文人たちの茶道観 | 閑話休題

 文人たちの茶道観

 若い頃夏目漱石の『草枕』を読んで、以来気になっている文章がある。茶人に就いてである。

 

 「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人ほどもったいぶった風流人はない。広い詩界をわざとらしく窮屈に縄張りして、きわめて自尊的

  に、きわめてことさらに、きわめてせせこましく、必要もないのにきつきゅう(つつましくひざまづいて)、あぶくを飲んで結構がるのが茶

   人である。あんな煩瑣な規則のうちに雅味があるなら、麻布の連隊の中は雅味で鼻がつかえるだろう。回れ右、前への連中は、こと

   ごとく大茶人でなくてはならぬ。あれは商人とか町人とか、まるで趣味の教育の無い連中が、どうするのが風流が見当付かぬ所から、

   器械的に利休以後の規則を鵜呑みにして、これで大方風流なんだろう、とかえって風流人をばかにするための芸である。」

                                                                                                                                               夏目漱石『草枕』                                    

    利休が「わび茶』を完成させてから400余年。日本人にわび茶は普及したが、お茶と云えば嫁入り前の娘の行儀作法の見習いか、

  上流社会のシンボルのような取り澄ました印象や、金に飽かした茶会など、うさん臭い感じがするという人もある。

  茶道に親しんでいない人には茶も利休も日常生活にはほど遠い。しかも好事家は道具を競い、今や茶の湯に親しむのも金がかか 

  る遊芸になってしまった。わひ茶は本来貴族趣味の否定、農家風情の露地わび茶にあったのに、今日の茶の湯は本来の茶の湯と

  違って、まったく違ったものになってしまった。                                                        栗田勇『利休』  

                

  利休は茶の湯とは茶を沸かし、茶を点てて飲むばかリなる事と知るべしと言ったのに、名器集めに輪をかけた。 それが本来のわび茶

  なのか。本阿弥光悦は利休の茶の湯の器量は名人ながら、珍器にこだわり過ぎて驕慢だという。見事な名物はかえって茶には邪魔

   者、 わび茶の本質とは、茶を通して無我に没し、自然とともにある喜びを楽しむことにある。      野上弥栄子『秀吉と利休』

 

   枚方の川宿〈鍵屋のこと〉から取り入れた穴ほどの躙り口、果たしてわび茶に必要なのだろうか。利休の不逞で傲慢な独りよがりで

  はないのか。主人は茶道口から立って入るのに、客には身を屈めて茶席に入れという。もてなしの心を大事にする茶の湯にしては

  理に合わない。                                                      同上

 

  茶は湯を沸かして飲むだけ。なのある高価な茶道具は、茶の湯の本質ではない。作法に縛られずに、よい茶と良い水で茶を飲んで

  無我の境地に没する。そうした茶の精神を理解し、楽しんで茶を点てるところに『侘び』『数寄』の本当の茶のこころが゛ある。

                                                                  桑田忠起「茶器と懐石」