平宗盛という男
もう40年ほど前の話だが、九州の宮崎に出張した折、お客に誘われて、二次会に西橘通の歓楽街に案内され、ばんじろ という有名なクラブに招かれた。席に出て来た一人のホステスが、あまりに美人なので吃驚。平安朝の宮廷から抜け出したたような、うりざね顔で、品があり、しぐさも優雅で、知性ある顔立ちであった。
翌年また仕事で宮崎に行き再びクラブに行ってみた。ところがその女はいなかった。結婚してホステスを止めたという。そして何と彼女は椎葉村の平家の落人の末裔だと聞かされた。なるほどなあ。鄙には珍しい美人の謂れを知った。
戦国時代、敗者の末路は悲惨である。あれ程都で繁栄を謳歌した平家も、あっけなく2年の後に、壇ノ浦で一族や平家武士たちが一斉に消えてしまった。盛者必衰と人は言うが、私はリーダーの無策が大きな原因の一だつたと思っている。
清盛の長男、重盛は、識見あり指導力もあって皆から慕われていた。彼が長生きしていたなら平家は生き永らえたであろう。だが重盛は42歳の時に早死にしてしまった。後白河上皇にも惜しまれ、人々は彼の死を悼んだ。惜しい男であった。
やがて清盛が死ぬと、その後を三男の宗盛が平家の棟梁になった。だが彼は知見や判断力、決断力に欠け、武士というよりも、殿上人ぶりの生活を好んだ。
清盛の死後、平家打倒に源義仲が都に攻め上り、比叡山を味方につけた折も、宗盛は適切な対抗の手も打たず、恩顧を受けた平家の武士も多く残存していたのに、必死の抵抗を下知することなく、安徳天皇を戴いて兵庫福原に退却してしまった。
その福原で京奪回を図るでなく、背後の警戒も怠り、その隙を源義経に攻められて陥落。早々と屋島に退き、更に屋島か゜攻めらられると、一族を従えて九州に落ちのびる。しかし壇ノ浦で全滅の憂き目にあう。
宗盛は卑怯にも生き延びたが捕らえられ、近江で馘首されている。何たる総大将のざまだ。一族の棟梁として、攻撃精神もなく、怯えて逃げ回り一族を死に至らしめ、配下の武将も山奥に落ちのびさせた。到底棟梁の器でなく、一族にとっても頼りなく、情けない男であった。このような指導者たる者の罪は深い。
『源平盛衰記』によれば、母の時子が安徳天皇を抱いて壇ノ浦に入水する時、宗盛のふがいなささを攻め、お前は私の実の子ではない。生まれたのは女の子であったが、清盛から「男の子を生め」と始終言われていたので、人を遣わし清水寺界隈で同じ時刻に生まれた男の子と交換したのがお前だ、と宗盛の出自を最後に暴露して、海に飛び込んだという。
平安時代だけの話だけではない。現在でも先見力、決断力もなく、エリートとして温室で保護され、将来の社長候補として育った者は、
株の買い取りで会社の乗っ取りを仕掛けられた時、自失呆然として対策を打ち出せず、100年にも及ぶ先輩の膨大な遺産を、やすやすと宿敵の会社に渡した例もある。歴史あり、魏術力のすぐれた電機会社を台湾の企業に持っていかれた会社もある。
また苦労を知らずに先代社長の後を継いだ二世、三世にもよくある話である。
盤根錯節に遭わずんば、何をもって利器を別たんや――『後漢書』
盤根錯節ーバンコンサクセツー曲がりくねった根や、入り組んだ節を切れなかったら、どうして利器と云えようか。今から2000年前のシナの格言である。