閑話休題 -17ページ目

 江口の君

 大阪の人でも江口がどこにあるか、知らない人が多いと思います。東成区東北、大阪市の隅っこです。

 下の地図は中世の淀川筋を描いたものですが、淀川下流で一部が分水して北に流れ、茨木の安威川と合流して、西に流れて三国川、一名神崎川となりますが、その淀川の分岐点に江口があります。大昔4世紀ごろ応神天皇が大隅宮のおかれた場所で、今も大隅神社と近くに江口君堂があります。ここが中世淀川筋で一番賑わった遊女の里で、そのボスが江口の君と言われます。

 

 遊女または売女の発生は紀元前ギリシャ神殿にたむろする巫女から始まったと言われています。シナでも始皇帝は遊女の腹から生まれたと言われ、日本では元京大教授滝川政次郎氏は、朝鮮の済州島の漂泊民、白丁族が日本に渡って来てからだと言われます。海上交通が頻繁となる中世には、瀬戸内の港町、下津井港や室の津、神崎、そして淀川に入り江口が一番栄えました。

 京都から住吉神社詣りや、のちには熊野詣の貴紳たちも、伏見から船に乗り、大阪の渡辺で下船しますが、途中の江口は歓楽地として栄え、また遊女は小舟に乗って、淀川を行き来する船に近づき、客を招きました。その小舟が多数浮かんでいる絵も残っています。要は日本においては、港町が他国人を受け入れる関係で、遊女町が各地に栄え、のちには京都祇園や伊勢参りの精進落としに、古市遊郭が江戸時代一番賑わっています。ただ日本では単に売春に止まらず、吉野大夫などの文化人、また芸能を伴う独特の文化を遺しています。日本舞踊がその代表で京都祇園の都踊りも、元は伊勢古市の踊りが基になっています。

  江口にはかの西行が一夜の宿を頼むが、江口の君に断られ、互いに歌を詠み交わし、のち江口の君は普賢菩薩となって現れるという

お能がある。また江口の遊女に生ませた貴人たちの子供も沢山いる。今は昔の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 蘆刈の男

 長らく京都の話が続いたので、大阪から二つ。

 

 摂津国の難波にある夫婦が住んでいた。もともと身分は低くなかったが、だんだん家が逼塞し、暮らしも大変になったので、雇っていた下男下女も暇を出し、二人は細々と暮らしていた。それでも先行きの見えない暮らし向きなので、ついに女は「私が京に出て、宮仕えして稼ぎます」と、男に分かれて京に旅立った。そしてある貴族の家に雇われた。しかし別れた津の国の男が忘れられず、

   ひとりしていかにせましとわびつれば そよとも前の萩ぞこたふる

と男を想い出し、便りも出したが男の行方が分からず、女は日々嘆き気にかけていた。

 

 その中、貴族の北の方が身まかり、女は貴族に見込まれて正妻の座に就いた。しかし難波の男が気になって、難波にお祓いの有名な所があるので出かけたいと、夫が同行しようというのも断って、難波に出掛けた。勿論難波の男の所在と安否を尋ねる為であった。

 難波に着き、従者に車を引かせて日長探すが見つからなかったが、夕べの頃に車の前を、刈り取った蘆を担いで通る男を見つけ、よく見ると汚い顔をしていたがわが男に似たりと、従者をして葦を買い取らせ、食べ物を与え、いろんな物も与えたりしたが、男は不思議に思い車の中をのぞくと、別れた妻が乗っていた。男は驚いて自分のみすぼらしい姿に恥じ逃げ去った。従者に後を追わせると、さる家の竈門の後ろに隠れていた。そして

   君なくてあしかりけりとおもふにも いとど難波の浦は住むみうき

と歌ったので、女は着ていた衣を脱いで包み、文に歌を書いて送った。

   あしからじとてこそ人のわからめ なにか難波の浦もむすみうき

 

  これは架空の物語ではなく、実際あった夫婦の話を、口伝えに広がり、今から1000年以上前の『大和物語』に書かれたものである。

何とも二人の男女の生きざま、現在でもよくある話である。

 

 京都の奥秘境ー葛川明王院

 この寺の紅葉は素晴らしいと聞いていたが、足場が遠く未だに果たしていない。白洲正子氏が名著『かくれ里」の一つに詳しく書かれておられるが、比良武奈ヶ岳の東南の山深い渓谷で、歴史も深い。京都からより琵琶湖の堅田からの方が足の便が良さそうだ。

 

 この明王院は貞観元年-859-比叡山無動寺の相応和尚が、ここの滝壺の流木を仏と観じ、飛び込んで不動明王を感得され、この木で明王を刻んで、不動明王を本尊にされたと伝える。従って今でも修験道の聖地でもあり、比叡山の千日回行の修験者は、三年間の千日修行の最後の寺として、明王院で絶食修行を終えて「生き佛」になられる。その日は各所からこの生き仏を拝みに人々が群集する。

 

 私はこの寺に関心を持ったのは、室町時代の足利義昭の正妻日野富子が、吉田神社の神官で、わが息子義尚の国学の師、かつ神典・国書・儒佛・老荘・易学に通じ、神祇官大副である、従二位吉田兼倶を伴い、二人で葛川明王院に籠ったというのである。世間から富子の愛人ともいわれたが、息子の義尚を呼び寄せたが、彼は二人の不倫を嫌って出かけなかったという。

 この逢引の後、富子から大金10万疋の寄進を受けて、兼倶は吉田神社の奥に、八百万の神々祀った大元宮を造営し、天照大神が降臨されたと宣伝したから、伊勢神宮が反対し喧嘩となった。それでも兼倶は室町幕府から神祇管領の特権を得て、全国神社の神位、神号の授与圏、神官を補任する権限を与えられ、明治維新まで吉田家が独占した。中世の大策士の一人である。

 京都大学のある東一条通のバス停から東の山に向かうと吉田神社があり、その奥の神楽岡に凡そ神社建築らしからぬ六角形の神殿がある。これが大元宮である。後は吉田山に続き、頂上には旧三高生徒が逍遥した寮歌「紅もゆる」の碑がある。

 

  なお水上勉の力作「雁の寺」「雁の森」「雁の死」の最後の場面、主人公の僧の慈念が、自分は父と流れ者の女乞食お菊との間に生まれた私生児で、父の妻、おかんに育てられたことを人から聞き、父がこの坊村の寺の五重塔の建築に携わっていることを知り、比良の山奥に父に会いに行く。そして父が借家している小屋を訪ねて、実母の菊が身籠っている姿を見た後寺に戻り、建築中の五重塔に登り、父の角蔵に「おつとう、おっかはお菊やろ」と問い質すと、「お前の母はおかんや」という言葉を聞いた途端、慈念は釘止めしていない瓦から滑って、コウモリのように空中に飛んで奈落の底の観音池に落ちて行った。死体は遂に見つからなかった。

 比良の坊村には明王院しかない。また五重塔もない。水上勉はここを慈念の最後の場所に選んだフィクションである。

 

   

                            明王院                

  

              三宝橋の紅葉

     

                    京吉田神社の     大元宮

 

  

 「紅燃ゆる」吉田山三校寮歌碑で歌う旧制三高OB

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都南座顔見世

 今年も吉例の年末顔見世が、東西役者を揃えて京都南座で始まっている。若い頃は京都まで足を運んだが、もうこの歳では行けない。

 演目の中でも相変わず上方歌舞伎の『恋飛脚大和往来』が、人気番組としてかかっている。

 近松門左衛門が、江戸後期大坂の新町の廓で、実際起こった事件を浄瑠璃にしたのを演じたものだが、第一幕は「封印切の場」第二幕は『大和新口村」である。

 大和新口村の百姓孫右衛門のひとり子忠兵衛は、継母との折り合い悪く、大坂淡路町の現金飛脚問屋亀屋に養子にやられたが、年頃になり新町の遊女梅川と馴染みになり、阿波の金持ちと張り合い、店の公金三百両を持ち出し、梅川見受けのために投げ出す場面が封印切りの場で、梅川がその金が公金と知り、せめて三日なりとも女房と呼んでもらってから殺してくれと頼む。そして二人は大和に向い、三輪で有金を使い果たし、最後親に一目会いたくて新口村にやってくる。

 

 時は冬の最中、道に出て来た父の孫右衛門が鼻緒を気ってよろける。それを見た梅川が隠れていた小屋から飛び出し、鼻緒を変えようとする。そして梅川は忠兵衛に一目会ってくれと頼む。見知らぬこの女を梅川と察した父は、「息子に一目会いたいが、会えば養子先に義理が立たぬ。目隠しして手をさわって今生の別れとする。」というので、梅川は手拭いで孫右衛門を目隠しをし、忠兵衛は父の手を触って最後の別れをする。その時捕り手の太鼓が鳴り響き、父に送られて二人は雪道の奥に逃げてゆく。孫右衛門は「足元に気をつけよ」と叫び、梅川は雪の中跪いて両手で拝み、忠兵衛はほっかむりをしたまますごすごと立ち去って行く。

 

 この雪中の最後の別れの場面は観客の同情と感動を呼ぶ。私は先代の片岡仁左衛門の孫右衛門が、立ち去る二人に背伸びして、あの鼻に詰まった独特の声で、「足元に気をつけよ」と叫ぶ場面が印象強く、今も私の脳裏にこびりついている。

 それに私は歌舞伎鑑賞の節は、家にある『歌舞伎全集」の中の出題曲目を拡大コピーして持参する。浄瑠璃や台詞が分かりにくい時に便利である。その中で新口村の場で梅川を演じる坂田藤十郎(元の雁治郎)の台詞は一句の間違いもなく、台本通り暗記されていたのには驚いた。

 

 忠兵衛は捕らえられて大坂道頓堀刑場で死刑、梅川は許されてその後尼になって忠兵衛を弔ったとも、再び廓に出たともいわれている。よくある廓事件だが、忠兵衛は近松門左衛門のお陰でその名を今日まで語り継がれている。

 彼の墓は道頓堀再開発で行方知らずだが、彼の供養塔は近鉄八木から京都に向かう途中新口駅の東西に遺されている。駅の西側の善福寺と、東側の安楽寺にある。

 

     

          善福寺の供養塔                安楽寺の供養塔

     新口村の最後の場面

 

 

 

 

 

 京郊外の散歩道―勝龍寺城

 余り聞かないお城ですが、小さくても由緒あるいいお城です。

 JR東海道線の京都手前、長岡京駅で降りて、南に600m行くと、勝龍寺城に出会える。こじんまりした城であるが、由緒あるお城である。

西国街道を制する拠点として、南北朝時代から砦が築かれ、信長暗殺の後の弔い合戦に、秀吉が中国から上洛した時、明智光秀がこの城に拠り、山崎合戦に備えたが、敗れて近江に逃げ帰る途中殺されている。

 

  話が変わって室町幕府の最後、12代足利義晴は、四国の三好長慶に京を追われ、山越えして近江の朽木村に逃げた。その時侍女に、清原宣賢の女を連れていて、彼女は身籠っていたが、後奈良天皇の口添で、新たに近衛尚道の女を迎えることになり、この孕み女を家臣の三淵晴員の後妻に払い下げた。

 生まれたのは男子で万吉と名付けられたが、6歳の時細川元常の養子にされて、細川藤孝と名乗り、この竜勝寺城を居城とした。後成人して13代足利義輝が松永久秀に殺された直後、忠興は興福寺一乗院の門跡となっていた足利義昭と共に伊賀に逃れ、のち織田信長の支援で15代足利幕府の最後の将軍に擁立した。

 ところが義昭は信長と意見が合わず、信長と対立する。諫めた忠興も遠ざけ、最後義昭は敗れ、足利幕府は終焉するが、忠興は信長に見いだされて、丹後の宮津城主となる。

 その間忠興は家臣の娘を迎え細川忠興を生み、その忠興が明智光秀の娘、玉と竜勝城で婚儀を挙げ、細川中利を生んでいる。お玉はかの有名なガラシャ夫人である。

 明智光秀が信長を焼き討ちした後、光秀は娘の縁戚の細川藤孝の支援を期待したが、藤孝ぱ応ぜず秀吉側に立ち、のち秀吉の死の後の関ケ原の戦いにも、細川中利は秀吉側を見捨て徳川方に着いた。主君への忠節も投げ捨て、時勢を読むことに才たけていた血族で、その功によって中利は加藤清正の築いた熊本城主になった。後の総理の細川護煕はその末裔。

 

 街中にひっそり佇むお城であるが、中世の動乱期に其れなりの働きをし、それも今も形として残っているのも嬉しい。周辺にこれという

観光名所もないが、込み合った京都市中とは違った、静かな歴史散歩を味わえる京都近郊のお城である。秋晴れの一日、たまにはゆっくりこのような散策を楽しまれてはいかがですか。

 

 

             龍勝寺城

                      

     南禅寺細川藤孝の墓所                            ガラシャ像・大阪玉造

 

 

 

 

 

 

私の山の俳句

 私の遠いご先祖に俳句に秀でた女俳人がいたが、その末孫の私は、芭蕉・蕪村は別格だが、正岡子規に始まる近代俳句には、奇をてらう表現が多く、俳句からは遠ざかっていた。それが退職後に月々近畿の山に登る会「月山会」を作ってから、一つそれぞれの山でお互い一句を遺そうではないかという事になって、つられて私も作ることになった。

 今その句を見ると、登った山の記憶がよみがえり、作っておいてよかったなあと喜んでいる。その中の十句。

 

  棘棘-とげとげへーに手拭い取られて三谷越え             京北山の皆子山から大原に降りる三谷峠にて

  渓道にヒルも出迎え霊仙山                       鈴鹿の霊仙山の丹生川谷筋にて

  竜門山紀伊の名残の暑さかな                     和歌山の竜門山に登る 残暑厳し

  雲晴れて宮津の海や冬の虹                      師走近く丹後由良ケ岳に登る

  枯れ梢愛宕の山は下紅葉                         師走京の愛宕山に登る

    ひた登り海見て嬉し青葉山                       若狭富士の青葉山に登る

  草に寝て赤とんぼ追う蓬莱山                     初秋比良の蓬莱山に登る

  道ふさぐ黄ーもみじーくぐりて鯖街道                 滋賀の百里ケ岳に登る。全山紅葉なり

  時は今山つつじ萌ゆ白髪山                      新緑の白髪山に登る

  滝坂の紅葉散り舞う坂の道                      奈良柳生街道の滝坂道にて

  

 

 京の狼

 えっ。京に狼が出たというのは本当!。

 京都の北山から日本海までは山々に覆われた広大な山地である。昔は当然狼が生息し、猪・鹿・兎などの動物の頂点に君臨していたであろう。平岩米吉氏の研究によると、次のように狼が京に現れたと記録されている。

 

  延暦21年7月12日   狼が朱雀大路を走って殺される

  弘仁2年8月16日    狼が造兵司に入って殺される。

  天長3年12月       白狼が朝廷に入り、天瑞として喜ばれる。

  仁安元年8月3日     豊受宮に狼が入り、童子を食う。頭の骨と両脚だけ残る。

  斉衡2年9月7日     京に狼が入り、人を食い殺す。

  元慶5年12月8日    狼、太政官曹司庁に入り遠吠する。

  仁和2年9月17日    賀茂神社に狼、人を噛み殺し、刀で殺される。

  天徳元年9月25日    学館院北町で、狼三人の女を噛み殺した。

  安和元年3月26日    狼、東宮坊西門より入る。

  長徳4年6月2日      狼が鹿を追って中院に入った。

  寛仁2年4月23日    狼が宮中で死んでいた。

  長元7年10月       賀茂社で狼が鹿を食う。

  

 平安遷都が794年、その8年後の802年から、平安中期の1034年までの230年間、12件の狼の記録が残っている。出現の時期は食糧難の真冬よりも、春先から夏に多い。都見物にでも山から下りて来たのだろうか。昔々の物語である

 

 お陰詣り

 お陰詣りという言葉、知ってますか。

 今年も終わったことですが、北欧の真似をしたハローウィン、仮装をして夜の繁華街で騒ぎ立てる。なぜそんな真似までしなければならないのか、考えの貧困性に情けなくなる。もっと日本人らしく、例えば阿波踊りのように、明るく、統一された様式美の踊りがあるのに。とくに江戸末期に爆発的に流行したお陰詣りは、もっとも日本的で、伊勢神宮のお詣りを理由に、堂々と集団で騒いで旅をした。

 

 江戸時代、全国に降ってわいたようなお陰詣り。伊勢神宮のお札が天から降ったというので、人々は熱狂して踊り抜く。それには江戸後期の士農工商の身分制度、長男優先の家族制度、丁稚・女中の奉公制度―すべてに抑圧された封建社会にとって、アマテラス大神のお札が天から降ったとして、社会から抑圧された人々を一時解放し、人々は群集となって道中踊りながら伊勢参りを楽しむ。「抜けがけ」と称して、丁稚や女中が主人の許可を得ずして、店を飛び出しても許され、道中の家々も彼らを歓待した。それも全国から数百人の大衆が伊勢に殺到したと言われている。大変な社会的現象で、ハローウィンとは比較にならないね日本的な風景である。

 

 記録によれば  慶長3年   1650

                     宝永2年   1705

                         明和8年    1771

                         文政13年  1830

                        :慶応3年   1867

 と、江戸後期になってから、50年ごとに、波状的に起こっている。この間参加した人々は解放感に包まれて生涯の息抜きをしたであろう。

この方がハローウィンより明るい。北欧と日本の風土の違いだろう。

 

 これに参加した大坂の女風俗が記録されている。

    女五十人余り、めいめい柄杓一本づつ持ち、お歯黒おとして白歯となり、皆一様の支度にて、

         からすねへ白の脚絆をはき、衣装は男模様の大島紬を着て、ビロウドの男帯裾高々と引き揚

         げ、緋縮緬の褌をしめ、髪は男まげに結び、さらに手拭いほほむり、笠にお陰と書き、

         めいめいの旗を立て、お陰詣りと書く。また道中歌囃子に「お陰でさ するリとさ 抜けたとさ」

         という囃子にて、やっさもっさのお陰は、実に男のする業なり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京の紅葉の散歩道

 いよいよ紅葉のシーズンに入りました。京には数えきれないほど紅葉の名所がある。

 今から100万年以前の地質時代、京都盆地は山城湖という池沼で、その後何万年となく周囲の山から土砂が流れ込み、今の京都盆地が出来上がった。それでも山からの伏流水は続いて盆地の下に沈み込み、京都盆地の下に大きな地下池が出来ているという。京の冬の底冷えや、夏の蒸し暑さなどは、この地下池の影響だという学者もいる。

 それに北山・東山・嵐山の山麓は、朝夕寒暖の差が大きく、紅葉の広葉樹がひときわ綺麗に色づく恵まれた環境にあった。今でも京都の紅葉の名所は、この辺りに集中している。

 

   紅葉の錦を着て帰る 嵐の山の秋の暮れ   『太平記』

 

 ところが京の紅葉の名所は、季節には観光客が集まり過ぎる。そこで私は人混みのやや少ない所を選び、嵐電の車折くるまざきで下車して、車折神社から鹿王院を経て、嵐山まで紅葉道の散策をすることにした。

 

 車折の駅を降りると、すぐに鳥居があり車折神社の境内に入る。嵯峨天皇が嵯峨野行幸の折、ここで車輪が折れたので名付けられたという。そこに平安後期の儒学者清原頼業を祀るこの神社が出来た。清少納言もこの一族、境内に墓もある.また天岩戸の前で、アマテラス大神を天の岩戸から出すために踊ったというアメノウズメノ命も祀られていて、芸能神社として芸能人の信仰を集め、社殿を取り巻く朱の垣根は全国の芸能人の寄進によったものだという。境内の紅葉が素晴らしい。

 

 境内を出て町屋の道を西に向かうと鹿王院に着く。室町幕府3代目の足利義満が、金閣寺を造るずっと昔、24歳の時に、自らの延命を祈って造営した禅寺という。山門の扁額は義満の手になり格調のある書体である。庭は嵐山を借景に、室町時代の石組みの庭で、池や石庭は無く、庭の右手には源実朝が寄進した舎利塔がある。観光客も少なく、落ち着いた安らぎを覚える素晴らしい禅寺である。

ここから歩いて渡月橋はすぐ近くである。途端に観光客の騒音に包まれる。

 

   

                   車折神社の紅葉    

 

 

        清少納言の墓

      

           鹿王院の参道                山門の足利義満の扁額

          

 

             鹿王院のお庭

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京の隠れ散歩道   5   逢坂の関ー蝉丸神社と関寺趾

 京阪電鉄京都三条から出る京津線に乗り換えて、逢坂の関を目指す。昔の山城と近江の国境、もと東海道の入り口である。東海道線の無かった明治初期まで、京に出入りする者は皆この関を通った。様々な歴史を刻んだ関だが、今は京阪京津線が走り、地下に東海道線の逢坂山トンネルが走っている。この関に元地主神に醍醐皇子蝉丸を合祀した蝉丸神社前に停留所がある。

   この関近くに住んだ蝉丸の詠んだ有名な歌が、百人一首に選ばれている。なお紀貫之の歌も有名である。

 

     これやこのゆくもかえるも別れては しるもしらぬも逢坂の関    蝉丸

     逢坂の関の清水にかげみえて 今や引くらん望月の駒       紀貫之

 

 醍醐天皇の第四皇子・蝉丸は生まれつき盲目で、天皇の命により逢坂山に捨てられ,前世の報いと諦めた蝉丸は、従者の建てた藁屋で琵琶 を生涯の友として生きている。そこへ生まれつき髪が逆さに生える奇病に、逆髪と呼ばれている姉三宮が訪れ、互いの宿命を嘆き合い、二人は悲しみの中で別れる。能の蝉丸は逢坂山を舞台に、 巷説に流布した二人の数奇な運命を歌い上げている。

 この逆髪が京から逢坂の関まで来る道行の文章は、リズム感があって素晴らしい。

 

  花の都を立ち出でて、憂き音に鳴くか賀茂川や、末白川を打ち渡り、粟田口にも着きしかば、今は誰をか松坂や、関の此方と思い

  しに、後になるや音羽山の名残惜しの都や。松虫鈴虫蟋蟀-きりぎりすーの、鳴くや夕隠の山科の、里人もとか゜むなよ、狂女な

  れど心は清滝川と知るべし。

 

 私は神社の奥様のお許しを頂き、能舞台に上げてもらって蝉丸のお謡いを歌わせてもらった。懐かしい思い出である。

 

    

      蝉丸神社                 関の清水跡    

 

         能舞台

 

     

      能 蝉丸               能 逆髪                        

 

 蝉丸神社から大津寄りに少し歩くと、平安時代にたてられたという関寺の跡がある。14世紀関寺は、一遍上人の踊念仏の舞台となったが、今は廃寺となり跡形も無くなっている。ここが老後の小野小町が住んだところと言われ、小町の供養塔が立っている。能関寺小町

三井寺の僧に誘われて、百歳の嫗の小野小町が舞を舞い、あと静かに庵に立ち帰るという曲だが、昔華やかなりし美女の小町が、老いてなお匂いを遺す舞は、能の中でも最高の秘曲とされていて、なかなか見ることのできないとされ、現在もこの能を舞う人がいないと言われている。

 なおこの関寺近くに京の疎水の長良の取り入れ口があり、更に大津まで半時間ほど歩くと、琵琶湖からの疎水取り入れ口が見られる。

一日の散策に適当な、京の隠れた散歩道である。

 

       

       関寺跡の小野小町の供養塔     能関寺小町 博多人形    

  

   琵琶湖より京都疎水の取り入れ口