【Facebook過去記事】 Twitterでの自殺予告(一部加筆) | Yoshitaka's blog

【Facebook過去記事】 Twitterでの自殺予告(一部加筆)

2013年6月22日記


昨日、大学生が東京の某私鉄の線路に飛び込み、自殺するまでの様子をTwitterで実況しており(「釣り」疑惑もあり、裏が取れているわけではありませんが)、時刻や場所が合致していることから、Twitterで瞬く間に拡散しました(これと似たような「自殺の実況中継」例は、以前にUstreamでもありました)。


全く見ず知らずの人ですが、僕も悲しいです。



<孤独と自己嫌悪の狭間>


自分の声が周りの人に届いていないんじゃないか、見えない壁があるんじゃないか、と孤独感にさいなまれ、そして「死にたい」と思っている人がいます。僕自身が「死にたい」と思った時、それは「苦しさや孤独から逃げてしまいたい」というのではなく、「自分という、この社会にとって有害な人間は一刻も早くこの世から抹殺されねばならない」とう強迫観念に取りつかれた時。でも、心では一方で、「誰か自分のことを見ていてくれないだろうか」と声にならない助けを求める。でも、それは周りの人には聞こえない。



<強制的にタイムライン上に「自殺予告」を見せられることの強迫性>


確かに、どこの誰か知らない人であっても「死ぬ」と言われれば、非常に大きな胸騒ぎを起こさせる、ましてや自分には何もできない無力感を強制的に味わわされる、という点では、極めて強迫的な何かであることは間違いないでしょう。ですから、何もできない人に向かって「何とかしろ」とは言えないですし、そういう時は、そっとブラウザやアプリを閉じることは全く悪い事じゃないんだ、だって「釣り」かもしれないでしょ?と伝えることも必要だと思います(もっと神経が図太い人なら「そんなもの見なけりゃいい」と言うかもしれません)。



<彼の孤独、他に選択肢が無かったSNS>


一方で、彼が何らかの助けを求めてTwitterにすがったのだとしたら(あるいは、もっと確信犯的に、Twitterでは誰も助けられないことを分かっていて、自分の存在を感じられない彼にとって、自分がこの世に存在したことの証明として「最期の記録」を大衆に晒したかった、と考えることもできるかもしれませんが)、そのこともまた、責められないと思うのです。過去のツイートを見るに、彼の死はあまりに唐突な気がします。あまり予断で物は言えませんが、もしかしたら何か精神的な疾患を抱えていたのかもしれません。彼には、Twitterというツール以外に助けを求める手段を考えるだけの気力が無かったのかもしれません。精神疾患というのは心の問題でもあるのですが、むしろ、「脳という臓器」の器質的疾患です。例えば鬱病の患者さんに「正常な判断をしろ」というのは酷であり、薬物的治療が施されるべきものです。今回の件を恨むとすれば、確定的なことは言えませんが、彼がもっと気軽に十分なメンタル・ヘルスケアを受けることができなかった環境にあると(少なくとも一部は)言えるかもしれません。自殺した彼を含めて特定の「誰か」が悪いわけではありません。



<生きること、死ぬことを考える>


僕は以前からかなり生死の問題について考えてきており、お寺の坐禅会などで道元の「修証義」を読んできた、あるいは、実家が浄土真宗ということもあり、蓮如の「白骨の御文章」を知っていた、ということもあり、わりとこういうことを真正面から受け止められるのかもしれませんが、今までそういうことを考えたこともない人からすると、とてつもなく衝撃的なものなのかもしれません。僕は幼い頃、死ぬことが怖く(もしかしたら、暗闇に対する本能的怖さだったのかもしれませんが)、祖父に「じいちゃんは死ぬのは怖くないの?」と訊いたことがあります。「じいちゃんくらいの年になると、もう死ぬのは怖くなくなるんだよ」と祖父は言っていました。8年前に祖父が亡くなった時、僕は祖父の遺体が握っている数珠に目をやり、祖父はどんな気持ちで死んでいったのだろう、と心の中で問いかけていました。


これは僕の個人的考えですが、唐突に強制的にタイムライン上に自殺予告を見せられても、彼を救えるわけでもなく、後味の悪い思いが残るだけだ、と言うことは、「死」を自分から遠ざけることなのではないか、何か楽しいことをしている時はそんなものから目を背けてしまいたい、そんな気持ちの表れだとしたら、それでいいんだろうか?という疑問はあります。僕は昼には自己嫌悪から、消えて無くなりたいと思うことはありますが、夜、寝る前、暗闇に包まれた時、ここまま死ぬのは嫌だ、と思うことがあります。「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行法師の気持ちが分かる気がします。しかし「死」が「美」であっては(日本の伝統文化には「武士道」のみならず、少なからずそういう要素があります)ならない、と思うし、死を「タブー」でもなく「憧憬の対象」でもないようにするには、やはり、アルフォンス・デーケン氏の言う「死への準備教育」のようなものは必要なのではないか、と思います。



<もし、自分の親しい人が自殺したら、非難・罵倒できるか?>


まとめサイトなどで「悲しい」「残念だ」などの声がある一方で「迷惑だ」「馬鹿だ」といった非難も見られます。鉄道の人身事故の際にはついこういうことを口走ってしまうのは人間の性なのかもしれませんが(もちろん、目の前に突然人が飛び込んできて、結果的にその人の命を奪うことになってしまい、罪の意識とトラウマに苛まれる電車の運転士は気の毒だと思いますし、適切なケアが施されるべきだと思います)、彼を追い詰めた社会から、自らの命と引き換えに非難・罵倒を受けねばならないのだとしたら、あまりに残酷です(「人は死ねば神になり、神社に祭られるというのが日本の文化」と言っている人たちは、こうした「人身事故」をどのように考えているのか興味深いところです)。彼の家庭・学校・その他の環境に何があったのか分からないので、Twitterでの情報から何かを論評することはできません(Twitterで彼のプライベートが暴かれてしまうというのも、ある意味恐い事ですが)。


日本という国は、昨年は年間3万人を切りましたが、このようにしてそれに近い数の人(その一人一人にちゃんと名前があり、家族や友人がいたはずです)が自ら命を絶っています。3万人という圧倒的な数の前で僕は無力です。自分の手の届く範囲のことしかできない。でも、もしかしたら、「死んでいたのは、自分の親しいあの人だったかもしれない」ということは十分にあり得るわけで、そんな時、自殺した自分の親しい人を非難・罵倒できるだろうか?と考えてほしいと思います。



<何もしてあげられなかったが、これからのために何かはできる>


確かに、僕は彼には何もしてあげられませんでした。それを全か無か、という結果主義で捉えるならば、全く「彼にとっては」無力です。人間は「全人類」を救うことはできません。知っている人、見ず知らずの人。声の届く人、届かない人。地球の反対側で、自分の知らない誰かが自殺しても、気にしていられない。でも、その人の周りの愛する人は、きっとその人の死を悲しむでしょう。しかし、今後の自殺者を減らすことへの方向性を議論し合うことは、無意味ではないと思います。シリアで爆撃されて死んでゆく人に、あるいは、アフリカでマラリアで死んでゆく幼児に、「何もしてあげられないから、それについて何も言うべきでない」とは言えないのと同じように、たとえ本人に何もできなくても、世界を「より良い」方向へ変えてゆくための知恵を出し合いたい、そんなふうに思うのです。しかし一方で、今回の件のように、その唐突の出来事に「どうして?」と罪の意識にさいなまれることもあるかもしれませんが、「命あるもの必ず死を迎える」とういことを念頭に置きつつも、既に起きてしまったことに対して「『なぜ』と問わない」(山浦玄嗣さんの書名)で、より心地よい社会をこれから作ってゆくために小さなことをしてゆくことが大事なのかもしれません。ネット上の繋がりも大事かもしれませんが(それは全く否定しません)、普段のリアルな繋がりを大事にするしかないのかな、と思います。自殺の問題をタブー視することなく、あなたの親しい人と、話をしませんか?見えない壁が本当に無くなって、その軽妙な会話が「生きる喜び」となるまで。



たとえば君が死んだら/Goose house

http://www.youtube.com/watch?v=2nx81srj44c



SAVING 10,000

Winning a War on Suicide in Japan

自殺者1万人を救う戦い

http://www.saving10000.com/ja/



僕は洗礼を受けた信徒ではないけれども、時々、日本基督教団 王子教会の日曜礼拝に参加させてもらってる。そうか、迷い出た1匹の羊のために、99匹目の「あなた」は、その1匹を一緒に探しに行かないのかい?とイエス様から問われているんだ。


もう一匹の羊