内侍原家と女俳人森川千代
前項の称名寺は内侍原町ーなしはらーにある。
ここにあった内侍原家は、興福寺一乗院(明治維新で取り壊され現在奈良地方裁判所の地)の坊官
であった。興福寺はその俗事務を一条院と大乗院で管轄して来た。l両院は摂関門跡寺で、寺の修理・建替え・僧侶の生活・大和全土にわたる荘園の年貢徴収・それを委託する大衆・国民の武士団や僧兵の管理、その他雑務一切を取り仕切る事務取締役で、一条院の坊官は源朝臣の出であった。
この内侍原家に、大和国榛原から若い娘が嫁入りして来た。名は森川千代といい、齢は満十九歳、
裁縫など家事のほか、書を好くし、また父古山が俳諧に通じていたので、千代も十四歳の頃から、伊勢の建部涼帒ーたてべりょうたいーに師事して俳句を詠んでいた。森川家も源朝臣北面之武士の家柄であったから、 同じ源氏の縁で内侍原家に嫁いだのであろう。
ところが19歳の春に嫁いだ千代は、翌年2月、近所の女たちに誘われて、春日野に春菜摘みに出かけた途中、突然倒れて家に担ぎ込まれ、そのまま寝付いて息を引き取った。わずか結婚10ヶ月後の、まだうら若い20歳になった早々で、入籍も果たさないまま永眠した。
俳諧師として旅に出ていた父の古山は、連絡を受けて直ちに南都に走り帰り、わが娘に取りすがって嘆き悲しんだ。そして千代の形見に、彼女の俳句を整理し、各地俳諧の同友から追善句を求めたら百三十句が集まり、千代の遺稿と共に、延享3年(1746年)、京都の橘屋治兵衛から、『雪石ずり』一巻として発刊、追善の供養とした。現在その書は東大図書館に遺されている。
紅粉猪口ーちょこーも一りん咲きて華の春
柳から糸口あけてはつしごと 柳―柳行李のこと
草に寝て蝶ともならず野馬かな
やすむ木のない里もあり郭公ーほととずすー
ゆきたけの揃わぬ影やことし竹 裄・丈ー着物の長さ
蓮の実にはじかれて立つ蜻蛉かな
野に遊ぶ鹿ーかーの子も嬉し着衣ーきそーはじめ
享年二十歳とはあまりに悲しい。せめてもう少し長生きしてくれて、数々の俳句を遺してくれたなら、加賀の千代と並ぶ奈良の女俳人になったかもとして知れない。早世を悼むばかりである。
森川千代の生家跡に建てられた供養墓と句碑



