閑話休題 -18ページ目

 京の隠れ散歩道 4-嵐山千光寺への道

 嵐山山の翠と、裾野を流れる清らかで水流豊かな大井川ー確かに心を休ませる絶景である。嵐山の対岸は平地で、都の貴人が遊猟し、数多くの名刹がひしめき、今も観光客はこの嵯峨野の逍遥を楽しむ。

 それに反し嵐山側は、急な山が大井川になだれ込み、平地はなく、人家もほとんどなく、昔の嵐山の風光を遺している。 昔渡月橋は、今より100m上流に土橋が架っていて、橋を渡ると対岸に法輪寺の坊さんの小屋があり、橋賃を取られていた。今回はこの対岸の人通りの少ない道を上流に遡り、大悲閣千光寺を目指すことにする。

 

   ほぼ700~800m程川に沿って歩くと、嵐山温泉の地域に入る。そこから山の中腹に向かって急登すると千光寺に着く。もと後嵯峨天皇のお寺であったのを、豪商角倉了以みくらりょうい  1551~1614―によりここに遷され、千手観音菩薩ー恵心僧都昨―を本尊とした。

  芭蕉も参詣し、            花の山二町のぼれば大彼閣

  明治の歌人会津八一も       せんひかくつうらうつらにのぼりきて おかのかなたのみやこをぞみる
  

 もと近江の武士、吉田氏は代々医者を本業としていたが、子孫の了以が戦国末期、近江から嵯峨の角倉―桓武天皇が置かれた倉庫―の地に移り住み、角倉と名を変え、金融業を営み、のち徳川家康の朱印状を得て、南蛮貿易に進出した。そのころシナの生糸を輸入すると、買値の20培で売れ、その他で5~10培と、莫大な利潤を得て富を築いた。その資金で亀岡から嵐山の大井川の岩礁を掘削して舟運を通じ、炭や米の船運の通行料で荒儲けした。

 さらに京に進出して、加茂川の水を二条で取り入れ、伏見近くまで堀を造って高瀬川を造り、これまた通行料の半額を幕府に納め、残り半額でも通行料は年間100万両にものぼったという。京都新興財閥の雄となった。

 

 子供はお金に触ると穢れるといって塩で手を洗われたという有様で、子孫は豪華な生活をしていたが、明治維新の折、膨大な屋敷は京都府によってたった4両で没収され、その他の資産は300人の退職金となり、豪商角倉は没落する。

 最後の当主は堺に隠遁し、次男の宗叟は裏千家に婿入りし、十二代家元を継いだが、子供が成長した後、裏千家を去り、淀川山崎の妙喜庵に去っている。―松尾登美子『松風の家』

 千光寺には了以の木造が祀られ、大井川下りの船人が、毎年船の安全を祈願して参詣している。水が良い。若し出来れば湯沸かし

セットを持って行き、山の清水でお茶を飲んだら、最高の気分が味わえる。

 なお一族の墓は嵯峨野二尊院に見事な墓石が並んでいる。

 

   

             亀山公園から千光寺遠望 左中腹    

  

               大悲閣千光寺

   

               角倉了以像・千光寺            

 

             京の高瀬川

                          

 

 

京・北山の岩屋不動ー志明院

 気候も良くなったので、今回は遠出して北山まで足を延ばそう。一度は是非訪れたい京の秘境のお寺です。

 

 足場が遠いので、京阪出町柳からのバスで向かいます。上賀茂神社の賀茂川を遡り上流にむかう事 1時間。雲ケ畑岩屋橋が終点です。道は二つに分かれていて、右手の小川がやや広い河原の畔を流れていて、これが賀茂川の源流です。最上流にわらびの原生畑

があり、その奥を急登すると桟敷が岳に登れます。標高896m。頂上は平たくて、弁当を広げるによい所です。そういえば明治時代、京の御隠居たちが、酒肴を携えて、桟敷山にホトトギスの初音を聞きに登ったと伝えられています。

 

 一方、バス終点の道を左に30~40分登ると岩屋不動志明院に着きます。岩屋山中腹にあり、古くから修験者行場の地として有名。

 平安の昔、人々は人間の生霊・死霊が、恨みを持った人間に祟り、病気や死を招くと考えられていた。即ち物の怪-もののけーである。物の怪は目に見えない姿で、闇夜に跳躍すると考えられていたが、明治になって電燈が普及し、京の夜も明るくなったので、物の怪たちは京の北山に逃れ、さらに追い詰められてこの岩屋山に集まったという。―南禅寺派管長 中村老師ーの話。

 この岩屋山は桟敷が岳から南下した山脈が途絶え,崖となって崩れ落ちていて、湿気多く、闇夜には物の怪の動き出しそうな所である。修験者が呪文を唱えて印を結ぶと、鬼火が現れるという。―司馬遼太郎『街道を往く』 洛北諸道より。なお司馬遼太郎の処女作「梟の城」959-は、この山門下の志明院で書かれている。

 

 更にここが歌舞伎「鳴神」の舞台として有名である。陽成天皇の時、三か月も雨が降らず、それは北山の志明院の鳴神上人の仕業とされた。上人は后が皇子を生むように帝から頼まれ、成功した恩賞に、新たに僧の資格を与える戒壇を三井寺に造るよう懇請したが、果たされず、恨みに思った上人は、雷神を北山の滝壺に閉じ込めたので、京に何日も雨が降らなかった。

 そこで考えられたのが,美しい女性を上人に近づけ、色気を持って上人の呪を解き、雷神を滝から救い出すことで、雲の絶間姫を選び、

上人の許に赴かせた。喜んだ上人が壇上から滑った時、雲の絶間姫が介抱し口移しに水を飲ませると、上人が姫の乳をさわり、姫は結婚を約束する。結婚準備のため二人の弟子を都に遣った隙に、二人は酒を飲み交わすが、姫の盃に蛇の姿が映ったので聞きただすと、雷神を取り込めた滝に貼った注連縄であると打ち明けられ、上人が酔って寝ている間に、姫は滝の注連縄を切ってしまうと、雷神が解き放されて雨が激しく降り、姫は急いで山を降りる。

 こけは歌舞伎では「雷神不動北山桜」となり、団十郎の歌舞伎十八番の一つになって、人気の高い歌舞伎である。私は市川海老蔵が鳴神を博多座で演ずると聞いて博多まで見に行った。また大阪でも演ぜられたが、博多座の迫力のある見事な演技は今でも忘れられない。

 

      

        山門の 小野道風の扁額                   志明院の楼門

 

   

         飛竜の滝                       歌舞伎 鳴神の舞台

 

 

 

京の隠れ散歩道 2 鹿ヶ谷

 鹿ヶ谷と云えば『平家物語』を想い出す。

 

  東山のふもと鹿ケ谷といふ所は、うしろは三井寺につづきて、ゆかしき城郭にぞありける。これに俊寛僧都の山荘あり。成親などは

  その所に寄り合ひよりあひ、平家をほろぼすべきはかりごとをめぐらしける。ある時(後白河)法皇も御幸なる。・・・成親御前を

  ざっと起たれけるが、御前に候ひける瓶子ーヘイジ・とっくりーを狩衣の袖にかけて引き倒されければ、成親は「ヘイジ―平家ー

  すでに倒れ候ひぬ」と申されければ、法皇えつぼにいらせおはします。          『平家物語』卷一 成親大納言謀反

 

 平家打倒の謀議のはしりとなった事件で、同席した源頼政によって清盛に伝えられ、参加者の主要メンバー、法勝寺の執行俊寛僧都

平判官康頼は捕らえられ、流罪の道中に先に備中に流されていた平成経を加えて3人が、遥か鹿児島を離れて絶海の孤島・喜界が島

ー今の硫黄島というーに流罪にされてしまった。後に二人に流罪は解かれたが、俊寛だけは許さけなかった。清盛に多大の恩恵を受けながら謀反したことで、清盛の怒りが解けず、島に置き去りにされてしまった。

 俊寛の悲劇は、二人が船出する時、鞆にすがってせめて鹿児島の陸地までと叫ぶ姿は、後に能や歌舞伎に語り継がれ、俊寛の悲壮感を、伝えている。哀れを誘う名高い場面である。のちに俊寛に仕えていた有王丸が俊寛を訪ねて島に赴く。

 

 これら『平家物語』の故事を踏まえ、平安の昔を回顧して、洛東鹿ケ谷の俊寛山荘跡を訪ねる歴史探訪が良い。先の若王子神社から疎水道を北に向い、寺の前橋という所を右折して、山に入る。途中まで人家があるが、次第につ尽きて山道に入った途端、その山荘跡がある。もう今は何もない。新しく石碑が建てられているばかりである。当時ここなら誰にもはばかれず謀議も出来た僻地である。それに都との足場もよい。しかし謀議は参加者の武士から漏れてしまい、都を驚かす事件となった。

 当時参加した人々はどのような思いを抱いて、この山道を下ったのだろう。・・・・平安の昔を偲ばせながら町に降りて来た。

 

 京の隠れ散歩道 1―若王子道

  行楽の秋になりました。観光案内ではあまり紹介されていない、しっとりした京の隠れ散歩道をいくつか紹介しましょう。

 

 東山永観堂の北、疎水ー哲学の道―の始点近くにに若王子神社がある。後白河天皇の前世は熊野那智の滝に身を投じた宮籠蓮華坊という行者であったといわれ、小白河天皇は特に熊野信仰が強く、はるばる南紀の熊野大社に参詣すること32度。遂に天皇は熊野の土を京に運ばせ、この若王子神社をつくり、後に新熊野神社に遷されたと言われる。

 若王子とは、六根清浄、懺悔懺悔を唱えながら熊野に詣でると、人は生き返って再生すると信じられ、これが若王子に象徴されて、熊野に詣でて生まれ変わって京への帰り道、和歌山の藤白神社まで、九十九王子が祀られている。その若王子を勧請して京に祀ったもので、永観堂の鎮守といわれている。桜の花時、疎水道は見事な桜並木が続き、人々が溢れるが、一足奥に入った若王子神社の桜の園は、弁当を開いて花見しながら一献を愛でるのに、静かな格好の場所で、古書に「今に遊客多し、水石幽趣掬スすべし」とある。

 

 この神社から緑の滴る東山の山道を20~30分登ると、同志社の創設者新島襄の墓がある。横には会津藩士で、鳥羽の戦いで盲目となったが、有能な見識を買われて明治新政府に登用され、第二代目京都府槙村正直知事の顧問として、明治初年の京都の改革に尽力し、新島襄と二人で同志社英学校の創設した山本覚馬の墓と、隣には覚馬の一人娘久恵の墓がひっそりと並んでいる。この三人については、徳富蘆花の小説、「青い目と茶色の目」に詳しく書かれている。ー2018.06.26京都雑記 京の文学1 黒い目と茶色の目ー参照

 

 さらに東山を登ると分かれ道があり、右手の山道を辿ると下りになり、南禅寺の背後を巡り、南禅寺のレンガの疎水の南の道に降りて来る。誰も通らない京散歩の隠れ道である。

 

 

 

     

 

 

 

 『徒然草』の女性観

 1700年前、即ち13世紀の後半、吉田兼好の随筆、『徒然草』 は、全編彼が生きた時代の仏教的無常観に貫かれている。その一文に、次らような彼の女性観が書かれている。

 

  女の性は皆ひがめり。人我の相深く、貪華甚だしく、物の理-ことわりーを知らず、たヾ迷いの方に心も速く移り、詞ーことばー

  巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時に言わず、用意あるかと見れば、またあさましき事まで間はず語りに言い出す。すなほならずし

  て-つたーなきものは、女なり。もし賢女あらばねそれもものうとく、すさまじかりなん。            百七段

 

  女は皆ひがみ根性で、貪欲で、物のことわりも知らず、ただ迷い心あって口軽く、言わでもよいことにまで口にする。素直な心も持た

  ず、中に賢女という者がいても、その女は男にとってはものうく、すさまじき女に見える。と書き、最後の結論として、

  

  妻と言ふものこそ男の持つまじきものなれ。「いつも一人住みにて」など聞くこそ、心にくけれ。如何なる女なりとも、明暮添ひ見ん

  には、いと心づきなく、憎かりなむ。                                             百九十談

 

 結論としては、男は妻という者をもつものではない。妻が無くて独り暮らしだと聞くと奥ゆかしく感じられる。どんな女であっても、朝晩一緒に暮らしていると、ひどく気にくわなくなったり、嫌になることもある。

 

  熱心なキリスト教徒や仏教徒にも、生涯独身の信仰生活をする者があり、西洋の文学者にもこういう者がいたが、もし人間が皆独身

主義で生活を続ければ、子孫は生まれず、人類は破滅する。更に人間が生まれてくるのは母胎からであるという事を、彼らは認識しているのだろうか。 ただ吉田兼好の指摘する、女の性ーさがーについては、女たちは思慮すべきであろう。

 

 

 

 

 

土瓶蒸し―日本の秋の味覚

 久しぶりに国産の松茸が手に入ったので、待ちかねていた土瓶蒸しを造った。

 材料は、鶏肉・はも・えび・銀杏・松茸で、汁は白醤油だけである。そこにスダチを用意する。

 

 小さな土瓶蒸しの土器に、これらの材料を入れて煮立てるだけである。汁にはすべての中身の旨味のエッセンスが詰まっている。その熱々の汁にスダチを絞りって飲むと、日本のまたとない秋の味がする。だから土瓶蒸しは、絞ったスダチを加えて暑い汁を飲むのを第一義とする。中身は出し殻に過ぎない。だから汁を飲み終わった後、ゆっくり味わうのが理に適う。

 

 土瓶蒸しは本当に美味しい。爽やかな日本の秋の味が詰まっている。日本人は季節の旬のものをこのように味あうのだ。日本に生まれてよかったなあ。

 

 

 

 

 

 

 

大阪と東京―山崎豊子

 山崎豊子の小説に『暖簾』がある。戦前体一つで淡路島から大阪に出て来て、昆布屋に丁稚奉公。のち暖簾分けで独立したが、三人の男の子を兵隊にとられ、しかも大阪空襲で家や在庫の昆布も焼け出された。Oからの出発。戦後引き上げて来た次男が、昆布の担ぎ屋から懸命に働いて、老舗の昆布屋を復活して成功する物語である。

 この小説の最後の「あとがき」に、山崎豊子は次のような話を書いている。

 

  一年に何回となく東京大阪を往復しているにもかかわらず、私の皮膚呼吸は、この二つの都市で急に奇妙な変化を見せます、東京で

  二、三日も過ごすと、私の手の甲や顔の皮膚の毛穴がチカチカして毛穴がふさがってくるような気がします。予定を変更し、飛びたつ

  ように汽車に乗り、吹田近くになって大阪の夜の灯が小さく見え始めると、急に全身の家穴が開き、快い満足感を覚えます。十年来、

  少しもこの現象は変わりません。最近のようにやや頻繁に往来するようになっても。

 

 いや全く同感である。私も現職時代何回か上司から東京勤務を打診されても断り続けて来た。大阪育ちの僕には東京は肌が合わないのだ。東京には昭和28年に行ったが、その頃井之頭公園や周囲の武蔵野はすばらしかった。その後東京への経済の集中化により、誰も彼も東京に向かった。武蔵野は壊されて住宅となり、田舎から出て来た人間によって風土も気性もカサカサになって行った。「東京砂漠」といわれる所以である。

 

  「繁劇なる近世的都市の騒音と、灯火とが、東京の哀調を滅ぼしてしまったのである。  永井荷風『日和下駄』より

 

 あの新宿、渋谷の人混み、何処から湧いてくるのか人、人、人。それに加えて東京に住む連中は、実力以上に威張り過ぎて、謙虚さが無い。大阪人とは肌が合わないのだ。

  私がある本を出版した時、祝賀パーティにわざわざ東京から駆けつけてくれた、上場会社の副社長が、「若い頃初めてこの人に会った時、わしは東京の人間は嫌いや!」と、挨拶の冒頭に言われた。そんなこともあったのかと苦笑した。

 風土の違いと言ってしまえばそれまでだが、例えば大阪から博多と東京は東西に離れているが、博多のしっとりさは東京にはない。大阪に接する神戸・京都・奈良・和歌山でも、それぞれ人間の中身も違う。日本人の地域で育つ人間の精神の中身に、こんな狭い日本で、なぜ接して遠くない地なのに、なぜ人間の味付けが変わってくるのだろうか。不思議と云えば不思議だ。

 

 

 有吉佐和子―「大徳寺で考えたこと」

 これは有吉佐和子の随筆の一つ。彼女の本質に迫る物の見方に驚き、私は共感した。冒頭に書かれているのは、

 

  大徳寺の総門をくぐると、右側に朱塗りの色もあざやかな、三門が聳えて見える。・・このあざやかまでに けんらんとした豪華

    さどうだろう。その純粋さを固持して来た禅の清冽な姿とは、まるで違う。勅使門でさえ、三門の前ではいかにも簡潔に、もの

    さびて見えるではないか。禅と茶との結びつきを、あざ笑っているような、このきらびやかな三門、茶聖と言われる千利休

    かかわっている。

 

 「わび」を求める茶道の本山の大徳寺に、朱色の三門はどう考えても似合わない。私も予ておかしく思っていたところである。全国の禅寺を見ても、このような朱塗りの三門はどこにも無い。利休が膨大な資金を出し、しかもその楼上に自分の木造を造ったのである。その下を勅使や戦国大名が通るのに、利休像の下をくぐらせるとは何事かと秀吉が怒り、像を引き出して一条戻り橋に張り付けにして首をはねたといわれている。

 

 この三門は今では利休三家で茶の修行をし、茶指南の免許を得た者だけが、その際に登ることが許されるという。私はつてを求めてこの三門に登ったことがある。狭い入り組んだ急な階段を登ると、約20畳位の広い板敷の部屋になっていて、諸仏が配され、復元された利休の像を見ることが出来た。傲岸な顔つきである。

 

 利休は永年仕えた秀吉から、切腹を命じられている。奈良出身の村田球光が侘茶を始め、その茶の作法、わび的な茶器の選定、茶室の構造など、茶道の作法を利休がt考案し、信長、秀吉の茶頭として仕え、日本の茶道を確立した功績は認められる。

 

 だが利休には本質的に堺商人としてのあくどさが目立ち、傲岸で唯我独尊の姿勢など、石田三成などに嫌われ、秀吉に告げ口される。

 南蛮の安物の壺を茶壺にして高価に売ったり、朝鮮の安物の日常茶碗を茶碗として高価に売りつけたり、ダダの竹を削って花入れや茶杓にして高い値段で売りつけてたり、楽茶碗を独占して法外な富を造った。

 

 それに鳥羽から大坂に通う淀川の川船が、途中休憩に立ち寄る枚方の鍵屋は、床下に船着き場があり、上に登る階段に狭いくぐり戸がある。利休はそこからヒントを得て、天王山の戦いに明智光秀に勝利した秀吉のために、初めて2畳台目の草庵風の茶室を造り、客は狭い躙り口-にじりぐちーから入る構造の茶室待庵て秀吉をもてなした。鍵屋のくぐり戸からのヒントを得た躙り口が、その後の茶室の原型となった。客は腰をかがめて入室させ、主人は立って茶室に入る。武士よりも茶道を別格にした利休の傲岸さが見える。それらの傲慢さが秀吉に鼻もちにならなくなった時、利休は切腹を命ぜられるのである。

 

 大徳寺に行かれる時、禅寺に不調和なこの三門を見て、利休の生涯に思いを馳せられると、歴史が面白くなる。

 

      

                  大徳寺三門                      楼上の利休木造像(復元)

 

 

 

           待庵・国宝                   にじり口―茶室への入り口

 

                   

             待庵二畳台目

 

 

 

 

 

 

『紀ノ川』――有吉佐和子

 久しぶりに『紀ノ川』を読んで、有吉佐和子の見事な、格調高い小説に感服した。私の大好きな作家である。

主人公〈〉は、母親に先立たれたが,幕末生れの祖母豊乃に温かく育てられ、和歌山高女卒業後も、お茶、ぉ華などの嫁入り支度を済ました。特に結婚の意義と女の役目の一つは、子を産み、嫁ぎ先の家系を保つことだと、言い続けた。

 

 祖母の紀本家は、吉野川が紀ノ川と名を変える、九度山―くどやま―村の素封家で、花の縁談は各地から持ち込まれたが、その中から花は、紀ノ川最下流の、和歌山市対岸の六十谷ーむそたーの真谷家の跡取りで、村長もしている真谷敬策を婿に選んだ。

 花の嫁入りは豪勢で、紀ノ川を舟五艘―①の舟には仲人夫婦に祝い品、②の舟には総塗の籠に花嫁の花が乗り、③④の舟には紀本家の親類一族,、➄の舟には紀本家の男衆と女衆、が乗り、多くの里人に見送られて岸を離れた。

 それより先に、嫁入りの荷は九吊が堤伝いに真谷家に運ばれ、当日の川船は六十谷手前の笠田ーかせだーの渡し場に着き、笠田の本家で一休みした後、花嫁御寮は籠に乗って午後三時ごろ岩出村に着き、夜大勢のが提灯行列となり、芽でた芽出たの 若松様よ、枝も栄える葉も繁る―の祝い歌が繰り返される中、真谷本家に着いた。後は盛大な式と宴となった。

 

  真谷敬策は村長から県会議員になり、県会議長を終えて代議士に選ばれ、和歌山の名士になって出世する。二人の間に男2人、女3人の子供を生み、花は名家の嫁として、見事な采配を見せるが、長男はひ弱く、長女は勝気の封建女に反逆する気象の持ち主、しかも主人敬策は心臓発作で66歳で突然亡くなる。加えて真谷家は、敗戦後の財産税・農地解放などで急速に財力を減らし、和歌山の広大な邸宅も手放し、六十谷に帰って、最後ひっそりと息を引き取った。

 明治の生まれで、激動の時代を常時不在の夫に代わって真谷家の大黒柱を見事に支え、しかも口数も少なく、上流の御寮さんの風格を損なわず、品格ある生き方を貫いた。こんな明治女に私は惹かれる。

 

 小説『紀ノ川』は、冒頭故郷九度山の慈尊院に、祖母と一緒にお詣りするところから始まる。高野山の末寺で、四国から空海を訪ねて来られた母公が、女人禁制のために、山に登れず、この寺で空海の孝養を受けて他界されたと言われ、女人高野と呼ばれている。慈尊とは弥勒菩薩の別名で、寺の一隅にお堂があり秘仏弥勒菩薩像が祀られており、また安産とお乳の出るように、沢山の布の乳房が奉納されている。お堂は21年毎の屋根吹替の時一般に公開される。私も平成5年善男善女に押さて拝んだが、素晴らしいみ仏であった。

 

     

                 慈尊院                           弥勒菩薩像

 

 賢治の童話―虔十公園

 虔十はけんじゅうと読みます。難しい名前ですね。彼は東北の田舎に育った子供です。

 虔十はいつも縄の帯を締め、いつもわらって森の中や、畠の間をゆっくりと歩いています。雨の中の青い藪を見ては喜んで目をパチパチさせ、青空をどこまでも飛んで行く鷹をみては、跳ね上がって手を叩いて皆に知らせるのです。その様子を子供たちが笑いました  けれどお母さんに言いつけられると、水を五百杯も汲んだり、一日中畑の草取りをしたりしました。自分の家の周りの森や木々や草原、その緑の中で育った、働くことを喜ぶ自然児だったのです。

 家の後ろには運動場位の野原がありました。ある日虔十はいきなり「お母、おらさ杉苗七百本買ってけろ。家の後ろに植えるんだ」と頼みました。 突然なので母は断りましたが、おとうさんは「買ってやれ、買ってやれ、虔十あいままでなにひとつだってたのんだことがあないがっちもの。買ってやれ」。と言いました。虔十は喜んで納屋から唐鍬を持ち出して、原っぱに等間隔に杉の苗を植える穴を掘り始めました。そして明くる日、兄の平二が杉苗を買って来てくれたので、虔十はそれを全部自分で植えました。 

  ある日、杉の林の前に立っていると、通りかかった百姓から下枝の枝打ちのことを教えられると、家に帰って山刀ーなたーを取り出し、杉の下枝を刈り払いました。落ちた下枝は家に持って帰ってタキギにしました。

 

 ところが次の日、虔十が納屋で虫食い豆を拾っていたら、あっちこっちで号令をかける声、ラッパの真似声や、足踏みの音がするので、

杉林に行きますと、驚いたことに学校帰りの子供が五十人ほど集まって、一列になり、歩調を揃えて、その杉並木の間を行進しているではありませんか。杉の列は並木道のようになっていたからです。その並木道は「東京街道」「ロシア街道」「西洋街道」などと呼ばれていました。ところがその秋、かわいそうに虔十はチブスにかかり、死んでしまったのです。

 

 次の年村に鉄道が通り、停車場や製糸場工場が出来て人口も増え、空き地には家が立ち、村が町に変わり、この杉並木の隣に小学校も立ちました。この杉畑も何人も売れ売れと言ってきましたが、父は「虔十のただ一つの形見だ」といって手放しませんでした。

 それから何年か過ぎた後、この杉林で遊んだ子たちも皆立派に成長し、その一人が見に来て、この杉林を借りうけて公園にしようと募金を始めましたら、多くの寄付が集まり、それを受け取った虔十の遺族たちは大喜びでした。そして杉林には「虔十公園林」と名付けられた碑が立てられ、今も多くの子供たちが学校の運動場のように、元気よく兵隊ごっこなどして遊んでいます。

 ここで遊んで大人になったある人は 「ああ全くだれがかしこく,だれが賢くないか、わかりませんね」、と言いました。学校にも出なかったような少年、皆に笑われていた虔十は、死んでも名を遺したのですから。

 

 このな広い杉林の公園が、都会の街の中にあったら楽しいでしょうね。大人も心を癒されるし、子供は走り回って自然に触れて成長するし、大人になってもその公園のことは忘れないでしょう。杉の並木で覆われる森とは下の柄のようなものでしょうか。