南禅寺の塔頭 天授庵 | 閑話休題

  南禅寺の塔頭  天授庵

  前章で南禅寺三門から、天授庵を俯瞰した写真を載せたが、天授院は戦国武将細川幽斎の寄進によるところが大きい。

 

 13代足利将軍義輝が、三好長慶に追われて近江朽木に逃がれていた時、侍女の清原宣賢の娘に孕ませた子を、側近の三淵晴員に払い下げた。晴員は京に戻り女を南禅寺の塔頭聴松院近くにかくまい、男の子万吉が生まれた。万吉は母方の祖父清原宣賢に育てられたが、6歳の時に三淵の兄、当時和泉半国の守護であった細川元常の養子になり、細川万吉と名乗ったが、後に足利将軍義輝に仕えて藤の字を与えられて細川藤孝と変え、京の西郊の勝龍寺城(長岡京市)の城主となった。

 

 ところが戦国時代の始め、将軍足利義輝が松永久秀に攻められ敗れた時、藤孝は奈良興福寺一乗院の門跡であった義輝の弟、義昭を伊賀に連れ出し、後各地を転々とし最後に織田信長を頼り、彼の応援で15代足利将軍となった。だが二人は不仲で、遂に信長は義昭と対立、藤孝は主人の義昭を見限り、信長に付き、家督を子の忠興に譲って、幽斎と名乗って丹波の宮津城主となった。

 細川幽斎は弓道の武術はもとより、和歌・連歌・茶道・謡・仕舞・書の文武両道の達人だが、時勢を読むのも長け、息子の嫁に明智光秀の娘ガラシャ夫人)を貰っているのに、夫である細川忠興は山崎合戦では舅の明智を助けず秀吉側に付き、また関ケ原合戦では秀吉方を見限り家康について功を挙げた。その功により肥前中津城主となり、三代目の忠利熊本城主となり、子孫は明治維新まで栄えて侯爵に補された。元総理の細川護凞はその末裔。

 

 細川幽斎は幼い頃に育った南禅寺との縁で、天授庵の方丈を寄進。幽斎夫婦の墓もある。ただ子の忠興は大徳寺に塔頭高桐院を造って熊本細川家の菩提所にしている。なお天授庵は幽斎の縁で、幕末には肥後藩の屯所となった。

 また細川家本家は最近まで天龍寺近くに豪壮な邸宅を所有していた。

   

           庫裏                    大方丈  

 

               大方丈の見取り図

              小堀遠州の虎の子渡しの枯山水の庭

 

 

            細川幽斎夫妻の圖

                   禅宗祖師図   長谷川等伯