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 大阪都構想への期待と夢

 大阪維新の会が掲げる「大阪都構想」は、府市が合併し、地区割を整理統合、二重行政の幣を失くし、未来に飛躍する原動力を創るとすれば、府民としても大いに期待したい。ただ行政の改革に止まらず、大阪の新たな都市造りに挑戦して貰いたい。私の夢である。

 

 江戸期の大阪は日本の商業の中心であったと共に、上田秋声、井原西鶴、近松門左衛門らの文学、文楽、浄瑠璃の上方歌舞伎など、文化的な都市でもあった。それが明治維新後、薩摩藩の五代友厚によって重商主義に偏向、江戸期唯一の理化学学校ー大阪舎密局せいみきょくーを東京大学や、京都の長州藩の槙村正直知事に譲渡、のち大阪の普通校第三中学校も京都に譲り、それが京都第三高等学校になり、理化学部を中心に京都大学に発展。大阪生まれの理化学は京都で花咲いた。現在京都には有名な理科学系会社が多い。

 五代友厚は大阪では商業や証券業の発展に寄与したが、本来首都にあるべき造幣局を誘致し、銅地金の納入を独占した。彼は大阪の将来展望を誤り、理化学の工業化は進まず、商業も東京に座を奪われ、次第に大阪の地盤沈下が始まった。

 明治以降この150年の落差は取り戻すことは出来ない。日本の商業の中心は将来とも世界都市の東京には追いつかい。であればこれからの大阪の再興を江戸時代の伝統であった文化都市としての再生はどうだろう。国内はもとより、外国人観光客を集める、中の島地区を中心とした文化・芸術都市である。提案次の通り。

 

①府と市の合併で、中之島の市役所を大阪府庁に移転、統合、合理化する旧市役所は常設の総合美術館とし、天王寺の市所蔵の美

 術品、所蔵する近代美術品の一部を移し、海外美術品の展示をしたり、また1~2階は市民の絵画・彫刻・工芸品などの展示会場とし、

 近くの市立東洋陶磁器博物館と合わせて美の回廊とする。

②市役所向いの日銀大阪支店は、手形・小切手などの現物交換等はすべてコンピューター化し、時代的な役割を終えて、現地に止まる

 積極的な理由が亡くなった。よって市所有地の近代美術館計画地か、その他の府市所有の地と交換し、日銀に移転してもらう。

  その跡地に大阪都総合劇場をつくる

   1階に大会場1、交響曲・オペラ・歌舞伎などを、

  2階に中劇場1、創作劇やピアノ・バイオリン・室内楽の音楽会なとを

  3階に小劇場2、1つは落語・浪曲・漫才の上方演芸、もう1つは一般の創作劇場として提供する。なお小食堂・ビュッフェを併設する。

③ 中之島の大阪府立図書館を建て替える。一時反対運動があったが必要な個所は移転すればよい。大阪都として都心型大型書館が

 対必要である。

  新図書館は地下2階、地上18階建ての高層図書館とし、

  地下2階から地上1階までは、機械室・蔵書室・事務所

  地上2階から8階までは一般図書館

  地上9階から12階までは将来を担う学生の自習を兼ねた図書館

  地上13階から16階までは部屋を小分けして市民の勉強室・セミナー会場・趣味の会などに部屋貸し、時間貸しをする。

  地上17階から18階は事務室・蔵書庫

  地上18階は一般市民も楽しめる展望レストランとする。

造幣局を東京都に移転する。その跡地に大阪都理化工学大学を創設し、各地大学の理化学部門学生の選抜試験を行い転学させる、

  昔の舎密学の復帰を目指し、少数精鋭の特色ある理化工学金を大学とする。

 

 大阪はたとえ外人観光客やカジノなどの観光収入が膨れても、質的に大きく成長出来ず、将来アジアの場末国になりかねない。パリのような芸術的・観光都市とし、一方理化学の先端技術の復活なくしては、100年後の大阪は三等都市並みになる。膨大な資金が必要だが、時間をかけ、寄付を集め、知恵を絞り、カジノ都市のイメージから脱却せねばならぬ。それが大阪の品格を高める、基本的な条件であり、究極の大阪維新である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大伯皇女-おおくのひめみこー墓

 朝鮮の中でも親密な百済が、新羅に攻められて危機にあった時、中大兄皇子〈後の天智天皇)が、宮廷百官を引き連れて、百済救援に向かわれた。斉明天皇7年661年正月、浪速津を出航して、3月那大津(博多)に着き、多数の兵船が玄海を渡って行った。ところが東海岸の白村江の河口に集結していた、多くの日本の艀のような小船集団に、唐と連合していた、唐・新羅連合軍の大船から火を投げ込まれ、日本軍は壊滅した。663年8月の事である。その報に慌てふためいた皇子は、倉皇として大和に逃げ帰る。それでも敵の日本進攻に備えて、東国に足場の良い近江志賀宮に遷都する。

 

 この時共に西下された、皇弟の大海人皇子と、皇妃の太田皇女との間に、瀬戸内海牛窓の大泊の海の船中で大泊皇女が生まれられ、続いて翌3年には那大津で大津皇子が産声をあげられた。ところが相次いで二人の子を産まれた太田皇女は、永年の船中生活と異郷での出産に体を損なわれ、大和に帰ってから急に薨去された。ここから遺された二人の子供の悲運が始まる。

 

 天武天皇には下表のように多くの皇妃があった。中でも太田皇女は天智天皇の長女であり、生きておられたら皇子の大津皇子は皇太子として次の天皇になる第一資格者であった。ところが後ろ盾となる母の太田皇女が亡くなり、天智天皇の後継を巡って皇子の大友皇子と天武天皇が争われて天皇側が勝利された壬申の乱ーじんしんのらんーで、天皇と共に辛酸をなめられた太田皇女の妹が天武皇后となられて、宮中での地位は盤石となった。後の持統天皇である。

 皇后にも一子があった。草壁王子である。だが゛文筆もすぐれて博覧に通じ、長じては堂々たる体躯で、武芸にも通じていた大津皇子は人々から期待されていた。それを持統天皇は妬み、大津皇子の失脚の機会を狙っておられた。その機会が天武天皇の薨去直後に起こった。天武天皇が亡くなられると見に危険があることを察され、姉の伊勢斎宮の大伯皇女に逢いに行かれ、別れを惜しまれたのが発覚。

 当時伊勢神宮は天皇・皇太子以外の参拝が厳禁されていた。私幣禁断の制という。これを理由に捕らえられ、処刑されるのである。

 

     百伝う磐余の池に無く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ         万葉集3-416

 

   大津皇子の有名な辞世の句である。

 一方14歳で伊勢斎宮になられた大伯皇女は、一人の弟が死を賜ったために斎宮を解かれ大和に帰られた。彼女の悲運の歌が万葉集に数首遺されている。

 

     わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて 暁露にわが立ち濡れし     万葉集2-104

     二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ            105

     神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに          163

     見まく欲りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに                 164

           うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世とわが見む              165

      磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに       166

 

  3首目以降は大和に帰って詠まれた弟を忍ぶ悲歌である。品のあるすっきりした容姿の美貌で、慎ましい性格の大泊皇女が、血を分けた唯一人の弟を、処刑された後の彼女の心情を察すると、これらの歌は私の胸を打って止まない。この萬葉集の歌のお陰で千四百年前の故事が鮮やかによみがえってくる。私は皇女を慕い、冥福を祈るために新緑の頃を見計らって彼女の墓前に出かけた。

 

 JR奈良駅から和歌山に向かう列車に乗って、御所市から2つ目の掖上ーわきがみ―駅で下車、北に向かって10分程歩くと、高取町越智の車木にある斎明天皇陵に着く。静かな丘に斉明女帝、娘の孝徳天皇の間人皇后、甥の建皇子が合葬された陵である。

 その直ぐ下に大泊皇女のお墓がある。皇女が薨ぜられたのは御歳41歳であった。まだ若い年頃なのに苦難の運命に耐えられた薄幸の皇女であった。その皇女がここに新緑の緑に包まれて静かに眠っておられる。私は辺りの新緑に染まりながら、皇女を偲び合掌した。爽やかな気分に満ちていた。

                 

                                                     大津皇子像 薬師寺

             大泊皇女の墓

  銀閣寺・弄清亭ろうせいていの障壁画   『流水無限」

 

  銀閣寺の本堂から東求堂に向い、手前の回廊を北に進むと、弄清亭ろうせいていに着く。10畳と6畳の離れで、足利義政がお香を焚いて楽しんだという奥座敷である。それが平成8年改築され、その改築に合わせて、奥田元宋ーおくだげんそうー画伯〈1912~2003)が3年間かけて制作された、現代日本画の障壁画が掲げられた。

 部屋に一歩足を踏み入れると、壁一面に山奥の渓流が流れ、溢れる春の新緑の中に深山桜が一本、紅の色彩を添えた障壁画が眼前に現われる。一見してびっくりもびっくり。度肝を抜かれ、圧倒されて仰天する。自失呆然!。余りの迫力にしばらく立てない。絵画なのに渓流のせせらぎの音が聞こえるようで、翠滴る渓流の山中に放り込まれて、静寂感と清涼感が胸いっぱいに広がる。凄い迫力のある障壁画である。

 このお部屋は特別参観が許される。事前に調べて申し込み、是非一見して貰いたい。京の隠れた新名所でもある。

 

 銀閣寺は障壁画の逸品がそろっている。お寺の審美感が鋭い。銀閣寺のお庭見学の前に、本堂・法丈の日本美術史上の巨匠の障壁画の名品を拝観すると、心が洗われるような気がする。

  

                与謝野蕪村 ゛棕櫚にムクドリ」              

         同   飲中八仙図 

 

            池大雅の「琴棋書画図」。

 

 端午の節句

 節句とは一年の中の節日を祝う事をいう。

 日本は弥生時代から二と八の数字を好んだ。特に八は末広がりの目出度い数字で、大八島国、八百万の神などに見られる。ある学者は縄文時代の数字は、十が無く八が終わりの数だったという。

 ところが四世紀にシナから奇数を壽数とする考えが日本に広がった。そして奇数が並ぶ月日を節句というようになった。

   1 月  7 日  初節句

   3          3          上巳 雛節句

   5          5          端午の節句

    7          7          七夕

   9          9          重陽の節句

  この5月5日は男子の節句とされ、菖蒲や蓬を軒に挿して邪気を払い、また粽や柏餅を食べる習慣が広がった。 中世の武士社会になると、菖蒲の形が剣の形に似ていることや、ショウブが尚武の語呂合わせにより、近世から武者人形・甲冑を飾ったり、後世には武家以外の家庭でも、男の子の成長を願って武者人形や鯉のぼりを立てるようになった。

 

 日本で粽を食べる習慣がいつ頃始まったか分からないが、これはシナの楚の国の王族屈原の故事によるものである。紀元前4世紀頃、揚子江中流にあった楚の国が下流の越の国を下し、南シナに強力な国を造り、王や家臣は奢りに毎夜酔いしれていたが、王族の屈原だけは、北の秦がいつか攻めて来ると諫言するが聞き入れられず、嘆いて五月五日洞庭湖の汨羅ーべきらーの淵に入水自殺する。予言通り楚国は前223年秦の始皇帝に滅ぼされ、秦が亡びて項羽が楚国を立て直すが、前202年漢の劉邦に敗れ、楚国は史上から消え去る。

 

 楚の人は五月五日に屈原を悼み、湖に五色の幟を立て、竹筒に米を入れて湖に投げ供養したが、蛟竜に食われるので、粽にして投げてほしいと、屈原の霊が里人に訴える。それから粽を作り祀るようになった6世紀梁宗懍『荊楚歳時記』。その習慣が日本にも伝わった。

 彼の辞世の句は有名である。また日本人は憂国の士として屈原を愛した。横山大観の日本画「屈原」は有名である。また屈原を偲んだ昭和維新の歌も私も好きで良く歌った。

                     屈原曰く                     

                     挙世皆濁  世を挙げて皆濁り       

                     我獨清    我独り清めり        

                      我独醒    我独り醒めたり    

                     是以見放  是を以て放(放逐)たれたり   

 

                     昭和維新の歌

                       汨羅の淵に波騒ぎ

                      巫山の雲は乱れ飛ぶ

                      混濁の世に我立てば

                        義憤に燃えて血潮湧く 

 

                        権門上に傲れども 

                        国を憂うる誠なし 

                        財閥富を誇れども 

                        社稷を思う心なし  

 

                        昭和維新の春の空

                        正義に結ぶ丈夫が

                       胸裡百万兵足りて

                         散るや万朶の櫻花                

 

                             横山大観 屈原

 

 

 

 

 

 

 令和改元の日

 天皇が崩御ではなく、老齢のために譲位され、皇太子が新天皇に即位されて、今日から令和の新時代が始まった。私も日の丸の旗を掲げて心からお祝いをした。日本人として日の丸の旗を見ると、いつも清々しい気分になる。素晴らしい国旗である。

 年号がある国は、今では日本だけになってしまった。 世界共通である西暦年で事足りるかも知れないが、日本のように年号を持てば、明治・大正・昭和・平成・令和と、やはりそれざれの年号の時代特色が浮き彫りにされて、年号は捨てたものではない。

 

 日本の年号は大化から始まる。西暦665年6月19日である。皇太子の中大兄皇子が、政治を専横していた蘇我入鹿・蝦夷を殺して、王権

政治に復されて、年号を始めて用いられた。爾来令和まで約1350年以上続ている。日本だけである。

 年号の制定は王権だけの持つ権限である。ヤマト朝廷は紀元3世紀の始め、三輪山麓で日神の巫女ヒミコが、夜明け前から庭に集まった豪族に、日神の託宣を伝達するのが朝の廷-にわーで、外交を含む国家の朝廷として成立ている。ヒミコの死後、イトが継いだが、その後崇神天皇がヒミコの後を継ぐ三輪山の巫女ミマキ姫に入り婿して崇神王朝が始まった。4世紀後半応神王朝に変わり、更に応神の皇統が絶えた後を継いだ継体王朝も、前王朝の皇女の巫女を皇后に迎えることによって、諸豪族の支援を受けられた。即ち入り婿の形で3世紀の祭祀と朝廷が続いている。ヒミコは七世紀、日本神話が創られた時にアマテラスになり、皇祖神になる。伊勢神宮が創られたのは、天武・持統天皇の7世紀後半のことである。

 

 このように前王朝の皇女を皇后に迎えることにより,天皇家に断絶が無く万世一系といわれ、アマテラスはじめ、天地の神々を祭祀することが天皇家の最任務となり、これか日本独自の国体として長らく受け継がれて来たのである。この国体の一番の危機が先の敗戦の時で、天皇制廃止に至らなかったのは、時の政治家と政府が必死に日本の国体を守りぬいたお陰げであった。

 

 最後に私が思うには、1300年も護り続けられて来た、聖武天皇の正倉院御物を、例えばパリーで公開したら、世界中が驚嘆することであろう。1300年前に遥かシルクロードを渡ってきた逸品が、散逸せず、傷もなく、劣化もしないでもよくも今日まで伝えられたものである。近くの東大寺大仏堂は2度の兵火に灰燼に帰したが、至近にあった正倉院には武将も盗賊も近寄らず、火も放たれず、盗難にも逢わなかったのは、天皇家の御物としての認識、天皇家に対する日本人の特別の畏敬の念があったからである。天皇家でなければこれだけの御物を完全に保存しえなかったであろう。

 

太秦

 太秦の広隆寺は、7世紀に泰河勝が、聖徳太子から賜った弥勒菩薩像(国宝第一号)を安置した寺として有名な古刹であった。ところが

8世紀末頃になり、薬師如来も一緒に祀られるようになってから、広隆寺は薬師如来の寺と見られていたようである。

 

  太秦の薬師が許へ行く麿ーまろーを しきり止める木の島ーこのしまーの神             梁塵秘抄

 

   梁塵秘抄は後白河天皇が勅撰された、当時の都の流行歌を集めた歌集であるが、その歌の中でもこの歌は特異な歌である。

 平安末期、 薬師如来の広隆寺に参詣するのに、木島神社の神が止めたという。木島神社は、広隆寺の東400mの近くにある式内社

木島坐天照御魂神社このしまにますあまてるみたまじんじゃで、稲作の豊作を祈る日神を祀る古社だが、後に泰氏が乗っ取って以来「蚕の寺」と通称されている神社である。

 

 太秦に詣でるのに、なぜ木島の神が止めるのだろうか。梁塵秘抄の歌は寓意を秘めた歌が多く、そこで学者はこの歌の意味は、木嶋神社の近くにあった遊女宿の女が、麿の袖を放さず、太秦に参るのを引き留めたものだと解釈した。麿というからには身分ある公家だったのだろうか。

 平安末期には源平合戦の前夜であり、諸国から武士が集まり、足軽などの無宿物が都に集まっており、京の各地に散娼-さんしようーと呼ばれていた遊女が多かった。散娼は人々の集まる所を選び、神社詣りの盛んな所を選んでいる。西欧では売女はギリシャ・パルテノン神殿の巫女が発祥と伝えており、京でも祇園・天満宮の参拝客を狙う茶屋があり、今の祇園・上七軒の茶屋もその流れにある。

 

 とすれば木島坐天照御魂神社前に茶屋があり、そこに遊女がいて太秦へ向かう麿の袖を引っ張り、行くのを阻んだ歌だろうか。

        

               木嶋座天照御魂神社                                                 広隆寺山門

 

 

 奈良時代の役人の年収

 私の資料ノートに書かれていたものです。元の単位は米の石数を、昭和末頃の米価に換算したものです。


    正一位   3億7,455   萬円

     二位      1億3,000

         三位      8,000

      正四位      5,000 

     従四位           4,000

      正五位       3,000     正五位以上は殿上人

      五位      1,600

      正六位            1,500

      従六位      1,400

      正七位      1,300

      従七位      1,000

      正八位       800

      従八位       700

      大初位       500

      小初位       230

 

  奈良時代、一位~三位は藤原家と皇族降下、一部豪族に限られる。

 時代が下がるが,10~12世紀の公家の出身は下の数字のように、全体の9割以上を占めている。

         藤原氏  265 人   67%

         源氏    79             29

                    平氏    24              6

                   その他    27

 この特権階級の外に、正五位になれば俸給は一挙に上がる。しかし余程の名門でないと殿上人にはなれない。

 昔はいくら能力があっても、家柄が下であれば、とても高級を求めることが出来ない。そう云う時代であった。

 

 それにしても官吏の初任給は、現在の俸給の価値とあまり変わりませんね。しかしこの人たちは大半京都に住み、勤務していた人達で、その他の国の人たちは関係がない。という事は、全国的にみてこれらの俸給者は一握りの人たちだけの、選ばれた人たちだけで、

要は人は生まれ出る時から人生のランク付けがが決まっていて、自分の努力だけでは、これらのエリート族には入れない。

 

 

 

棟形志功の女像

 天は時として、不世出の芸術家を世に出させる。板画で独特の境地を開いた棟形志功もその一人である。

 日本の伝統的な浮世絵の版画世界や技法とは離れて、仏像の精神世界を描き、近代短歌の詩的世界を描き、後半は女人像に没頭する。その造形力は余人を近づけず、超近眼の目を版木に押し附けて鑿を振るうが、その部分部分は全体像に調和し一片の無駄も無い。独特の非凡な能力を持つ超人である。

 後半彼は板画に色を塗り重ねる手法を見出し、それは白黒の世界とは違ってに絶妙な色彩を浮き出して、詩的世界を増幅させている。殊に色使いは女人像にしきりに使われている。

     

              棟形志功                     乾坤妙如図                       同

 

        志功描く女の顔はいとあやし 遊女とも見ゆ菩薩とも見ゆ      小林正一

 

  志功は晩年、女体の神秘に驚愕し、奥さんの裸体を毎晩拝んで、観音菩薩と言って手を合わせ拝んだといわれている。そこには東北の縄文的な、うぶで汚れの無い、また大らかで屈託のない、志功ならではの人間像が浮かび上がる。

 

 私は40年前、ニューヨークに立ち寄った時、ガイドに言われて、タイムスケアーの細長い建物の版画専門店に案内してもらい、棟形志功白黒2点の佛像板画を買った。偽物という人もいたが、太鉛筆のサインが真物らしかったので買った。帰国してから表装し治したら立派な

板画となった。

  帰国後、後輩の故郷、四国の山奥にお葬式に出掛けたら、式が珍しかったので写真を撮った。途端に死者の霊が乗り移って頭が変になって奇病にかかった。それを友の紹介で福岡のある山寺の高野山系の僧が、祈祷して頂いて完治してもらった。不思議な呪術をもつお坊さんであった。わたくしはそのお礼に棟形の板画を差し上げた。 

  もう一つは骨董屋に40萬で売ってしまった。手許には、永年愛蔵し親しんでいる竜星閣版の稀少本『流離抄板画巻』があるだけである。

 

 

 京都の真葛-まくずーが原

 この地名を知る人が少なくなってしまった。今の祇園八坂神社と、北の知恩院までの東山山麓一帯の古称で、明治になって京都市に収用され、丸山公園に整備されたが、その昔一帯が葛の葉で覆わた丘陵であった。

 その東山中腹に浄水の湧く吉水という所があり、法然上人が布教した吉水坊のあった処で、また代々青蓮院の門跡が、得度に使う灌頂の聖水を、門跡自ら夜中この清水を汲みに登ってたといわれている。だが今はその清水も絶えてしまった。

 

 その吉水坊の南に、江戸時代至徳2年1385、時宗僧の国阿弥が、円山ーえんざんー安養寺を造り、夫婦で住み着いて、「南無阿弥陀仏」を唱えることで往生出来ると説く一遍上人の時宗の布教に勤めた。この下に長楽寺があり、素晴らしい一遍上人の像(重文)がある。また壇ノ浦で入水されたが助けられた安徳天皇国母が、京に帰りこの寺で髪を切って尼になられ、のち大原の寂光院に隠棲された建礼門院ゆかりの寺である。

  この円山安養寺には、真葛が原に春阿弥・連阿弥・也阿弥・左阿弥・正阿弥・重阿弥の6つの塔頭があった。ところが都の見晴らしがよい高台である所から、各坊が貸席、料理屋を開いて、江戸元禄期には文人墨客で最盛期を迎え、明治に丸山公園が出来てからは、都人の遊覧行楽の地となり繁盛した。

 

 明治に重阿弥・連阿弥・也阿弥が買取られて也ホテルになったが、明治39年廃業。春阿弥も温泉として開業、同年焼失して廃業、正阿弥も洋風旅館になったが、これも明治44年焼失。残って今日まで続いているのが左阿弥だけとなった。左阿弥は織田信長の弟、長益(有楽斎)の第2子、茶人となった織田頼長(道八)が開業。爾来京の高級料亭として今日まで続いている。

 文学の舞台ともなり、志賀直哉の『暗夜行路』では主人公の時任健作が左阿弥で結婚式を挙げ、川端康成の『古都』では、室町帯問屋の太吉郎の家の前に捨てられた主人公の千恵子が、美しい娘に成長し、同業の帯問屋の息子と縁談の話しがあり、その相談が左阿弥で行われている。

 左阿弥は高台へと石畳が続き、料亭2階のバルコニーから、崖下の樹々が喬木となっているが、その間から京都の一部が見渡される。
   

                                   左阿弥の玄関
 

   2階ベランダからの眺望 現在樹木が大きくなっている。

   春の小川

 この唱歌は、大正12年文部省の尋常小学唱歌にある歌です。

 

   春の小川は さらさら流る         春の小川は さらさら流る         春の小川は さらさら流る

   岸のすみれや れんげの花に       蝦やめだかや 小鮒の群に        歌の上手よ いとしき子供

   においめでたく 色うつくしく        今日も一日 ひなたに出でて       声をえろえて 小川の歌を

   咲けよ咲けよと ささやくごとに       遊べ遊べと ささやくごとく         うたえうたえと ささやくごとく

 

  こんな田舎の小川を覚えていますか。もう大半の都会では、田圃が住宅や工場になり、小川は埋められて、このような田舎の景色が無くなってしまいました。私などは最後の田圃の小川で遊んだ世代で、思い返せば懐かしいです。

 

  都会に住んでいる子供が、こんな田舎の小川を見ると、新鮮な驚きで眼が輝くことでしょう。田舎の四季は幼い子供の心の糧になり、情緒を持つ人間に育ててくれます。大人になって仕事が出来ても、情緒を持たない人間は蟻と同じだと、梅崎春生は小説『桜島』で書いています。いくら頭が良くても、金もうけがう上手でも、心の巾が狭く情緒を持たない人間は、皆から好かれず、大物にはなれません。

 

  コンクリート・ジャングルの都会で、学校や塾通いだけで日々を過ごす子供は、頭は出来ても心の幅は大きくならない。それは緑と水が少ない都会だからで、子供がのびのび遊び、小魚や昆虫を追いかけることのできる野山は、子供にとって最大の贈物なのである。

 もうすぐ新天皇即位10連休がある。こんな時こそ人混みの遊園地ではなく、手弁当を持って、田圃のある里山で一日子供を遊ばせるのはどうでしょう。子供はのびやかに遊ぶことによって心が広がり、将来頼りになる心の広い人間が育つに違いありません。田舎に故郷を持ち、子供を預けられる親たちは幸せである。夏休みだけでも田舎に一時移住して、子どを大いに遊ばせるのもよい。小学校の子供に夏休みでの勉強はさして成長に意味がない。子供の成長に必要な「遊び」を近頃の親たちは忘れていませんか。

 

     田川の水よ。なんじは筧の水の幽韻はない。雪水を溶かした山川の清冽はない。瀑布の咆哮は無い。

          大河の容々はない。大海の汪洋は無い。なんじは謙遜な農家の友である。

          騒がしい気の慌しさを抑えて、心静かになんじの声低く語る教訓を聴かねばならぬ。                                                                                                                                              徳富健次郎 「みみずのたわごと」