京の隠れ散歩道 4-嵐山千光寺への道
嵐山山の翠と、裾野を流れる清らかで水流豊かな大井川ー確かに心を休ませる絶景である。嵐山の対岸は平地で、都の貴人が遊猟し、数多くの名刹がひしめき、今も観光客はこの嵯峨野の逍遥を楽しむ。
それに反し嵐山側は、急な山が大井川になだれ込み、平地はなく、人家もほとんどなく、昔の嵐山の風光を遺している。 昔渡月橋は、今より100m上流に土橋が架っていて、橋を渡ると対岸に法輪寺の坊さんの小屋があり、橋賃を取られていた。今回はこの対岸の人通りの少ない道を上流に遡り、大悲閣千光寺を目指すことにする。
ほぼ700~800m程川に沿って歩くと、嵐山温泉の地域に入る。そこから山の中腹に向かって急登すると千光寺に着く。もと後嵯峨天皇のお寺であったのを、豪商角倉了以―すみくらりょうい 1551~1614―によりここに遷され、千手観音菩薩ー恵心僧都昨―を本尊とした。
芭蕉も参詣し、 花の山二町のぼれば大彼閣
明治の歌人会津八一も せんひかくつうらうつらにのぼりきて おかのかなたのみやこをぞみる
もと近江の武士、吉田氏は代々医者を本業としていたが、子孫の了以が戦国末期、近江から嵯峨の角倉―桓武天皇が置かれた倉庫―の地に移り住み、角倉と名を変え、金融業を営み、のち徳川家康の朱印状を得て、南蛮貿易に進出した。そのころシナの生糸を輸入すると、買値の20培で売れ、その他で5~10培と、莫大な利潤を得て富を築いた。その資金で亀岡から嵐山の大井川の岩礁を掘削して舟運を通じ、炭や米の船運の通行料で荒儲けした。
さらに京に進出して、加茂川の水を二条で取り入れ、伏見近くまで堀を造って高瀬川を造り、これまた通行料の半額を幕府に納め、残り半額でも通行料は年間100万両にものぼったという。京都新興財閥の雄となった。
子供はお金に触ると穢れるといって塩で手を洗われたという有様で、子孫は豪華な生活をしていたが、明治維新の折、膨大な屋敷は京都府によってたった4両で没収され、その他の資産は300人の退職金となり、豪商角倉は没落する。
最後の当主は堺に隠遁し、次男の宗叟は裏千家に婿入りし、十二代家元を継いだが、子供が成長した後、裏千家を去り、淀川山崎の妙喜庵に去っている。―松尾登美子『松風の家』
千光寺には了以の木造が祀られ、大井川下りの船人が、毎年船の安全を祈願して参詣している。水が良い。若し出来れば湯沸かし
セットを持って行き、山の清水でお茶を飲んだら、最高の気分が味わえる。
なお一族の墓は嵯峨野二尊院に見事な墓石が並んでいる。
亀山公園から千光寺遠望 左中腹
大悲閣千光寺
角倉了以像・千光寺
京の高瀬川



















