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【Facebook過去記事】 Twitterでの自殺予告(一部加筆)

2013年6月22日記


昨日、大学生が東京の某私鉄の線路に飛び込み、自殺するまでの様子をTwitterで実況しており(「釣り」疑惑もあり、裏が取れているわけではありませんが)、時刻や場所が合致していることから、Twitterで瞬く間に拡散しました(これと似たような「自殺の実況中継」例は、以前にUstreamでもありました)。


全く見ず知らずの人ですが、僕も悲しいです。



<孤独と自己嫌悪の狭間>


自分の声が周りの人に届いていないんじゃないか、見えない壁があるんじゃないか、と孤独感にさいなまれ、そして「死にたい」と思っている人がいます。僕自身が「死にたい」と思った時、それは「苦しさや孤独から逃げてしまいたい」というのではなく、「自分という、この社会にとって有害な人間は一刻も早くこの世から抹殺されねばならない」とう強迫観念に取りつかれた時。でも、心では一方で、「誰か自分のことを見ていてくれないだろうか」と声にならない助けを求める。でも、それは周りの人には聞こえない。



<強制的にタイムライン上に「自殺予告」を見せられることの強迫性>


確かに、どこの誰か知らない人であっても「死ぬ」と言われれば、非常に大きな胸騒ぎを起こさせる、ましてや自分には何もできない無力感を強制的に味わわされる、という点では、極めて強迫的な何かであることは間違いないでしょう。ですから、何もできない人に向かって「何とかしろ」とは言えないですし、そういう時は、そっとブラウザやアプリを閉じることは全く悪い事じゃないんだ、だって「釣り」かもしれないでしょ?と伝えることも必要だと思います(もっと神経が図太い人なら「そんなもの見なけりゃいい」と言うかもしれません)。



<彼の孤独、他に選択肢が無かったSNS>


一方で、彼が何らかの助けを求めてTwitterにすがったのだとしたら(あるいは、もっと確信犯的に、Twitterでは誰も助けられないことを分かっていて、自分の存在を感じられない彼にとって、自分がこの世に存在したことの証明として「最期の記録」を大衆に晒したかった、と考えることもできるかもしれませんが)、そのこともまた、責められないと思うのです。過去のツイートを見るに、彼の死はあまりに唐突な気がします。あまり予断で物は言えませんが、もしかしたら何か精神的な疾患を抱えていたのかもしれません。彼には、Twitterというツール以外に助けを求める手段を考えるだけの気力が無かったのかもしれません。精神疾患というのは心の問題でもあるのですが、むしろ、「脳という臓器」の器質的疾患です。例えば鬱病の患者さんに「正常な判断をしろ」というのは酷であり、薬物的治療が施されるべきものです。今回の件を恨むとすれば、確定的なことは言えませんが、彼がもっと気軽に十分なメンタル・ヘルスケアを受けることができなかった環境にあると(少なくとも一部は)言えるかもしれません。自殺した彼を含めて特定の「誰か」が悪いわけではありません。



<生きること、死ぬことを考える>


僕は以前からかなり生死の問題について考えてきており、お寺の坐禅会などで道元の「修証義」を読んできた、あるいは、実家が浄土真宗ということもあり、蓮如の「白骨の御文章」を知っていた、ということもあり、わりとこういうことを真正面から受け止められるのかもしれませんが、今までそういうことを考えたこともない人からすると、とてつもなく衝撃的なものなのかもしれません。僕は幼い頃、死ぬことが怖く(もしかしたら、暗闇に対する本能的怖さだったのかもしれませんが)、祖父に「じいちゃんは死ぬのは怖くないの?」と訊いたことがあります。「じいちゃんくらいの年になると、もう死ぬのは怖くなくなるんだよ」と祖父は言っていました。8年前に祖父が亡くなった時、僕は祖父の遺体が握っている数珠に目をやり、祖父はどんな気持ちで死んでいったのだろう、と心の中で問いかけていました。


これは僕の個人的考えですが、唐突に強制的にタイムライン上に自殺予告を見せられても、彼を救えるわけでもなく、後味の悪い思いが残るだけだ、と言うことは、「死」を自分から遠ざけることなのではないか、何か楽しいことをしている時はそんなものから目を背けてしまいたい、そんな気持ちの表れだとしたら、それでいいんだろうか?という疑問はあります。僕は昼には自己嫌悪から、消えて無くなりたいと思うことはありますが、夜、寝る前、暗闇に包まれた時、ここまま死ぬのは嫌だ、と思うことがあります。「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行法師の気持ちが分かる気がします。しかし「死」が「美」であっては(日本の伝統文化には「武士道」のみならず、少なからずそういう要素があります)ならない、と思うし、死を「タブー」でもなく「憧憬の対象」でもないようにするには、やはり、アルフォンス・デーケン氏の言う「死への準備教育」のようなものは必要なのではないか、と思います。



<もし、自分の親しい人が自殺したら、非難・罵倒できるか?>


まとめサイトなどで「悲しい」「残念だ」などの声がある一方で「迷惑だ」「馬鹿だ」といった非難も見られます。鉄道の人身事故の際にはついこういうことを口走ってしまうのは人間の性なのかもしれませんが(もちろん、目の前に突然人が飛び込んできて、結果的にその人の命を奪うことになってしまい、罪の意識とトラウマに苛まれる電車の運転士は気の毒だと思いますし、適切なケアが施されるべきだと思います)、彼を追い詰めた社会から、自らの命と引き換えに非難・罵倒を受けねばならないのだとしたら、あまりに残酷です(「人は死ねば神になり、神社に祭られるというのが日本の文化」と言っている人たちは、こうした「人身事故」をどのように考えているのか興味深いところです)。彼の家庭・学校・その他の環境に何があったのか分からないので、Twitterでの情報から何かを論評することはできません(Twitterで彼のプライベートが暴かれてしまうというのも、ある意味恐い事ですが)。


日本という国は、昨年は年間3万人を切りましたが、このようにしてそれに近い数の人(その一人一人にちゃんと名前があり、家族や友人がいたはずです)が自ら命を絶っています。3万人という圧倒的な数の前で僕は無力です。自分の手の届く範囲のことしかできない。でも、もしかしたら、「死んでいたのは、自分の親しいあの人だったかもしれない」ということは十分にあり得るわけで、そんな時、自殺した自分の親しい人を非難・罵倒できるだろうか?と考えてほしいと思います。



<何もしてあげられなかったが、これからのために何かはできる>


確かに、僕は彼には何もしてあげられませんでした。それを全か無か、という結果主義で捉えるならば、全く「彼にとっては」無力です。人間は「全人類」を救うことはできません。知っている人、見ず知らずの人。声の届く人、届かない人。地球の反対側で、自分の知らない誰かが自殺しても、気にしていられない。でも、その人の周りの愛する人は、きっとその人の死を悲しむでしょう。しかし、今後の自殺者を減らすことへの方向性を議論し合うことは、無意味ではないと思います。シリアで爆撃されて死んでゆく人に、あるいは、アフリカでマラリアで死んでゆく幼児に、「何もしてあげられないから、それについて何も言うべきでない」とは言えないのと同じように、たとえ本人に何もできなくても、世界を「より良い」方向へ変えてゆくための知恵を出し合いたい、そんなふうに思うのです。しかし一方で、今回の件のように、その唐突の出来事に「どうして?」と罪の意識にさいなまれることもあるかもしれませんが、「命あるもの必ず死を迎える」とういことを念頭に置きつつも、既に起きてしまったことに対して「『なぜ』と問わない」(山浦玄嗣さんの書名)で、より心地よい社会をこれから作ってゆくために小さなことをしてゆくことが大事なのかもしれません。ネット上の繋がりも大事かもしれませんが(それは全く否定しません)、普段のリアルな繋がりを大事にするしかないのかな、と思います。自殺の問題をタブー視することなく、あなたの親しい人と、話をしませんか?見えない壁が本当に無くなって、その軽妙な会話が「生きる喜び」となるまで。



たとえば君が死んだら/Goose house

http://www.youtube.com/watch?v=2nx81srj44c



SAVING 10,000

Winning a War on Suicide in Japan

自殺者1万人を救う戦い

http://www.saving10000.com/ja/



僕は洗礼を受けた信徒ではないけれども、時々、日本基督教団 王子教会の日曜礼拝に参加させてもらってる。そうか、迷い出た1匹の羊のために、99匹目の「あなた」は、その1匹を一緒に探しに行かないのかい?とイエス様から問われているんだ。


もう一匹の羊


【Facebook過去記事】 国際協力の「地域間格差」

2013年5月9日記

 

東大がJICAと共同して始めた、学生短期海外ボランティアの報告会を聞きに行ってきた。とても素晴らしいプログラムだ。文理を問わず、幅広いバックグラウンドの学生が派遣されていた。だけれども、日本の田舎の人間、地方の「駅弁」大学の人間としてのアイデンティティのある自分としては、こんな素敵なプログラムが東大のような「有名大学」あるいは首都圏の大学に独り占めにされていることを「ずるい」と感じた。報告会終了後にJICAの方に思い切って、地方のこういう情報にそもそもアクセスできず、こんな世界があることを知らないで一生を終えてしまうかもしれない学生たちにも広げることはできないか、そう疑問・意見をぶつけてみた。JICAも日本全国で青年海外協力隊の説明会をする、いくつかの大学でこういう取り組みを始めている、など、努力されているようだが、コストもかかるし、地方と言っても、県庁所在地などの都市部に限られてしまう。せっかくインターネットが普及したのだから、説明会をネットで生中継したり、Skypeのような双方向通信でリアルタイムに質疑応答したりできるような仕組みはできないか、提案してみた。先方は「上に訊いてみる」との事だった。もちろん、こうした取り組みはJICAでなければできないものでもない。日本発のNGOが世界各地で活躍しており、そうしたNGOがインターネットなどを通じて、もっとインターンシップなどを受け入れれば良いと思う。もちろん、人的にも財政的にも厳しいかもしれないが(それでも、これは探す側の意識の問題と言われるかもしれないが、インターネットというのは基本的に「知りたい」と思う情報を探すところだ。自分が今まで知らなかった世界を自動的に提供してくれる場所ではない)。

 

 

ただ、いくらインターネットの発達した時代とは言っても、僕が修士過程の頃を過ごしたような、人工的に造られた「限界集落」のような土地では、今でも光回線は無く、せいぜい速度の遅いADSLが引ける程度だ(当時はADSLどころか、ISDNしか引けなかった。まあ、10年くらい前の話だが)。今でも日本は決して情報インフラに関してはどこでも均質ではない。

 

 

東大では国家公務員の願書が当たり前のように置かれているが、地方の、特にキャンパスに理系学部しか無いような所だと、そんな世界に触れることは皆無だ。どうして、あまねく国立大学に国家公務員の願書を置かないんだ、そんな不公平感をずっと感じていた(確かに、僕が学部生として過ごした当時は「国立大学」の時代であり、今の独立行政法人化した時代とはずいぶん違うと思う。その辺は、きちんと”difference in differences”で見ないといけないかもしれないが。そしてまた、医学系単科大学のようなキャンパスと、総合大学のキャンパスとは、そもそも”propensity score”が違い過ぎるのかもしれない笑 今、母校から送られてくる広報誌には「日本人学生が留学生と一緒に田植え体験をし、日本の農業を考える」などという素晴らしい取り組みの記事も載っているから、時代が変化したことによる要因が大きいのかもしれない)。

 

 

そして、役所は、民間には指導しておきながら、自分たちはいまだに採用に当たって採用試験受験の年齢制限を設けている。もちろん、これは自分がその年齢制限に引っかかってしまうための恨み節という部分もあることは認める。だったら、経験と実力を積んで専門職員になればいいのだが、なぜこちらは任期付の有期雇用で、新卒採用者は有期雇用じゃないんだ?結局、「キャリア」とそれ以外のヒエラルキーの中で差別される(まあ、海外なら有期雇用が当たり前で、日本が特殊と言えば、特殊だと、割り切ればいいのかもしれないが)。

 

 

ああ、これが「学歴社会」というやつか。都市部の有名大学の学生は良質の情報に触れることができて、視野の広い活動をしている一方で、地方の理系学部の「意識の高い」学生は、学部3年生の頃から志望の研究室に出入りし、実験し、そして「ラボ畜」になってゆく。大学院に行って、そして研究者になるというレールに何の違和感も覚えることなく。そして、やがてはジャーナルの”impact factor”の奴隷になるんだ。一方で、都市部の有名大学の学生が順風満帆に「意識の高い」人生を送っているのに。就職先に大手商社や都市銀行や、コンサル業界だなんて、考えたこともなかった(そして、ネット上でも、そういう人たちが「能力のある人」としてもてはやされている。例えば「マッキンゼー人材」とかいった名前が付いて。僕が学部・修士のころは「マッキンゼー?なにそれおいしいの?」状態だったのに)。製薬会社の研究員になろうとも、先生から「研究員は旧帝国大学の学生たちで占められている。地方大学の出身者はそう簡単には研究者にはなれない。だが、MRだけは絶対にやめとけ」と言われた。僕は「ふーん、世間とはそんなものか」と思いながら、いつものようにpHメーターとにらめっこし、塩酸を滴下しながらTris緩衝液のpHを合わせていた。

 

 

だが各大学の先生が講義用にアップロードしている資料を見てみると、大学によってそんなにレベルが違うとは思えない。どの大学に行こうとも、きちんと勉強すれば、同じ程度の力は付けられるはずだ。場合によっては、地方大学の先生のある講義の資料を見ると、東大の講義よりもよほどレベルの高い内容であることもある。ある時、東大生が、ある二世議員が東大から官僚や弁護士などを経て議員になっているのではなく、いわゆる「無名」私立大学(ただ、その大学は教育分野は有名で、実際にその方も幼児教育の専門家でもあるのだ。それ以外にも農学にも強い大学だ)出身であることを以て「こいつやる気ねーだろ!親の七光りで議員になってるだろ」などと嘯いていた。確かに、二世議員にそういう面があることは否定できないが、なぜ、その大学・その人の専門性を見ずに、そういう「エリート街道まっしぐら」じゃない人をそう簡単に否定できるんだ?それは東大生とは言え、若い学生だから、その大学の専門性を知らないから、とか、「世間」を知らないから、と割り切ってしまえば、そうなのかもしれないが、そうした東大生たちが大人になって、一応の”political correctness”を身に着け、「あの教育分野に秀でた大学で専門性を身に付けられたんですね」などと言っておきながら、きっと内心では「この低学歴め」と見下すのではないか、と邪推してしまうのは杞憂だろうか。

 

 

もちろん、「大学は自分で勉強する所で、他人に何かを教えてもらう所ではない」特に年配の方からそんな声が聞こえてきそうだ。でも僕が修士の時の指導教官だった先生はこう仰っていた。「そんなのは『帝国大学』の時代の話だ。今や学問は非常に複雑になり、私たち研究者でさえ必死に勉強しないとついていけないのに、ましてや学生にはシステマティックな教育が施されないと、理解できるわけがない。」僕も自分で勉強しても良い箇所、と大学のような教育機関がシステマティックに教えることが外せない箇所があるように思う。理想としてはアメリカの大学のように、コースの大枠を大学が提供し、あくまでも「ステップアップ」の手順を踏みながら、それに応じた課題を大量に出して勉強させる、というスタイルだ(ある本に、北海道大学の総長の息子さんが、日本の学校の数学で挫折してしまったが、渡米し、アメリカの大学でコンピュータ・サイエンスを身に着けることができた、という話が載っていた。その経験から、北大の総長は日本の教育のあり方を考えるようになったという)。話が横道に逸れるが、その先生は厳しかったが、今でも尊敬している。液性免疫を司る遺伝子、薬物代謝の第二相反応を司る遺伝子、神経細胞の接着分子を司る遺伝子、と一見何の関係もないもの同士を、”alternative splicing”の観点から統一的に話し、そして、薬物代謝の第一相反応と細胞性免疫や血圧調節などに関わる一連の酵素群の遺伝子とを関連付けて話す、というダイナミックな生命観の語れる人だった。

 

 

いつもの僕の悪い癖だが、昨晩はそんな不公平感と無力感に苛まれながら、心が高ぶっていた。今、読み返すとこの文章も僕の個人的な経験不足を単に恨んでいるだけにしか見えないが、確かにそうなんだが、どうも釈然としないものがある。

 

 

だが、今やインターネットさえあれば、MITの講義だって家に居ながら視聴できる時代だ。大学1年生向けのチャーミングな線形代数の授業を見て、心を癒した。
http://www.youtube.com/watch?v=Oa-x_op2A78

 

冷蔵庫に入った写真などをアップロードした一連のSNS騒動について

僕がTwitterに、


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なぜ続出する? 悪ふざけ投稿 - Y!ニュース http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/computer/social_networking/?id=6087220 なんだかしっくりこない説明が多いな、と思ったが、「『うちら』の世界 」(24時間残念営業)の記事を受けての「私のいる世界」(ひきこもり女子いろいろえっち)には考えさせられた。
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と書いたところ、ある人から、


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考えを是非ききたいです!
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とメンションがあった(ちなみにどうでもいい話だが、この”mention”の用法、ちゃんと「英辞郎」に「《イ》メンション◆ツイッターにおいて、@ユーザー名を含むツイートのこと。◆【参考】Twitter」と載っている)。

そこで、次のようにお答えした。


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僕も基本的には冷蔵庫の中に入ってしまうような行為は、「『うちら』の世界」に書かれているように、身内のウケを狙ったもので、SNSが身内だけに閉じられたもので、それが世界中と繋がっているインターネットの一部だ、という認識が欠けていたのではないかと思います。確かに、インターネットに対するリテラシーが欠けていたのかもしれません。しかし、これは若者に限ったことではなく、そもそも日本(ここでは便宜的に「日本」とか「日本人」という言葉を使いますが、「日本においてある漠然とした文化を共有している人」程度に考えて下さい)には「ウチ」と「ソト」を分ける文化があり、「ここまでは我々の『ウチ』のテリトリーだ」と認識している所に入って来られると不快に感じる、という感覚があるのではないか、若者がそういう「ウチ」の世界観を持っていたとしても、何ら不思議ではない気がします(現に、大人でも、インターネット上に公開された意見は公共の場に発信されたもの、とう認識が無い人がいます)。そして、そういう身内のウケ狙いの行為が、「してよいこと」と「してはいけないこと」のボーダーに挑戦するようなスリリングさがあり、これが「武勇伝」としてもてはやされる心理があるのではないでしょうか。でも、うまく言えませんが、こういう「いけないこと」をやることに対して、大人社会が寛容で、むしろ「元気があっていい」という見方をしてきたのが日本の社会ではなかったのか、と思うのです。


最近では未成年の飲酒には厳しくなりましたが(特に、今回のように、SNSなどに不用意に書き込むと、そこから炎上しかねませんからね)、例えば、僕の子供の頃は、田舎では、正月などに大人が子供に酒をすすめる、など、結構当たり前に行われていました。中学校の生活指導の体育教師ですら「お屠蘇は伝統儀式であり飲酒にあたらない」と言っていたくらいですから。どこで読んだのかは忘れましたが、「日本にイスラム教が根付かなかったのは、日本人は規則が嫌いだから」という説を言っている人がいたように記憶しています。仏教でも五戒のうち、不飲酒戒(不酤酒戒)は形骸化していますし、明治政府が「今より僧侶の肉食・妻帯・蓄髪等勝手たるべし事」として「政府は宗教に介入しない」と言ったとたんに(陰で行われていたことを追認したに過ぎなかったのですが)、僧侶たちは堂々と結婚するようになり、僧侶の子息が寺を継ぐ、という、本来の仏教の思想から離れて、「日本的」な家督相続文化に飲み込まれてしまいました。


僕は恥ずかしながら、ルース・ベネディクトの「菊と刀」は読んだことがないのですが、よく言われる「日本人の礼儀正しさ」は、その人間集団に超越的・外生的に与えられた規範ではなく、空気を読み合い、恥をかくことを恐れるなかで行動をする、ということが、やはりどこか根底にあるような気がしてならないのです。そして、その「恥」は誰によって作られるのか、と言えば、「ウチ」の人々の目なのです。

長くなりましたが、簡単に答えは出せませんが、僕は、今回の件はインターネットで可視化されただけで、その背後には、日本の文化が持つ、歴史的に長く、非常に根深い問題があるように思っています。あまりすっきりした答えでなくてスミマセン。
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更に、次のようなお返事が来た。


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ありがとうございます。ウチとソトに加えて、外生的な規則に対し、ウチの空気や道徳を拠り所にしたチャレンジは良しとする文化なのですね。文化という観点があるとは思いませんでした。


日本は均質性が高いがゆえにウチの空気や不文律を大切にする点は特徴的ですが、そこから武勇伝を好む性質がどう生み出されたのかが気になりました。武勇伝にあたる外国語はあまり思いつかないですし、日本独特なのでしょうか。


日頃当たり前のようにインターネットを使っていますが、日本にはもともとウチとソトという文化があり(中国だと家族とそれ以外が強い気がします。今は変わりつつあるかもしれません)、その壁を破ったインターネットから、様々なことが見えてくるのは面白いです。
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そこで、次のように返信した。


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なぜ「武勇伝」が好まれるようになるのか?あくまでも僕の推測なので、はっきりとは分かりませんが、テレビに出てくる芸人さんもそうですが、よく「体を張る」という表現が使われます(僕は、少なくとも一部には、こういうテレビの悪影響があるんじゃないかと思っています)。笑いのために、「常識」(あるいは「安全」)の範囲を超えることを「かっこいい」と思う風潮があるのかもしれません。ちょっと極端な言い方をしてしまえば、「形を変えた自己犠牲」とでも言いましょうか。マルクス的に言うならば、これは、笑いの「疎外(独: Entfremdung)」と言えるかもしれません。つまり、人間が楽しむために笑いがある、という関係から、笑いという抽象的な人間の外にある概念を、人間が個人の安全・常識を打ち破ってでも求めなければならないものになってしまい、主従の関係が逆転してしまう、ということです。おそらく、ここには「笑い」とは何か、「ジョーク」とは何か、という文化的違い(これには世代間の文化の違いも含みます)があるような気がします。こじつけっぽく思われるかもしれませんが、例えば、噺家の世界のように、「芸」である笑いのために命をかけるほどの厳しい世界がある、という認識も背景にあるのかもしれません。


そして、世間一般の中で「かっこよさ」のNo.1に登りつめるのは難しい、そこで、内輪の世界のなかでのNo.1を求めようとする、そうすると「ソト」の世界の「常識」とのずれが可視化されたのが、一連のSNS騒動じゃないか、と思います。だから、僕の直感ですが、これは「ああいうことをするあいつらがDQNだから」という説明は、その現象の背後にあるものを何ら説明しない、単に「自分の『常識』が正しく、あいつらの『常識』が間違い」という論法に陥ってしまうのではないか、というモヤモヤを感じていたんです。
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更に返信があった。


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そうですね、単にDQNだからバカだからといって切り捨てるのは自分もモヤモヤを感じていました。ウチとソトの断絶や常識のずれがインターネットで可視化される中で、「高学歴」の者がいかに「低学歴」と関わるか、相互作用できるかを考えています。


高学歴と低学歴がお互い関わる必要があるのかも論理的にはまだ説明できないですが、エリートが啓蒙すればいいという考えはあまりに上から目線ではないかと感覚的に感じています。色々な引用を含めた深い考察ありがとうございます!またお話を聞かせてください。
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一応、Twitter上でのやりとりはここまでだったが、今回の一連のSNS騒動に関して、かなりブログ記事などが書かれていることが後で分かった。


例えば、


増殖する「低学歴の世界」と「うちらの世界」~“あざなえるなわのごとし ひきこもごも”
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/08/11/220624


に、どこのブログでどんなことが書かれているか、いわば、ジャーナルにおける「レヴュー」のようなものがなされている。引用元の記事を見ると、更に引用があり、芋蔓式に増えてゆき、まさに、論文を書く時の文献の引用の大変さを思い出してしまい、一瞬、嫌になってしまった笑


これらの引用記事の一部で言われているが、アイスケースに入った写真をSNSにアップロードすることは「そのような文化を共有しているコミュニティ」において行われたのであり、いくばくかの相関はあるかもしれないが、「高学歴の世界」vs「低学歴の世界」という単純過ぎる切り分けは物事のごく一面しか捉えていない、と言う思いを僕も持っている。というか、「そのような文化を共有しているコミュニティ」を「低学歴の世界」と表現してしまったことが、そもそものミスリードの発端であることは、上記記事中で指摘されている通りだと思う。


アイスケースに入るのは非常識かもしれない。だが、「高学歴」の代表格であるはずの東大生も、慶應大生も、もちろん一部の学生だが、飲酒による死亡事故を起こしている。これがもし仮に「低学歴」側が起こしていたとしたら「これだから、低学歴は......」という反応になっただろう(少し話が横道に逸れるが、僕が大事だと思うことは、アイスケースに入ってしまって、店を潰すことになってしまったオーナーの息子とオーナー家族の気持ち、飲酒によって亡くなった学生とその遺族、飲ませたことで罪の意識に苛まれている周囲の学生たちの気持ちを慮ることであり、遠くの安全な場所からのレッテル貼りによって非難をすることではない、ということだ)。


少々、冗長になってしまったが、僕の考えをざっくり言えば、今回のSNS騒動は「高学歴」vs「低学歴」などという構図で割り切れるものではないということ、そして、世の中には「低学歴」の人と「高学歴」の人という、たった二種類の人がいるのではないということである。「学歴」という一つのパラメータを取ってもグラデーションがあるのであり、「学歴」以外にも様々なパラメータを各個人レベルなり、エリアレベルなりで持っており、その変数全体のベクトル(もう少し分かり易く言えば、「ベクトル」とは、林檎と桃と葡萄とバナナとメロンとオレンジ、などなどをひとまとめにしたフルーツバスケットのようなもの)を考えるならば、「学歴」というたった一つのベクトル成分のみで個々人のランク付けをするようなことはほとんど無意味なことなのである(もしかしたら、「学歴」はその行動の説明変数として、統計的に有意に現れるかもしれないが)。おそらく、上記の記事で引用されているブログなどでは「学歴」という言葉を、学歴とある程度相関しているであろう「文化」あるいは「民度(これも今やネットスラングだと思うが)」を漠然と捉えて表現しているのであることは理解できるが、その状態は個々人が固有に持つ共変量(学歴以外のベクトル成分)の違いによってグラデーションがあるはずだ(“composite“である)(すみません、うまく伝わりますでしょうか?(汗))従って、単純な比較・カテゴライズはできない。


(ちなみに、ぶっちゃけ、僕は自分が「低学歴」人間だと思っており、2chの用語を借りるならば「エリート街道」まっしぐらな人に対しては少なからずコンプレックスを持っている気がする。)


こういうことを考えるといつも同じ結論になってしまう気がするが、「世の中というのはそう単純ではないし、単純なストーリーで語れることは少ない。円柱は真上から見れば円だが、真横から見れば長方形だ。だがどちらも「円柱」を正しく表現するものではない。」という考えに行き着いてしまう。

中国や北朝鮮は本当に「脅威」なのか?~利己的で貪欲な国々にとって、戦争は最も「損」である~

東アジアにおける中国や北朝鮮の動向を以て、「もしこれらの国が日本に攻めてきたらどうするつもりだ?チベットやウイグルのように弾圧されかなない」と考える人がいるかもしれません。しかし、本当にそんなことがあり得るでしょうか?


まず、北朝鮮は国家そのものが貧困にあえぐ中で、より有利な援助の条件を引き出そうとして「瀬戸際外交」を行っているわけです。彼らにとって「瀬戸際」であることが生命線で、その一線を越えてしまえば、自殺行為であることはおそらく十分分かっていることでしょう。国家そのものが瞬時に瓦解してしまうでしょう。これは後で述べますが、中国は日本を攻撃するインセンティヴがありませんから、国際社会の中で、北朝鮮を応援する国などあり得ません。それよりも先に、第二次世界大戦以降に整備された、国連の安全保障理事会という武力制裁を強制できる機構が存在しているわけですから、そんな事態になれば、直ちに北朝鮮に対する空爆が行われるでしょう。日本側が、「専守防衛」として、日本の領土・領海・領空に侵入した敵を迎撃すること以外しない、という「自衛のための最低限の実力」以外を持っていないとうことが、国際社会において広く認識が共有されていればこそ、日本に非が無いことが確認され、例えば、シリアの内戦などのような、安保理決議による武力制裁がしにくい状況とは大きく異なるはずです(もちろん、シリアに関しては、背後に安保理常任理事国どうしの利害対立が絡んでいるという見方もあります)。そういうシナリオを描けるからこそ、そんなことは現実には起こり得ないのです(一方で、アメリカがイラクを攻撃したことを以て、安保理の無力を言う人がいるかもしれません。しかし、安保理決議1441は決してイラクに対する武力攻撃を直ちに認めるものではなく、この点、アメリカは歴史に汚点を残してしまったことが永遠に刻まれるのです)。そして何よりも、強硬路線は威勢はいいですが、その強硬路線が拉致問題に一体どんな進展をもたらしたと言うのでしょう?かつて小泉総理は強硬路線ではなく、直接対話によって拉致問題の解決の大きな一歩を踏み出したのではなかったでしょうか?


翻って中国はどうでしょう?日本は中国にとっては第5位の貿易相手国です。日本にとっても、中国は、アメリカと並ぶトップ貿易相手国です。こうした経済的結び付きが緊密になっている状態(必ずしも100%ではありませんが、「貿易」とは、ヒト・モノ・カネが移動する、と言い換えても言いでしょう)において、日本には天然資源はほとんどありませんから、中国にとって、わざわざ日本を自国領にするメリットは何もありません。むしろ膨大な軍事コストを考えると、そんなことをすれば大赤字です。一方、中国にはチベットやウイグルのような民族問題を抱えており、こうした少数民族に対する人権侵害に対しても国際社会から厳しい批判の目が向けられています。これまで、中国は国際社会からの批判に対し、「内政問題である」として受け入れない方針を取ってきました。ところが、これが(尖閣諸島の問題は後述)日本ということになると、国連に加盟している独立国家であり、これを侵略することは今日の国際社会の情勢から考えて、まずあり得ません。ちょっと穿った見方をすれば、国連総会では一国一票を持っていますから、中国はアフリカ諸国の票欲しさに、いわば日本などの援助に横槍を入れる形で、独自の援助を行い、発展途上国の「中国支持票」を取り付けようと躍起になっているわけです。もし、中国が、同様に途上国に支援を行っている、国際社会で信頼の厚い日本を攻撃するようなことがあれば、それこそ、中国自身が高いコストをかけて積み上げてきた努力を一気に無駄にしてしまう愚行なのです。「日本に攻めてこられたら、チベットやウイグルの人々のように弾圧・虐殺されかなない」そんなふうに言う人がいます。確かに中国国内の人権状況に問題はあります。かと言って、中国政府は香港やマカオのような経済的利益をもたらしてくれる人々をわざわざ虐殺するでしょうか?


もちろん、中国に対して注文もあります。中国は、チベットは分かりませんが、ウイグルに関しては地下資源を狙っているとも言われています。確かに、天然資源があればその輸出によって一時的にはその国は潤うでしょう。しかし、長期的な傾向を見れば、一次産品(天然資源)の工業製品に対する交易条件は悪化する傾向にあり(「プレビッシュ=シンガー命題」)、一次産品に特化した国と工業国との経済格差は縮まらず、単純な古典的な自由貿易モデルのようにはいかないのです。一方で、天然資源豊富な国は、その輸出によって自国通貨のレートが高くなり、かえって工業製品の輸出にマイナスに働きます。その結果、国内の工業を衰退させてしまう危険性を持っています(「オランダ病」)(それを回避して、現在のように人民元のレート変動幅が小さくなるように維持するためには、中国の中央銀行は市場にどんどん人民元を供給しなければならなくなり、中央銀行のバランスシートはいびつになり、一方、中国国内では金利低下を招くのですが、これが中国の経済発展を後押しするか、あるいはバブルを招くだけか、どんな結果をもたらすかは、ちょっと素人判断では分かりません)。中国の沿岸部が目覚ましい経済発展を遂げてきたのは工業の発展にほかなりません。新しい油田が開発された、とか、そういう理由で中国の経済が発展したのではありません。長期的な戦略を考えるならば、中国は天然資源に固執するよりも、せっかくの沿岸部の工業の発展を内陸部にも拡大することに集中することが得策です(もし、本当にそうなれば、それこそ、中国は日本にとって「経済的脅威」となる可能性もあります)。


少数民族問題は中国人の間でも態度に差があります。上海出身のある留学生は「なんで、チベットやウイグルみたいな田舎にしがみついているのか分からない。あんな所、さっさと独立しちゃえばいいのに」と言い、具体的な地名は忘れましたが、中国の北の方の出身の学生は「いや、国家の統一は守り抜かねばならない。上海人は上海だけが中国だと思ってるからね」と言います。僕はチベットやウイグルは独立して、その上で中国とEPAを結んで、ビザ無し渡航で、ヒト・モノ・カネの移動を完全に自由にする共同体にすればいいのに、と思います。うちの研究室にいた中国人留学生(長春出身)によると(彼女は「はっきり言って、中国でも一般市民はそういう外交・領土問題にはほとんど関心が無いと思う」としつつ)、清朝末期の恭親王がアロー戦争の後、北京条約によって領土の一部を失ってしまったことから、現在でも「鬼子六」と罵られているように、現在の政治家も後世の人から「売国奴」と言われるのを恐れているのだろう、と言っていました。人間はなかなかそういう「大きいことはいいことだ」的価値観から抜けられないのでしょうか。以前に授業で習ったのですが、Fiona Hill, Clifford G. Gaddy著 "The Siberian Curse: How Communist Planners Left Russia Out in the Cold" によると、ロシアが経済的に停滞しているのは、シベリアという維持コストのかかりすぎる土地にしがみついているからだ、というのです。かつて石橋湛山が「小日本主義」を主張したように、不必要に広大な領土を持っている必要は無いと思うのです。シンガポールを見てみて下さい。香港を見てみて下さい。ルクセンブルクを見てみて下さい。富と繁栄とに、広大な領土や豊富な天然資源は必要でしょうか? 僕は身を置いている環境のお蔭もあって、北京大学や清華大学の優秀な学生と触れ合う機会がありますが、いずれ国の中枢部に入って行くであろう、彼ら彼女らは、そんなことは百も承知だと思うのです。


中国は尖閣諸島を自国の領土だと主張しているのですが、これまでの数々の歴史的資料や、日本共産党が言うように、国際法における「無主地の先占」の法理を適用して(この「無主地の先占」という法理自体が、帝国主義的植民地政策を正当化するものである、という批判もあるにはあるのですが)、歴史的にも国際法的にも日本の領土であると主張することには強い合理的根拠があります。また、現に、尖閣諸島は日本が実効支配しています(一部の保守系議員や活動家が尖閣諸島の北小島に上陸したことがありましたが、保守層の票欲しさの行為であることは明らかであり、外交上は何のメリットも無いどころか、かえって国粋主義を煽り、それが彼らの票につながるのかもしれませんが、実質的な「国益」は損ねています。そんなに日本の領土であることを世界に誇示したいならば、彼らはむしろ、韓国が実効支配している竹島の方にこそ上陸すべきでした)。しかし、そうは言っても、中国も一度言い出してしまったものは引くに引けないでしょう。「棚上げ」論も一つの知恵であることは認めます。ならば、こうすればどうでしょう?日本は日本企業A社に尖閣諸島の資源の開発許可を与えます。中国は中国企業B社に尖閣諸島の資源の開発許可を与えます。A社は、登記上の本社が中国にある子会社A’社を設立し、A’社に下請けさせます。B社は、登記上の本社が日本にある子会社B’社を設立し、B’社に下請けさせます。そして、A’社とB’社で協定を結び、尖閣諸島の資源の開発をするのです。「チキン・ゲーム」で、いつまでも互いにいがみ合っていて実質的に何の経済的メリットも得られないのならば、少しでも実益を得られる方法を取るべきです(注)。


(追記)(注) 日本と中国は2008年に、一旦は、領土問題を事実上棚上げし、ガス田開発について共同開発の合意をとりつけましたが、その後、頓挫してしまった経緯があります。



1976年、東南アジア諸国連合の初の首脳会議で締結された「東南アジア友好協力条約」はその後、ASEAN諸国以外にも大きな広がりを見せ、日・中・韓・北朝鮮も加盟しています。この条約の基本原則


a すべての国の独立、主権、平等、領土保全及び主体性の相互尊重
b すべての国が外部から干渉され、転覆され又は強制されることなく国家として存在する権利
c 相互の国内問題への不干渉
d 意見の相違又は紛争の平和的手段による解決
e 武力による威嚇又は武力の行使の放棄
f 締約国間の効果的な協力


を今一度確認し、これを死文化させてはなりません。


私たち人類は、決して愚かではありません。既に新しい時代へと一歩を踏み出しています。その希望の光を消してはなりません。今回の参議院選挙は、日本の今後の外交のあり方が問われる選挙でもあります。

ゆるキャラと危機感と

ゆるキャラファンのみなさん、必見!



http://jcp.or.jp/kakusan/



僕は「アベノミクス」の金融緩和自体には賛成だったので、日本共産党のアベノミクス批判には違和感を抱いていたのですが、労働者の非正規化を推し進めたり、生活保護水準を切り下げようとしたりと、インフレとは根本的に矛盾するデフレ方向の政策(もちろん、数量的インパクトとしては小さいかもしれませんが)を含むちぐはぐな政策で、株価のプチバブル(長期的なファンダメンタルな変化ではなく)を起こしただけで、本気で物価水準(賃金を含む)を上げる(インフレにする)気が無い政策だと失望してしまいました。



ご存じの通り、自民党は、あのブラック居酒屋の経営者を比例候補に立てており、今頃、若者や非正規雇用者を敵に回してしまったことに気が付いても遅いです。非正規雇用者は能力が無いから非正規雇用になっているというよりは、何らかの偶然(例えば、大学卒業時の景気)によって一旦非正規になってしまうと、低賃金ゆえ、長時間働かないと生活ができないため、非正規雇用から抜け出すための就職活動、自己投資が難しくなるのです。



自民党は、福島第一原発の事故の収束さえままならない中、多くの方々が今なお避難生活を送っておられる中、原発を再稼働しようとし(放射性物質汚染の風評被害の問題はあくまでも別個のデリケートな問題なので、過激な反原発運動には同調しませんが)、TPP参加交渉に踏み切り、(自由貿易の理念自体は全く否定しませんが)、急激な変化によって、日本の農業に打撃を与える一方、既に関税の低い自動車の輸出には大しててメリットの無い、意味不明な政策を始めようとしています。



自民党は独自の改憲案も示しています。家族が助け合うのは素晴らしい事です。でも、児童養護施設で育ったり、虐待を受けたり、そんな子供にまで「家族は助け合わなければならない」と憲法で道徳を説く必要がありますか?「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と言い換えることで、これまで学説や判例で積み上げられてきた、人権が制限される場合の極めて限定的・抑制的解釈をひっくり返してしまうことになりかねません。



「強い軍隊を持たなければ日本守れない」そんな声も聞こえてきそうです。でも、強い軍隊を持つ国どうしが戦争をすることは、歴史の中で散々繰り返されてきたではありませんか。人類は悲惨な二度の世界大戦、そして核兵器を実際に人類の頭の上に落とす経験をして、パンドラの箱を開けてしまったことを知ったのではなかったのですか?「リアリズム」を叫ぶなら、戦争を回避する外交努力(二国間・多国間を含む)こそが「リアル」な平和への道です。核兵器を含め、「抑止論」は、まさに「囚人のジレンマ」による(高コストな)恐怖の均衡です。ならば、「フォーク定理」を信じて、平和の均衡を達成しようではありませんか。現に(問題が全く無いとはいいませんが)東南アジア諸国やヨーロッパ諸国は過去の戦争の歴史から決別しようと、共同を始めているではありませんか(スミマセン、専門用語はGoogle等で検索お願いします(汗))。



今まで躊躇していましたが、安倍総理の憲法9条改正発言、石破幹事長の軍法会議設置発言など、このままだと日本はとんでもない方向に行ってしまう、という強い危機感を持ちました。今までは、まあ、そんなにひどいことにはならないだろうと高を括っていました。しかし、本当に政治家がこんなことを言い出したら、黙ってはいられません。これを機に「共産党を支持するなんて」と僕をブロックする人が出てこないことを願いますが、もしそのリスク(?)があるとしても、「『ねじれ』の解消が焦点」などとマスメディアは言いますが、「ねじれ」が解消されてしまったら、えらいことになる、そんな危機感で体が震えています。



どうか、皆様、今後の日本の選択を誤りませんように。国家権力が国民の権利を制限し、強い軍事力を誇る国は、本当に誇れる国ですか?自らの過去の過ちを潔く認め(ここで注意しなければならないのは、国家としての過ちと、戦争被害者としての個人を混同するとおかしな議論になります)、協調と、国際社会総体(「国際社会」とは米・中・韓・北朝鮮、それから先進国あたりだけを指すのではありません)の「現実」を直視し、誠実な行動を取る国こそが、誇れる国だと思います。僕は「強い」国よりも、サブサハラアフリカの水供給への支援で中心的な役割をしている、日本という国を誇りに思っています。



「世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」(「あたらしい憲法のはなし」より)

石井孝明氏の「選挙前に『正義のみかた』を考える=宇都宮健児氏と視野の狭い政策論」へのコメント

石井孝明氏の

「選挙前に『正義のみかた』を考える=宇都宮健児氏と視野の狭い政策論—消費者金融業界の壊滅から」
http://agora-web.jp/archives/1501142.html

にコメントを投稿しようと思ったらなぜかできず(「このウォールには投稿できません」と出てしまった。Facebookの設定をどこか変えなければいけないのかな?)、どうやらアメブロからトラックバック機能も消えてしまったらしく、コメントを直接送ることができないorz  せっかく書いたので、ここに載せておきたい。
(少々、専門用語乱発ですが、お許し下さい。)



<金利規制について>


かつて、発展途上国に対して「金利規制はけしからん」と言って金利自由化をした結果、構造調整政策が失敗したことを彷彿とさせる意見だ、と思ったのが率直な感想である。金利が上がろうとも、結局、逆選択が起こって、借り手の「レモン市場」となり、その結果、信用割当が起きる。金利を自由化しても、お金を借りられない人は出てきてしまうのである。そこに「マイクロファイナンス」のような新しい形での資金貸付方法の出番もあったわけである。上記の石井氏の記事は、そうした「情報の経済学」を織り込んでいない、なんだか「新古典派ゴリゴリ」感がする。一方、池尾和人氏の

「貸金業法の改正は失敗だったのか?」
http://agora-web.jp/archives/1501174.html

は、「慢性的貧困」と「流動性の危機」を区別し、なるほど、と思わされた(私は、この指摘に90年代のアジア通貨危機のメカニズムを想起した)。確かに、急激な金利規制政策の変化により、過払い分の払い戻し請求が行われ、一種の「取り付け騒ぎ」的に消費者金融業者が倒産してしまった点は、ソフトランディングの可能性をもっと探るべきだったかもしれないが(現在、ほとんどの大手消費者金融は銀行の子会社になっているが、もし仮に「取り付け騒ぎ」的な過払い分返還請求が起こる可能性があるとしたら(あまり無いと思うが)、日銀が親会社である銀行に資金供給する仕組みを確保しておくことが必要かもしれない)恒久的に金利が制限されていることとは別問題のように思うから、この法改正が消費者金融業者破綻の唯一の諸悪の根源であるような批判は当たらないだろう。


一方、そうした金利規制には批判的でありながら、池田信夫氏の「弱い家父長主義」のアイディアは確かにそれなりの説得力を持っている。

「グレーゾーン金利と家父長主義」

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ada438ca75f3c13fe792cbc5b61274c6
(この記事に対するコメント欄で、池田氏は上記の逆選択に関するStiglitz-Weissモデルについて実証面での研究が弱いというコメントをされている。この辺に関しては、私はまだ不勉強なので確定的なコメントはできないが、インターネットでいくつか日本語文献などを見てみた限りでは、日本において中小企業の融資などに「信用割当はあった」とする文献がいくつか見られた。)

上で例に挙げたマイクロファイナンスも、別のやり方で、信用割当につながるような情報の非対称性を解消しようとする試みであると考えられる。おそらく法整備の問題があろうが、日本にマイクロファイナンスは「上陸」するのだろうか?


グレーゾーン金利に関しては、記事からリンクされているWikipediaの記事によると、随分と昔から最高裁は利息制限法によって金利が制限されるべきであると判断してきたように思われる。また、最高裁平成18113日判決によって「みなし弁済」の要件が厳格に判断されたことによって、過去に遡って過払い分を請求する人々が多く出てくるようになったのだと理解している。Yahoo!知恵袋の記事で恐縮だが

「貸金業のグレーゾーンと遡及」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1134013551

によると、これは「法律の遡及適用」にはあたらない、ということらしい。つまり、グレーゾーン金利をかなり緩く解釈して認めてきた(もっと平たく言えば「昔から違法だった行為を黙認していた」)監督側行政のあり方が間違っていた、ということではないだろうか。これに異議を唱えるならば、代替案とその妥当性を議論しないと、安易な「法治」の否定につながりかねない。しかし、いずれにしても、このグレーゾーン金利の問題は、金利規制の問題とはやや異質であり(前者は法律問題、後者は経済問題)、必ずしも同列には論じられない。



<弁護士の活動について>


ちなみに、債務整理の弁護士報酬に関しては、日弁連が基準を作っている。

「日弁連:債務整理の弁護士報酬に上限 依頼者の苦情相次ぎ,異例規程」
http://atlaslaw.net/journal/2011/306

ただ、この記事中にもあるように、(既に撤廃された、以前の)「報酬規定」が独禁法の定めるカルテルに該当すると警告されてしまったことが、問題をややこしくしているように思う。


私は、「正義のみかた」というのも、弁護士のマーケティングのためのスタンスと割り切れば不自然ではないと思う。石井氏が「自由な経済活動を大切にしなければならない」というのならば、弁護士が自由な表現によって、自由な広告・宣伝を行うこともまた正当化されるはずである。あらゆる経済活動を自由にしようとしたならば、何らかの形で都合の悪い情報を「秘匿」するインセンティヴが生じるのは自然なことである。だが、疑問なのは、もし弁護士が自らのインセンティヴに忠実に活動したならば、法律をそのままにしておいて、多重債務者から債務整理の報酬を受け取り続ければよいはずである。だが、彼らはその自らの「利益」を蹴って、法改正に導いた。もちろん、それまでの多重債務者救済活動との整合性をとったのだろうが、これによって弁護士が不当に利益を得ているとは思えない(もし、批判するならば、法改正ではなく、弁護士報酬のあり方の方である)。原発の賠償に関わる弁護士が「脱原発」を掲げるのも同様に、自らの利益をわざわざ蹴っているように見える。石井氏はこれを「利益相反」であるから、怪しいのではないか、として批判されているのだろうか。

とすると、ここで述べられている石井氏の宇都宮氏をはじめとする「一部の」弁護士集団に対する批判は、第一に「金利を自由化すればうまくいく」という誤りをおかしており、第二に、それを前提として「利益相反するような行動・主張をしているから、彼らの主張は信用できない」という程度の極めて貧弱な論理に頼っており、宇都宮氏らに対する「批判」としてはほとんど意味をなしていない。



<この世から「情報」は消えない。"金利規制""「正義のみかた」批判"は両立し得る>


石井氏は消費者金融にしろ、弁護士にしろ、情報の非対称性の無い「クリアな視界」の市場を理想とされているように思う。従って、そこで「正義」のように著しく価値観が絡んでくるような言葉を出されると、情報にバイアスがもたらされるという懸念を持たれているのだろう。また、石井氏は米国における、「自由」の共和党と「平等」の民主党のうち、より共和党的価値観を重視しておられるものと思われる。


私がかつてある先生からこのように経済学を習ったことを思い起こす。「経済学とは自由放任を是とし、金儲けのことばかり考えている学問だと誤解される。しかし、ゲーム理論における『囚人のジレンマ』を考えてみよ。あれは各自に好き勝手にやらせたならば市場は失敗することもあるということの象徴とは言えまいか。」ここで重要なポイントは、二人の囚人は隔離されており、互いに情報の伝達ができないということである。無限にゲームを繰り返せば、「学習」し、互いに協力し合うようになるかもしれないが、常にそれが起きるわけではない。市場に情報の非対称性は満ちている。


確かに、視界はクリアな方が良いに決まっている。しかし、完璧なクリアさを求めるには膨大なコストがかかる。費用対効果を考えるならば、まずもって情報の非対称性が存在することを認めた上で、どのようにすればより現実的な政策を実行できるかを見極めなければならない。金利規制は確かに市場を歪めるかもしれない。しかし「信用」という情報が大きく関わる市場(そしてその情報の「開示」が容易ではなく、容易にすると改めて信用割当が起きてしまうもしれない。現在は返済能力が無くても、将来、ビジネスで成功して大金を手にする可能性といった「不確実性」など誰も正確に予見できないのだ)においては「次善の策」かもしれない(もちろん、池田氏の「弱い家父長主義」アプローチも検討に値する)。一方、弁護士が「正義のみかた」を名乗ることを禁止する、などという言論の自由を規制することはよもやできまい。したがって、その「正義のみかた」という表面の裏側にある情報を引き出そうとする石井氏の意図は、(ブログに書くことはさほどコストを要しないであろうから)一つの現実的な提案と言える。もちろん、私はここではあくまでも一般論として議論しており、上記記事における、石井氏の宇都宮氏に対する批判としては論理が貧弱だし、そもそも都知事選ではこれ以外にも様々な政策で議論がなされるわけで、これだけを以て、安易な演繹を行い「選挙前に『正義のみかた』を考える」と大上段に構えるような表題を付けるのはどうかと思う。


一方、原発の賠償にしてもそうだが、市場取引だけでは解決できない「外部性」によって生じる問題が存在する。それを誰かがケアする、というのが「基本的人権」を認める我々の社会のコンセンサスではないのか(もちろん、その賠償額の多寡に関しては大いに議論されるべきだろう)。とすると、その外部性を解決できるのは「政府」(国家レベルであれ地方レベルであれ)しかなくなってしまう。しかし、一から十まで全てを「政府」が行うことになると、そこでは、情報を「政府」が独占することになってしまい、民間(「政府」でない部門)との間に情報の非対称性を生みかねない。であるならば、第三者である弁護士が(例え自らの営利を目当てにしようとも)、被害者のインセンティヴの代弁者として加害者または政府(政府も自らの賠償金の支払い額を最小化したいというインセンティヴを持っていると仮定できるかもしれない)と真っ向からぶつかり合えば、やがて交渉の均衡がもたらされるだろう。石井氏は「官」対「民」あるいは「規制する側」対「規制される側」という対立構造を取り上げて、弁護士が「規制する側」に立っている、したがって、このような人が「官」の側に立つのは危ない、と主張したいのかもしれない。しかし、相互に利益が反目しあう、AというグループとBというグループがあり、弁護士はそのどちらかの主張を代弁するに過ぎないと解すれば、現在、グループAに所属する人が多数派で、それを代弁する弁護士が選挙で選ばれて「政府」の立場になる、とうのは民主主義が「多数決」という原理をとっている以上、不可避なのであり、それが嫌なら、多数決に代わる別の統治の方法を考えなければならなくなってしまう(もちろん、絶対に規制してはならない部分、例えば言論の自由、思想・信条の自由といった事柄はAとBの両者の共通ルールになっていなければいけない)。そうなれば、今度はグループBの弁護士が政府とぶつかり合えばよいのである。


この記事はこのように書き直してはどうだろう?「弁護士が金儲けをしてはいけないのではなく(石井氏が記事中で正しく指摘されている通りである)、弁護士は金儲けをしても良いから、依頼者(消費者)は、その『手の内』を全て知った上で、納得してお金を支払うべきである。」 私は石井氏のこの記事は、宇都宮氏や弁護士への批判の記事ではなく、「弁護士活動とて営利活動なのである」という消費者への啓発の記事として読むことができる、と思った(そのメッセージを中心に据えて、攻撃的でない上品な言葉遣いをすれば、多くの人の賛同を得られただろう。だが、どうも石井氏のイデオロギーが先行してしまっているように感じた)。


追記: 記事中で取り上げている他の参照ページへのリンクをクリックしても、そのページがなぜか開かないようです(HTMLタグを見てみたのですが、素人判断ではおかしな所は無いように思いました)。お手数ですが、アドレスをコピーして、直接ブラウザのアドレスバーに貼り付けてご覧下さい。

 

チッタゴンの思い出

バングラデシュ滞在中、友人から紹介してもらったSさんという方から、故郷チッタゴンに招待された。Sさんは建築学が専門で、日本に留学した経験があり、東大で博士号を取った後、いくつかの大学でポスドクを経験し、現在は母国バングラデシュの大学で教鞭を取っている。


ダッカから飛行機でチッタゴンに向かったのだが、空港までの交通渋滞が激しく、飛行機には出発直前のギリギリの段階で間に合ったものの、かなりハラハラしてしまった。


チッタゴンに着くと、海辺は夕暮れの美しい風景だった。


Yoshitaka's blog-チッタゴンの夕景


Sさんのお母さん、お兄さんご一家にご挨拶した。Sさんのいとこも日本で働いた経験があるらしく、お二人とも日本語がとても上手だった。

Yoshitaka's blog-Sさん一族


Sさんのお兄さんのお宅では、たいへんなご馳走で客人をもてなしてくれた。Sさんのお兄さんはビジネスマンとして成功し、既に定年退職しているが、かなり古いマンションではあるものの、いわば「憧れの中流階級」といった、ささやかなマイホームで暮らしていた。

Yoshitaka's blog-御馳走


Sさんは既にダッカに居を構えており、Sさんのお兄さん宅も手狭なため、その後はSさんと共にチッタゴン市内のホテルに一泊した。


チッタゴンもダッカ同様に今、まさに発展している大都市である。

Yoshitaka's blog-チッタゴン市内


翌日、2月21日はバングラデシュの言語運動記念日だ。


(参考)ショヒド・ミナール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%92%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB


チッタゴン市内でも記念日にちなんだイベントが大々的に行われていた。


これはベンガル語の最初の文字「অ(オ)」をかたどったモニュメントである。バングラデシュの独立、そして公用語としてのベンガル語の地位は、多くの人々の犠牲の上に勝ち取られたものだ。それだけに人々のベンガル語への愛着は並々ならぬものがあるのだろう(と同時に、このようなイベントはナショナリズム発揚の機会でもあるのだろう)。


Yoshitaka's blog-言語運動記念日イベント


チッタゴン付近には少数民族も多く住んでおり、少数派ながら仏教徒もいる。今回、案内してくれたSさんの一族もバルア姓を名乗るベンガル人仏教徒である。


(参考)バングラデーシュのバルア仏教徒
http://www.evam.ne.jp/evam/evam2/socie/ronbun/local/ea/bangla1.html


僕もこのチッタゴン・ブッディスト・モナスタリーを訪れた。

仏像の光背部分にはパチンコ屋の電飾みたいなものがピカピカと回転しており、何とも言えない怪しげな雰囲気を醸し出している(笑)


Yoshitaka's blog-仏像1


カンボジアからの留学生の皆さんもここを訪れていた。


Yoshitaka's blog-カンボジア人留学生


なぜかどの仏像にも怪しげな電飾が。。。


Yoshitaka's blog-仏像2


僧院の長老、そして顔立ちからすると、おそらくチャクマ族(バングラデシュの少数民族)のお弟子さん。


Yoshitaka's blog-長老


街中の花屋さんの雰囲気も、どことなくダッカとは違う。その時に僕が感じた印象に過ぎないが、チッタゴンは様々な文化、様々な民族、様々な宗教が入り混じった多様性のある街のように思えた。


Yoshitaka's blog-チッタゴンの花屋


私たちはSさんの地元の村も訪れた。チッタゴン市内から車で2~3時間くらい行った農村だ。


Yoshitaka's blog-農村の子ども Yoshitaka's blog-農村の家

この村にも仏教寺院があり、釈迦がその下で悟りを開いたとされる菩提樹から株分けされたものが植えられていたが、根元の仏頭がちょっと怖い(笑)


Yoshitaka's blog-菩提樹


とはいっても、村全体が仏教徒というわけでもなく、おそらくイスラム教徒と仏教徒(それに、多分、ヒンドゥー教徒も)が平和的に共存しているのだろう。


やっぱりここでも仏像の光背には怪しい電飾。どうもバングラデシュの仏像はこれが普通のようだ。バングラデシュでは仏像ゆえに派手に飾り立てるべきもの、と考えるのだろうか?余談だが、僕の祖母がかつて金閣寺を訪れた際に、ちょうど金箔が張り替えられた後だったらしく「あまりにも金ピカで有り難みが薄れた」と言っていたが、日本人はどちらかというと古ぼけた感じのものに「有り難み」を見出す美意識を持っているのかもしれない。


Yoshitaka's blog-仏像3


その小さな寺院には沙弥(未成年であるため、まだ正式に僧侶になるための具足戒を受けていない見習いの小僧さん)がいた。案内してくれたSさんのいとこに通訳をしてもらい「どうしてお坊さんになろうと思ったの?」と尋ねると「お坊さんになったら、いっぱい勉強できるから」という答えが返ってきた。


Yoshitaka's blog-沙弥


ここにはまだ良い意味でも悪い意味でも、学びと発展への渇望がある。Sさんは貧しい農村出身でありながら苦学し、ダッカ市内にある大学教授にまで上り詰めた。僕が村を訪れた日には村で特に業績を上げた人を表彰する式が行われ、その中にSさんもいた。後にSさんは自分の半生を振り返った際、本当に必死になって勉強し、必死になって働いたと語っていた。その様を “You can’t imagine.” と表現しているのを聞き、ハッとさせられた。この辺りでは雪は降らないだろうし、蛍がいるのかどうかは分からないが、貧しさの中から這い上がった、まさに「蛍雪の功」である。


Yoshitaka's blog-表彰式


しかしながらこの式典が実に長い。日が暮れてきてやっと終わったが、チッタゴン空港から出る帰りの飛行機に間に合うかどうか心配だった。最初はスムーズに進めたが、ひどい渋滞と、更に運の悪い事に警察の検問に引っかかり、結局、飛行機には間に合わなかった。


Sさんのいとこは、全く彼らのせいではないのだが「飛行機に間に合わなくて申し訳ない」と気遣ってくれ、代わりに夜行バスの手配をし(Sさんのいとこがバスの停留所兼チケット発売所まで案内してくれた)、深夜の出発時間まで、再びチッタゴン市内のSさんのお兄さんのお宅で過ごさせてもらった。


先程も書いたように、バルア姓を名乗っている人々は基本的に仏教徒である。「仏壇」という表現が適切かどうかは分からないが、家の中には祭壇が設けられており、ご本尊様はなぜか鎌倉大仏の写真である。


Yoshitaka's blog-鎌倉大仏


Sさんのお兄さんの息子(右)と、たまたま遊びに来ていたSさんのお姉さんの息子(左)。左の彼はびっくりするくらいにとっても英語が上手だった。将来は外国に留学したいと言っていた。


Yoshitaka's blog-Sさんちの高校生たち


Sさんのお兄さん宅を後にし、夜行バスに乗り込む。なぜそういう名前なのかは分からないが"Baghdad Express" という会社のバスだ。日本でもそうだが、安いバスにはトイレが付いていないが、お手洗いの近い僕は心配だったので、トイレ付きの "Royal Class"のチケットを取った。それでも運賃はチッタゴン~ダッカ間でちょうど1000タカである。


バングラデシュの乗り物としては、なかなかに洗練されていて、ミネラルウォーターの無料サービスもあり、"Royal Class"の名前に負けていない。夜行バスに外国人が乗っているのがよほど珍しいのか、若い学生風の乗客から"Your country?"などと話しかけられた


Yoshitaka's blog-バス停 Yoshitaka's blog-Baghdad Express
Yoshitaka's blog-Baghdad Express 2 Yoshitaka's blog-Baghdad Express 3


途中、ホテルで一度休憩があるのだが、休憩時間中はバスから締め出されてしまい、バスの中で寝ていたい人にとっては安眠を妨害されてしまう気がした。深夜だというのに大型ホテルのロビーは人でごった返していた。たくさんバスが停まっていたから、おそらく多くの夜行バスがここを休憩所として使っているのだろう。


Yoshitaka's blog-ホテル

翌朝、バスがダッカに付くと、停留所にはちょうどCNGが待機しており、それでいつものアパートまで向かった。たった2日間だったのに、盛りだくさんの経験ができたチッタゴン旅行だった。帰りの飛行機のチケット代は無駄にしてしまったが、それ以上に、Sさん一族の温かいもてなしが思い出深いものとなった。


Sさん一族には本当に何から何までお世話になった。何かお礼をしなければ、と思い、Sさん一族は仏教徒だから、日本に帰ってから、巣鴨地蔵前の仏具屋さんで伽羅入りのお線香と蜜蝋で作った絵入りの蝋燭を買ってFedExでSさんのお兄さん宅に送った。

MPJ Youth 東大五月祭 2012 講演会のご案内

すっかり宣伝が遅くなってしまいましたが、明日(5月20日(日))にMPJ Youthでは以下の通り、東大五月祭で講演会を行います。一応、登録が必要と書いてありますが、当日の飛び入り参加も歓迎です。明日やることがなくなってしまって暇、っていう方はぜひ来てくださいっ!

MPJ Youthのブログもよろしくお願いします。
http://blog.livedoor.jp/mpj_youth_09/lite/

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MPJユースによる東京大学五月祭における講演会のお知らせです。

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     MPJユース
  2012年度東京大学五月祭
HRW日本代表 土井香苗氏講演会
   「国際NGOの力学
~知られざる国際舞台の実態に迫る~」


世界中の恵まれない人々に手を差し伸べる、慈善に満ちた人たち…
自分の利益など顧みず、悪に立ち向かう正義の人々…
国際NGOと聞いて、 そうイメージする人は多い。
しかし、それだけが彼らの真の姿だろうか?

NGOは、組織である。

どう資金を集め、どうプロジェクトを立案・実行し、他機関とどのような関係を構築するのか。
組織である以上、NGOは、これらの問いに答えを出さなければならない。
慈善や正義といったイメージの裏で、国際NGOが実際どのように活動しているのか、その力学に迫る。


【日時】
5月20日(日)
開場 10:30
開会 11:00
閉会 13:00

【会場】
東京大学本郷キャンパス
法文1号館(東)22教室

【講演者】
ヒューマン・ライツ・ウォッチ日本代表
土井香苗氏

【お申し込み】
下記申し込みフォームに必要事項を記入いただき、
件名を「五月祭講演会参加申込:(お名前)」とした上で、
E-mail: mpj.youth.2009@gmail.com までご連絡ください。
お申し込みを確認次第、ご連絡させていただきます。

--お申し込みフォーム--
お名前(ふりがな):
所属:
E-mail:
イベントを知ったきっかけ:
イベントへの参加動機、当日特に知りたいこと:
(可能な範囲で当日の内容に反映させていただきます。)
今回ご提供いただく個人情報は、今後MPJユースが主催する各種イベント等に関する情報提供と、それらに付随する諸対応に使用させて頂く場合があります。取り扱いに関するご質問、ご要望がございましたら、お申し付け下さい。



iPhoneからの投稿

物乞いたち その2

実はもう日本に帰って来てしまっているのだが、バングラデシュにいた頃のことを思い出しながら記事を書いている。



<エピソード 1>


ある日、小さな赤ん坊を抱えた母親が突然、僕にベンガル語で何か話しかけてきた。僕は彼女が何を言っているのか全く分からなかったので、近くの人に英語で「彼女は何を言っているんですか?」と訊いてみた。すると彼は親切にも(?)「彼女は物乞いで、お金を欲しがっている」と教えてくれた。粉ミルクか何か買ってあげようと思い、売店の方へ連れて行こうとすると、もう一人、これまた小さな赤ん坊を抱えた、もし学校に行っていたならば小学生くらいの少女がついてきた。僕は彼女たちを売店の前で待たせ、売店で粉ミルク、シリアル、水などを買い、「みんなのために、どうぞ。分けて下さい。」と、シリアルの箱を開けて、子どもたちに少しずつ手渡してあげた。するとその母親は少女にものすごい剣幕で何か言い、粉ミルクを全部ぶんどって立ち去って行った。少女は何も言わずに、何かを見つめるような目線で立ちつくしていた。僕は少女がかわいそうになり、小さなペットボトルの水を買ってあげた。別の老人が近付いてくる。僕はそのシリアルの箱から一つかみのシリアルを取り出し、老人に差し出した。それでも老人は僕にまだ何か欲しそうに話しかけてくる。もう切りが無い。物乞い同士が分け前をめぐって争い合う。確かにあまり見良いものではないかもしれないが、僕は生活するのに十分な物資を持っている人間だ。批判できる立場ではないことは十分承知しているが、なんだか後味の悪い経験になった。



<エピソード 2>


市場に買物に行った時のこと。帰りがけに一人の少年Aが僕に近付いてきて、こう言った。「僕の母さんは熱があるんだ。」そう言って、いつかのストリート・チルドレンと同様に僕にお金をせびる。僕は内心「本当かなぁ」と思いながらも、もしかしたら彼のお母さんは本当に病気かもしれない、そう思い、彼を薬局に連れて行った。薬局の人に事情を説明したのだが、薬局の人はこう言う。「まずは病院に行って病状を診てもらわないと何とも言えないよ。」確かにその通り。「教科書的」にはそれが正しい。でも、それじゃあまりにも冷たいじゃないか。きっとバングラデシュではこんな光景は日常茶飯事なんだろう。でも、僕はそう言う店員さんにちょっと失望した。「彼のお母さんは今、病気で寝込んでいるんですよ。病院に連れて行くのは難しい。僕が彼の代わりに薬代は払います。」そう言って僕は店員さんを説得し、細かい事情は僕もよく分からなかったので、その少年と店員さんとで直接ベンガル語で話し合ってもらった。もしかしたら、何らかの感染症にかかっているのかもしれない、ということで、シプロフロキサシン(抗菌剤)とイブプロフェン(解熱鎮痛剤)を僕がお金を出して買い、彼に渡してあげた。


同時に、その少年と一緒に、あと二人、別の少年が付いてきていた。少年Bは足が悪いらしく、松葉杖をついていた。彼は言う。「僕は足が悪いんだ。僕にも薬が欲しい。」彼の足はおそらく細菌感染を起こしており、皮膚がただれ、変形していた。僕は彼にも同じようにシプロフロキサシンを買ってあげようかと思ったが、客としてたまたま来ていた人が「ペニシリンの方が良い。シプロフロキサシンは子供には適切ではない。」と言ってきた。彼は医師だった(後で調べたところ、ほとんどのニューキノロン系抗菌剤は小児には適用禁忌となっているようだ。最近は小児向けニューキノロン系抗菌剤も発売されているが、インターネット上の記事を読む限り、いろいろと議論があるようだ)。その時は、今更、古典的なペニシリンなんて、と思ったが、こうやって市場で出回っていると言うことは、それなりの需要があるからだろうと思い、少年Bにはペニシリンを買ってあげた。それにしても、偶然、医師がアドバイスをくれるとは、幸運だったのかもしれない。


もう一人、少年Cもその場に居合わせたが「どこか体に悪い所はあるか?」と訊くと(薬局の店員さんが英語からベンガル語に通訳してくれた)「どこも悪くない」というので、僕たちは薬局を後にした。少年Aと少年Bは”Thank you, boss(旦那さん、ありがとう)”と言い、去って行った。少年Cは果物屋の前で足を止め、バナナを指差し、どうやら「これが欲しい」と言っているようだ。僕は少年Cには1本5タカのバナナを買ってあげた。


さて、帰ろうか、と思ったところ、別の少年Dが、その様子を見ていたのか、あるいは噂を聞きつけたのか、「お腹すいたよ」と言って僕に近寄って来た。その子も足が悪いらしく、松葉杖をつき、少年が着ている白地のTシャツの胸には大きく赤い文字で「豊田」と書かれていた。愛知県の豊田市と関係があるのだとすれば、日本からの援助物資だろうか(もしかしたら、単に「日本的」に見せかけたデザインなのかもしれない)。僕は売店でシリアルを買い、店員さんに教えてもらったベンガル語で「分け合うんだよ」と言ってその子に渡してあげた。店員さんも外に出て来て、笑顔でその子に何か話していた。多分「良かったな、この人が食べ物をくれて。みんなで仲良く分け合えよ。」多分、そんなことを言っていたんだろう。


やれやれ、帰ろうと思ってから、ずいぶんと時間とお金を使ってしまった。リキシャを見つけて帰路につく。でも、僕はだんだん腹が立ってきた。人々はそうしたストリート・チルドレンに親切にしているようには見えない。きっとあまりにもありふれた光景なんだろう。モスクからアッザーンが聞こえてきても、その周りにはおびただしい数の貧困層があふれかえっている。宗教者たちは人々に祈りを呼び掛ける一方、そうした貧困層のために一体何かしているのだろうか?確かに、政治が安定せず、きちんとした社会福祉制度作りができないのかもしれない(先進国の側はそれを「ガバナンスの問題」とか言って、これまた「ありふれた光景」にしてしまっている)。この国の人たちは、この様子を見て、何も感じないのだろうか?



<エピソード 3>


でも。でも、僕には何も変えることができない。ある金曜日。僕が道を歩いているとストリート・チルドレンたちが僕を取り囲み、お金をせびってきた。僕はいつものように果物を買ってあげようかと思ったが、その日は金曜日(イスラム教の集団礼拝の日なので、バングラデシュでは、金・土がお休みで、日~木が平日)で市場の果物屋さんや露天の果物屋さんはお休み。金曜日も開いているスーパーに行き、栄養のありそうなシリアル、水、石鹸、手指の消毒ジェルを買い、再びストリート・チルドレンの所に戻った。彼らの汚れた手に消毒ジェルを垂らしてやると、面白がって「もっとくれ」と言う。僕は「これで十分なんだ」と言い、先程買った物資を渡し、その場から立ち去った。しばらく歩いて後ろを振り返ると、一人の子が「バイバイ!」と手を振っている。でも、僕は「もっと何かをせびられるんじゃないか」と思うと、怖くて手を振り返せなかった。


僕はある日突然、この国にやって来て、そしてある日突然、この国からいなくなる。僕はやがては日本で物に溢れた生活にまた戻る。でも、彼らは、明日も、明後日も、多分、一年後も、同じように人々からわずかな分け前をもらいながら命を繋ぐ生活を続けてゆく。確かに、彼らの自立に結び付かない「援助」は時に有害なのかもしれない。でも、僕には問題を根本的に解決できるだけの力も時間も無い。本当はこの子たちが大人になった時、そんな社会を彼ら自身で変えていけるように適切な教育が施されるべきなんだろう。僕自身、自分が今まで知らなかった世界に出会うことによって「あれっ!? 世の中ではこれが当たり前だと思ってたけど、実は違う、こんな世界もあるんだ」ということに気付くことがよくあった。次にバングラデシュに行く時は(バングラデシュでなくとも、発展途上国に行く時は)、ストリート・チルドレンたちに彼ら自身の言語で書かれた絵本を渡してあげたい(まずは最低限、文字の読み書きができるようになってほしい)、そんなことを考えている。

東北の被災者は本当に「甘え」ているのか? その2

<被災者は「甘え」ている?>


前回の記事で、友人への返答はその記事に書いた通りだが、その後、「被災者が甘えている」という報道はあるのだろうか?と思ってインターネットで検索してみた。


清水国昭さんのブログ
http://ameblo.jp/kuniaki-shimizu/entry-10983444487.html#main


には、甘えている人もいれば、そうでない人もいる、と断ったうえで、支援はいつまでも続かない、早く自立してほしい、との思いを込めつつ、自ら自立支援のために汗を流しておられる様子が書かれている。自らのご主張と自らの支援活動とが言行一致しており、筋が通っている。


一方、インターネット上には「被災者は甘えている」というブログ記事などがあまりに多い事に驚いた。確かに、本当に甘えている人はいるのかもしれない。だが、それが全てではないし、甘えるには甘えるなりの事情があるのかもしれない。少なくとも、愛する家族を失ったり、家財まるごと無くなったりした人に、発災からたった1年たったくらいで「甘えるな」などと言えるだろうか?もちろん、他方で、ボランティアをやる人もいつまでもボランティアをやっているわけにはいかない。それぞれの仕事だってある。だから、いつまでも頼られても困る。現実に、僕だってかつては健康診断のお手伝いボランティアをやったものの、今はこうしてバングラデシュに来てしまっているわけだから、被災者の側から見れば「自分たちから離れて行った」と思われても仕方が無いだろう。それぞれにそれなりの言い分はある。だが、支援する側と支援される側がお互いに疑心暗鬼になってしまうと、うまくいくものもうまくいかなくなってしまう。



<被災者の心の経過>


もしかしたら、被災者たちは、昨年9月28日の記事だが、香山リカさんが言うように、「ハネムーン期」から「幻滅期」に移行したのかもしれない(念のために書いておくが、全ての被災者がそうだと言うわけではなく「そういう人もいるかもしれない」ということだ)。


被災者同士が妬み合い「格差絶望」を超えるには ――311被災者は「ハネムーン期」から「幻滅期」に
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110927/285307/?ST=business&P=1


(参考)東京都福祉保健局 『災害時の「こころのケア」の手引き 』
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/chusou/video/leaf/files/saigai.pdf
p.5 「被災者の地域における心理的経過」を参照


2011年5月に東北に行った際に「こころのケア」の必要性を感じだが、やっぱり今でも「こころのケア」なんだ。心がすさんでネガティブ思考になっていたとしたら、「甘えるな、自立しろ」と言ったところで「そんなの無理だよ」という返答になってしまう。もしかしたら、被災地に必要なのは「自己啓発」かもれない。「自己啓発」というとなんだか胡散臭く思われるが、(怪しげな団体ではないかどうか注意しながら)本を手に取ってみて、他人に押し付けたりせずに、自分の心の中だけで実行してみる、というのは悪くないんじゃないかと思う。特に「これ」という例を挙げる事はできないが、ずいぶん昔に読んだ、


シャド・ヘルムステッター著 『なぜ、あの人はうまくいくのか―自己説得の驚くべき威力』
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%81%82%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%AA%AC%E5%BE%97%E3%81%AE%E9%A9%9A%E3%81%8F%E3%81%B9%E3%81%8D%E5%A8%81%E5%8A%9B-%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89-%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC/dp/4877710590
などは、大変に面白いと思ったことを思い出した。



<「あそび」を許す社会に>


もしかしたら、被災者にとっては今は、必然的に「甘える時期」なのかもしれない。でも僕は被災者は「甘え」てもいいと思っている。いや、「甘え」ても良い社会にしてゆかなければならない。ひろさちやさんの著書の中に、「日本では『他人に迷惑をかけるな』と教えるが、インドでは『あなたは他人に迷惑をかけずには生きられないのだ』と教えている」という趣旨の話が出てくる。


般若波羅蜜多心経
http://www.koudou-t.com/hannnyasinnkyou1.htm
(記事の中程、やや上くらい)


私たちはお互いに迷惑をかけ合いながら生きている。そしてそれを互いに許す。それが社会の「あそび」(機械などにおいて、クッションの役目を果たす部品同士の間のゆとり)なのではないだろうか。


私がよく行く坐禅会のお寺の住職はこんなことを言っていた。「もし、あなたが混雑した電車でお年寄りに席を譲って、『ありがとう』といわれたら気持ちがいいだろう。でも、もしそのお年寄りがそっぽを向きながら座ったら、あなたはきっと不快に感じるだろう。『わざわざ席を譲ってあげたのに、そんな態度は無いだろう』と。でもあなたは、あなたの選択によって、席を譲るという行為を行ったのだ。あなたの行為は席を譲るという動作によって完結している。譲られたお年寄りがお礼を言うか、そっぽを向くか、それはあなたの行為にとっては関係の無い事なのだ。親切というのは見返りを求めてするものではない。見返りがあろうが無かろうが、それは自分が『やるべき事』と思った親切な行為の選択とは無関係なのだ。」



<合理的選択を行う人間(と仮定して)のインセンティヴを誘導できるような政策を>


バッシングからは何も生まれない。むしろ、被災者とて人間なのだから、経済学が想定するように、自らの効用を最大化しようとする。予算集合が大きくなったり(例:「もらえるものはもらっておく」)、モラルハザードを起こす(例:本来は働けるのに、給付金がもらえるから働こうとしない)事などは、当然「喜んでやる」(もちろん、この文章に価値規範的意味合いは一切無いことを付け加えておく)。このような功利主義的仮定は「お前は甘えている」とか「世の中の価値規範はこれこれであるのだから、あなたもそのようにふるまうべき」といった一方的な規範論を振りかざすのではなく、それらの行為は人間として当然の事なのだから、何ら責められるべきではなく、ウィリアム・イースタリーが開発援助に関してよく言うように、人間に備わる「インセンティヴに反応する」という性質をうまく活用する政策が求められるのではないだろうか。もちろん、それを具体的にどうすればいいのかについて分かれば、今頃問題は解決しているのだろうが。