閑話休題 -15ページ目

 奈良の画家 疋田泰彦さん

 世間では画家など芸術家には独善的で自尊心が高い人が多い。ところが疋田泰彦さんは人格円満で、人付き合いも温かく、ご夫婦ともに敬虔なクリスチャンであった。

 奈良出身の彼は、大阪大学法学部を出て住友銀行に就職、その傍ら油絵を楽しむ、いはば日曜画家であった。主として奈良公園の風物から静物まで、印象派的な画風で描かれて、その筆致はクロウトの域に達していた。

 私との交遊は、彼が退職され、本格的な画家として再出発されて、初めての個展に招かれて以来、交友が深まり、絵画展や京都清遊にもご一緒した。

 

 その彼に二三の友と初秋のある日、アトリエに招待された。彼は車で近鉄奈良駅まで迎えに来てくれて、奈良地方裁判所の最新作の大型壁画を拝見した後、東に向かうバイパスで大和高原に入って、日笠の村から南に約30分ほど走り、都祁の小さな村のアトリエに案内された。大作に挑むための40畳位の広いアトリエで、奥さんの手作りで落ち鮎や山菜の御馳走に預かった。

 実はその2週間ほど後、疋田さんは突然体調をこわされて、奥さんの胸に抱かれて急逝された。何と私たちへの接待が、生前お別れ会になってしまった。私は彼との運命的な繋がりに驚愕した。

 

 彼の壁画の大作は大阪大学法学部校舎のロビーにも飾られているが、奈良地方裁判所の作品は彼が最後に依頼されて描かれた作品で、コンセプトは「風と緑」という。奈良の仏像を代表する興福寺の阿修羅像を大きく描き、眼下に東大寺・興福寺などの伽藍を俯瞰し、その奥に緑濃き御蓋山と、若草萌える三笠山が描かれている。更にこの絵を特徴づけているのは、我が国で初めて十七条の憲法を造られた聖徳太子の騎馬像が、法の理念を期待される疋田氏の願いとして、時空を超えで描かれていることである。見ていても清々しく、疋田さんの人柄を偲ばせる傑作である。

 

 私は奈良公園に入る前に、必ず裁判所に立ちより、この壁画を見つめて疋田氏を偲ぶことにしている。もっと長生きされて、よい作品を創作してもらいたかったのに、本当に惜しい人を失った。

   

 

                        

                                           奈良地方裁判所の玄関ホール

 

 

 

 

 

 

 

 

  奈良公園

 天平の余情を遺す奈良公園はよい。―古代の息吹を伝えているからである。

 春日野が乱開発を免れたのは、神の神地であったからである。

 

   ちはやぶる神の社ーやしろーし無かりせば 春日の野辺に粟蒔-まーかましを

                                 万葉集 巻3 404

 ある娘が佐伯宿祢に恋し、彼に妻があるのを嘆き、皮肉って歌った歌である。「ちはやぶる神」とは

ここでは正妻を指している。

 

 このように春日野の原野は春日神社や東大寺の神域・境内として保存されて来た。しかし現在の公園のように手入れはされていなかった。

 江戸中期1746年の古書には「春日野の小松原」と書かれている。千草の生える野に小さな松があちこち生えていた原野であった。その春日野に江戸後期宝暦年間1750年頃に桜が1000本植えられたという。つづいて1850年、時の奈良奉行川路聖謨ーかわじとしあきらーのお声がかりで、桜・楓が数千本植えられた。

 

 川路聖謨が奈良奉行になったのは弘化3年1846から5年半で、赴任当初の奈良は荒廃していて、町は博徒で溢れていたという。彼は善政を敷き、さらに麗しい奈良の風物を愛し、これを後世に遺そうと、町民に呼びかけた処、町衆から多額の寄付が集まり、東大寺・興福寺境内から、佐保川、高円山の辺りまで桜・楓数千本が植えられて、今日の麗しい春日野が出来上がった

 

 彼が奈良から大坂奉行に転任になった時、奈良の市民は大勢、船で大坂に向かう木津川渡しまで見送り、皆泣いて別れを惜しんだという。後彼は江戸に戻ったが、ペリーに続き修好を求めて来たロシアのプチャーチンと、長崎・下田で会談し、択捉・国後・歯舞・色丹の北方四島を日本領土として締結。

其の後彼は勘定奉行に栄進したが、幕府の崩壊とともに拳銃自殺した。惜しい人物であった。

 

 JR奈良駅から春日神社に向かう三条通りの中程、猿沢の池に降りる石段の角に、「植桜楓之碑」が建てられている。川路聖謨の功績をたたえたものである。奈良を愛する心ある人は一度は立ち寄ってもらいたい碑である。

 

           植桜楓の碑

 

 

 冬の奈良公園

  奈良公園は良い。喧騒の巷と化した京都に比ぶれば、古都の風情は奈良の方が数段上である。

 奈良公園が春日神社の神地であったため、今日まで乱開発は免れた。惜しむべくは明治の維新期、興福寺一条院跡地の一等地に、県庁・裁判所などの公舎が建てられ、往古の春日野の風情を台無しにしたのは,当時の為政者の大失策で、その見識の差が今日の京都との差を招いた。

 

 京都に比べて奈良は静かで、特に観光客の少なくなる冬の奈良公園は、1300年の古代を再現してくれている。東大寺から左に戎壇院を経て裏の講堂趾に廻り、三笠山に向かう大湯屋の風情ある坂道を三月堂に出て、さらに三笠山の山麓に沿って南に行き、奈良公園飛火野を巡る散歩道には、天平の昔が今なお息づいている。

 それも夕暮れ時になると、一層古代が近くなる。ことに冬の清澄なる夕べ、月影を踏んでで散策し、瞑想し、万葉の歌を口ずさめば、古代の奈良の詩情が蘇ってくる。東大寺や興福寺、その他の古寺は、幾たびか兵火を受けながらも、古代さながらに再興され、御寺には優れたみ仏たちが居ます。

 奈良は古典的優雅、静謐、それに孤高を守って、今も私たちの心を癒し続けてくれている。

 

   夕去れば奈良の冬陽は寂しかり  み寺の廂も低くなりぬる

   奈良奥の浅茅ヶ原の群すすき 物語めく年の暮れかな

   冬空のたそがれ三笠の土産店 人招きつつ戸を閉じており

   目閉づれば木沓木魚の音聞こゆ 水取りの夜の夢近き寺

   ひとつこむ二つを翳し三つと打つ 奈良の都の夢の跡かな

   一点鐘池に響きて大仏の 灯影夢にゆるがむとする

 卜部―藤原氏

 今年も初詣に行くと、神社にお参りした後、若い人たちが群がって御御籤を引いて笑いあっていた。日本のお正月の風物詩である。大吉が出たら大喜び、中吉・小吉・凶・大凶は境内の木の小枝行き。昔から日本人はこのように占いを楽しんで来た。酒・女・賭博の縁切りで有名な京都祇園の安井金毘羅宮では、縁切りを祈願したお神籤が山のように積み重ねられている。

 

 日本人の占いの歴史は縄文時代に始まっている。奇怪な顔立ちの土偶・土面、装飾過剰な土器や、

多数の捨てられた土器なども、占いの道具だったとも考えられている。

 

 弥生時代になると各地に呪術者=占い師・シャーマンが輩出する。その中で海人族と共存し、渡航を占った卜部族が亀の甲を焼いて吉兆を占う亀卜を発達させた。亀卜はシナの殷の時代に始まるが、その技術を持つ一部が、シナの動乱を避けて南下し、インドネシア系のアズミ族に随伴し、航海の吉日を亀卜で占い、アズミ族と共に琉球列島経由で、鹿児島から対馬に進出して来た。亀卜の遺物は対馬から出土しているが、韓半島にはない。卜部族の日本での第一の故郷は対馬である。

 

 さらに弥生中期、アズミ族が淀川流域の茨木に進出して来た時も卜部族は同伴し、農耕の太陽神を祀る銅鐸の祭祀に係わる。藤原氏の祖とされる天児屋根命は崇神天皇時代、茨木市の寿久山(現在の梅花女子大の地)に降臨し枚岡に遷されている『元要記』。のち藤原鎌足も茨木に一時隠退しているのも、茨木を第二の故郷とするからである。

 

 さらに卜部族の一部が、アズミ族が関東のケヌ国(群馬・茨城の関東大国)との交易に進出する際、渡航の占に同伴して、利根川河口の鹿島に進出、そして卜部族は鹿嶋神社を造営し、第三の故郷とする。 鹿島神宮の祭神は武神タケミカヅチ命とされるが、実態はアズミ族が奉じる、海=ワタツミの神の眷属磯良いそら)という神である。茨木市にも藤原氏の安威神社の近くに磯良神社がある。

 

 飛鳥時代鹿島卜部の御食子が飛鳥に進出、子の鎌足が天智天皇と大化改新に協力してからその一族は藤原と改名し、その後の日本歴史の立役者となる。

 そして奈良朝に卜部族から宮中祭祀を司っていた中臣氏が、鹿島卜部と平岡の在地卜部との大連立構想を持ち上げ、これが奈良朝後半春日神宮の創建となった。奈良では亀卜が鹿卜に変わった。春日神社の神の使いが鹿となった理由である。

 

 このように鹿島神宮のタケミカヅチ命は海の神であり、勧請された春日神宮の祭神も、安曇族が齋く

志賀海神社(福岡市志賀島)の海神と、三社一体なのである。

 

 

 

 日本の船

 前回、朝鮮海峡で活躍する海の民、安曇ーアズミー族について触れたが、彼らが乗る船はどのような船だったのだろか。残念ながら出土品は存在しないが、残された土器に描かれた絵で想像できる。

 一番原初は大木を二つに割り、真ん中を火を燃やして窪みをつけ、後は石斧で削るカヌー型が大半で、のちには舷側に板を張り巡らし、波除けを作っている。即ち弥生時代はカヌー型が主流で、古墳時代以降はかなり大型構造船が出場するが、あくまで平底の大型化であった。

 

 下の図゛はアサヒ百科に掲載ている各国の舟の構造である。

 日本の舟は底板(かわら)に舷側を立ち上げて行くが、中国や西洋のような、下部に波切りの竜骨が無い。このために大きな波は乗り切れず、横波には転覆し易い。

 

 弥生時代の中国への渡航は、対馬で風待ちをして朝鮮へ渡り、西海岸に沿って北上して、山東半島が視界に入る頃から、黄海を横断してシナ本土に到着したか゜、新羅との関係悪化した後はこのコースは使えず、博多から五島列島などから、直接東シナ海に乗り出したが、北西風や南風の強い時に、かなりの舟が沈没の憂き目にあっていることは、遣唐使船の例でも分かる。

 しかも弥生時代は、船出の時期は「占い」をもって決める。時には持斎ーじさいーという祈祷者を同乗させたことは『魏志倭人伝』に見える。

 

 要するにアズミ族は海の民でありながら、天気気象や占星術を知らず、シナ江南の海人族から竜骨の技術を導入せず、硬くなに平底の伝統船造りに固執し、出航を亀卜などで占い、波の静かなナギの日をカミに祈って船出する沿岸海人であった。

 

 また彼らは海洋交易に止まらず、別派は当時一番貴重な交易商品の資源を求めて山深く入って行き、琵琶湖安曇川、信州安曇野や上高地の穂高、利根川上流の武尊山などに分け入っている。その時信仰対象としたのが、山の神穂高明神で、゛別名金拆―カナサクー金属精錬のカミを奉じている。

 アズミ族の神統譜ではワタツミ海神の子が穂高見神金拆神で、海のカミが山のカミを生んでいる。   

  

日本‣中国・西欧の渡航船飲む構造   朝日百科「日本の歴史」15より

 

 

弥生時代の航路

 年頭の「初日の出」にはいいねを沢山頂きました。アマテルのアマは海が先で、農耕時代から天が加わったということについて,補足することがあります。海が凪ぐのを祈った阿麻弖留アマテル神社が、対馬の東海岸にあることがヒントです。下図の弥生時代の朝鮮航路の図を見て下さい。航路にも縄張りがあって、二大海人族がそれぞれ支配していました。

 

 アズミ族は3世紀初めにいち早く対馬の浅茅湾に進出、朝鮮航路の拠点とし、日本への帰路は浅茅湾で荷を仕分けして、東の小船越から東海岸に出て、博多か綾羅木に直行しました。南からの黒潮の強い流れが対馬で遮られて、東側はやや穏やかな海流になり,それでも風がなく海が凪いだ時に、アマテル神社にお祈りをして船出しました。

 

 下関海峡は潮流の変化激しく、弥生時代は通行できませんでした。通れるようになったのは、大型構造船が出来た古墳時代からです。

そのため下関の北の響灘に流れ込む綾羅木川の上流を荷の受け渡し場としたのです。有名な綾羅木遺跡です。瀬戸内海は倭国の領域で、入るのには倭国の官吏に検査と課税を賦されて、荷物を担いで長府に出て、船で倭国に向かいました。

 倭国の官吏の長を穴太直ーあのうのあたいといい住吉神社の司祭でもあったようです。本来海辺にあるべき住吉神社が、長門では内陸(新幹線新下関付近)にあるのがそれを示しています。ヤマトの倭国が支配する西の関門の意味があります。

 

  航海安全を祈った海(アマ)照るカミが、その後稲作が盛んになると日照を願う天(アマ)照るカミに転じ、さらに七世紀日本神話が創られた時、皇祖神の天照大神アマテラスに転じたと考えられます。

 

  

 

 

 初日の出

 大阪では元旦も二日も晴天で明けました。初日の出を拝み清々しい元旦を迎えました。拝むのは日の出の太陽で、天空にある太陽や、西に沈む太陽ではないのです。生まれたての太陽には生気が漲ぎっていて、それに日本人は霊気を感じるのです。

 

 今年も岡山の黒住教教主から賀状を頂きました。ご先祖の黒住宗忠が江戸末期、冬至の日に日の出を拝んで霊気を得て、肺病が全治、その余得を人々に分け与えられて病を治され、多くの信者を得て黒住教を興され、孝明天皇も信仰され、京都真如堂の真南、吉田山の東向きに宗忠神社まで建てられました。黒住教は毎朝日の出を拝む「日拝ーにっぱいー」から始まります。即ち太陽信仰が核になっています。

 

 古代、太陽をカミと拝む信仰は、ギリシャ・インド・インカなど、汎世界的な信仰でした。日本では三世紀、稲作の豊穣を願って、近畿を中心に太陽信仰が広がり、太陽神を祈る巫女が生まれ、ヒルメと呼ばれていましたが、その中で一番霊力に長けたのが、三輪のヒミコで、彼女は夜明け前から太陽神に祈り、国の政治にまで託宣を下し、それを男弟が早朝から参集する諸国の王に伝え、日本の政治を行って来ました。朝の朝廷ということで、これを大和朝廷と云います。このヒミコは、七世紀日本神話が作られた時、その絶大なる託宣力でオオヒルメとされ、天照大神として皇祖神に神話化され、のち伊勢神宮に祀られました。

 

  このアマテラスの原像は対馬の式内社阿麻弖留ーアマテル神社でないかと想われます。対馬は弥生時代、倭国と朝鮮を結ぶ海上拠点で、下図の地図のように島の中央に入り組んだ浅茅湾があって、海峡を渡る船の風待ちに重要な海であった。その頃のカヌーの大型船は、朝鮮往復は大船渡を通ったが、日本への帰国には東側の小船渡を船を担いで小船越を渡って東海岸に出て、日本に向かうのが潮流の関係で安全であった。その出口に日の神阿麻弖留神社があり、渡航の安全を祈願している。この神が日本で最初のアマテル神社であったと思われる。参考までに、大船越は漢文12年対馬領主によって大きく開かれ、小船越の万関瀬戸は明治33年日露開戦に備え海軍により大きく掘削されている。

 

 この海の神日神が農耕時代に入って倭国で農作の豊穣のカミとしてあがめられ、それを祀る巫女が各地に出て来て、その中の卓越した三輪纏向のヒミコが、七世紀にアマテラス大神に神話化されたものである。

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年の瀬

 今年もいよいよ年の瀬を迎えました。

 歳末風景も昔と違って、大掃除したりおせちの料理の準備をする慌しさも見られず、門松の飾りつけも簡単になり、年末大節季の支払いの為に、お師匠さんまで金策に走り回ったという師走の風景や、迎春風景は、もう昔の遠い思い出の景色になってしまいました。

  我が家も正月を迎える人数も減りましたので、ついに仕出しのおせちにしました。今までは4日がかりで材料買いに走り、夜昼煮込みをしたものですが、材料が余ったりして不経済で、結局仕出しの方が合理的と考えました。無駄遣いを抑えらるようです。だが見栄えが豪華でも、一つ一つの味つけは冷えて今いちです。本当は遠くから娘子供が帰って来て、女総出でおせち造りをするのが、ホテルの料理よりも心のこもっお正月を迎えられそうですが・・・

 

  江戸時代、町人の気の速い者は12月を待ちかねて門松を立てたり、武家屋敷はたいてい暮れの28日早朝、門松づくりに取り掛かった。

おのおのお国風を見せて、いずれも見事なもので、あの松の一枝が多いとか、あの飾りの縄の結び方が不味いとか批評しながら見物してまわる暇な人もある。大飾り、中飾り、松飾もピンからキりまであったが、一番立派だったのは吉原遊郭の、空を突くような大きな松飾であったという。―岩波文庫『戊辰物語』より。

 また江戸時代の商家は、年末までの疲れで寝正月が多く、子供たちだけが元旦早々から楽しく騒いでいました。

 

 いくら歳をとっても、正月らしい迎え方をしたいと思い、座敷・洋間の掃除、庭の清掃を終え、迎春の鏡餅、仏壇や床の生け花など、習慣は老体になっても変わりません。

            蓬莱の山まつりせむ老の春           蕪村

  それに冷たいおせち料理の外に、温かい牛肉のシャブシャブ、蟹の鍋料理、いくら歳を取っても正月は食べることに贅沢したいものです。酒は越後の久保田を用意しました。

           たのしみは老いを養ふ酒さかな        蕪村

  そういえば蕪村も「食い道楽の大坂」生まれでしたね。 皆様方もよいお正月を迎えて下さい。

 

   

               蓬莱

 

 

 朝鮮への緊急米の応援

 今から130年の昔、明治10年のことである。その年朝鮮は大飢饉に見舞われ、コメ相場が急騰。どんどん人間が道端にて倒れている

状態で、朝鮮政府明治政府の大久保利通に米の救援を依頼して来た。大久保はすぐこの要請に答えて、大倉喜八郎にその使命を託した。

 

 然し時は西郷隆盛との西南戦争の真っ最中で、とても輸送船が足りない。関西から九州に軍需物資を送るのに手一杯で、船の余裕は全くなかった。ところがさすが大久保利通、彼の采配により外航船が一艘大倉喜八郎に回されて来た。彼はこの船に米一万俵を積んで朝鮮に赴き、七日間かかって荷揚げした。これによって朝鮮の飢饉の穴は収拾した。―〚戊辰物語〛岩波文庫。

 この明治の指導者の腹は太い。西南戦争の真最中で自国内がひっくり返っているのに、朝鮮の災難の要望に応えている。西南戦争は官軍方が勝利した。この内戦で莫大な利益を上げた船運会社の岩崎弥太郎が三菱財閥の基礎を築いた。御用商人の戦争成金である。大倉財閥、藤田財閥もこの時財をなした一類である。

 

 だがこの朝鮮緊急米については、朝鮮では語られていない。今朝鮮は先の大戦中の時効にかかったような問題を蒸し返し、日韓関係は暗礁に乗り上げている。日本政府も弱腰ではない。対応の機を窺って、いずれしっかりした態度を取るであろう。

 ただ明治の救難米問題は朝鮮人の意識にも登っていない。韓国はそういった国である。

 

 

 

 

 

 

 

 夢でに出会ったご夫婦

 今朝起き方、夢を見た。私はあるホテルの会合に出席すべく町に出て、よく行きなれたホテルだのに、着いたところが小さなビルであった。まごまごしていると、百貨店で買い物をして、大きな荷物を抱えたご夫婦が入って来た。人柄も立派な夫婦で、年頃は60歳前後であった。私は事情を話すと、奥さんが「そのホテルまで送ってあげましょう」と言ってくれ、御主人も穏やかに笑って「一緒に行きなさい」と言ってくれた。 奥さんは小型だけれど、粋なスポーツタイプの外車にk乗せてくれて私を送ってくれた。ホテルに着いたかどうか?・・一瞬夢はすでに醒めてしまった。

 然し奥さんの爽やかな印象が強烈に残った。上品で、やや大型かな?。ところが顔立ちは今までの映画女優でも見たことのない、上品で、明るく、こだわりやケレン味の無い、素晴らしく美しい女性で、目が覚めた後も忘れられない顔立ちであった。

 御主人と言い、奥様と言い、或いは元貴族階級であったような育ちと品性でこんな夫婦もおられるのだなあと感心した。普段見る夢は目が覚めた途端に消え去ってしまうが、今朝の起きがけの夢は心温まる夢で、明日ももう一度見たいと願うような夢であった。

 この夢で、来る年はいいことがありそうな気がするのは、期待しすぎだろうか。