閑話休題 -12ページ目

 樋口一葉の日記

 今年の春の出足が遅く、四月になっても花冷えが続く。散策する気分にもなれず、お陰で読書して樋口一葉の日記を読み、驚いた。

 

 彼女の父と母は、一旗揚げるべく甲州の田舎から江戸に出て、八丁堀同心の株を買い武士の席に着く。まもなく御一新になったが、父は小吏として役所勤めをする傍ら、当時の旧武士に流行していた金貸しも副業とする。

 一葉は頭脳明晰な娘だったが、母の命により小学校高等科4年で退学、縫物などの手習いをするが、父は彼女の才能を惜しみ、15歳の一葉を、当時上流社会で有名だった、中島歌子の「萩の舎」に通わせた。歌では主席を取って才を褒められたが、貴族の同友たちに対し

屈辱に耐えた日々であった。

 明治20年樋口家の跡取りだった長男の泉太郎が肺炎のため死去、続いて2年後には父も他界する。明治時代、一家の収入源の大黒柱である男の働き手を失うことは、年金や福祉制度の無い時代にとっては、直接生活に響く大打撃である。

 母娘3人は家を売り、借家に移るが、次第に家計が苦しくなり、母は縫物で小金を稼ぎ、長女の一葉は質屋通いでその日を暮らすが、生活はますます苦しく、二人は知り合いに小銭の借金を頼み歩き、最後は借金して小さな文具店を開き、細々と生活する。

 

 一葉は日記でその様子を克明に伝えているが、私が感心するのは、

 ①どん底の貧困生活でも、常に一葉の上層社会志向は変わらず、決して悲観したりせず、自らの心も自暴自棄になっていない。

 ②明治の江戸は、同郷者と絆は強く、お互い行き来し付き合いは頻繁で、樋口家にも多数縁者が出入りし、貧しくても、泊めたり、食事

   まで一緒にしている。貧しいなりにお互いに助け合っている。今ではこういった交流は遠ざかって、明治が懐かしい。

 ③貧なる環境にあっても、一葉の向学心は強く、暇を見ては図書館にこもり、平安の古典から近世物までの古書を読み漁って、知識を

   蓄えている。毎夜忙しくとも半紙に日記を書き続け、自分の思索した思想を書き綴っている。

 ④初めは売文風の小説を手掛けたが、後半は自分なりの独特の情緒ある世界を描いている。紫式部以来の才媛と称えられ、文語体な

  がら、彼女の書く文章は素晴らし。い日本文学の頂点にある。

 

 最近の世情を見ていると、テレビなどの影響で、一億下層社会志向が強い。日本古典を読む人はおろか、感性にやわらかい遊び・食べ物・文化ばかりを選び、苦労しても上層社会を目指そうとする若者が少ない。だから日本の先行きに悲観する。若者よ!大志を抱け!

 

 

 

 

 

 桜と西行法師

 平安後期、武士で御所の警備役、「北面の武士】であった佐藤義清は、全身から香気が立ち登る桜の花ような美貌の皇后に恋焦がれ、「身分が違う」と一蹴された後、義清は敢然と武士を捨て、妻子をすてて出家してしまう。その皇后とは白河上皇が溺愛して育て、鳥羽天皇の皇后となった待賢門院璋子-たいけんもんいんたまこのことである。

 出家した彼は西行と名乗り、歌を詠みながら全国に遊行して歩く。世捨て人となった彼は、殊のほか桜が好きで、幾度か吉野山に入り,草庵を結び、桜を友として暮らしている。

 

  何となく春になりぬと聞く日より こころにかかるみ吉野の山              山河集

  咲きて見る桜を一枝まず折りて 昔の人のためと思わむ

  花見ればそのいわれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける

  春を経て花の盛りに逢い来つつ 思い出多きわが身なりけり

  

 なぜ西行はかくも桜の花にこだわるのか。昔の人とは誰なのか、心が苦しくなり、何を回想して思い出多きわが身と言っているのか。

れは身分違いの心の恋人、桜の花を連想させる顔を持つ、璋子皇后への思慕の外に考えられない。

  このことは世に知られており、世阿弥は能『恋の重荷』で、庭師が高貴な女御に恋をし、重い庭石を担いで回れば姿を見せるという事を信じて、遂に重荷に耐えかねて死んでしまう。このテーマは璋子皇后と西行を連想させるに十分である。

 

  願わくは桜の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃

  佛には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば

 

 西行終焉の地と言われる、大阪府河南町の弘川寺には、私は桜の頃二度訪ねたことがある。この歌のように墓には桜の花が奉られていて、前の広い庭で弁当を広げたことを思い出す。桜の頃は是非一度は訪ねて、西行を偲んで頂ければ。

 

    

      建礼門院璋子―京都法金剛院藏            西行の墓 弘川寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 甲子園球場

 昨日の春の選抜決勝戦は見ごたえのある試合であった。東邦高校(名古屋)のエース、石川昴弥君は投げては相手に2塁を踏ませず、自らも2本の本塁打を叩き出している。傑物であり、夏の甲子園でも活躍したら、今年のスカウトのトップの話題に登場するだろう。

 

 今日の話題は高校野球のことでなく,甲子園球場の事である。大正13年に阪神電車は砂浜の場所に「バカでかい球場」を造った。ここで試合したアメリカのベイブルースさえも「デカすぎる」と評したほどである。ところが野球の普及した現在では、東京の神宮球場とならぶ西の王者として、5万人も入れる観客席も満杯に近い。

 

 大正時代の大阪の経営者はスケールが大きい。大阪の関市長が御堂筋を立ち退かせて道路幅を広げた時、「町の中に飛行場を造るのか」と冷やかされたが、それでも現在道路幅は広いとは感じられない。今堂島川に立つ旧住友銀行本店のビルが重文に指定されたが、これも当時としては贅沢な輸入石材で造られ、堂々とした格調で今も大阪屈指の風格の建物である。

 それに阪神電鉄の場合、1935昭和10年、大阪タイガース(阪神タイガース)のプロ野球を甲子園を本拠として造ったが、この時経営者は球団としては初めての応援歌「六甲おろし」を、作詞佐藤惣之助、作曲古関祐而氏に依頼している。二人とも当時の一流メンバーである。歌詞もよく、曲は旧制高校のリズムに合い、今日でも人々に熱唱され続けている。

 

 要は「昔の人は偉かった」というしかない。スケールが大きい。特に2007-8年にかけてリーマンショック後の大阪の企業経営者は、大阪の料亭・お茶屋をつぶし、東京に本社の登記を移し、大阪ガス跡の空き地を利用する時大阪の大企業は逃げ、結局京都の京セラに頼んで球場を造ってもらっている。そして最も残念なのは阪神電鉄が事実上消滅したことである。100余年の歴史を持ち、梅田一等地に多くの土地を持ち、阪神タイガースの人気球団をもつ阪神電鉄が、若手の買取集団に追い回され、阪神の社長自体が判断不能の状態に陥ち入って、永年蓄えて来た財産をそっくり阪急電鉄に以て行かれてしまった。一大痛恨事である。時代と共に社長のスケールが小さくなって行くのが残念である。頑張っているのは近鉄だけである。

 

 


 

 

 春は名のみの

 いよいよ4月、桜の本番を迎えることになったが、今年は春が遅い。天気晴朗にして空に雲一つない日もあるが、風が冷たく、桜も未だ五分咲きという程度で、春本番を迎えたという実感に乏しい。花見弁当を作ったが桜の下に行く気になれない。桜は関東に早く咲き、関西は後れている。例年にない現象だ。・・・「春は名のみの 風のさむさよ」

 

 今日待望の新しい元号が決まった。「令和」という、聴きなれない年号だ。昔から漢書からの引用がすべてだが、今回は日本の最大の古典『万葉集」の梅を愛でる春の歌の前文から引用したという。それも日本式漢文で和文の匂いがしない。万葉時代梅は桜より好まれて、梅見は上流階級の春の遊びであった。菅原道真が梅を愛したことは有名である。

 

 だが年号は昔から公家の側近者によってつけられている。庶民の公募というわけにはいかない。いよいよ平成も今月限り。新しい令和の時代も日本は良き時代であってほしいと祈りたい。新天皇即位には国旗を出してお祝いしよう。

 

 

 

テニスの錦織圭選手

 現在世界のテニス界で大活躍中の錦織ーにしごり―選手がいる。錦織とは変わった名である。

  この氏族は錦を織る手工業者で、紀元5世紀頃、百済から日本に帰化して来たと言われている。だが錦を織る技術は、シナの揚子江下流にあった呉国が本場でー呉服の語源ー、前224年に中流の楚国に滅ぼされた後、一部は北の山東半島から、海を渡り朝鮮半島の南、百済国に避難したが、更に五世紀ごろ高句麗(北朝鮮)が南進して来たため迫害を逃れ、錦織の技術を以て日本に渡来して来た。

 

 彼らは河内・大和に住み、朝廷に錦織物を貢納していたが、663年斉明・天智天皇の百済救援の戦いに、唐・新羅連合軍に敗れた際、錦織氏の一部は琵琶湖の大津に移住、そして天智天皇に近江京に遷都を薦め、宮殿一帯の土地を寄進している。

 京が飛鳥から近江に遷都された最大の理由は、唐・新羅連合軍の日本進攻の噂のためであったと思われる。近江は一旦急がある時は

東国への足場が良かったからである。錦織氏はシナの動きを故国百済から入手していたのであろうか。

 

 近江京は比良山系が琵琶湖に雪崩れ落ちる要害の地に築かれている。敵の侵攻に備えたものである。だが都はたった5ヶ年(667~672)、天智天皇崩御後に起こった壬申の乱で跡形もなくなってしまった。

 だが当地には有力帰化人が沢山移住していて、初期仏教の発展に寄与した。大友村主ースグリー氏は天武天皇に妃を出し、大友皇子が生まれている。三井寺は彼らの創業の寺であり、また三津首―オビトーからは、比叡山を開いた天台宗の最澄が出ている。彼ら帰化人は日本の文化黎明期に大きく寄与した氏族である。その他錦織・穴太‣志賀氏などがある。

 

 しかし折角の新しい都も、戦禍に荒廃し、天武天皇は再び都を飛鳥に遷された。その後近江京を訪れた柿本人麻呂は昔を偲び、

 

  近江の海夕波千鳥汝ーなーが鳴けば こころもしのにいにしへ思ほゆ              万葉集3-266

 

    さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらのやま桜かな                     千載集  平忠度

 

 

            山と湖を前後に持つ近江京

 

          近江京復元図  以上大津市資料より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大相撲春場所

 例年になく盛り上がった今場所を、私は毎日テレビ観戦した。地元出身の豪栄道を応援した。最後の、鶴竜・高安・貴景勝戦に頑張った。しかし結果は白鳳・逸ノ城のモンゴル勢にあえなく敗れた。モンゴル勢は強い。体の骨格、背丈からも日本人を抜いている。それでもモンゴル勢が勝てば場内は拍手で彼らを祝う。大相撲では国籍・人種を問わない。

 

 日本の国技である大相撲の歴史は古い。4世紀の垂仁天皇の時代、出雲の野見宿祢が大和の当麻蹴連と勝負して勝ち、子孫たちは朝廷に仕え、かの天満の天神さん、菅原道真公もその一族である。

 野見宿祢が出雲から出て来たとすると、やはり朝鮮半島の影響を考えざるを得ない。遥かルーツは騎馬民族の遊戯であった相撲が、朝鮮を経由して出雲に齎されてのであろう。もともとモンゴルの肉食系と、日本人の草食系とは体力からして差がある。

 その相撲は日本に渡来すると相撲道というかたちに収れんされる。〇〇道というのは日本人が好きな形式で、茶道・華道・剣道、いずれのスポーツも日本流の道の型にはめ込む。世界中から力士が参加するが、国技の日本の相撲道に皆従っている。外人力士といえどもちょんまげを結い、裸になって廻しを巻き、清めの塩を撒いてシコを踏む。この日本の形は絶対的なのである。これを守らなければ土俵に登れない。基本的には江戸時代の神社奉納試合に準拠して、神式方式の型にを踏襲している。

 

 この形があるからこそ、観客もルールに従って観戦する。出身県別の郷土贔屓があっても、どこかの国のように、一国の民族意識、郷土意識から、興奮すると観客は騒いだりしない。日本流のマナーをみんなが守っているから席内では静かである。日本っていい国だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 趣味と人生

 この頃、有名な建築一級士による古家屋のリホームか゜、テレビ放送されて人気を呼んでいる。見ていると改築される前の、物で溢れ返った部屋を見てるいと、よくもこのような環境で生活していたものだと驚く。家が広い狭いの問題ではなく、整理されない品物が部屋中に溢れ返って、明らかに住んでいた人の趣味や性格・人格・品格がはっきり表れている。

 

 昔から婿になる男の判定は、彼の本箱を見ると趣味・識見・人格・品格が分かると言われている。いくら財産のある大きな家に住んでいても、婿となる息子本人の本箱にある書籍を見れば、その男の将来が想定でき、結婚の始めは華やかでも、後半にかけて没落しそうな予見さえ想定することが出来る。学校の勉強をしても、卒業後は大半忘れてしまうが、買った本を読むと知識が残る。だが問題は本の数ではない。その本の内容である。

 どなただったか、人間の趣味に等級をつけておられた。

 

  ①はスポーツ新聞を読み、テレビで野球・サッカーなどを見るとか、カラオケ、オーバー・ショッピングに傾く人。

  ②は自分でスポーツをする人。読書も時事・小説などを読む人。音楽会や演劇・美術展に行く人。

  ③は自分で音楽を演奏し、絵を描き、自ら演劇したり、自分なりの小説や文章を書く人。要は自分で考えて実行できる人。

  ④は思想・哲学・物理・医学などの分野で、深く思索する人。

  最後は人格円満にして、宗教的境地に達した人。

                      
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

                                                                                

                                            

                                               

                                                  

                                     

葬式の変化

 筋向いの主人が亡くなられた。87歳ぐらいであった。もと松下電器の工場長の技術者であった。近くの葬儀場で告別式が、家族葬で行われたようだ。ここ10年くらい前から、都会では葬儀は殆ど斎議場で、しかも簡単に行われている。昔みたいに新聞広告もしない。参列者も昔に比べて激減し、死者はひっひり此の世から去って行く。物の引っ越しと同じである。

 

 5世紀頃の大王は生前から壽墓を造り、何千人の人夫を動員し、何ヵ年もかけて大古墳を造った。その最大が堺市の仁徳天皇陵である。埋葬には家族・親族・知人・従者が集い、重々しく弔辞を捧げ、後継者の世代交代のお披露目の儀式でもあった。貴重とされた鏡・玉・装身具を死者と共に埋めた。あまり費用が掛かり過ぎるので、大化2年 646 薄葬の制が決められて旧俗が廃され、その後大宝3年 703 には持統大上天皇が火葬にされて、それが一般に普及した。

 その後、江戸時代を通じて、死者は自宅で親類縁者に看取られて旅立つ自宅葬が、檀家のお寺で行うのが一般的であった。隣近所から手伝いの応援があり、葬送者への煮炊きの供応もあって、故人を偲んで酒食が振舞われた。その賑やかな宴は死者も喜ぶとされて、盛大にするのが跡継ぎの、また何よりも家の自慢であった。

 

 ところが戦後家制度が崩壊し、核家族化となって子供は都会に出て生活、それに見合って各地に葬儀場が出来、近所の手伝いもなく、すべて葬儀社が執り行ってくれるので、遺族は助かる。葬儀自体も簡単なものは直葬のほか、身内だけで行う家族葬が一般化して、

火葬後はその日の内に初七日を執り行い、近親の参列者に酒食が振舞われて葬儀は終わる。故人の知り合い、友人などは葬儀の後日訃報で知ることになる。

 

 人、恵まれて人間に生まれ、多くの人との交流を重ねて人生を過ごし、それら知人とのお別れもせずに冥界に赴く。そういった人生の終わりは寂し過ぎる。私はせめて幾人かの知人の参列を得て、旅立ちたいと思っている。そのために古式に則り、告別式を自宅葬とすべく用意している。宴会も賑やかにしてもらいたいと思っている。

 

 

 

 

 文人たちの茶道観

 若い頃夏目漱石の『草枕』を読んで、以来気になっている文章がある。茶人に就いてである。

 

 「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りして、きわめて自尊的

  に、きわめてことさらに、きわめてせせこましく、必要もないのにきつきゅう(つつましくひざまづいて)、あぶくを飲んで結構がるのが茶

   人である。あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、麻布の連隊の中は雅味で鼻がつかえるだろう。回れ右、前への連中は、こと

   ごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育の無い連中が、どうするのが風流が見当付かぬ所から、

   器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これで大方風流なんだろう、とかえって風流人をばかにするための芸である。」

                                                                                                                                               夏目漱石『草枕』                                    

    利休が「わび茶』を完成させてから400余年。日本人にわび茶は普及したが、お茶と云えば嫁入り前の娘の行儀作法の見習いか、

  上流社会のシンボルのような取り澄ました印象や、金に飽かした茶会など、うさん臭い感じがするという人もある。

  茶道に親しんでいない人には茶も利休も日常生活にはほど遠い。しかも好事家は道具を競い、今や茶の湯に親しむのも金がかか 

  る遊芸になってしまった。わひ茶は本来貴族趣味の否定、農家風情の露地わび茶にあったのに、今日の茶の湯は本来の茶の湯と

  違って、まったく違ったものになってしまった。                                                        栗田勇『利休』  

                

  利休は茶の湯とは茶を沸かし、茶を点てて飲むばかリなる事と知るべしと言ったのに、名器集めに輪をかけた。 それが本来のわび茶

  なのか。本阿弥光悦は利休の茶の湯の器量は名人ながら、珍器にこだわり過ぎて驕慢だという。見事な名物はかえって茶には邪魔

   者、 わび茶の本質とは、茶を通して無我に没し、自然とともにある喜びを楽しむことにある。      野上弥栄子『秀吉と利休』

 

   枚方の川宿〈鍵屋のこと〉から取り入れた穴ほどの躙り口、果たしてわび茶に必要なのだろうか。利休の不逞で傲慢な独りよがりで

  はないのか。主人は茶道口から立って入るのに、客には身を屈めて茶席に入れという。もてなしの心を大事にする茶の湯にしては

  理に合わない。                                                      同上

 

  茶は湯を沸かして飲むだけ。なのある高価な茶道具は、茶の湯の本質ではない。作法に縛られずに、よい茶と良い水で茶を飲んで

  無我の境地に没する。そうした茶の精神を理解し、楽しんで茶を点てるところに『侘び』『数寄』の本当の茶のこころが゛ある。

                                                                  桑田忠起「茶器と懐石」

 

 

 

 

 

 

室町時代の日本建築ー銀閣寺の同仁斎

 第8代室町将軍足利義政は、10年に及ぶ応仁の乱の混乱期、政治から逃げて東山に籠って銀閣寺を建て、さらに東求堂の建築の外、茶・立花・造園に優美な才を発揮、日本文化の画期的な出発点を築いた。その代表作、東求堂の同仁斎について、森田恭二氏は、

        

           東求堂                    内部部屋割り

 

         同仁斎

 

 「同仁斎に着座して、書院造の窓から眺めた山荘の庭園は、さながら一幅の絵であった。同仁斎の室内は、少し高めの天井、褐色に輝く床柱、華麗な趣の違い棚が目に止まり、すべての美しさに加えて、星霜五百年余を感じ゛させる重厚感と幽玄枯淡の味わいがあった。」

 

 奈良・平安時代の建築は窓がなく、蔀-しとみーの上げ下げで光を取り入れていたのを、義政は畳・障子を取り入れ、障子を開けることで庭の四季を鑑賞し、さらに天井板、床板、違い棚を作らせて書籍や唐請来の珍物を飾った。この同仁斎の書院造の建築様式が、今日まで続く日本建築の原点となった。500年前の将軍足利義政の美意識は、すべての日本人に永遠の資産を遺した。ドナルド・キーン『足利義政』。彼の美意識は建築に止まらず、書画・唐請来の美術品、また今日まで続くお茶・お花・作庭の原点も作っている。

 

 この建築の美さには、「板」を作る大鋸―おがが唐から導入されたことにもよる。今まではちょうなで木を梳って板にしていたが、下図のような二人がかりで引く竪引き鋸が出現した。天井板・床板・違い棚の板が出来て、日本建築を華やか変わったのである。板作りの大工商売が次々出来て、板を車に乗せて都中に売り歩いたという。それまでの貴族の寝殿造りには天井板が無かったが、この板で天井が張られ、座敷の棚が作られ、新しい日本家屋づくりが始まったのである。