閑話休題 -16ページ目

とんがり帽子の時計台

 歳を取ると、幼い頃のことを時々思い出す。私のふる里は三方を小山に囲まれた、大阪近郊の田舎であった。友達も大きな家に住んでいるのは数えるほどで、殆どは小さな貧しい農家か商店であった。それに関係なく子供たちはよく遊んだ。喧嘩もしたし、いじめにもあった。滅多にないか大きな怪我をした時でないと、親は出てこない。喧嘩した相手も翌日は互いに仲良く遊んでいる。子供の世界である。

 

 皆示し合わせて、放課後虫取りや小魚を取りに、季節になればホタルやトンボ、櫟林にカブトムシを取れに行く。喉が渇いたら畑の葡萄を千切って食べる。畑の大人が見ているが見逃してくれる。子供の特権だ。村人もそのように育ててくれた。

 しかし上級生になると落ちついて来る。虫取りは卒業だ。旧制中学に進むのは少人数だが、遊びを減らして勉強せざるを得ないし、今までの遊びの友だちも次第に離れて、親しい友だちの交友も限られて来る。その一人にB君がいた。

 

 彼は我々の住む村から離れて、大きな川を隔てた対岸の小山に、とんがり帽子の時計台のある、孤児院の施設の中の職員住宅に住んでいた。施設は広々として、樹木が綺麗に植えられて、私の住む町中とは別世界であった。

 お母さんがその施設の管理指導員だったのだろう。キリスト教信者のおかあさんで、遠くから訪ねてくれた私を喜んで、手作りのクッキーを作ってもらった。その頃は家ではなかなか食べられない物であった。

 友は背が高くすらっとした男で、学業も僕と競い合っていた。あまりこせこせせず、子供のくせに大人ぶっていた。お父さんは自転車で30分ほどかかるセルロイド工場の技士のようで、彼の家には映画の古くなったフイルムが沢山あり、お土産に私にもくれた。時代劇のチャンバラ映画であった。かし薄暗い家の電灯では、一コマ一コマを拾えても、全体の筋書きが見えず、結局面白くもなく捨ててしまった。

 
  緑の岡の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メーメー子ヤギも鳴いている・・・

 

 彼はこの映画の主題歌の孤児院の管理者の子供であったその後彼はどうしているのだろう。もう何十年も会わないが、彼のことを思い出すと、あの川向こうの丘の孤児院の風景が、今でも私の瞼に浮かんでくる。

 

 

 

 

 

 激減した年賀状

 師走、今年も年賀状の時節が来た。私のような老人では、先輩・同僚・後輩との訃報が相継ぎ、一頃 300枚近かった年賀状の数も 80枚に減ってしまった。寂しいが往く年齢のせいで仕方ないと思う。

 この師走初めにも、昔仲良くしていた後輩が亡くなった。インターネットの退職者名簿の掲示板で知ったが、昔は誰かが次々連絡をつけてくれて葬儀にも参列したものだが、最近は親類縁者だけの家族葬済ませて、他人には後日知らせているようである従って葬儀当日の知人の参列者は殆どない。寂しいことだ。

 

 最近世界遺産登録で話題を呼ぶ、堺市の、6世紀初頭の仁徳天皇陵は膨大な土木工事に多くの人が動員され、何年もかけて建造する権力者だけが出来る大工事であった。エジプトのビラミット、秦の始皇帝陵も有名だが、日本の場合大古墳は関東以西に多数存在する。その地の豪族は時間と費用をかけて古墳を造営した。古墳は豪族のステーサスシンボルであり、一族の絆の強固さを誇ったものである。しかし何分費用が掛かり過ぎるので、646年の大化の改新で薄葬令が出され、以降大古墳は造られなくなった。

 

 江戸時代以降葬儀は自宅葬が主流であった。ところが戦後、戦災と財産税で大邸宅は無くなり、庶民は核家族化と住宅事情から、共同の葬儀会館やお寺葬儀を行うようになった。費用が節約でき、専門業者が要領よく取り計らってくれるから、離れ離れに暮らす親族には煩わしくない。だか一昔前から考えれば、何とも寂しい野辺送りであるが、この傾向は今後とも拡大して行くであろう。喪中ハガキが相継ぐ中、私も態度を決めねばならぬ。私の場合は古式に則り、両親と同様自宅葬が望ましいと考え、今からその準備をしている。多少でも知人が参列してくれたら、寂しい葬式にはならないだろう。縁者は手間がかかり大変だろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラーメンとスイーツ

 変な組み合わせの話だが、テレビ番組の放映ずる人気番組の食べ物である。一方は味で勝負、一方は見た目の艶やかさを競っている。ラーメンとスイーツは若い男女の人気ある食べ物である。さらにハンバーグ―も若者の好きな食べ物の定番になってしまった。

 口当たりがよく美味しいだろうが、ラーメン・ハンバーグ・スイーツとも、歯で噛んで味わうというより、舌の味見で満足する食物で、歯ごたえのないこれらの食べ物を、週の半分も食べる若い男女は、果たして丈夫な骨を持つ大人に成長するだろうか。

 少年期から青年期にかけて、人間の骨格が成長する大事な時期である。そんな大切な時期にこのような食事で満足するのは残念である。青春は大いにスポーツし、噛み応え、腹ごたえのあるものを食べ、体を丈夫にすべきである。でないと壮年期に活躍できない。

 

 昔小学校の運動会で、1等2等の順番を競わせるのは人間平等感に反すると言って息巻いたPTAの母親があり、学校側もやむなく等級を止めて、全部一等賞にしたという。当時新聞にも載ったが、等級が無ければオリンピックは成立しえない。動物一般は生存競争の中に生まれている。入学も試験の等級で進学が決まり、社会に出ても競争原理に生きない者は脱落する。あのPTAのおばさんの子供は今どうしているだろう。競争心をスポイルされた子供は、社会の競争原理に勝てるだろうか。

 

 子育てには、子供を愛情を注ぐのは母性本能であるが、甘やかして育てると必ず闘争心を失くする。昔から貧乏人の息子程、競争心が自然に備わっていて、社会に出てから甘やかして育てられた大人より、一歩も数歩も人生の先を歩いている。貧乏人の子供ほど負けず魂が強く、壮年期に伸びるのも、競争心・闘争心の強さからである。

 母親の皆さん!、子供の将来の為に強くあってほしいものだ。

 

 

 

 

 

京都愛宕神社の神使 猪

 京都西北に孤高の如くに聳え、嵐山から望むと心の鎮まる秀麗な山である。私も大阪から3回登った。春と秋、冬の登山である。その中で冬に登ったのが今も脳裏に残っている。樹々はすべて落葉し、その落葉の絨毯を踏むこそとする音が、心を浮き浮きさせてくれた。

         枯れ梢愛宕の山は下紅葉

 

 山は京都に都が遷ってから開かれた。愛宕神社の祭神はイザナミ命の子、火の神カグツチと言うが、八世紀以降の伝承であろう。以来

火の神として、火事を最も恐れる都人に、「火廼要慎」のカミとして信仰が続いている。

 

 日本の神はそれぞれ眷属に鳥獣を従えている。世界でも珍しく、自然と一体となった日本の神々の特性である。神使の例を挙げると、

   伊勢 鶏・猿・烏     熊野 八咫烏       春日  鹿                  稲荷    狐               熱田    鷲     

      気比    白鷲              松尾    亀                出雲   蛇                北野   牛                 南宮   狼  

      八幡    鳩・鷹            香椎   カササギ           住吉   烏                 諏訪   烏・白鷲・蛇・狐  

      厳島   鹿・烏             日吉   猿                 愛宕  猪  

 

  来年の干支は猪である。若い現役の頃は先輩も多く、年賀状は300枚近く、しかも表裏とも筆書きで、書き終わるのに帰宅後10日はかかった。今は先輩も故人になり70枚に減り、しかもパソコンであれば1日で終わってしまう。来年の干支の図案は、愛宕神社の神使銅灯篭の猪のレリーフを使わせてもらうことにした。 

 

         

           京都愛宕神社の神使 銅灯篭の猪

飛鳥の栢森

  今から46年前、飛鳥の高松塚古墳が発掘されてから急に飛鳥ブームがる起こった。色んな写真集も発行されたが、その中で私は飛鳥の晩秋と小雪の降る初冬の景色に抒情を感じた。そのイメージを味わうために、奥飛鳥に足を向けた。

 

 近鉄南大阪線の吉野行に乗り、飛鳥駅からバスで15分、石舞台で降りる。道を真っ直ぐ行くと多武峰に行くが、道を右に、飛鳥川の上流に沿っだ古道を歩く。終点の栢森まで新道にバスの便もあるが、この古道は歩いてこそ値打ちがある。恐らく2000年以上も昔から、飛鳥から吉野に通じた道である。飛鳥川も両岸が狭く、藁で造った陰陽の注連縄が川に張られ、古代からの古朴な祈りの雰囲気を伝えている.おそらく全国にも珍しい古道の姿を遺している。

 

 しばらく行くと南渕請安の墓がある。小野妹子と渡唐し、32年間留学して640年に帰国した渡来系漢人が、この稲淵こ住んでいた所へ、、中大兄皇子(のちの天智天皇)藤原鎌足の二人学問を習いに行かれる。その道中で二人は、当時の政権専横者の蘇我馬子を倒し、皇権による政治を打ち建てる謀議を話し合って歩いた。そして間を置かずに馬子を殺し、大化の改新につながった。この道が二人が歩いた道で、歴史に残る有名な道である。請安の住居跡は分からないが、墓は今も山深い山中に残っている。

 

 さらに進むと道端に「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社あすかのかわかみにます うすたきひめのみこと」の石柱があり、長い石段が山に続いている。登りつめるとやや広い神庭に着く。周りは樹木に覆われ、森厳な雰囲気である。飛鳥時代米作りが政府の最重要政策となり

大和各地に水神が祀られたが、この社も飛鳥川上流にあって,式内社として尊崇を受けている。

 皇極女帝の即位年は日照りが続き、翌年8月女帝は「南淵の河上に幸-いでーまして、ひざまづきて四方を拝む。天を仰ぎて祈りたまう。即ち雷なりて大雨ふる」と「日本書紀」にある。場所は書かれてないが、南渕の飛鳥川河上はここしかない。由緒ある水乞の社である。

 

 さらに奥に歩き続けると稲渕の村につく。飛鳥の奥の奥、しかし家々は大和棟の立派な建物で、こんな山奥にしては裕福さを示している古い村である。田圃は相応にあるらしい。村の中には出雲の古書に出て来る「加夜奈留美命神社かやなるかみーの古社がある。飛鳥川が道路沿いに溝となって音高く流れている。子供の声どころか人っ子一人通らない。やっと腰の曲がったおばあさんと猫がやって来た。

 

    秋深き栢森むら寂しけり 猫と老婆と瀬音の高く

 

 この稲渕の村を抜けると山道になり、芋ケ峠を経て吉野に出られる。壬申の乱を前にした大海人皇子―天武天皇が、近江から脱出して吉野に急がれた道である。持統天皇もたびたびこの道を通って、吉野宮瀧離宮に行啓されている。歴史の峠道である。

 

 行楽時には飛鳥は人々が込み合うが、この栢森の村は辺鄙なところであまり人も入り込まない。私はこのような歴史の詰まった古道を、昔をしのびながら歩くのが好きだ。-いつか心も古代に飛んで・・・。

 

     

         飛鳥川上坐宇須多岐比売神社  

 

              栢森村 飛鳥川瀬音高く

 

 

 回天の基地

 今日は12月8日、57年前の昭和16年、太平洋戦争が始まった日である。

 当時私は中学1年生で、その日のラジオ放送は、真珠湾攻撃の大本営発表を繰り返し、軍艦マーチが勇ましく繰り返されていて、軍国少年の私にとって血沸き肉躍る思いであったことを覚えている。

 しかし翌年6月のミッドウェイ海戦で敗れてから戦局は後退、人間魚雷・回天による敵艦体当たりの作戦に、海軍兵学校、学徒出陣兵、予科練の若者が選抜された。私も20年10月に学徒兵役につく直前の8月に終戦になったから軍隊に行けなかったが、もう一年早生れであれば、入隊早々特攻隊か回天基地に配属になったであろう。今日の若人には考えも及ばないだろうが、国の為には命を捨てることを栄誉とした時代である。

 

 島尾敏雄の『出孤島記」を読んでから、ある夏、瀬戸内の周南市大津島にある回天の基地を訪れた。島には人間魚雷の実物も展示され、訓練基地の戦争遺産も大事に保存されている。今日になっては貴重な遺産で、よくぞ保存されたと感謝したい。

 島の南に基地がある。海に落ち込んだ岬にトンネルがあり、それを抜けると明るい瀬戸内に面してコンクリートで海に出張った回天の発車訓練基地がある。つわものどもの夢の跡で、私は当時の戦士たちの心情を思い、歌を捧げた。

 

  トンネルを抜ければ瀬戸の陽光に 白日無残や回天の基地

  回天の若きつわものかく散りぬ 瀬戸の潮風爽やかに吹け

 

      

                  回天の基地                    回天の実物展示

 

 

 

 

 ある母と子

 明治の終り頃、熊本藩の家老の家柄で、国権党という政治団体に所属していた白井という男に、ふじという娘があった。評判の美人で、ある若い皇族が熊本に来た時、接待役として水前寺公園を案内したが、ふじの容姿が若い宮の心を動かして、ついにあの娘を貰ってくれと側近に頼んだが、身分の差でどうにもならなかった。だがこの話は地元で評判になり、各方面からふじに結婚の申し込みが相次いだ。

 しかし父の政党の関係から、なかなか思うように話が纏まらず、とうとう父はふじをの田上に嫁がせることに決めてしまった。二人は結婚して夫の仕事の関係で小倉に住まいを移した。そして一男を儲けて耕作と名付けた。

 

 ところが耕作は四つになっても舌が回らず、六つになっても言葉がはっきりせず、口をだらりと開けたまま涎をたらし、その上片足の自由も聞かず、引きずって歩いていた。各地の名医を渡り歩いたが病名がはっきりせず、そのまま歳を重ねたが、小学校に入って学業成績は上位で、中学校でも頭のよさでは先生も一目置いてくれた。文学を好み、友人から森鴎外が小倉時代に書いた小説『独身』を借りて読んでから、森鴎外に親しみ、鴎外の小倉時代の事績を生涯の研究目標に立てた。

 

 それより前、耕作が10歳の時に父が亡くなった。当時ふじは30歳で、美貌はさらに高雅さも加わっていた。再婚の話は色々あったが、ふじは体の不自由な耕作と二人で生きることに決めてすべて断った。実家も耕作のことを気にして、自宅と6軒の借家をふじに与えたふじは耕作を洋服の仕立て職人にしょうとしたが、手が不自由のために実らず、二人は家作の家賃収入でつつましい生活が続いた。

 耕作は鴎外が小倉時代、会った人たちに話を聞くべく、いろんな人に面会した。しかし何分不具の容姿では相手も話がらず、すごすごと帰ってくるのを見たふじは、耕作と一緒に出掛けると、相手は真面目に会ってくれた。以来ふじは耕作の勉強を一緒にすることに決めて、二人で会った記録は風呂敷袋一杯になった。

 

  しかし時局は戦時に突入し、最後敗戦の後は、インフレで家賃収入ではどうにもならず、つぎつぎ貸家を売って細々生活していたが、

食糧難に買い出しも出来ない状態で耕作は栄養失調に陥り、寝たきりの状態で昭和25年の暮れ耕作は死んだ。ふじは無一文になって熊本の遠い親戚に引き取られて行った。耕作の遺骨と鴎外資料の風呂敷が彼女の荷物であった。

                             ――松本清張 或る「小倉日記」伝 より


 家柄といい、稀な美貌といい、相応の家に嫁入りで来たはずなのに、肥後もっこすの父の為に、甥と結ばれてしまった。甥と云えば父の弟の子であろう。日本では大昔から一番嫌う近親結婚であり、生まれる子供に身体障碍者が多い。幼い頃から遊び相手で、年頃になると恋に発展することもあろう。今の身体障碍児は近親結婚による可能性も考えられる。若い人たちよ、これだけは注意してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たけくらべ―樋口一葉

 また樋口一葉の「たけくらべ」を読んだ。何回読んでも素晴らしいの一語に尽きる。明治以降の文学者で一番好きな作家である。ある年

東京神田の古書店で「樋口一葉全集」全四巻を買って、今も愛蔵しているが、全作品の中で「たけくらべ」は最高だと思っている。

 

 舞台は明治中頃の吉原遊郭界隈の大音寺前に育つ、十五六歳のやんちゃ盛りの子供たちが、公立学校に通う表町組と、私立の育英社に通う横丁組の二派に分かれて絶えず張り合っていて、祭りの日に喧嘩になる。なお表組の町内に龍華寺の信如、それに吉原の花魁を姉に持つ美登利がいて、二人のほのかな恋も下敷きになっている。

 

 横丁組の鳶頭を父に持つ長吉は、肩に置き手拭い、鼻歌のそそり節、十五の少年のませ方恐ろしいと噂され、同じ町内に住む車屋の丑、元結の文,玩具屋の弥助、団子屋の頓馬らを子分にしている。一方表組の長は金貸屋の田中屋の正太郎、太郎吉、三五郎などを従え、常々通う学校の違う所からいがみ合いが絶えない。そして千束神社の祭りの日、表町の子供たちが筆屋の店で幻燈会に集まって遊んでいる所に、長吉らの横丁組が押しかける。たまたま表組の正太郎が夕食を食べに帰っていて留守だったから、寄せ手は大暴れする。

「たけくらべ」の最後は美登利が十六歳で初潮を迎えて、子供の世界を卒業した時に終わっている。

 

 当時どこでもあった子供たちの喧嘩だが、一葉はその子供たちの世界を子供の目線で描いてる。このような小説家は後にもない。後の「にごりえ」は完全な大人の世界を描いている。さらに「たけくらべ」には今に残らない吉原遊郭の情緒的な点景がいくつか描かれていて、今は跡形もない遊郭の面影を描いた古典的価値を持っている。また書かれた当時、貧困であった一葉自身の嘆きも見られず、ひたすら抒情の世界を描き切っている。話の筋立て、見事な文章、ところどころに見られる古典の教養など、この小説は格調高く、しかも文語体で書かれているのもそれを高めている。

 

 これを読んだ当時の正岡子規は「一葉,何者ぞと」と一驚し、森鴎外も一葉の熱烈なファンになっている。惜しくもニ十五歳で亡くなった樋口一葉は明治の宝であり、若き小説家でありながら、彼女の肖像が5000円紙幣に登場しているのも、故なしとはしない。造幣局に賛意を表したい。

 

   

            樋口一葉           美登利             作画 鏑木清方

      

     一葉の店先を廓通いの賑やかさ             酉の市で賑う吉原遊郭  

                          作画木村荘八

 福岡・博多

 「住みやすい国はどこか」 「住みやすい都府県はどこか」 「住みやすい都市はどこか」―そのランキングが時々新聞をにぎわせている。日本の都市では東京・大阪がいつも挙がっているが、福岡はあまり選ばれていない。

 私は会社の転勤命令で、大阪・名古屋・和歌山・神戸・福岡へ赴任し、その地でそれぞれ数年居住して来た。素通りする観光客ではなく、その都市で暮らすと、それぞれ風土・人情に違いがあって、「肌に合う・合わない」がどうしても出て来る。 その中で私にとっては福岡、博多住まいが、すべての面で最高であった。街にセンスがあり、情緒ある地方都市として最高の都市であり、退職後も楽しくずっと住み続けたいと思う街であった。

 

 その一つは、昔から海外に開かれた港湾都市であったから、他国人も暖かく受け入れてくれる風土があて、人情が厚い。

 その一つは、都会であるのに、玄海の海が目近にあり、山も背振山や宝満山があり、自然が豊かに存在している。

 その一つは、食べ物、特に玄海地先のあらゆる魚が新鮮で手に入り、他の都市よりも安くて、新しいから美味しい。

 その一つは、九州の消費・歓楽のセンターである博多中州には、気品ある高級クラブから、庶民で賑う屋台まで、西日本最大の

                    繁華街があり者の芸事や・ホステスのもてなしも、他の都市に引けを取らない。

 その一つは、ハイウェイが四通して、別府・阿蘇・鹿児島の温泉巡りも、車の日帰り範囲に行けて、家族で楽しめる。

 その一つは、退職しても、温泉巡りや博多湾での磯釣りや海釣り、ワカメ拾い、近くの山では山ワサビの自生している恵みにも会える。

 

 私は大濠公園に面したマンションの社宅に暮らしていたが、朝ベランダに出ると眼下に公園の水と木々の緑や、沢山の海鳥が飛び交う姿が、心をなぐさめる。冬には北窓からのぞくと、玄海の荒れた海が見渡される。懐かしい住まいであった。

    

      

           大濠公園の冬の朝                       ベランダから           

       

             海鳥の休息地

 

 

      

 再び  おふくろの味

 関西の毎日新聞系MBSテレビで、週日午後に「ちちんぷいぷい」というバラエティの人気番組がある。その中で毎回、大阪・神戸・京都の繁華街で、若い学生などに家に電話をかけさせて、「今晩のおかずナーニ」という街頭録画を放映している。電話で答えるおふくろさんは、「今何も考えてない」とか、「冷蔵庫であるもので何か作るわ」とか話しているのを聞くと、昔のおふくろは偉かったと思えて来る。

 勿論洗濯機・冷蔵庫・ガス・水道もなかった時代、毎回の食事に野菜や漬物、魚や時には鶏肉、野菜の天ぷらなど、いろいろ工夫して家族の喜ぶ晩ご飯を作ってくれていた。

 今はあらゆる電化で家事の労力が大幅に改善されたのに、女たちは余暇を友達と食べ歩いたり、美味しそうなおかずを買って来たり、ひどいのはコンビニで、子供の喜びそうなものを買って来て、夕飯のおかずにする。

 食事に季節感がなくなり、日本人が一番大切にして来た、野菜・魚の新鮮な旬のものの食事造りに向き合おうとはしないおふくろたち。今の女たちは、日本家庭の情緒を失くすることに抵抗感も持っていない。子供もそのおふくろの影響を受けて嫁入りすると、日本の女性は家庭の料理に関する限りでは、段々低俗化・下層化して行くように思えて来る。テレビの害毒でもあろうか。

 

 もう忘れていたが2年前の今日、「おふくろの味」を書いていたことを知らされた。「閑話休題」の2016年11月21日付けの記事である。

再録するのでそれも読んでもらいたい。

 

おふくろの味

 懐かしい言葉ですね。戦前は外食は特別の日だけ。中流階級以上の家庭は、総菜屋で造られた、いわゆる「店屋物」―てんやものーを買う家を卑しんでいました。

 今ではスーパーで上品な婦人までが、カートに自分で造れば簡単にできる総菜やおにぎりを買っているのを見かけると、この家庭はどんな生活をしているのだろうかと、思ってしまいます。

 昔はそれぞれの家で母が「おかず」を造り、外で買って来たものを食べたりしなかったものです。母は料理に心を込めて家族の料理を作っていました。鰹節を削ってだしを取ったり、味噌の味付けに工夫をこらし、裏の野菜の天ぷらが最上のご馳走でした。芋や大根の煮っ転がしも皆喜んで食べていました。幼い頃に食べた懐かしい味が「おふくろの味」です。

 

 ところが子供が社会に出て行き、共稼ぎの社会になると、弁当つくりや、夕飯の支度も時間がなくて、ついスーパーやコンビニなどの「店屋物」の仕出しでことを済ませたりします。休日は焼き肉屋,回転寿司屋、ファミリーレストランに出掛け、中流家庭意識を持ちます。そこには家庭の愛情の基となる、「おふくろの味」が子供に伝わりません。

 嫁はいくら忙しくても、献立を考え、小さな娘でもあれば料理を一緒に造り、代々伝えられるような料理が出来たら、素晴らしいと思います。かく言う我が家でも家庭の料理を大切にしいます。手作りの食道楽一家です