開発援助のありかたに関して、そして、その「エビデンス」による裏付けに関して、もし、釈迦が現代に生きていたら、果たして何と言うだろうか?

 

 

 

 

 

 

「あふりかふぇ。」@東大駒場祭 11月25日(金)~27日(日)

MPJ Youth team will open an African style cafe "Africafe" at the Komaba Festval! You can enjoy Posho (Ugali) and fare trade coffee / tea, juice etc.

Date: Nov. 25(Fri) - 27 (Sun)

Nov. 25 (Fri) 9:00 - 18:00

Nov. 26 (Sat) 9:00 - 18:00

Nov. 27 (Sun) 9:00 - 17:00

Note: 27 (Sun) 13:00 and 16:00
Djembe performance by students of Tama Art University


Location: The Komaba Campus of the University of Tokyo
(http://www.u-tokyo.ac.jp/ ​campusmap/map02_02_j.html) 

7th Building 4th Floor Romm #762


http://www.a103.net/komabasai/ ​62/visitor/event/​search.html#detail%3A769
(In Japanese)

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東京大学駒場祭 「あふりかふぇ。」

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11月25・26・27日 

@ 東京大学駒場キャンパス

Produced by Millennium Promise Japan Youth

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駒場にアフリカが出現!!!異国情緒あふれる空間で、

五感を通してアフリカを楽しく知ろう!

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┃【1】イベント概要

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【日時】 11月25日(金)~27日(日)  

11月25日(金) 9:00~18:00

11月26日(土) 9:00~18:00

11月27日(日) 9:00~17:00


【場所】 東京大学駒場キャンパス (http://www.u-tokyo.ac.jp/ ​campusmap/map02_02_j.html) 

京王井の頭線駒場東大前駅より徒歩0分

7号館4階 762教室


【内容】

アフリカの伝統的主食「ポショ」やフェアトレードコーヒー/紅茶​、ジュースの販売、アフリカ民族衣装やゲームやブブゼラの体験、​アフリカに関する展示発表などを3日間行います。

最終日の27日(日)の13:00~と16:00~には、多摩美​ジャンベ部によるジャンベパフォーマンスも行います!!

ポショ+飲み物(フェアトレードコーヒー/紅茶、マンゴージュー​ス)を250円で販売致します。是非アフリカの味を御堪能くださ​い。

詳細はこちらからどうぞ→ http://blog.livedoor.jp/ ​mpj_youth_09/

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┃【2】 Millennium Promise Japan Youthとは

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当会は、アフリカの貧困削減を支援し日本におけるアフリカの広報​につとめるNPO法人ミレニアム・プロミス・ジャパン(MPJ)​(http://millenniumpromise.jp/ ) の活動に賛同する学生たちによって構成される団体です。

現在、東大・中央大・明治大・一橋大・津田塾大・専修大等から集​まった40名程で運営しており、各々の関心事項も多岐にわたって​います。(外交・国際協力・アフリカ開発・NGO&NPO・医療​など)活動メンバーは、随時募集しているので、興味がある方は下​記のメールアドレスまでご連絡ください。


【主催・連絡先】

Millennium Promise Japan youth (MPJユース)

E-mail : mpj.youth.2009 (at) gmail.com

blog : http://mpjyouth.web.fc2.com/ ​index.html

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気持ち悪さの原因

<ネット上のディスり>

 

自分のやっている事(勉強とか、研究とか、興味・関心とか)に、常々自信を持てないでいる。なぜか、自分の興味ある事柄は他人から認められていないのではないか、という気がして仕方が無い理由の少なくとも一つは、インターネット上に飛び交う様々なコメントのせいではないかと、最近思った。

 

 

経済学を専門にする人々は
「よく査読論文も無しにマクロ経済学を語れるな」「このくらいの数学は知っていて当然。最近の『ゆとり教育』のせいで、大学・大学院も質が落ちた」「社会学は学問じゃない」
と言い、
統計学を専門とする人は
「ブラックボックスになってる統計ソフトを使ってる人は、この辺の数学的証明なんかできないだろうね」
と言い、
数学を専門にする人は
「こんな本は教科書じゃない。こんな低レベルな本で勉強する大学生はどうかしている」
と言い、
物理学を専門とする人は
「量子力学を勉強するんだったら、こんな簡単な本で横着をしてはいけない」
と言い、
法律を専門とする人は
「この法理から当然このような結論になる。こんなことも知らずに反論する人は、アホ」
と言う。

 

 

「ディスる」というスラングがあるが、まさに「ディスり」のオンパレードだ。そして、その多くは、その分野を専門とする人が、その分野に参入しようとする人を対象として「僕らがやっている学問はそんな生易しいもんじゃないんだぞ」「もっとこれと、これと、これを勉強しておかないと、お前をこの分野を学ぶ学生・研究者として認めないぞ」と発言しているように思える。

 

そうやって、ネット上のあちこちから、(自分は決してその分野の専門家になろうとしているわけではないのだが)自分が責められているような気になる。「お前はこんなことも知らないのか。低レベルだ。怠惰だ。アホだ。」とディスられているような気がしてくる。

 


<世の中にいるのは専門家だけじゃない>

 

 

でも、僕は生意気にも反論したくなる。人それぞれレベルが違うわけだし、「ゆとり」にどっぷり浸かった「低レベル」な参考書があってもいいじゃないか。その分野を専門としない人が、関連知識を得るためだったり、教養として、趣味として読むために易しい参考書があってもいいじゃないか。生物学を専攻する人が物理学の高度な専門書をいきなり読む必要は無いけれど、「振動分光分析とかやる際に必要だから、ちょっくら量子化学の基礎を勉強しておきたいなー」と思った時、簡単な量子力学の入門書があったっていいじゃないか。ネット上のそうした「ディスり」はあたかも世の中にはその分野の専門家しかいないと想定している、もっと言うならば、専門家はマゾヒズム的に勉強すべき、非専門家は手を出すもんじゃない、と言っているようにも思えてくる。

 

 

そんな「ディスり」は「富士山に登るには走って登らなければならない。よくもまあ、そんなチンタラ歩いて登れるな。横着しやがって。そんなんじゃ、いつまでたっても頂上には行けないよ。頂上には1秒でも早く着いた人が勝ちなんだよ。その覚悟が無いなら登山なんかやめちまいな。こんな『ゆとり』にどっぷり浸った奴がいるから、道が混雑して歩きにくくなるんだよ。」と言っているに等しいと思う。

 

 

一方、『聞いてしまえばとっても簡単!』数学シリーズ(旺文社)
http://www.obunsha.co.jp/04/033336
の「はじめに」で、著者の長岡亮介氏は言う。
「小学生が微積分を勉強するのも良いし、高校生が分数の考え方の面白さに興じても良い。ビジネスマンが幾何の証明問題を日課にするような社会を『知的に豊かな社会』というのではないかと思います。」

 

 


<優れた指導者はディスらない>

 

 

物事を知っている人は知らない人をディスりたくなる気持ちも分からなくはないが、それは何ら建設的ではない。知らない人を「導く」のもまた、知っている人の責務なのではないか、と思う。

 

 

『大学ランキング 2012』(朝日新聞出版)
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=12530
の中で、宮台真司氏が、マイケル・サンデル氏の講義がなぜうまいのかということについて、学生の質問のレベルが低かったとしても、それを「解釈ならぬ改釈」をして「バージョン・アップ」して次の話題につなげてしまうことを理由の一つとして挙げていた。

 

 

以下の記事に、雨宮健氏が、教え子に温かく接していたから、その教え子が大学教員になった時、雨宮氏を見習って学生に温かく接している、というエピソードが出てくる。
「雨宮健 - ICU Alumni|今を輝く同窓生たち」
http://www.icualumni.com/interview/guest01.html
(真ん中よりやや下「探究心を持ち続けるために・・・」)

 

 

※ 蛇足だが、記事の真ん中あたりに出てくる
「学生が簡単と思うことを難しくみせて、『君らは何もしらない』ということを認識させることが重要だと思って授業をしています。」
という項目で、学生によるevaluationが始まってから、授業の最中に考えながらやるというやり方が認められなくなったのはおかしい、という話が出てくるが、私はかつて「分かりにくく教えるなんて不親切な」と思っていた。しかし、野矢茂樹氏が授業中に自分の思考の「間違い」に気付き、その場で考えを組み立て直しながら話をしたところ、むしろ学生から「分かりやすかった」と言われたというエピソードを読んで、雨宮氏の説が納得できた。
「科学哲学 - 講義紹介 - 東大の学び - UT-Life」
http://www.ut-life.net/study/lecture/kagaku-tetsugaku/
(真ん中よりやや下「授業をする上での苦労・工夫」)

 

 


<ディスられたら、リスペクトで>

 

 

僕自身は常々ディスられている被害妄想を感じているが、だからこそ、自分には取り立てて優れた才能があるわけではないけれど、将来、人に何かを教える立場になった時、その人がどんなに無知な人であったとしても、その心の内を察しながら、温かく教えたいと思った。