kindle本『多言語学習ログ ~アジア・その他編~』
6月下旬に公開予定です。
アジア地域の諸言語、その他の言語について書きました。
収録言語;
中国語(北京語)、広東語、韓国語、ベトナム語、タイ語、インドネシア語、日本語、やさしい日本語、西夏語、宜蘭クレオール、トクピシン、ピダハン語
現在、『多言語学習ログ ~ヨーロッパ編~』を公開中です。
こちらもよろしくお願いします。
振り返ってみると、人生の結構な部分を資格に費やしてきた。今回は、資格の効用について簡単にまとめてみようと思う。
自分が思うに資格には「趣味のための資格」と「仕事のための資格」の2種類がある。
まずは趣味のための資格から。
何か学習しようとしたときは、ほとんどの場合関連する資格がないか探すようにしている。
資格試験の勉強を進める中で、いろいろな本を読んだり情報収集をして、学問領域への理解を深めるという作戦なのである。
この方法によって、様々な分野への理解を深めることができた。
たとえば、法律の勉強がしたくなったときは、法律に関する資格を調べた。
一番難しいもので司法試験、他に司法書士、行政書士、宅地建物取引士などが出てくる。
公務員試験や、裁判所職員の試験でも法律科目が出題されるらしい。
民間のものだと法学検定、ビジネス実務法務検定、個人情報保護士認定試験などがある。
資格試験とカバーしている領域もまちまちである。
司法試験は公法系・民事系・刑事系の全て、行政書士は公法系を重点的に、公務員試験は民事系を重点的になど。
自分はまんべんなく勉強したかったので、法学検定を選んだ。
検定の勉強をするなかで、憲法や民法などのほか、法哲学や法制史の勉強もすることができた。
このあたりはなかなか取っつきにくい部分ではあるが、検定の問題を解きながら関連する本を読んだ。
また、いろいろ勉強していくと刑法・刑事訴訟法など刑事系科目に興味があることを発見した。
ニュースを見たときに考えられる被告人の罪責を考えたり、実生活でもちょっとしたメリットがあった。
また、何かについて勉強するのは、それ自体が楽しいことだと思うが、何か創作をする趣味とは違って結果が形になりにくい。
しかし資格であれば成果が合格証として形に残る。達成感がとてもあるのだ。
これは細やかではあるが自己肯定感を高めることにもつながった。
『実存主義とは何か』は、サルトル(Jean-Paul Sartre)の公演を書き起こしたものである。
この本で述べられている実存主義の考え方は非常にしっくりくる内容であったので、引用しながら私の考え方もまとめていく。
p39「…共通なことは、『実存は本質に先立つ』と考えていることである。あるいはこれを、『主体性から出発せねばならぬ』といいかえてもよかろう」
「実存は本質に先立つ」はサルトルの実存主義で基本理念とされている。
これを言い換えたものとして、p42「…人間はまずさきに実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味する」と述べている。
人間は生まれながらに何かしらの運命や使命を背負っているという訳ではない。
ただ偶然が積み重なってこの世に生まれてきただけなのだ。
「実存は本質に先立つ」という考え方には非常に共感を覚えた。自分にとっても非常に大切な言葉である。座右の銘と言っても良い。
さて、人間はただ生まれてきて存在しているだけだから、何をしても無駄なのかというニヒリズムに陥ってしまう可能性がある。
p60「私がいま諸君に紹介している主義は静寂主義のまさに反対である。『行動のなか以外に現実はない』と明言するのであるから」と述べる。
人間は白紙の状態で生まれてくるが、後にとった行動によってその人は形作られる。自分なりに目標を設定し、行動していくことが重要である。
この行動というのは、政治的な活動を意味するようであるが、私は社会に迷惑を掛けない程度であればまあ何をしていても良いと捉えている。
p42「人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない」
人間は良いものだとか、悪いものだとか、そういう判断は下されない。
あとで本人がいろいろなことを学習したり経験したりして、自身を形作っていく。
対して、p43「もしはたして実存が本日に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものに対して責任がある」
行動は全くもって自由だからこそ、その行動には責任がつきまとう。これも非常にしっくりくる考え方だ。
どういう職業に就くかは全く自由である。起業しても良い。ただし、起業した会社が潰れたら場合、その責任は自分でとらなければならない。
また、この状況で人間は「孤独」になるとサルトルは言う。
これは背景に欧州がキリスト教社会にあるためだと思われる。困ったときに判断指針を提供してくれる神がいないことで人間は「孤独」になる。
こういう言い逃れできない状況であるから、p50「正当化のための理由も逃げ口上ももってはいないのである。われわれは逃げ口上もなく孤独である。そのことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい」とサルトルは述べている。
人生は自由に生きていけばよいが、その尻ぬぐいは自分でしなければならない。全く正論であると思う。
参考文献:
実存主義とは何か, J-P・サルトル, 伊吹武彦ら訳, 人文書院
ガンディーの標語に「スワデージ」「スワラージ」など紛らわしいものがある。
これらの用語はサンスクリット語に由来するが、語源は何だろうか。
swaraj スワラージ
自治。
swa「自ら」raj「王」「統治する」が結合して、「自治」の意味。
ラージの部分は、ラージプート「王の子」、ラジャスタン「王の地」などにもみられる。
swadeshi スワデーシ
swa「自ら」deshi「国」から、「母国」という意味。転じて、「自国品愛用」の意味で使われる。
デーシの部分は、バングラデシュのデシュと同じで「ベンガル人の国」という意味である。
ahimsa アヒンサー
himsa「屠殺する」に否定辞のaがついて、「不殺生」の意味。
aが否定辞になるのはギリシャ語でも同じ。サンスクリット語もギリシャ語も同じ印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)である。
satyagraha
satya「真理」agraha「持つ」が結合して、「真理の把持」の意味。
・Dasein 「現存在」「ダーザイン」
daは副詞で「そこに」sein「~である」英語のbe動詞にあたり、ich bin du bist...と活用する。
どちらも非常に基礎的な語彙であるが、Daseinは両者を結合させた言葉であり、ハイデガーの造語らしい。
日本語では「現存在」などと訳される。中国語圏では「此在」と訳されており、より直訳に近い印象である。
・In-der-welt-sein 「世界-内-存在」
derは定冠詞theにあたるもの。weltはworld「世界」にあたる。seinはDaseinでも出てきた。
他者とのかかわりの中で存在が確立されるということで、「世界-内-存在」と訳される。
・Das Man 「ひと」「世人」「ダスマン」
日常生活に埋没した匿名の人間を指す用語。
Manは一般に「人」を表すが、非人称代名詞の場合もある。いずれにしても男性名詞なので der Man(デアマン)となるはずだが、これを敢えて中性名詞としている。
なので特殊な用法であると言える。日本語でもニュアンスを伝えるために「ひと」などと訳される。
・Sein zum Tode 「死への存在」
zumは前置詞で、英語のtoに対応する。TodeはTod「死」の複数形。「死への存在」という意味になる。
いずれ訪れる死と向き合ってはじめて自己の存在を認識できる。メメント・モリを連想するような用語である。
・Geworfenheit 「被投性」
人間は存在のなかに投げ込まれているという状態を指す用語。
geworfenはwerfen「投げる」の過去分詞。英語warp「ワープする」と同源のようである。
heitは名詞を作るための接尾辞で、英語の-hoodに対応する。
「投げこまれていること」から「被投性」と訳される。
少し昔に話題になった本であるが、とても面白かったので引用しながら紹介する。
p269 「先日、片づけしすぎて病院に搬送されました」
衝撃の一文である。片付けのしすぎで病院に搬送されるなど、ただ事ではない。
これはあとがきの文なのだが、何事でもなかったかのようにサラッと書いている。
他にも、本文中では著者自身のエピソードがいくつか出てくる。
p60「ありとあらゆる基準でモノを捨てつづけ、一か月で三十袋近くのモノを捨てていたこともありました」
これは著者が中高生だったころの話であるが、やや普通ではない、常軌を逸していると思えるものが多い。
しかしそれを武勇伝として自慢しようとか、そういった意図は見えない。淡々と語られるのである。
ここに著者の「静かな狂気」のようなものが垣間見え、ゾクゾクするような恐怖、面白さを感じるのである。
次に本書の中でみられる思想について。
p87「「買った瞬間にときめかせてくれて、ありがとう」私に合わないタイプの服を教えてくれて、ありがとう」といって、捨ててあげればいいのです」
買ったものがなかなか捨てられない場合の捨て方のテクニックなのであるが、これも面白い。
一つ一つのものに人格を与え、感謝の意を伝える。これはものに対するアニミズムというか、日本古来の宗教観を感じさせる。
古来より日本では山・川・草木に至るまで、あらゆるものに霊魂が宿ると考えた。
「いかづち」「わだつみ」というような言葉があるが、これらの「ち」「み」は霊魂を表し、信仰・祭祀の対象となった。
著者は"Konmari"として海外でも話題を呼んでいるのだが、こういったものの捉え方が一神教の多い海外では新鮮に思われたのかもしれない。
このように、本書はもちろん片付けについてコツをまとめた実用書であるが、ある意味で哲学書のような雰囲気、迫力を纏わせている。
参考文献
人生がときめく片づけの魔法, 近藤麻理恵, サンマーク出版
サルトルの「実存主義とは何か」という本で「アンガジェ」「アンガジュマン」という用語が出てくる。
「アンガジェ」は不定形engagerと過去分詞engagéの二つがある。どちらも発音は同じで、混乱の元になっているような印象がある。
engagerから見ていく。
意味を辞書で調べると、「責任を負わせる」「拘束する」「始める」「参加させる」「巻き込む」などと出てくる、他動詞である。
en「~の中に」+gage「担保」から、「担保に入れる」が原義のようである。
代名動詞になると、seを伴ってs'engager「参加する」になる。
engagéは、動詞"engage"の過去分詞。「拘束された」というような意味になる。
実際「アンガジェ」と訳された単語は、engagéの方が多いようである。よって、自分が自分を拘束する、というような解釈になるであろうか。
「アンガジュマン」engagementは名詞形で「拘束」「契約」の意味。おもな日本語訳として「社会参加」が一般的であるが、これも元をたどっていくと自らを社会の中で「拘束させる」という意味合いを持つ。
ちなみに、「エンゲージメント」という外来語があるが、これは英語経由で入ってきたもの。「誓約」「契約」「婚約」というような意味である。
参考文献
実存主義とは何か, J-P・サルトル, 伊吹武彦ら訳
プログレッシブ 仏和辞典 第2版
広辞苑第七版
あるアンケートによると、20代男性で朝食を食べるのは70%程度だという。
また、ドイツの哲学者カントは朝紅茶だけしか飲まなかったという。それでも講義や思索などの精神活動は十分できたそうだ。
ただ自分は栄養学的見地、及び午前中の仕事・作業を行うために、やはり朝食は必須であると考えている。
なので、よほどのことがない限りは朝食を抜かない。
基本的に、朝食は600kcalを目安に食べることにしている。タンパク質・ビタミン・ミネラルの補給は、昼食・夕食に回している。
さて、自分は朝食のとき本当に色んなものを食べている。
ご飯についてだが、これは必然的におかずを必要とする。ただ、これは準備が頗る面倒だ。
そこで、一時期はお茶漬けをよく食べていた。
パスタを茹でることもある。味付けは本当に簡単で、アジシオだけ振りかけて食べる。これでも意外と美味しい。
ただ、これもやはりお湯の準備などが必要である。
パンはどうか?実際パンを食べて出かけることは多い。
ただ、パンは何となく胃もたれすることが多い。体質なのであろうか。
菓子パンもあまり体に良いものではないと聞く。
カロリーメイトは重宝する。常温で置いておけるし、かさばらない。
いつでも食べることができる。
ただ、味に飽きてしまうというのが難点である。
最近やるのが、一日分の間食を朝食に回してしまう、というものである。
スナック菓子を食べたければ、朝食にしてしまう。
かっぱえびせんやドリトスを朝からパリパリ食べてしまう。代わりに、あとは寝るまで間食はとらないのだ。
体には悪そうだが、シリアル等を食べるのと大差ないだろう、という考えである。
一袋300kcalくらいあるから、エネルギー摂取効率としては比較的良い。
また、和菓子を食べることもある。大福やまんじゅうなど。
和菓子も朝食として食べることは想定されていないだろうが、スナック菓子よりは脂質・塩分が抑えられると思う。
一時期餅を食べていたこともある。正月に余った餅を消化するために食べていたらハマってしまったのだ。
それで、きなこや砂糖醤油などで食べていた。これもいつしか飽きて辞めてしまった。
ということで、朝食に関しては色々な食べ物を放浪しているのである。