閑話休題 -19ページ目

 藤城清治の影絵

 薄い紙を切り貼りし、物語を絵にして、後ろから光を当てる。幻想的な絵画の出現だ!。しかも絵に物語性があれば美の幻想画が生まれる。 大正生まれのこの画家は、育ってきた大正ロマンの風土を豊かに持って、影絵では一流の芸術家である。

 

 彼の宮沢賢治の切り絵作品は、賢治の幻想的な夢の童話の世界を、見事に絵画的に表現している。賢治の世界の表現は、油絵や水彩画ではなく、切り絵の影絵でしか表現できない抒情をがあ。いつ見ても藤原誠治氏の美的な、幻想的な切り絵の世界に感動する。

 

 宮澤賢治の風の又三郎の始めに出て来る、田舎の小学校に転校してきた初登校の場面である。「変てこな鼠色の、だぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い皮の半靴を履いて」、教室の前列の椅子に独りで座っている。登校して来た生徒たちが初めて見る転校生を、吃驚して窓からのぞいて、騒いでいる。小さい時の思い出に繋がる場面を、宮沢賢治の童話的な始まり場面を藤城誠二は子供の心でみた影絵の雰囲気を作っている。壁や机にも汚れが目立っている。田舎の学校らしい雰囲気があり、芸術絵画としても素晴らしい作品である。

 

 またセロ弾きのゴーシュの影絵では、夜の月光の光を巧みに表現して、その光の輪の中にセロ弾きのゴーシュを浮かび上がらせいる。

ここでは小説とは別次元の芸樹性を加えて、影絵の絵画芸術を創造している。いつまでも見飽きないいい作品である。既に90 を越えた、藤城清治氏の創造の精神、感覚の鋭さには、脱帽、感服する。

 

     

       風の又三郎の転校初日、今までの生徒が吃驚して窓からのぞいている

              セロ弾きのゴーシェ

 御嶽山の思い出

 御嶽山の噴火から丸四年、9月26日にいよいよ登山再開された。御嶽山は活火山でありるが、なぜか日本人に親しまれるお山である。

 御嶽山の信仰は古い。各地から信者が集まり、「御嶽講」の山岳修行が行われ、記念の石塔が登山道に林立している。そういえば亡き

上方舞の武原はんさんも熱心な信者で、東京から十数回も御嶽山にお詣りしている。時には新橋の芸者10数人を従えて登ったり、自分の俳句の石碑を御嶽頂上に建てている。

 なぜかこの山には霊気がある。私は67歳にして初めて登ったが、頂上の神社に参拝して、「お陰で登らせて頂き有難う御座いました」と、今までアルプスの頂上で口にしなかったお礼の言葉が、自然に出て来たことを思い出す。

 

 御嶽さん登山は、アルプスや近畿の山々、日本百名山の半分を登り終えた後で、私の最後の登山となった。その時一緒に登った友だちから、今までより足が遅いねと言われたが、登山の10ヶ月後に心臓手術をして、もう山には登れない体になった。

 

 だけど御嶽山には思い出が多い。こぶしの咲く早春の野麦峠と残雪の御嶽山新緑溢れる開田高原の初夏、それに今から40年前の噴火の火砕流で埋没してしまった濁川温泉など、今でも私の記憶に残っている。

 下の写真1は、神社直下のがれきの原―この土手で弁当を食べたのだが―ここが今回の爆発の火口となった。もう二度と撮れない現場の写真である。

  写真2は、1979年の噴火の際の土石流で埋没し、宿屋も経営者、従業員も一瞬の内に流され、大規模な捜索でも発見されず、王滝川の川底に埋まってしまったという。-山の反対側に今も健在な「濁河ーニゴリゴ―温泉」があるが、この濁川温泉は今はない。県道沿いに手書きの「濁川温泉」の標識のある所から狭い急な山道を降ると、大きな木曽風の旅館があり、玄関に大きな囲炉裏があった。温泉は王滝川の川底に湧いているから、旅館の渡り廊下になってる階段で川まで下りて行く。温泉は六畳ぐらいで、丸太のすのこがコの字型にあり、風呂は4畳半を少し広くしたぐらい。湯の出口は河原で、周りに川が流れ、風情ある今は無い秘湯であった。この温泉の写真が下である。

 

     御嶽山の爆発火口地 -爆発6年以前の写真

  

                      濁川温泉                                     温泉

 子供の目

 赤ちゃんから子供に成長する時、子供は旺盛な知識欲に満たされるという。自分では判断がし難しいこともあるが、とにかく脳がどんどん発達していくのだという。この幼い子供に大人はうそを教えてはならない。大人になると見ることに自然と判断力が加わってくる。子供の時のような見方は脳から消え去って行く。  だが大人になっても樋口一葉宮沢賢治のように子供の目を持っている人がある。

 

 まず宮沢賢治だが、この人の童話集は世界一流と言っても過言ではない。東北の自然の中で育っていく子供たちと小さな動物たち、その自然人の子供の目線に沿った童話は感動を覚える。どうしてあのような構想の文章―童話が書けるだろうか。驚きである。「風の又三郎」「セロ弾きのゴーシヤ」「蛙のゴム靴」「カイロ団長」「鹿踊りの始まり」・・・・・。やはり宮沢賢治は天才だ!

 

 彼の先には樋口一葉がいる。彼女の「たけくらべ」は、吉原遊郭に隣接して住む住民たちの子供の世界を、子供の目で描いている。若い貧しい女が書いた明治の初めの小説としては超一流である。小説家をも目指していた自信家の正岡子規も、「この無名の作家は誰だ」とびっくりしている。「にごりえ」も素晴らしい。私は明治以降の小説家の中で、樋口一葉は最高だと思っている。日銀の五千円札に彼女の肖像が採用された、印刷局の英知をほめたい。

 だだ文章が文語調のために、今では古典のように扱われている゛、れっきとした明治の文学である。是非彼女の小説をよみ、彼女のすばらしい、子供の目を知ってもらいたい。

 

 日本映画には少ないが、西洋の映画には、よく子供が主役になったり、 存在感ある端役を務めて、映画の奥行きを深めている。

 イタリア映画の「靴磨き」、「禁じられたあそび「、」自転車泥棒」,「汚れなき悪戯」、「鉄道員」や、フランス映画の「少女ポエット」などは秀作と言ってよい。

 アメリカ映画でも「シェーン」のわき役の子供も好い。ここで紹介するのは、アメリカ開拓時代の山奥の子供で、炭鉱が発見されて他所から人々が入って来るが、その人の中に一人の技術者がいて、その男に少年が教わったのであろう、映画の中で、

 

   本を読むことはいいことだ。人の中身をつくってくれるから

 

 と言っている場面があり、子供に教えられて、私ははっとした。読書が人の中身を造るんだ!

 

 私は旧人間。スマートフォンから無縁の世代だ。もうこの歳で使うことはあるまい。電車でに乗る時には家にある文庫本を携えて行く。なぜか静かな家の勉強机よりも、人のざわめきのある車中の方が、私は読んでも頭に入りやすいのである

 ところが昨今電車に乗ると、若い男も女も、年配の女なども、全部スマートフォンにかじりつきである。何をやっているかといえば大抵はゲームで時間つぶしをして、読書で人の中身をつくろうとしない。読書するような人は稀になっている。

 

 昔私の尊敬する先輩がいた。終戦直後のことで、家では電気が暗く、電車の中で勉強すべく、彼は天王寺~梅田の省線電車の端に座って、何回も往復を繰り返して、一生懸命本を読み勉強をしていた。のち彼は京都大学に進学し、経済学部の講師になったが、惜しくも早死にしてしまった。頭脳明晰で、弁も立つ有能な、惜しむべき人材であった。

 

 スマートフォンの普及は止められないが、読書する人が減ったのには、日本の将来のために残念である。本屋も数が減り、頭をひねるような本よりも、美しく感受性に富み、嗜好性があり、見た目に美しい高価な料理が紹介され、思考というより嗜好を好むようになった。その最大の仕掛け人は、テレビ番組の俗化にあると思う。また低俗な番組に広告費を出す企業側の姿勢にもある。

 

 

 平宗盛という男

 もう40年ほど前の話だが、九州の宮崎に出張した折、お客に誘われて、二次会に西橘通の歓楽街に案内され、ばんじろ という有名なクラブに招かれた。席に出て来た一人のホステスが、あまりに美人なので吃驚。平安朝の宮廷から抜け出したたような、うりざね顔で、品があり、しぐさも優雅で、知性ある顔立ちであった。

 翌年また仕事で宮崎に行き再びクラブに行ってみた。ところがその女はいなかった。結婚してホステスを止めたという。そして何と彼女は椎葉村の平家の落人の末裔だと聞かされた。なるほどなあ。鄙には珍しい美人の謂れを知った。

 

  戦国時代、敗者の末路は悲惨である。あれ程都で繁栄を謳歌した平家も、あっけなく2年の後に、壇ノ浦で一族や平家武士たちが一斉に消えてしまった。盛者必衰と人は言うが、私はリーダーの無策が大きな原因の一だつたと思っている。

 清盛の長男、重盛は、識見あり指導力もあって皆から慕われていた。彼が長生きしていたなら平家は生き永らえたであろう。だが重盛は42歳の時に早死にしてしまった。後白河上皇にも惜しまれ、人々は彼の死を悼んだ。惜しい男であった。

 

 やがて清盛が死ぬと、その後を三男の宗盛平家の棟梁になった。だが彼は知見や判断力、決断力に欠け、武士というよりも、殿上人ぶりの生活を好んだ。

  清盛の死後、平家打倒に源義仲都に攻め上り、比叡山を味方につけた折も、宗盛は適切な対抗の手も打たず、恩顧を受けた平家の武士も多く残存していたのに、必死の抵抗を下知することなく、安徳天皇を戴いて兵庫福原に退却してしまった。

 その福原で京奪回を図るでなく、背後の警戒も怠り、その隙を源義経に攻められて陥落。早々と屋島に退き、更に屋島か゜攻めらられると、一族を従えて九州に落ちのびる。しかし壇ノ浦で全滅の憂き目にあう。

 宗盛は卑怯にも生き延びたが捕らえられ、近江で馘首されている。何たる総大将のざまだ。一族の棟梁として、攻撃精神もなく、怯えて逃げ回り一族を死に至らしめ、配下の武将も山奥に落ちのびさせた。到底棟梁の器でなく、一族にとっても頼りなく、情けない男であった。このような指導者たる者の罪は深い。

 

 『源平盛衰記』によれば、母の時子が安徳天皇を抱いて壇ノ浦に入水する時、宗盛のふがいなささを攻め、お前は私の実の子ではない。生まれたのは女の子であったが、清盛から「男の子を生め」と始終言われていたので、人を遣わし清水寺界隈で同じ時刻に生まれた男の子と交換したのがお前だ、と宗盛の出自を最後に暴露して、海に飛び込んだという。

 

  平安時代だけの話だけではない。現在でも先見力、決断力もなく、エリートとして温室で保護され、将来の社長候補として育った者は、

株の買い取りで会社の乗っ取りを仕掛けられた時、自失呆然として対策を打ち出せず、100年にも及ぶ先輩の膨大な遺産を、やすやすと宿敵の会社に渡した例もある。歴史あり、魏術力のすぐれた電機会社を台湾の企業に持っていかれた会社もある。

 また苦労を知らずに先代社長の後を継いだ二世、三世にもよくある話である。

 

  盤根錯節に遭わずんば、何をもって利器を別たんや――『後漢書』

 盤根錯節ーバンコンサクセツー曲がりくねった根や、入り組んだ節を切れなかったら、どうして利器と云えようか。今から2000年前のシナの格言である。

  

 

 

 秋の味覚 秋刀魚

 昨日デパートに行ったら、魚売り場でピカピカ光っているサンマを見つけ、一匹だけ買って塩焼きにした。いやその身の美味しいこと!。

いままで高級魚ばかり買っていたが、旬の魚は油が乗っていて、高級魚に勝るおいしさに吃驚した。

 日本語ではサンマを「秋刀魚」と書いて、季節の秋に獲れることと、魚の形を刀に見立てた表現、何と感性ある日本語の表現ではないですか。昔の人の知恵は素晴らしい。

 サンマと言えば、佐藤春夫の詩を思い出す。

 

   あわれ

   秋風よ

   情ーこころーあれば伝えてよ

   ―――男ありて

   今日の夕餉-ゆうげーに ひとり

   さんまを食くらひて

   思いにふける と。

 

   さんま さんま

   その上に青き蜜柑の酸ーすーをしたたらせて

   さんまを食ふはその男のふる里のならひなり

   そのならひをあやしみなつかしみて女は

   いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ

   あわれ、ひとに捨てられんとする人妻と

   愛うすき父をもちし女の児は

   ちいさき箸をあやつりなやみつつ

   父ならぬ男にさんまの腸ーわたーをくれと言ふにあらずや。   以下略

 

  佐藤春夫は若い頃谷崎潤一郎に可愛がられ、何回と家に出入りしていた。その内、谷崎が妻、千代子の妹のせい子を別居させて、

横浜で同居する。その不実をなじった佐藤春夫は、ついに谷崎の妻、千代と、娘の5歳の鮎子を引き取る。その前から佐藤春夫は、千代夫人をひそかに慕い、彼の『純情詩集」には彼女を思慕する詩を書いている。

 

 このサンマの歌は、母子を引き取った当時の夕餉の情景を歌ったもので、もの悲しさが漂う彼の代表的な詩になっている。

 

  

 

仲秋の名月

 いよいよ9月24日、仲秋の名月を迎えます。

 

   出た出た月は

   丸るい丸るい満丸い

   お盆のような月が

 

 子供の頃親しんだ童謡です。しかしこの歌のような月の出を見たことがありますか。この満丸いお月さまは、東に山があり、山入端から出る月の出を歌った田舎の歌で、都会では到底このようなお月さまは見られません.。夜空の上に輝く金色の満月は、生まれたての月の出の月とは違います。

 

 というわけで、大阪で見られる月の出を見ようと、阪急水無瀬駅で降りて南に淀川河川敷公園に行き、その南の端、淀川の流れの傍で、石清水八幡宮のある男山から出る月の出を見ることにしました。

 つまみとお酒で体を温めて月の出を待ちました。と急にあたりが明るくなり、真っ赤なお月さんが山の端に顔を出しました。圧倒されて声も出ず、見つめている内に色が変わり、普通の金色のお月さんになって天空に登って行きました。ほんの数分のことでしたが、初めて私は、「出た出た月のお盆のような満丸い」お月様を見ました。

 あまり瞬間的だった上、あたりが暗くて写真も今一つ、家に帰ってから書いたのが下の絵です。

 皆さんも一度経験されてはいかがでしょうか。だけと今年は雨か曇りの予想で、満月が見られないかも知れませんが。

 

    

『源氏物語』プロローグ

 今まで登場した源氏物語の女性は、主だった7人に過ぎない。それも私にとって印象の強い女性だけで、まだまだ多くの女性が登場するが、とても書ききれないので、一応終結したい。その女たちもそれぞれ顔貌、個性を持っていて忘れられない。筆者紫式部の女性に対する観察力、描写力はすごい。

  今から1000年以上昔の平安中期、女紫式部一人でこの長編が創作された。当時世界中を見渡しても、『源氏物語』ほどの小説はない。主人公光源氏の出生からの女遍歴、いろんな個性ある女を登場させ、それらが織りなす小説の綾、彼女の構想力には驚嘆する。

 

 万葉の昔から日本では和歌が広がり、貴族から庶民に至るまで、自然鑑賞・人間の哀歓を七五三のリズムで歌った。その後『竹取物語』から『伊勢物語』など短編小説が主流となり、短い文章の中に素晴らしい内容を盛り込んでいる。室町期から流行した「能」も原本の謡曲は、その文章自体は短く、その中ですべての主題を取り入れて纏めている。

 それらに対し『源氏物語』は54帖に及ぶ長編である。源氏物語』こそ日本にとって最大の文学遺産で、世界中数十ヶ国に翻訳されて、日本人の宝物にもなっている。

 

 全編平安中期の宮廷の、美しい日本語の、ーみやびーある古語で綴られており、現代のわれわれにもすんなりとは読み切れないが、

口語訳を読んだだけでは、『源氏物語』の素晴らしさは何も分からない。ぜひ注釈付きの原文を読まれることを薦めたい。それには新潮社版全8巻の『源氏物語』が最高だと考える。私は数年かかって5度通読し、やっとこの小説の素晴らしさの入り口に立つことが出来た。

 

 『源氏物語』を読んだ当時の知識人は、話や筋がが突飛すぎて、嘘交じりの虚構が多すぎ、この小説は罪深いと言い立てた。平安末期

平康頼が書いた『宝物集』には、紫式部が虚言をもって『源氏物語』を書き、そのため地獄に墜ちて苦しんでいる故、供養してほしいと言ったと書いてから、鎌倉期の能『源氏供養』では光源氏と紫式部の二人の供養をする能が創作されている。、

 

 

 

 

源氏物語の女7 浮舟

 「源氏物語」の最終章「橋姫」から「夢の浮橋」の十章は、「宇治十帖」と呼ばれ、舞台は京から宇治に移り、哀愁に満ちた巻末を盛り上げている。 光源氏が52歳で薨ぜられた後、後の舞台に華々しく登場するのは二世たちである。

    光源氏と正妻の葵の上の男   夕霧

    帝と明石中宮の男         匂宮

    柏木と女三宮の男         

 

 夕霧は幼馴染で幼心で愛し合った、左大臣ーもとの頭中将ーの娘、雲居雁との結婚が、父の抵抗もあり長引いたが、やうやく結婚出来て、7人もの子供を儲けたが、嫉妬深く、ついに実家に帰ってしまい、夕霧も女の実家に通うが、冷遇される始末。だが光源氏の遺した六条院の繁栄を、主人公として支える。

 

 一方、は14歳の時に出生の秘密に苦慮する。ある時薫は、先々帝桐壺院八の宮が、京を捨てて宇治に隠棲し、仏道に専念されているのを聞き、その世話をしている宇治山の阿闍梨ーあじゃりーを介して、薫は宇治の八の宮を訪ねる。八の宮も薫に好感を抱き、二人の娘ー大君・中君ーの将来を託した後、暫くして薨去されてしまう。薫は葬儀一式を取り仕切る。

 

 薫は特に大君に惹かれて、八の宮の一周忌に結婚を申し込むが、大君は中君が良いと奨めて、自分は結婚しないと宣言。その後匂宮にこの宇治の話をして宇治に案内し、中君を引き合わせると二人は結ばれ、のち中君を京の匂宮の二条院に移らせる。

 他方大君は病が嵩じ、遂に他界してしまう。薫は大君に先立たれ、中君も匂宮のものになったことを嘆く。それを愚痴っていると、八の宮の侍女弁尼から、亡くなった北の方の妹と八の宮との間に浮舟という娘がいることを教えられる。そして薫のことを浮舟に伝える。

 ところが早くも匂宮が浮舟のことを聞き伝えて、宇治に出向き、浮舟を抱いて舟に乗り、対岸で一夜を明かす。浮舟は薫とばかり思っていたのが、匂宮だったのに驚き、薫も浮舟を責める。わが身を果敢なんだ浮船は宇治川に入水する。宇治では大騒ぎの上葬儀を行い、四十九日の法要まで行う。

 

 ところが浮舟は少し下流の岸辺に流されて来たが、這い上がって失神状態になって樹の下で体を横たえている時、横川僧都と妹の小野の尼らに助けられて、京の北山の小野に伴われ、看護の末やっと意識を取り戻すが、素性は決して表わさない。そして僧都に懇願して尼になる。

薫は浮舟が生存していたことを知る。そして僧都の仲介で薫の使者、小君が訪ねるが、話もせず薫への返事も拒否する。

 

 今と違って京から宇治への道は、今も深草という地名が遺るように草深い山越えの難所で、普通は逢坂の関を越えて、山科から宇治に出る道が普通であったが、一刻も早く宇治に着きたい薫や匂宮は、この深草の道を選んだ。

 

 薫は自から遠い宇治まで通ったが、愛した大君から拒否され、紹介された中宮も匂宮に横取りされ、さらに最後に期待した浮舟も匂宮に奪い取られて、薫は恋の敗北者となる。結局薫の優柔不断の性格が、後手後手に回ってしまったのを、薫は最後に後悔する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源氏物語の女6  女三宮

 女三宮は朱雀院の皇女。帝はこの姫の婿選びに苦慮し、最後光源氏を選び六条院に降下、輿入れとなる。その三日後安堵した帝は退位し、出家されてしまわれる。源氏40歳、女三宮は20~21歳。紫の上とは身分の差があり、女三宮は正妻の地位に就く。

 

 初夜から三日間、女三宮に通った光源氏は、雛人形のような幼さに失望する。

 

   姫君のいとうつくしげにて、若く何心なき御ありさまなり。さばかりのほどになりたる人は、いとかくはおわせぬものを。いと御衣が

   ちに、身もなく、あえかなり

  女三宮はかわいらしい様子で、あどけなく無心なご様子で、この年ごろの女は、本当にこんなに幼稚ではないのに。まるでお召し物に

  埋まって、衣の中にお身体もないかと思われるほど、ほっそりしておられる。

 

 この女三宮を恋い慕う男がいた。かの内大臣ー昔の頭中将ーの長男、柏木で、降下される前から思い続けていたが、帝の御意が得られなかった。ある蹴鞠の会が六条院で催された時、風に吹かれて女三宮の住まわれている御簾が開き、可愛がっておられた猫が外に出て来た一瞬、柏木は女三宮を垣間見る。それ以来柏木は会う機会を狙う。そして女三宮の乳母の子、小侍従を介して女三宮に会い契る。その時女三宮は懐妊してしまう。生まれたのは男の子である。

 姫宮の懐妊を不審に思った光源氏は、女三宮の部屋で柏木の手紙を発見。懐妊した子の相手を柏木と知る。光源氏は女三宮との立場を考えて表沙汰にしないが、柏木は光源氏に疑われたのを煩悶し続けて病床に臥し、遂に若死にしてしまう。

  柏木の死を聞いた女三宮は泣く。柏木との逢瀬は周辺の女どもが逢引の機会を作ったもので、女三宮はむしろ被害者であったが、光源氏の正妻としての自覚の無さ、幼稚さが、事件が起こる背景にあったと言えよう。

 

 光源氏との関係も冷え込んで行き、女三宮は出家を願う。心配した父帝が下山して来て、父帝の手で得度する。この出家も六条御息所の死霊のせいだったと言う。源氏は別居のため元の邸三条宮を整備し、女三宮を移す。この宮で女三宮は念仏三昧、仏道に専念する。

この間に光源氏は他界する。のち三条宮は出火で焼け、再び六条邸に戻り、念仏の傍ら薫の成長を見守りながら暮らす。

 宮中の奥で可愛がられて育ち、年頃になっても世間知らずで幼さが抜けやらず、波乱の生涯に生きた女宮であった。