閑話休題 -14ページ目

  南禅寺の塔頭  天授庵

  前章で南禅寺三門から、天授庵を俯瞰した写真を載せたが、天授院は戦国武将細川幽斎の寄進によるところが大きい。

 

 13代足利将軍義輝が、三好長慶に追われて近江朽木に逃がれていた時、侍女の清原宣賢の娘に孕ませた子を、側近の三淵晴員に払い下げた。晴員は京に戻り女を南禅寺の塔頭聴松院近くにかくまい、男の子万吉が生まれた。万吉は母方の祖父清原宣賢に育てられたが、6歳の時に三淵の兄、当時和泉半国の守護であった細川元常の養子になり、細川万吉と名乗ったが、後に足利将軍義輝に仕えて藤の字を与えられて細川藤孝と変え、京の西郊の勝龍寺城(長岡京市)の城主となった。

 

 ところが戦国時代の始め、将軍足利義輝が松永久秀に攻められ敗れた時、藤孝は奈良興福寺一乗院の門跡であった義輝の弟、義昭を伊賀に連れ出し、後各地を転々とし最後に織田信長を頼り、彼の応援で15代足利将軍となった。だが二人は不仲で、遂に信長は義昭と対立、藤孝は主人の義昭を見限り、信長に付き、家督を子の忠興に譲って、幽斎と名乗って丹波の宮津城主となった。

 細川幽斎は弓道の武術はもとより、和歌・連歌・茶道・謡・仕舞・書の文武両道の達人だが、時勢を読むのも長け、息子の嫁に明智光秀の娘ガラシャ夫人)を貰っているのに、夫である細川忠興は山崎合戦では舅の明智を助けず秀吉側に付き、また関ケ原合戦では秀吉方を見限り家康について功を挙げた。その功により肥前中津城主となり、三代目の忠利熊本城主となり、子孫は明治維新まで栄えて侯爵に補された。元総理の細川護凞はその末裔。

 

 細川幽斎は幼い頃に育った南禅寺との縁で、天授庵の方丈を寄進。幽斎夫婦の墓もある。ただ子の忠興は大徳寺に塔頭高桐院を造って熊本細川家の菩提所にしている。なお天授庵は幽斎の縁で、幕末には肥後藩の屯所となった。

 また細川家本家は最近まで天龍寺近くに豪壮な邸宅を所有していた。

   

           庫裏                    大方丈  

 

               大方丈の見取り図

              小堀遠州の虎の子渡しの枯山水の庭

 

 

            細川幽斎夫妻の圖

                   禅宗祖師図   長谷川等伯

 


 

 京都南禅寺の水路閣

 京都東山の南禅寺に行かれた方は、参道に京都疎水の水路がレンガで立ち上げられているのをご存知であろう。南禅寺は、このような疎水の水路閣が境内に造られるのを猛烈に反対した。明治初年のことである。

  何と言っても亀山上皇ゆかりの寺で、京都五山の別格筆頭。だが時期が悪かった。維新後の廃仏毀釈で、明治4年京都府が社寺地上地令制定、高台寺・清水寺・建仁寺・南禅寺・相国寺など、大寺の所有する土地の7~8割方が官に没収された時であった。

 ところが他方、京都駅から烏丸通りに市電を走らす時、東本願寺が烏丸通りにはみ出ていたが、京都市は東本願寺の要望に応えて、電車道を本願寺前だけ、烏丸通りをコの字型に変更している。

 それなのに南禅寺の要望には当時の京都市当局は頑として譲らなかった。それには京都人の深い遺恨があったからであった。

 

 話は江戸初期に遡る。南禅寺以心崇伝-いしんすうでんーという禅僧がいた。足利義輝の家臣の子で、南禅寺の僧となり、37歳で南禅寺の住持となった。のち徳川家康に召されて、天海和尚と並んで、幕府の外交文書を取り扱い、家康側近となった。諸侯も彼の実力に一目置き、南禅寺の三門藤堂高虎に、塔頭天授庵細川幽斎に、金地院の庭を小堀遠州に造らせた。これらの政治力で南禅寺では彼を中興の祖と崇めた。

  さらに祟伝は家康の命と意向を忖度して、武家諸法度寺院諸法度のほか、天皇や公家の行動を規制する禁中並公家法度を作り、宮中にまで幕府の管理を強化する。

 このように祟心は徳川方の手先となって、皇室や公家に圧力を加えた。これを京の人たちにはは心安らかなはずがない。禅坊主ならぬ武家つらと皮肉り、彼が死んだ時、都人は大欲山気根院僭上寺悪国師の法名を贈った。京都人には長く嫌われた禅僧であった。

 

 そんな背景から、明治になって風致を害するのを無視し、南禅寺の哀願にもかかわらず、疎水を強引に南禅寺に通した。しかしさすがに当時の設計者の感性か、むき出しのコンクリート作りではなく、煉瓦で外壁を覆った。それが百年も経つと風情を持つようになった。

 

 水路閣はすっかり周囲の空気に馴染んでしまって、昔旧家にお嫁入して、家風にあわないと言われたモダンなお嫁さんが、いつの間にか皺くちゃの婆さんになり、でんと納まり返っている姿に似ていなくもない。

 

 と杉森秀英氏は言っておられる。

 

     

          以心祟伝                水路閣

 

           南禅寺塔頭 天授庵 三門より俯瞰

 

       

 

 

 神社(神地)の乗っ取り 春日大社

 先ず下の地図を見てもらいたい。これは752年、東大寺が建立された当時の、東大寺の四至の領域を書いた絵図である。東大図書館。

 この図では春日大社は書かれてない、御蓋山の山麓に「神地」の表記がある。御蓋山は霊山で、弥生時代には「大和坐日向神社」―ヤマトニマスヒムカイジンジヤ―があり、東から登る日神を、山麓のこの神地で巫女が祈り託宣を受けていた聖地であった。神殿や拝殿は無く、四囲は石で取り囲み、神地は清浄な小石を敷き詰め、神の降臨される榎の木が一本立っていた聖域であった。

 光明皇后が藤原清川を遣唐使に送る時詠まれた、

 

   大船に真舵繁貫き―まかじしじぬきーこの吾子―わこーを韓国へ遣る斎-いわーへ神たち    万葉集19-4240

 

   と祈られたのはもこの御蓋山の神であった。また御蓋山―神地から南へ延びる道は聖ラインとされ、平城京造営時に三条通の基準線

になり、また三条の率川神社ーイサカワーの地は、御蓋山の巫女たちが籠っていた杜ともいわれている。

 

 其の後奈良朝末期の神護景雲2年(768)、藤原氏一族が東西の卜部・中臣の同族を結集するため、関東の鹿島からタケミカヅチの命・香取神宮のフツヌシを勧請、河内枚岡からアメノコヤネ、ヒメ神の四座を合祀して。この御蓋山祭祀の神地を乗っ取って、日大社を創建するのである。そして元の御蓋山の神は,鎌倉時代廻廊の建設の時に隅においやり榎本社と変えた。この榎本社の祭祀は藤原氏ではなく、奈良朝以前からの先住豪族小野氏が今も行っていると言われている。これが元の春日神社で、藤原氏の春日大社と区別されている。

 

 

 強い者勝とはいえ、弥生時代からある由緒ある神地を乗っ取って、氏族の繁栄を祈るというのは、藤原氏の専横と言わざるを得ない。

 

今でもこの神地を藤原氏が騙し取ったという口碑が残っているといわれる。1300年も昔のことである。

 

           東大寺山四至圖  東京大学

   

                 春日大社                   廻廊にある春日神社(榎本社)

 

 

 

 京都上・下賀茂神社の謎

 京都を代表する京都上・下賀茂神社は、その成立からして、謎の多い神社である。

 

 賀茂=鴨族の主神、加茂健角身命かもたけつみのみことーは、日本神話では神武天皇の大和への進攻に、熊野から大和に道案内をした神ー八咫烏(日本サッカーのシンボル〉 として出て来る。

4世紀末応神天皇の頃のこと推定される。

 

 この鴨族はそれ以前、日向から大和葛城山の南東、なだらかな高原状をなした高鴨の地で、水神の高鴨神を祀り、山畑や狩猟をしていた山の民である。

 その彼らが5世紀後半雄略天皇の頃、高鴨神を奉じて葛城を出て、木津川の岡田に移り、さらに開拓地を求めて、先住の久我族の住む賀茂川上流の地に進出して来た。

 欽明朝(540~571)の頃、水不足で五穀が実らず、水神の加茂神の祟りとされて、「馬に鈴をかけ、猪の頭を被って駆ける、山の民の荒々しい古俗を伝える、流鏑馬ーやぶさめーが行われると豊年になったので、以来祭りは盛大になり、近在からも人々が群集して乱闘騒ぎが起きた程で、たびたび政府から禁止令が出されている。

 

 この加茂族が7世紀に入ってから奇怪な神話を創る。

  「山城国風土記逸文」」の賀茂族の神統譜下図)によると、祖神のカモタケツミノ命が、丹波の女と婚姻して玉依彦玉依姫を生み、玉夜姫が瀬見の河原で水遊びしていた時、流れて来た丹塗り矢を取って床の上に置くとカモワケヅチが生まれたので、このカミを上加茂神社に祀り、母の玉夜姫を下加茂神社に祀った。父である丹塗り矢とは乙訓の火雷神という。

 

 全く「歴史のカケラ」もない丹塗矢神話は、大和の大神神社の説話と一致する。大神神社では丹塗矢は三輪の神の大物主で、生まれたヒメタタライスキヨリヒメは、神武天皇の皇后になったという。どうも両社の丹塗矢説話は同根である。

 これは雄略天皇の時、大神神社の司祭を握った大田田根子大田族が、この丹塗矢の説話を賀茂神社に持ち込んだものと思われる。太田族は摂津茨木を本拠とし、河内陶邑で須恵器を焼いて財をなした当時窯業の豪族で、上・下賀茂神社の創設に彼らの影響力は無視できない。その証拠は上賀茂神社の摂社、カキツバタで有名な太田神社に残っている。丹塗り矢神話を持ち込んだ大田族の神を祀ったものである。今の祭神ウズメノミコトは、賀茂族の神統譜には何の関係もない。

 

 かくて上賀茂神社は天武朝の7世紀に、下賀茂神社は奈良朝の8世紀に創設され、祖神のタケツミノ命は、本来賀茂族の祖神として上賀茂神社に祀られるぺきなのに、久我氏の大宮に遷され、下賀茂神社の玉依姫とも並祀されている。解しがたいことである。

 

 これらの不理解な説話に立つ上賀茂・下加茂神社も、8世紀末793、僥倖にも都が遷され、京都唯一の天つ系神社として、皇室の尊崇を享け、斎王が置かれたり、盛大な葵祭などで、上・下賀茂神社の地位は一挙に向上する。しかしこの神社の原像は霞の中のままである。        

                                                                           上賀茂神社            

  

         下賀茂神社                                         摂社 太田神社

 

 

 

 神社(神地)の乗っ取り 3 大宮

 

 平安遷都前の京都盆地賀茂川は今の堀川筋を流れていて、遷都が決まると賀茂川の北を東に振って高野川と合流、さらに下流の白河の流れに合流させて鴨川としたので、今まで盆地に氾濫していた川は水量が低くなり、やっと平安京の都づくりが始まった。

 

 京都盆地の北部に初めて入植して来たのは、紀元2世紀頃茨木の銅鐸祭祀集団で(1参照)で、続いて桂川下流(京都市伏見区久我森の宮)にいた久我氏が、旧賀茂川〈堀川筋)を遡って北の台地に入植し、米作りを始めている。次第に周辺の部族を取り込んで久我国ー山城国風土記逸文ーを造った。魏志倭人伝」に記されている、ヒミコが倭国を統一するまであった百余国の一つであろう

 久我氏はこの移住地に故郷の久我神社水神を祀って、大宮と称した。京都市北区紫竹下竹殿町にある久我神社である。だが後から来た加茂族のために乗っ取られ、大宮は消えたが、都人には今も南北の大宮通りとして親しまれている。平城宮の大内裏は大宮通りを境とし秀吉も聚楽第の東の境にしたが、家康は一部を敷地に取り込み二条城を造った

 

 この久我神社を乗っ取った加茂族は、「山城国風土記逸文」によると、彼らは日向から葛城に来て、さらに山城の岡田を経て、久我国に移住して来た。恐らく五世紀頃のことであろう。彼らはもともと焼畑と狩猟を主業とする山の民で、鴨川以北の上賀茂を領域としていた。馬を駆けて弓矢で獣を仕留める流鏑ーやぶさめー行事は7世紀に盛大になり、騒動まで起こしたので、文武天皇は何度も禁止令を出している。後勢力の拡大につれ、久我族の大宮を乗っ取り、久我神の水神を加茂川上流の貴船神社に追いやり、祭神も神賀茂の祖賀茂武角身命かもたけつのみのみことーに入れ変えてしまった。その上貴船神社を上賀茂神社の摂社としたため、久我族は京の「元つ神」であることを主張、両社の境界争いで長らく抗争が続き、明治になってやっと政府の裁定で、貴船神社神官に久我氏が復帰し、争いは終結した。

  

 今も阪急電車に四条大宮駅があり、すぐ東に大宮通りがあるが、京都人でも大宮の本来の意義を知る人が少なってしまった。

   

                       京都久我神社                                      同 本 殿  

   

      乙訓郡の久我神社   

 神社(神地)の乗っ取り 2 伏見稲荷神社

 JR京都駅の南の八条通りを西に、八条油小路の交差点を南に下ると、伏見稲荷御旅所がある。

この地が七世紀初頭、泰氏の族長秦河勝に率いられた泰氏一団が、京都進出の拠点として、深草から移住して来た所である。その後彼らの一部は北の太秦や西の大井川の松尾に移り、川に堰を造つて農業用水を盆地に引き込み稲作を拓いて行った。 

 族長の河勝は風水思想から、後の平安京の紫宸殿の地となる所に移ったが、彼は聖徳太子側近であり、太子の死後皇位継承にからんで太子王子、山背大兄王子蘇我入鹿に殺された時,、太子に親しかった河勝は身の危険を感じ、播磨赤穂の手前坂越ーさごしーに逃げ、そこで亡くなっている。

 

 京都に残った泰氏は、養蚕・鍛冶のほか新開地で稲作に成功、京都盆地の大豪族となった。そして稲成り=稲荷信仰を司祭する。稲荷神社の祭神については論議があるが、私はイネには水と太陽が不可欠だから、それを稲成りのカミにしたのが稲荷信仰の原点ではないか考えている。

 

 稲荷信仰は中世の民族宗教勃興期に、稲荷山の藤森神社の神を南の伏見に追いやり、その跡に泰氏は伏見稲荷神社を造った。下の地図は京都市編纂の「京都の歴史Ⅱ」にある市内の神社氏子の分布図であるが、稲荷神社の氏子の集団は京都駅南の御旅所にあり、伏見の稲荷神社は藤森神社の氏子の地域になっている。毎年5月5日の藤森神社の祭礼の時、神輿三基が伏見神社に来て神輿を、担いでいる氏子たちは、稲荷神社に向かって「土地返してや 土地返してやと囃し立てるという。

 

 藤森神社が稲荷山山麓から南へ遷座した事情は何なのか。諸説あるが、この「土地かえしてや」の囃子言葉は何百年も受けつがれており、それなりの意味がある筈である。

 

    

              元稲荷・御旅所                   伏見稲荷神社

 神社(神地)の乗っ取り 1 京都 蚕の宮

 今では想像もつきませんが、6世紀頃まで先住民が祀っていた神社を、後に進出して来た有力部族が乗っ取った例がいくつかあります。それが現在有名神社として信仰されています。

 

 平安遷都前の京都盆地に、紀元2世紀頃の弥生時代、茨木を本拠とする銅鐸祭祀集団の一部が、淀川・桂川を遡って京の北部の地で、銅鐸を祭祀し、米作りに太陽の恵みを願う人々が入植して来ている。その痕跡が太秦の「木嶋座天照御魂神社」である。

 当時、茨木市東奈良は銅鐸生産の中心地で、その銅鐸で米作りの豊作を太陽に祈った。太陽神の天照御魂神社がこの茨木に3ヶ所も集中しており、それが大和・京都にも分祀されている。

 

 だがこの銅鐸祭祀は3世紀後半に終わり、銅鐸はなぜか神聖な土地を選んで地中深く埋められてしまった。この京都でも梅ケ畑向地町の山中から銅鐸4ヶが発見されており、天照御魂神社を造った銅鐸祭祀の人々が、太秦にいた証拠を残している。

 

 一方5世紀後半、シナ遺民が朝鮮半島の動乱を避けて日本に集団亡命して来た。指導者は弓月君という。その孫の泰酒君が葛城に住し、雄略天皇に絹織物をうずたかく積んで献上、太秦ーうづまさーの名を賜り、子の大津ーおおつちーは山城の深草に移り、更に7世紀初め族長の泰河勝葛野(京都)に移り、聖徳太子から賜った弥勒半跏思惟像広隆寺を造営して祀って以来、太秦の地が泰氏の集団移住地となった。

 

 2世紀に進出し、天照御魂神社を祭祀した集団も、有力職業集団の秦氏の隆盛にかなわず、養蚕の神を摂社に受け入れてから、この神社は乗っ取られて蚕の社となった。

 更に泰氏の神社(神地)乗っ取りの最たるものは、伏見稲荷神社である(続く)。

 

 

 

 

 

 網走のダイヤモンドダスト

  さして雪の降らない暖かい国で育ったせいか、純白の雪国の景色にはロマンを感じる。とはいってもとても住むことは出来ないから、雪景色を求めて何回か冬の北海道に出かけた。

 感動したのは十勝の富良野と、北の利尻島の大雪であった。しかし一番感動的だったのは、網走の

ダイヤモンドダストであった。

 かの有名な網走番外所の刑務所を外から眺めただけで、宿に入った。旅の常で夜は街の小料理屋に出掛けた。釧路の烏賊ソーメン利尻のホタテの刺身の美味しかったことが記憶にある。だが網走では地の魚としてはホッケしかない。人相の悪い板前にホッケを焼いてもらって熱燗で食べた。大味で大阪で食べるホッケと味は変わらない。しかし勘定だけは想定以上の高額であった。旅人と見てぼったくれられたのだろう。

 

 感じを悪くして外に出た。ところが北国の夜更け。空気は零下以下、空中の水分が凍って、キラキラと輝く、今まで見たこともないダイヤモンドダストの中に放り出されて、ホッケの勘定の高かったことも忘れて、踊り廻った。懐かしい網走のダイヤモンドダストの夜であった。

 

   

                                              雪の網走刑務所

 内侍原家と女俳人森川千代

 前項の称名寺は内侍原町ーなしはらーにある。

 ここにあった内侍原家は、興福寺一乗院(明治維新で取り壊され現在奈良地方裁判所の地)の坊官

であった。興福寺はその俗事務を一条院と大乗院で管轄して来た。l両院は摂関門跡寺で、寺の修理・建替え・僧侶の生活・大和全土にわたる荘園の年貢徴収・それを委託する大衆・国民の武士団や僧兵の管理、その他雑務一切を取り仕切る事務取締役で、一条院の坊官は源朝臣の出であった

 

 この内侍原家に、大和国榛原から若い娘が嫁入りして来た。名は森川千代といい、齢は満十九歳、

裁縫など家事のほか、書を好くし、また父古山が俳諧に通じていたので、千代も十四歳の頃から、伊勢の建部涼帒ーたてべりょうたいーに師事して俳句を詠んでいた。森川家も源朝臣北面之武士の家柄であったから、 同じ源氏の縁で内侍原家に嫁いだのであろう。

 

 ところが19歳の春に嫁いだ千代は、翌年2月、近所の女たちに誘われて、春日野に春菜摘みに出かけた途中、突然倒れて家に担ぎ込まれ、そのまま寝付いて息を引き取った。わずか結婚10ヶ月後の、まだうら若い20歳になった早々で、入籍も果たさないまま永眠した。

 

 俳諧師として旅に出ていた父の古山は、連絡を受けて直ちに南都に走り帰り、わが娘に取りすがって嘆き悲しんだ。そして千代の形見に、彼女の俳句を整理し、各地俳諧の同友から追善句を求めたら百三十句が集まり、千代の遺稿と共に、延享3年(1746年)、京都の橘屋治兵衛から、『雪石ずり』一巻として発刊、追善の供養とした。現在その書は東大図書館に遺されている。

 

   紅粉猪口ーちょこーも一りん咲きて華の春

   柳から糸口あけてはつしごと                  柳―柳行李のこと

   草に寝て蝶ともならず野馬かな

   やすむ木のない里もあり郭公ーほととずすー

   ゆきたけの揃わぬ影やことし竹                裄・丈ー着物の長さ

   蓮の実にはじかれて立つ蜻蛉かな

   野に遊ぶ鹿ーかーの子も嬉し着衣ーきそーはじめ

 

 享年二十歳とはあまりに悲しい。せめてもう少し長生きしてくれて、数々の俳句を遺してくれたなら、加賀の千代と並ぶ奈良の女俳人になったかもとして知れない。早世を悼むばかりである。

 

 

   

                      森川千代の生家跡に建てられた供養墓と句碑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奈良の称名寺

 近鉄奈良駅の北、奈良女子大の手前に内侍原―なしはらー町のバス停がある。そこを西に入ると、称名寺がある。興福寺の末寺であるが、阿弥陀仏を本尊とする浄土系のお寺である。 

 そしてこの寺が我が国の「わび茶」の祖、村田珠光出身のお寺である。

 

 シナ雲南省が原産の茶が、室町時代建仁寺を創設された栄西によって日本に齎され、それを栂尾

-とがのをー高山寺の明恵上人ーみょうえしょうにんーに贈られ、さらに宇治に分けられると、宇治の地味に合って銘茶となり、日本での茶の生産が本格化した。

 

 はじめ茶は禅僧の修行の眠気冷ましや、栄養剤として広がったが、それが禅寺の茶礼という作法に儀式化され、さらに茶の産地を飲み当てる闘茶ーとうちやーが、武士や豪商の寄り合う会所茶ではやり、それを銀閣寺を造った足利義政により、唐物の書画や茶道具を床に飾り、作法も一種威厳ある身のこなし方で茶が振舞われ、書院茶として日本における茶道の起こりとなった。

 

 その茶の作法に村田珠光禅の思想を加えて、茶の振舞も様式化し、客にも自然静寂のわび・さびの精神性をもとめ、京六条堀川西に数寄屋造りの四畳半草庵を建てて、我が国の「侘び茶」を創り上げた。その弟子に堺の豪商たちが集まり、四代目千利休が更に磨きをかけて茶道を完成させた。

  しかし子孫たちが大名に抱えられると、他の流派との格式の差をつける為、お手前などの茶の作法を複雑化し〈:現在62通りもあると言われる〉、今日の茶道は「わび」の精神性から遠ざかっている。      

 

 茶は湯を沸かして飲むだけ。名のある高価な茶道具は茶の湯の本質ではない。作法に縛られずに、よい茶を良い水で飲んで、無我の境地に達する。そうした茶の精神を理解し、楽しんで茶を点てるところに「わび」「数寄」の本当の茶のこころがある。      桑田忠親「茶器と懐石」講談社学術文庫

 

 侘茶の祖、珠光が出た奈良の称名寺では、年一回、5月15日に「珠光忌」が開かれて公開される。室町時代の茶室も復元され、抹茶も振舞われる。茶道を習っている人が多いが、その祖は京都千家ではなく、この奈良の称名寺であることは案外知られていない。是非公開日に友を誘って珠光忌に行かれることをお勧めする。事前予約が必要かも。

 

    

                  珠光画像                   珠光出身の称名寺

      

         珠光の茶室  称名寺復元            茶道の系譜 細川三斎は幽斎