閑話休題 -10ページ目

 警官を刺し拳銃を奪った男

 この閑話休題プチエッセイは、歴史・古典・山・詩・文学などの教養をテーマに扱い、政治社会・時事問題は避けて来た。

 ところが先般、吹田市の派出署の警官が刺されて拳銃を奪われる事件が発生した。署は防犯カメラに載った男を特定し、直ぐに映像を公開した。その処置が早かったのが奏功し、各地から情報が集まり、翌日箕面の山中で逮捕された。

 

 逮捕された箕面山中は、私も何十回も登り歩いた所である。箕面市の東端に外院-げいん 勝尾寺の外院のあった場所ーに新興住宅地があり、その東端から山に入る道がある。緑に覆われた山道で、900m位行くと小さな平地の疎林に出て、そこで道が二つに分かれる。真っ直ぐ行くと、西に曲がって勝尾寺の西に出る。左の道を行くと、江戸時代からの参道の本道に出会い、そこに木のベンチがある。犯人はそのベンチで寝ていて、明け方警官に逮捕された。この参道は南の旧西国街道の新家に標識があり,北に真っ直ぐ、、山中を通って勝尾寺の門前に出る江戸時代からの古道である。但し犯人は脇道の外院からこの本道に入っいる。土地勘がなけれは入れないコースで゛、防犯カメラの犯人の早期公開が、人々から情報を得て2日て解決した。吹田警察署の御手柄である。

 

 私は事件そのものより、父が大阪のテレビ会社の常務であり。東京に立派なマンション暮らしで、一級上の家庭である。その息子が30歳を過ぎても定業に着かず、ゴルフ練習場の掃除アルバイトであったという。勿論それまで然るべき会社勤めであったが、途中退職したのであろう。問題は裕福な家庭であるのに、両親が息子のしている事を黙視していることである。

 

 男は社会に出たら仕事が忙しくて、家庭は母親任せにならざるを得ない。母親は子供が生まれた時から中学校を卒業するまで若葉の時代の生育期を、子供可愛さに甘やかし過ぎると、ろくな大人に育たない。この間にいろんなしつけを教え、世間に出てからつまはじきされないように母親は教えるべきだ事に心を砕くべきだ。

 社会の役に立つ子供を育てるには、女の力こそ一番だという、女学校建設当時の森有礼大臣の提案から、女子教育が始まった。その時代学んだ明治の女子は、子供を叱る時は叱り、甘やかしばかりはしなかった。しつけである。

 

 戦前は男子・女子校は別であったが、戦後共学となり、しかも今や男女同権の主張がまかり通っている。たが女には子そだてという大役

がある事を認識せず、ショッピングや同級生らとのグルメ遊楽を楽しんだりしている。

 今回の事件の背景の深層には、戦後教育の劣化と、テレビやスマホの情報影響が大きい。子供に愛情を注ぐという事は、子供を甘やかすことではない。立派な大人に育つよう母として力を注ぐべきだ.犯人の母親の育て方が残念でならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祖母の120回忌

 明治 33年に若くして亡くなった私の祖母。私が生まれた時には故人であった。

 永らくお祀りをしていなかったが、80歳のころ、祖母の生まれた大和の菩提寺に出掛けて供養してもらった。その時僧侶の読経中、不思議にも私の体に一陣の爽風が感ぜられた。ああおばあさんが喜んでくれていると感じた。もし生きていた時代に私が生まれたなら、どんなに喜び抱きしめてくれたであろうに。

 ところがその瞬間から体や足腰が軽くなり、近くの山にあって長い石段をのぼった中腹にある、古いご先祖のお墓に参った時、いつもよりも楽に石段を登れた。それ以来おばあさんのお陰で、永年つらかった体も楽になり、30分かかる買い物も歩いていけるようになった。もう全く御祖母さんの御援助の賜物と感謝している。

 

 私ももう近く92歳を迎える。最後の準備の時だと思い、大和の寺までとても出かけられないので、当地でのお寺さんに頼んで祖母の供養をして頂いた。その時和尚さんが祖母の没年から120回忌になると教えられた。私は今まで年忌を意識してなかったので驚いた。120回忌をするお家は今は無いという。しかし偶然とはいえ私は限りない喜びを感じている。ご先祖とは有り難いものである。

 近畿の秘境ー大杉谷渓谷

 三重県の奥、大杉から大台ケ原に登る宮川の大杉谷峡谷は、近畿の秘境である。私は登りコース2回、下りは1回踏破したが、登りコースが一番良い。それも新緑の頃が最高で、秋コースの紅葉は期待した程ではなかった。

 大阪からは朝7,00上本町発の急行で松阪に向い、そこからバスを2回乗り継いで登山口の大杉に着く。3時間15分かかって、11時15分着である。全く山の中の寒村であるが、古くから木地師の人々が住んでいて、歴史にも登場するムラである。

 村には大きな宮川ダムが、綺麗な水をたたえている。渡船場で上流の、対岸の第1乗船場まで船に乗る。舟から降りるといよいよ宮川の右岸に沿って登山開始である。発電所の脇を通って登山道に入る。いきなり大日嵓の大岩壁の川沿いを掘りぬいた道を、鎖をたよりに気を付けて歩く。平坦な川沿いの石場を4時間進むと、大杉谷第一の景観猪ケ淵に着く。両岸に巨磐が迫り、その中を宮川は急流となって迸っている。近畿はもとより、北アルプスの黒部川にも見られない幽邃な絶景である。磐を伝って正面まで出て弁当を開く。

  猪ヶ淵で休憩した後、淵伝いの岩道を歩くこと1時間30分。対岸に架けられた吊り橋を渡った桃ノ木山の家に着く。吊り橋がかかった珍しい山小屋で、風呂もあり、川や山の幸で料理が美味しい。

 

 翌日は大台河原に向かうのだが、途中半分はいくつもの吊り橋を渡り、渓谷の大小の滝を堪能するすることが出来る。三段の七つ釜滝、隠滝吊り橋を渡って水量の多い光滝、しかし何といっても圧巻は堂倉滝で、高さは低いが水量が圧倒的に多く、堂々たる大杉谷随一の大滝である。

 ここから大台ヶ原へは900mの急騰で、行程の最後三分の一はかなりハードである。ほぼ3時間はかかる。このコースを大台ヶ原から逆に下向するコースは、下りの多いコースで楽であるが、渓谷に分け入り数々の滝に出会う感激は、登りコースが勝るようである。

 頂上の日出ヶ岳1695mからの390度の眺望は素晴らしい。そこから大台山荘まで40分。大和下市までのバスが通じているが、折角の機会なので、一泊して翌日朝早くから大台ケ原を散策するのをお勧めする。

 

 大杉谷に入るには、翠滴る谷筋を歩くのには6月初旬の梅雨前が最高の時期である。秋は思った程紅葉が少ないので推薦しない。

それと雨の日には入山は、磐が湿って滑りやすく危険だから、雨の日は避けるべきである。

 

 近畿に住まわれている方に、是非天下の秘境、大杉谷をお勧めしたい。一生印象に残る素晴らし登山となるだろう。

 

     

          大日嵓の岸壁歩道

      

                              秘境  猪ケ淵

        

               桃ノ木山の家

     

                              堂倉滝

     

  

 

 いさざ漁―杉本よしの

 今朝の「産経新聞」の朝の詩ーうたーに、杉本よしのというおばあさんの、素晴らしい詩が載っていたので、紹介したい。

 

       いさざ漁

      比良八講の

      荒れじまいの

      頃に始まるいさざ漁

      橋桁囲い漁だまり

      幾重にも魞ーえりー

      張り立てて

      遡上のいさざ

      誘いこむ 

      漁が減りしと

      うそぶきつつ

      鍋下げて来し板前に

      滴るいさざ

      桝もて売れり

 

 「いさざ」というハゼ科の体長5cm程度の小魚。琵琶湖や丹後では春を告げる魚と言われ、3月下旬に比良の延宝寺で行われる法華経八巻の説教が終わった頃から、漁が始まるという。

 丹後では各河川に産卵のために遡上してくるのを、やな漁で獲り、生きたまますぐ出荷される。地元とか高級料亭でしか手に入らないが、各地の白魚のように、てんぶらや卵とじで食するという。私はいさざは食べたことはない。

 

 私はさかなが珍しくて掲載したのではない。実はこの詩の作者が93歳ということに驚かされたからである。この歳でも素晴らしい叙事詩を詠まれる感性のすばらしさ。どんなおばあさんだろうか。昭和元年生まれであるから、女学生時代は戦争の真っ最中。授業の勉強どころか、勤労奉仕に会社に働きに行った時代。それでも心の慰めの為に人々は明治・大正の詩集を読んで育った。それが老後になっても詩心が息づいている。素晴らしい方だと思う。

 

 

 

   あんたがたどこさー手鞠唄

   昔は女の子が手鞠をついて、よく遊んだ手鞠唄、でもこの頃はこんな風景は見られない

 

   あんたがたどこさ

   ひごさ

   ひごどこさ

   くまもとさ

   くまもとどこさ

   せんばさ

   せんばやまにはたぬきがおってさ

   それをりょうしがてっぽうでうってさ

   にてさ、やいてさ、たべてさ

   それをこのはでちょいとかぶせ

 

  最後は毬を着物の下に隠すしぐさをする。スカートでもよいが、ズボンでは出来ない。

  誰が創ったのかいい唄である。熊本が発祥ともされるが、関東にもあるという。貴族層を別にして、平民の猟師が鉄砲を持てたのは、明治32年陸軍旧式の払い下げ銃からというから、この歌の創られたのも明治の後半であろう。  

  この手鞠、羽子板、それに輪になって通りゃんせなどの遊びも見られなくなった。今はスマホゲームばかりで、このような日本の美し過ぎる子供の遊びの風景が、だんだん消えていくのが寂しいと思うのは、私だけだろうか。

 

 

 瀬戸内海賛歌

 瀬戸内海外洋ではなく、波静かな内海で、気候も温暖で、点在する島々の緑が美しく、ヨーロッパの地中海にも、世界にもない内海の多島海である。魚も種類が多く美味しい。昔から関西から四国・九州、中国・朝鮮を結ぶ海上交通の大動脈であった。もしヨーロッパにこのような美しい内海の多島海があれば、各国の富豪が保養・別荘地として、脚光を浴びて有名になっていたに違いない。それほど魅力ある景勝地帯である。

 

 この瀬戸内海は、今から10万年前以前のの氷河期には低地の陸地であった。下図の緑の部分が陸地である。東は室戸埼と紀伊枯木灘まで、西は足摺岬から宮崎まで、関門海峡ももなく、緑の森が点在する美しい陸地であった。今の尾道~今治間に架けたられた瀬戸内しまなみ海道の大橋の下が、東西を分ける分水嶺であった。川は東西に分かれ、西は大小の川の水を集めて足摺岬沖で海に入り、東は揖保・淀川・紀ノ川・吉野川の水を集めて紀伊水道の中央を流れ、紀伊半島で海に入っていた。

 氷河期には人々はおらず、マンモスなどの大型動物が餌を漁って生きていた。明石沖には大きな湖があって(後に海盆と呼ばれるー明石天文科学館に模型がある)、その水や獲物を求めて生き物たちが集まり、マンモスなどは沼に足をとられて死んでもいる(明石象)

 

 しかし8,000年前ごろから急に地球温暖化が始まり、氷河がとけて海水面が100mほど上昇し、南・東シナ海とともに瀬戸の内陸も海水が入り込んできて、内海になってしまった。下図で示した緑の地域は氷河期には陸地であり、8,000年前以降に海になった地域である。

 明石沖の底の深い湖は「海盆」となり、プランクトンも豊富で、明石沖で獲れる鯛は日本一の美味とされている。淡路島の南に小海盆があり、潮流が渦潮となっているが、ここの鯛も身がしまって逸品と言われている。

                        

 瀬戸内海は波は静かで航行には適しているために、大阪から西への海上交通が盛んになった。だが島々が多く点在し、地形が複雑なため、とくに難所の来島海峡辺りでは難破船が多かった。このため船を先導するパイロットが登場し、平安時代から海賊と呼ばれる集団が武士団として瀬戸内各地に出来た。朝鮮・シナに渡って略奪を繰り返した倭寇の本拠地であった。西の大内氏や足利義満も彼らを懐柔したが、最後に統率したのが平清盛で、彼は海外貿易で莫大な富を蓄えた。

 

 それにしても瀬戸内海は美しい。特に夕ぐれがすばららしい。瀬戸は夕ぐれて 夕波小波。鷲羽山あたりの宿から見下ろすと、瀬戸の島々や四国の山脈が黝ずんで来て、、瀬戸内の海は月光をあびて銀色の帯になり、航行している船はすぐに明かり灯す。夕闇が迫る海に、灯りをともした大小の船が東西に行き交う景色は、幻想的である。

 

 これほど景観に優れた内海は、世界広しと云えども何処にもなく、観光保養地としては最高の条件を具えている。バブル期に小開発が゛あったが、それも消えてしまった。未開発のままで自然資産として保存するのが、瀬戸内海の運命なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある女の子ー中原中也

 

    この利己一編の女の子は                            中原中也

    このちっちやな脳味噌は

 

    少しでもやさしくすれば、

    大よろこびで――

 

    少しでも素気なくすれば

    すぐもう逃げる――

 

    そこでわたくしが「ひどくみえても

    やさしいのだよ」といってやると

 

    ほんとにひどい時でも

    やさしいのだと思っている

 

    この利己一編の女の子は

    このちっちゃな脳味噌は

 

    ――この小っちゃな脳味噌のために

    道の平かならむことを――

 

 

 

 綺麗さび―小堀遠州

  綺麗さぴとは何と美しい言葉だろう。わび」「さび」は、戦国時代の初め、禅宗の発展の中で、日本人の情緒的感性として培われて来た。禅と結びついた茶道の世界では、村田珠光を祖とする侘茶が受け継がれ、千利休、古田織部、小堀遠州へと流れ、それぞれ流派の特性を生み出している。

 千利休は堺の商人の子だが、小堀遠州の小堀新介は元浅井長政の家臣で、近江長浜の小堀村に住み、浅井滅亡後は豊臣秀吉の弟、秀長に拾われて、大和郡山城に移り、同郷の藤堂高虎と共に家老になり、彼は作事奉行として活躍、関ケ原の戦いでは徳川家康側につき、戦後家康より備中高松城を与えられている。

 

 子の政一は19歳で藤堂高虎の娘と結婚。23歳の時、城造り、庭造りの才能を買われて作事奉行となり、伏見桃山城、仙洞御所、駿府城の造営を手掛け、その功により遠江守となり、堀遠州と名乗った。彼は江戸・京を往復する作事が老年まで続いて、東西奔走の人生だったが、古田織部に傾倒して茶道を極め、和歌、書、作庭と、総合芸術家として活躍。彼の創ったお庭は、禅宗風の石庭から、日本のさつきの景観を主眼とし、その切込みの妙で、今までにない日本美の庭づくりに成功している。その感性は素晴らしく王朝時代の美意識である雅びと、光琳風の絵画センスを併せ持つ景観である。利休の狭苦しく眺めも無い暗い茶室でお茶を頂くよりも、彼の創った庭を鑑賞しながらお茶を頂くと気分爽快で、これが本当の茶道ではないかと思えて来る。

 彼の茶道は、織部の大名茶に王朝風の洗練された優美で、華やかな、いと艶を加え、点前も「綺麗で伊達だった」と言われるている。彼の繊細な美意識は、「綺麗さび」といわれ、今も小堀流茶道・庭園‣装丁・小道具に遠州好みのファンが多い。 なお同時期の金森宗和の茶風も優美で、姫宗和と呼ばれている。

 

     

          茶の系譜                小堀遠州                             竹野紹鴎

   

     岡山県高梁市の頼久寺庭園      滋賀県水口水口町の大池寺庭園

  

    京都正伝寺 虎の子渡しの庭                        仙洞御所の庭

  

 

 

 

 令和元年の大相撲夏場所

 横砂白鵬の欠場、期待された大関陣も、高安・豪栄道の不振、貴景勝の途中欠場、幕下の朝の山が優勝になり、大方の予想が狂ったが、最後千秋楽にアメリカのトランプ大統領の特別観戦と、安倍総理の総理大臣賞を、直接土俵で渡されて夏場所の有終の美を飾った。

 

 私は毎場所楽しみにしているが、国技とはいえ力士は世界各地から集まり、しかも横綱2人はモンゴル人である。国際大会なら当然だが、我が国の伝統ある国技には本来ふさわしくない筈だが、相撲協会も観客も、相撲の国際化には賛成である。但し力士になり、土俵に上がるには、日本の相撲の伝統のリールを守り、髪はちょん髷、裸に廻しを締め、シコを踏み、立ち合いには口を漱ぎ、清めの塩を撒く。神々への奉納相撲の名残である。土俵を割ればすぐさま負けで、場外での相撲は許されない。

 

 このルールで外国人が勝ては、観客は勝者に拍手を送る。外国人でも日本人とみなし同じ扱いである。モンゴル人が優勝しても、観客は温かい拍手を贈る。ところが国が違えば、外国人が勝ち自国民が撒けると、応援席はブーイングで一杯であろう。同国人であっても出身地の違いで観客の拍手は勝ち組だけで、時には観客同士の争いが起こりかねない。

 日本では横綱が撒ければ蒲団を投げる習慣があるが、それも江戸時代からのささやか観客の抵抗だろうが、これを除いては日本人観客のマナーは良い。素晴らしく見事なものである。それに上品な夫人観客も多く、観客層も洗練されている。大相撲を見るたびに日本のお国柄の良さを感じるのである。

 

 

 子供の喧嘩

 下図は明治期、東京日本橋界隈に住む子供の喧嘩を描いたものである。ー長谷川時雨『旧聞日本橋』-。小さな二人の喧嘩が連れを呼び、町内の子供が駆けつけて来て、二手に分かれて大通りで喧嘩しあっている。竹棒を持ち、石礫を投げ合っている。それを大人たちが止めようとせず見物している。子供までか江戸っ子気風を張り合っている。

 江戸に限らない。この大戦前まで子供の喧嘩はどこでもあった。中学生は対抗する中学校としょっちゅう喧嘩が起こしていて、川を挟んで石礫の合戦をし、派手な戦いに凱歌を挙げた。小学生でも戦争ごっこに夢中になった。成績が良くないが、体の大きく、喧嘩強いのが大将になり、部下の末社を引き連れて、他の学校の兵隊としょっちゅう喧嘩していた時代であった。怪我人が出なければ、大人は子供の喧嘩には仲裁に入らなかった。・・自分たちの子供の頃も同じで、その中で子供の集団性と、競争心、負けず魂が養われた。

 

 それが敗戦以降、子供の集団喧嘩は見られなくなった。教育の影響だろうか、塾通いに時間がないのだろうか。もし起こればすぐに大人たちが止めに入る。マスコミが騒ぐ。自称有識者といわれるのがテレビに出て来ても、場当たり的で説得力がない。

 

 しかし人間という動物は本能的に強食弱肉の世界に生きている。男は柔い人間に育ててならぬ。社会に出て仕事していく上で1番肝要な条件である。、喧嘩を恐れる子供は、もし戦争でも起これば身を投げて国の為に戦うのだろうか。戦うのは自衛隊だけだと逃げ出すのではないか。西洋映画でも国の為に一旦急あれば、若人たちが国と家族を守るため、自ら志願して戦場に赴いている。もう日本の国では昔語りになってしまったのだろうか。

 

              東京日本橋の大通りで子供たちの喧嘩の図    長谷川時雨『日本橋旧聞』から