閑話休題 -13ページ目

 声明〈しょうみょう〉

 いよいよ3月。奈良の二月堂のお水取りが始まり、春が近づく。

 水取の夜、許可を得て二月堂内陣で、籠り僧の声明を身近に聞かせてもらった。狭い内陣の観音菩薩の前で、「南無観世音」から始まり、最後の走り行では「南無観」「南無観」と短まって、沓音高く走り行や五体投地が行われる。聞いている者も法悦にひたる。

 

 海外の大教会のミサでは、ステンドグラスの窓から、七色の光が教会に挿し込み、大きなパイプオルガンで宗教音楽が奏でられ、非日常で荘厳宗教的な空間を創り出して、信徒の法悦を導き出す。マホメットのモスクでは声量のある信者のコーランによって、独特の宗教空間を創っている。仏教は漢訳されたお経を、漢音や呉音で読経して、宗教雰囲気を創っている。

 

  シナから伝来された声明は、日本では発生が多様化した。

   釈迦牟尼仏  しゃかむにぶつ  奈良時代の呉音

             せいきゃぼちふ  平安時代の漢音

             しきゃむにふ    禅宗の宋音

             しきゃめうにふ   黄檗宗の明音

 

 昔から読経の上手なお坊さんは皆から尊敬された。嵐山法輪寺の道命阿闍梨の法華経の読経は、「声は微妙にして幽玄, 聴く人随喜して賛美した」と言われた。「宇治拾遺物語」。現在私は京都宇多野の明光寺の芳賀和尚の読経が最高だと思っている。お経の内容は聞いていても分からないが、ただ声量豊かで、低音の寂のある読経は宗教音楽のリズムに合い、聞いていても法悦感に満たされる。

  仏教は読経の内容を重視した近代的平易さの口語訳を取り入れようとはせず、何百年昔からの漢音か呉音の読経を継承している。死者は聞いていても解る筈がなく、生者に何を説いているのか分からない。ただ仕来たりによる読経にお布施を払っている。

 

 大勢が合唱して読経する声明は、関西では東大寺・薬師寺・高野山・相国寺声明が有名である。中でもインド僧実忠和尚によって、奈良時代に二月堂に伝えられた観世懺法の東大寺二明は、西域的な雰囲気を伝えて、聴く人を恍惚の法悦に導いてくれる素晴らしい声明である。・・・・春が近づき、お水取りが始まる頃には、いつも私の脳裏によみがえってくる。もう一度聞きたいなあ・・・と。

 

  

                 堂内での韃靼の火               五体投地

 

 

 

 

 

 若山牧水の恋―俵満智

 町の図書館からこの新刊書を借りてきて読了した

 旧制高校の時、文学部の教授の「近代和歌」の講義があった。いろんな歌人の中で、教授が気に入った短歌を朗詠された。宮中歌会初めのような間延びしたテンポではなく、極めて抒情的な歌いぶりで、うっとりと聞き惚れたものであった。その歌人の中でも、,長塚節、若山牧水、吉井勇などは、私も最も愛した歌人であった。中でも牧水の歌は、青春の抒情をかきたてくれた歌であった。

 

    幾山河越えさり行かば寂しさの 果てなむ国を今日も旅ゆく。

    けふもまたこころの鉦をうち鳴らし うち鳴らしつつあくがれて行く

    白鳥は哀しからずや海の青 そらのあをにも染まずただよふ 

    山を見よ山に日は照る海をみよ 海に日が照るいざ唇を君

    ああ接吻海そのままに日は行かず 鳥翔ひながら死せ果てよいま

    海哀し山またかなし酔ひ痴れし 恋のひとみにあめつちもなし

    いざ行かむ行てまだ見ぬ山を見む この寂しさに君は耐ふるや

    海底に眼のなき魚の棲むといふ 眼の無き魚の恋しかりけり  

    白玉の歯にしみとほる秋の夜は 酒はしづかに飲むべかりけり

    はっとしてわれに返れば満目の 冬草山をわが歩み居り

 

 九州にいた頃、牧水の故郷を訪ねた。尾鈴山の北麓、耳川を前に大きな田舎家で、前も後も山、家の前の耳川の前だけ開けていた。

その後、岡山と広島の県境にあるという「幾山河・・」の碑を見たかったが、なかなか機会が訪れなかった。この歌碑は各地に3~4:ヶ所もあるという。牧水が昔訪れたという土地の地元の有志が、牧水の代表歌を歌碑に建てたのであろう。

 

 確かに放浪歌人らしい歌であり、寂しさの果とはどんなところか、日本人の心に訴える歌である。実は俵満智のこの小説で、彼が青春のすべてを捧げた恋人、園田小枝子の岡山の生家を見たくて、明治40年の夏休みに岡山に出掛け、そのついでに伯備線に乗って岡山の奥の新見市まで行き、小枝子との恋の苦しさ・寂しさを、旅心に誘われて歌った歌だとという事を知った。

 

 小枝子は既婚者で二人の子供まであったが、肺病を患い神戸の親戚に療養に来ていた折に、早稲田大学の学生だった牧水と知り合い、その後小夜子が上京して来て交際が愛情に変わって行った。四年間ほど激しく燃えた後、小夜子は縁戚の園田庸三と結婚。牧水とは別れる。牧水の抒情溢れ、今も多くの人々に愛し続けられている彼の歌の大半は、この小夜子との恋の喜び、苦しみ、悲しみから生まれたもので、旅を愛し、自然を愛した歌人という印象は、薄れざるを得ない。その後の牧水の旅の歌からは、このような抒情ある歌は生まれていない。

 生涯貧困であった。あまり故郷にもかえらず、母親にも不孝行な息子であった。それでも後に結婚した貴志子夫人は懸命に彼を支えている。二男、二女を生み、大正二年に亡くなっている。

  

      岡山県新見市二本松峠の歌碑

          

              九州の牧水の生家                 

                   

 

 

 

 

 

 赤飯

 久しぶりに赤飯を食べたくなって、3月1日の「おついたち」に作って食べた。美味しい!。全く美味しい!。

 若い頃、京都散策に出掛ける時、わたくしは四条烏丸のデパートで、見た目に美しいが、ちまちまして気取った京料理が好きではなく、赤飯とお酒を買って、お寺の庭の一隅で、お昼ご飯に一杯やりながら買って来た赤飯を食べた。おかずもいらない。ゴマ塩だけで十分。

 素晴らしい日本食だが、あまり外国人には知られていない。赤飯では値段を高く取れないから、飲食業者が敬遠しているのだろう。

 

 もち米とアズキを蒸し上げて、お祝いの日に赤飯を作る習慣は、恐らく江戸時代後半に出来たのだろうが、その原型は遠く縄文後期に日本に齎された古代米と言われる赤米にある。日本列島に一番早くイネが齎されたのは熱帯ジャポニカで、縄文時代後期と言われている。我々が食べている現代のコメは粘り気のある温帯ジャポニカである

 熱帯ジャポニカは山を焼いた山畑でも、灰を肥料に成長が早く、葉が長いのに風にも強く、灌漑の水も要しない。コメの色は赤く、粘り気なく、古代人は蒸して食べていた。いまでもカンボジアやラオスの山村に残っているという。稗・粟やその他の縄文食物よりも赤米は美味しく、古代人は特別なハレの日に赤米を蒸していたのであろう。それが今 日のもち米とアズキの赤飯になり、日本人特有のお祝いの食事になっと思われる。

 

 この古代米の赤米は、温帯ジャポニカのコメが優勢になって作付けが減ったが、中国宋時代の華南は赤米が主流だったと言われている。赤米は沖縄、南西諸島経由で齎され、五島列島・壱岐・対馬それに山奥の日向山地に多く栽培され、今でも赤米をご神体とする穀霊神事が、沖縄玉城村、屋久島の宝満神社、対馬の多久頭魂神社、岡山の国司神社に残っている。赤米は神様なのである。

 

 ご先祖が遺してくれた美味しい赤飯、今の若い奥さんたちも受継いでもらいたいものだ。餃子やラーメンばかりでは、日本食の良さが忘れられてしまう。アズキを茹でて、その出汁に一晩漬けて、蒸し器で蒸し、20分経ったらゆで汁を注ぎ、もち米とアズキをよく混ぜ、蒸し上がるのを待つだけ。子供の御祝い事、受験の予祝や試験合格には、もってこいの美味しいお祝いなのだが。

 

               

            熱帯ジャポニカ         温帯ジャポニカ           

              古代赤米          現在のもち米・うるち米 

 

 

 

 

 

   熱帯ジャポニカ古代赤米の・沖縄・九州の普及図  嵐作図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

ドナルド・キーン氏

 敬愛するドナルド・キーン氏が亡くなられた。1922生まれ。96歳だという。ご立派な大往生である。生粋のアメリカ人で、学生時代に日本文学にとりつかれ、日本に留学。日本文学を世界に紹介する傍ら、自ら日本文化の虜となり、東北震災後,最後の墳墓の地として日本に渡来、しかも日本人として国籍を取得されている。故郷を振捨て、人生の最終に帰化する。誰にも真似の出来ないことである。

 

 私は十数年前、彼の『足利義政』中央公論社に初めて出会い、巾広く、奥行きの深い彼の歴史・文化史学観に 吃驚した者である。

 家臣の相続の複雑な絡み合いから始まった、全く無意味な応仁の乱にも、庭先で戦闘が行われているのに、知らぬ顔で趣味の生活を続ける足利義政。時の将軍でありながら、世情混乱をよそに東山山荘に逃避。しかし彼の遺し、築いた銀閣寺の東山文化は、その後の日本文化のルーツになって、多大の影響を後世、いや今日まで遺している。

 

 史上最悪と言われた将軍は、すべての日本人に永遠の資産を遺した、唯一・最高の将軍であった。  

                                                                                               ドナルド・キーン『足利義政』

  

 たとえば建築で言えば数寄屋造り、玄関・書院、畳間、作庭、絵画,立花、茶道、和歌・連歌など、それに従事する者は身分にかかわらず最高の美意識を持つ者を選び抜き、阿号を持つ側仕えに重用。こころの面でも「わび・さび」を求め、その文化的レベルは歴史上の将軍にはみられず、その大半は今日の日本文化として伝えられている。美のコーディネイタ―として、後世に影響を及ぼした将軍であった。

 

 これらを私はドナルド・キーン氏の『足利義政』によって教えられ、中世に目を向けるきっかけとなった恩人である。末永く日本の地でお休み下さい。最後にドナルド・キーン氏が文化勲章を受章された時の言葉。

  古典文学を知ってこそ、自分の国を知ることになる。

 

 

 

 与謝野蕪村の夜色楼台図

 大阪環状線で天王寺駅の次が寺田町駅である。寺田とは天王寺の田畑のあった所で、蕪村は母と兄弟と共に、ここで名物の天王寺蕪を作っていたが、母が亡くなった後、単身江戸に下って俳諧の道に入り、生まれ育った天王寺の蕪の村に因んで、蕪村と称した。

 その後は京都に住して生涯を終えるが、俳句と共に絵画に独特の才能を現している。下の夜色楼台図は、京都東山の雪の夜を描いたという人もいるが、東山にはこのように家が密集していたとも思えず、おそらく与謝野蕪村の心象にあった冬景色を描いたものであろう。とにかくこの絵は見る人を夢幻の世界に誘ってくれるすばら作品である(国宝)。

  真ん中の二階建てらしい楼台にほんのり灯りがついている。裏山の小山も雪一色。立ち並んだ家々は降り積もった雪でひっそり静まり返っている蕪村は下地に胡粉を塗り、底光りのする墨色を出し、さらに屋根の雪の白い部分にも胡粉を塗って雪の質量を際立たせている。ただの白黒の世界だが、それでも色は奥深く、いくら見ていても見飽きない画である。

 

 私は蕪村が好きだ。芭蕉の研ぎ澄まされた透徹した感性に対して、蕪村は町民の持つ柔らかな感性を身に着けている。長らく江戸で感性を身に着けた芭蕉に対して、蕪村の大坂育ちの庶民の感性との差だろうか。

 それに蕪村は俳句だけではなく、俳画も素晴らしい。誰にも師事せず、独自で開いた画境には心服する。奥の細道絵巻には洒脱が溢れており、闇夜漁船図、鳶鴉図には、写実と幻想が融合している。素晴らしい才能の持ち主だった。

  

  

     家路に急ぐ親子の漁師

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水車問答

 田川の水を引いて、小さな水車が回っている。水車のほとりに樫の木が一本立っている。・・・水車が樫の木に呼びかけた。

 

 「おい樫君。君は年中そこにつくねんと立っているが、吾輩は忙しいのだ。15秒で一回転、計算すれば1年間2,103,844回転も廻っているんだ。それも人間の為に、米や大麦,粟、そば粉、うどん粉を搗いているんだ。それなのに樫君、お隣に澄まして、年がら年中そこに立っていて一体お前は何をするんだね」

 

 樫君は仕方なく口を開いた。

 「まあ聞いてくれ。黙って立っているのは恥ずかしい気もするが、造り主の仕置きだから仕方ない。それでも俺の頭は青空に伸び、俺の爪先は日夜地心に向かって入って行く。成長が俺の仕事だ。俺の葉蔭で水車小屋の人が昼寝をしたり、水の流れの岸を崩れぬように固めたり、子供が俺のドングリを嬉々として拾っている。

 俺の友だちは数年前に伐られて、甲州街道で東京の下肥を運んでいるし、或る者は下駄に、綺麗な肌目のものは茶室の床柱になっているし、人力車の梶棒にもなっている。失礼ながら君の心棒も、俺の先代のものだとは君は知らないのか。自分の運命は知らぬ、いづれ如何にかなるだろうが、その時が来るまでは俺は黙って成長するんだ。」

                            ――徳富蘆花『みみずのたわごと』より

 鍋料理

 なかなか春は遠いですね。寒いから鍋物は大流行。鳥鍋・蟹鍋・牡蠣鍋・フグ鍋・海鮮鍋・・・。この鍋物は日本独特の食文化。何といってもコンブ‣カツオの出汁は日本独特のスープ。北から南に海に囲まれた日本の恵みですよね。鍋物は縄文人の日常食だったのです。

 

 長崎県福井洞窟遺跡から発掘された隆線文土器は、今から10,000年前の世界でも最も古い土器の一つで、奥羽・関東平野まで広がっている。今まで何十万年もの間、石器で調理し、火で焼いていた食事が、粘土をこね、火で焼いて土器を造り、煮炊きするようになって、今までの生活が一変した。

 さらに8,000年前から始まった縄文海進により、100m程海水面が上昇、関東平野も前橋付近まで海が広がって、7,500年前の横須賀市の夏島貝塚から始まり、古東京湾周辺にヤマトシジミなどの貝塚が、全国の60%程集中して発見されている。

 

  だが貝はいくら食べても腹は膨れない。彼らを殻を剥ぎ、干し貝にして料理の味付けに利用したと思われる。鍋に水と干し貝を入れてダシをとり、シカ・イノシシ・ウサギなどの動物性タンパクに、川魚、アク抜きをしたドングリの団子、根菜、山菜などをごっちゃ煮にした鍋物は、栄養満点の常食として彼らの健康を支え、それが長い年月引き継がれて、現在日本人の冬の鍋物の国民食になって行った。

 

 さらに干し貝は山地との貴重な交易品であった。縄文中期の神奈川県相模原市の勝坂で造られた、複雑な曲線模様の芸術的深鉢勝坂式土器は、遠く甲州盆地・諏訪湖盆地からも発見されており、人々は干し貝を担いで交易に山路を辿ったと考えられる。また千葉県で造られた阿王台式土器は東京辺りを境界に、東の地方に交易に運ばれている。

 

 鍋料理は縄文時代人がヤマトシジミなどから考え出した、日本で生まれた栄養満点の古代食であった。今日も雨模様だが底冷えがする。美味しいダシをつくり、冷蔵庫の残り物でごっちゃ煮の温かい鍋料理が食べたい。我が家の冬の風物詩である。

 

  

           日本最古の土器・隆線文土器                      勝坂式土器

  

   阿玉台式土器

 

 

 

 

庭木のこと

 高度成長期、男は郊外に庭付きの家を持つことが夢だった。住宅ローンが整備されてない頃、一戸建ての住宅の入手は夢の夢だった。

その望みがかなえられると、こぞって庭木に凝り出した。築山に庭石を置き松や紅葉を植え、隣家との境界にカイズカイブキや目隠しの樹々も植えられた。その樹木は年々手入れをしないと荒れ家のようになってしまう。それに庭の雑草取りも一苦労で、老齢化が進むと庭の手入れのいらない、街中の便利なマンションに引き移ってしまう。もとの庭は荒れ放題。近所迷惑になる。

 

 しかし庭の効用も大きい。朝起きて整備された庭は清々しく映る。我が家垣根は毎年の切り込みに凝りて、硬質ビニールの建仁寺垣に替えてからすっきりし、手入れも不要になり、庭の樹木も一掃して、今は囲い込んだ竹藪、白梅、柚子と目隠しに三本の常緑広葉樹だけで、庭は狭いながらも芝生を敷き詰めて手入れしている。

 

 庭園を造る場合に、はじめは樹木や泉石の結構を競うて、ごたごたと大層に並びたてるが、段々歳が経ち、目が肥えてくると、それらの人為的な布置に飽きが来て、折角金に飽かして集めた磐石をとりのけ、泉水を埋め、築山を毀ち、結局無造作な、自然其のままの光景を賞美することになるということである.                   伊庭貞剛 『幽翁』  住友別子銅山公害を収めた偉人

 

  私が今までに見た中で印象に残るお庭は、黒澤明の別荘で、高台にあって眼下に連山の遠望を望む借景だけの庭であり、今や百歳になられる中曽根元首相の別邸は、百坪ほどの芝生の向こうに、アカマツなどの自然林があるだけで、人工的に植えられた樹木がない。自然そのままの景色であり、いかほどか老後の心を癒してくれる空間に思もえる。

 

 各地市内の公園も、庭園業者の提出する図面を査定するだけで全国画一的過ぎる。芝生公園の傍らに、櫟・榛・楢・栗などの雑木林があれば、昆虫捕り、カブトムシ捕り、どんぐり・栗拾いなど、子供が喜ぶ都会の田舎をどうして造らないのだろうか。子供と自然の結びつきは、人間の成長には欠かせられない筈である。

京都相国寺の宗旦稲荷

 烏丸今出川の同志社大学の北側に、足利義満が1382年に創建した相国寺がある。当初敷地は140万坪もあったというが、応仁の乱や、明治の土地取上げでかなり失われたが、それでも京都市内では広大な敷地を持ち、格式は南禅寺に次ぐ五山第一位の禅寺である。

 私は閑散とした境内の石畳を歩くと、いつも三好達治の「甃の上」や「少年」の詩を想い出す。

 

    甃―いし―の上                         少年

  あはれ花びらながれ                     夕ぐれ

  をみなごに花びらながれ                  とある精舎の門から

  をみなごしめやかに語らひあゆみ            美しい少年が帰ってくる

  うららかの足音空にながれ                

  をりふしに瞳をあげて                    暮れやすい一日に

  翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり             てまりを投げ

  み寺の甍みどりにうるほひ                 空高くてまりをなげ

  廂々に                             なほも遊びながら帰ってくる

  

  風鐸のすがたしづかなれば                閑静な街の

  ひとりなる                           人も樹も色をしづめて

  わが身の影をあゆまする甃のうへ            空は夢のやうに流れてゐる    

 

 

  さて宗旦稲荷は相国寺境内の中央にある法堂の参道右手にある.。

 江戸時代始め、相国寺の境内に一匹の白狐が住み着いていた。この狐はしばしば利休の孫宗旦に姿を変えて、時には雲水たちと座禅

を組んだり、和尚と碁を打ったり、皆から可愛がられていた。

 その狐が塔頭の慈照院が新しく茶室を建てた時、その茶室開きに見事なお手前を披露していたが、遅れてこの席にやって来た本当の宗旦を見るや、驚いて障子窓を大きく突き破って外に逃げてしまった。

 そのニセ宗旦の正体は寺に住み着く白狐であった。雲水たちはその狐を宗旦狐と名付け、祠を建て供養したのが宗旦稲荷だという。

 

  宗旦は利休の第二夫人おりきの連れ子小庵と、第三夫人のお幹の間に生まれたお亀とが結婚して生まれた、利休の孫。始めは茶道に興味なかったようだが、妻のお亀の叱責と激励で、貧困の中から利休の茶道を極めた。千家中興の祖で、子息は現代も三家元として続いている。名刹の相国寺まで、禅寺の中に鳥居を建てて祭るほど、宗旦は異例の名誉に預かっている。

 

   

 

                   

 レオナルドダヴィンチのメモ帳

 1452年春、イタリアのフィレンツェから50キロほど離れた、トスカナ地方の丘陵の丘ヴィンチで、セル・ピエーロが、召使いの女に男の子を産ませた。洗礼名をとってレオナル・ド・ダヴィンチと名づけられた。いわば私生児で、子供時代はわずかな教育しか受けておらず、むしろ家畜の世話や、畑仕事を手伝わせられたり、村の子供たちと丘に登って、村の景色を眺めたりして遊んだ。

 文字も自力で覚え、左利きであったが、芸術的な才能は幼い頃から認められていた。そこで父はフィレンツェのアンドレアの工房に入れた。彼はそこで職人としての基礎的な技術を学び、徒弟生活6年間を過ごし、その後も工房で働いた。

 

   レオナルドの時代、正式な教育を受けた者は、ごく早いうちから抜き書き帳を付けるように教えられていた。

   読んだ本から有益な文章を抜き書きして集め、

   著者別ではなく、

   主題ごとに纏める。

 その一つには、日常的な会話、たとえば心・体・仕事・遊び・衣服・時間の割り振り・住まい・食べ物など、別の一つには成句・金言・ことわざなどを、もうひとつには様々な著作の難解な一節を、もうひとつには自分自身にとって価値あると思われることを書きつける。

 ダヴィンチが死んだ時、推定30,000ページの手稿のメモ帳が遺されていて、その文章と素描は、およそ人間が考えられるすべての問いを題材にしていたという。現存するのは6,000ページ余りと言われる。          ――トビー・レスター ダ・ヴィンチ・ゴースト

 

 レオナルドダヴィンチーあの天才の豊富な知識は、長年にわたる膨大で精力的な抜け書き帳に書き留められていた。人間はすべてを脳に纏めて記憶し続けることは難しい。当然忘れ、消え去って行くテーマもあるからで、その時抜き書き帳があれば助かる。私がここに引用出来たのも私が抜き書き帳に書いていたからである。

 

 子供を持つ親たちに進言する。子供が高校生になった時、生涯自分の精神修養の糧と、趣味や、目指す職業、生活を豊かにしてくれる箴言を、書き止めるノートー抜き書き帳―を怠らずに書き続ける習慣を身に着けさせれば、将来膨大な知識を蓄え、ノーベル賞候補者になれなくても、社会に出て他に一歩抜き出た存在になること間違いないだろう。本人も意欲を持ち、続けさせることが出来れば・・・。