閑話休題 -9ページ目

大相撲の品格

 名古屋場所は人気力士の大関4名が欠場する異例の場所であったが、最後までもつれた両横綱の熱戦も、千秋楽で鶴竜が白鵬を降し、栄冠を手にした。観ていても手に汗を握る大勝負であった。

 

 遅まきながら気づいたことがある。この大相撲では勝った者も喜びの表情もせず、負けた者も悔しい表情や、地団駄をふんだりもしない。

勝者、敗者ともに喜怒哀楽を顔に出さず゛、淡々たる表情で、敗者は相手に頭を下げて退場する。 各国にも様々な個人競技があるが、勝者、敗者も、日本の大相撲のような態度は見たことがない。

 日本の大相撲の品格に拍手を贈りたい。

 京の島原遊郭

 前ブログにて、江戸初期の京都三条三筋町の名妓、吉野大夫に触れたが、今でも彼女を追善する花魁道中が、彼女の眠る鷹峯の源光寺で行われている。また江戸時代、大坂新町遊郭の名妓夕霧の追善も、彼女の生まれ故郷の京都清凉寺で、毎年春に花魁道中が行われている。美貌、性格、教養などで名を遺した名妓に、日本人は後世まで名を惜しみ、慕い続けている。世界に例のない事である。

 

 今観光名所の金澤・京都において、女性たちに一番人気のある所は、金沢の東の廓、京都の花見小路である。いづれも江戸後期・明治の建造で、当時としては江戸吉原・大坂新町に続く廓であった。そのほか各地の都市にあった遊郭は戦災で全部焼けてしまい、その後の赤線廃止で姿を消してしまった。金沢・花見小路は戦災を受けずに残ったが、今では観光名所にもなっいる。日本の遊郭は西洋・中国の「性を売る」売春宿ではなく、酒席に侍る芸者の教育も厳しく、お茶屋も「一見さんさんお断り」で格式を重んじている。

 

 公認遊郭は、太閤秀吉により京都二条柳橋に始まるが、場所が御所に近いことから東本願寺の北、六条三筋町に移転された。当時の京都所司代の板倉重宗が市中見回りの際、豪華な女籠に出会い宮廷の上臈と思い下馬したが、それが遊郭の大夫の籠と分かり激怒、

三筋町の遊廓を都の西端湿地帯の朱雀野の島原に追いやり、堀で囲んで市中への外出を禁じた。これが明治まで続く島原遊郭である。

  島原の中の揚屋角屋は文人墨客が集まるサロンでもあったが、何分足の便が遠い所から、祇園・先斗町・上七軒などに誘客の足が向けられ、幕末新選組により、線香花火のように一時賑ったが、後は次第に衰微して行った。

 

 大正時代の島原遊郭の様子を、中里介山、菊池寛が書いている。

 「廓は屋根の低い朽ちかけた建物が、澱んだように立ち並び、衰弱した病人が医者にも見放されて、死期を待っているように、定紋の付いた暖簾の奥は、暗澹として陰鬱に、滅亡して行く者の姿を映しているようであった。」  菊池寛 『島原心中』

 

 その中で遊郭の入り口にある柳の大門と、揚屋の角屋、それに置屋の輪違屋が、昔の面影を今に伝えてくれていて、懐かしい。芸者を揚げる、揚屋の角屋は、今も文人墨客の詰めかける歴史的建造物で、襖絵も素晴らしく、一見すべき文化的遺産である。

 

    島原の角屋の塵はなつかしや 元禄の塵享保の塵         吉井勇

 

  

            金沢の東の廓                         京都花見小路

   

      幕末の島原遊郭                         島原の柳の大門

  

        島原の揚屋 角屋                   大夫らの置屋 輪違屋

 

   京鷹峯の吉野大夫の花魁道中  

 

 

          江戸吉原の花魁道中  鈴木其一画

 

 

 

 

 

 

 

 松花堂照乗

 江戸初期の男山八幡宮の社僧。滝本坊の和尚を勤めた後、隠棲後は松花堂照乗と名乗り、和歌、連歌、書に、また古田織部に師事して茶道を極める、当代一流の風流人、文化人として名を遺した。

 その交友範囲も一流文化人である。本阿弥光悦、近衛信伊、小堀遠州、その他の文化人。集まる所は京都三条柳橋の遊郭で、その彼らの中心に、当代の絶世の美女、二代目吉野大夫がいる。何とも豪華で、粋な集まりである。

 吉野大夫については「閑話休題」2016.8.8に詳しく説明しているのでご参照願いたい。とくかく人柄がよく美人で、和歌、茶道はもとより、音曲にも秀で、その朝の起きたての寝ぼけ姿は、同僚の女たちがあまりの幽艶さに驚いたと言われている。

 

  彼の隠棲した松花堂跡は、京阪八幡駅からケーブルで石清水八幡宮に詣でた後、帰途裏参詣道を下る途中に遺跡が遺されている。また八幡市により南に松花堂公園が造られていて、その中に吉兆の店があり松花堂弁当を食べることが出来る。 (要予約)

  この松花堂弁当は、照乗が筆などの小物入れに作っていた小箱を、昭和に吉兆の創業者湯本貞一氏が、洒落た弁当箱に創案されたもので、粋な料理が詰め込まれている。

    なお松花堂公園の東に木津川が流れており、足を延ばせばよく時代劇に出て来る「流れ橋」に出会える。一日散策によいコースである。

 

   

                     松花堂照乗                      男山の松花堂遺跡

    

               吉兆の松花堂弁当                   木津川の流れ橋

 

 

 

 

 

 スイーツのこと

 私も歳を取ったせいか、最近の流行にはついていけなくなった。 その一つが最近テレビ、雑誌でもてはやされるスイーツのことである。

 本来西洋料理の最後に出るデザートだが、今では堂々と主役として独り歩きしている。美しいデザインで、甘くておいしい西洋菓子だから、若い女の子の人気を取るのは当然だろう。

 然し私が気にしているのは、食材が柔らかく美味しいものだから、スイーツを沢山食べてお腹を膨らませると、、歯ごたえの無い柔らかい食べ物だから、固いものを食べるのを避けるようになる。するとだんだん歯が劣化し、骨格も衰え、年頃過ぎると病院通いが始まる。自ら選んだひ弱な体質で、健康な元気な子供を生むことが出来るのだろうか。

 

 ハンバーガーにしても歯に易しい食べ物である。お母さんも職業婦人であると、どうしても手軽で、子供の喜びそうなハンバーガーを、夕食代わりに買って帰る。子供が将来零弱になり、たくましく生きることを、奨めているようなものだ。

 

 日本は主食のお米、豊富な季節の野菜、種類の多い魚――これだけ揃った国はざらにはない。それをどう組み合わせ、美味しいだしで煮付けるか、主婦の腕の見せ所である。将来健康を期待できる子供を育てるためにも、女は頑張ってほしい。いつまでもスイーツに浮かれていては、子孫は壊滅することを知っておいてもらいたい。

 

 

 姫島

 姫島と聞いても何処にある島かと聞かれるであろう。下図のように瀬戸内海の最も西、国東半島の北に浮かぶ小島である

  ところがこの小島の西海岸に黒曜石の岸壁があり、7~8000年前の縄文人が、利器としてこの黒曜石を採取、加工して、交易品として

北部九州や南朝鮮にまで交易していたことが知られている。東西7キロ、南北4キロにも満たない小島で、瀬戸内の西玄関にありながら、周囲を舟で囲まれたら脱出できず、長らく軍事拠点にもならなかった。

 

 ところがこの島は『古事記』『日本書紀』に登場する「古事記」の冒頭にイザナミ・イザナキ゜命が、最初オノコロシマ(淡路島)のほか大八島を生んだ後、続いて6島を生んだ島の中に姫島がある。姫島のような小島でも、中央にも知られた島であった。

 更に5世紀末、新羅の王子ツヌガアラヒトの妻の、アカヒルメが、「ある日吾祖の国に往かん」と、舟で朝鮮海峡を渡り、この姫島に逃れて来たが、ここも新羅に近いと言って浪速の姫島に渡り、さらに今の東成区鶴橋に移った。この姫(一名下照姫とも)をカミとして祀ったのが「比売許曽ーヒメコソ―神社である。『延喜式神名帳』では「名神大」の最高の格式のある神社である。ここにはすでに新羅系の帰化人が住み着いていて、彼らが奉斎したのであろう。この神社周辺の鶴橋は、今でも大阪の韓国人の集合地である。

 

 なぜ姫が「吾が祖ーオヤーの国に往かん」と言ったのか。朝鮮の古書『三国史記』には、新羅の四代目の王に脱解王がいるが、彼はもと倭人で、小さい時海を渡って新羅に流れ着き、長じて有能が認められて宰相の地位につき、王女と結婚して新羅四代目の王になったと書かれており、この新羅伝承が古事記に伝わったのであろうか。

 

 古代韓半島が有事の際、逃れて来るのは日本であった。特に5~6世紀の韓半島の動乱期には、高句麗・百済・新羅の貴族層が日本に逃れてきた。また日韓併合期にも多くの庶民が職を求めて移住して来ている。敗戦混乱期に韓国、北朝鮮に帰った者もあったが、多くは日本に止まり生活をし、日本が住みやすいのか韓国に帰ろうとはしない。それなのに今韓国では反日運動が盛んだという。

 

 姫島の歴史のロマンに惹かれて、若い頃、大分県国東半島の伊美港から船に乗って島に渡ったことがある。島は小さな漁村で、さほどの観光地でなく、旅館で名物の養殖の「車エビ」を何匹も注文して食べたことを想い出す。若き頃の感傷旅行の、思い出の島である。なおこの島では狐の面をかぶった狐踊りの盆踊りが有名。

  

       

                姫島の位置

      

               小さな姫島

      

                  鶴橋の民家の奥にあるヒメコソ神社

 

 

 

 喝采 仲邑菫ちゃん

 囲碁界において僅か10歳の少女、仲邑菫ちゃん(初段)が、67歳の田中千恵子9段に、接戦の末逆転優勝をした。まだあどけない子供の表情、しかもはにかみ屋で、「うれしい」とだけ言葉少なくインタビューに答えていた。そ;れが何とも言えない好感を呼んでいる。

 将棋界の藤井総太君16歳も、相手に勝っても決して高ぶらず、謙虚である。この二人に喝采したい。

 

 仲邑菫ちゃんがこのまますんなりと育ってくれたらいい。女は高校生以上になると個性が出て来て、可愛かった幼い頃の面影が消えて行く。上品な女はべらべらとしゃべりまくらない。女は寡黙なほど品格が優れて、下町のおかみさん風情から脱している。仲邑菫ちゃんは生まれつき上品な顔立ちを持って、育っている。将来とも囲碁界のみならず、日本女性の鏡になってほしいと願う。

 

     

 映画「裸の島」

 昭和35年の映画。監督は新藤兼人、家族は父、篠山泰治、妻音羽信子、長男小学生、次男未就学の四人。自分の土地を持たず、瀬戸内の小さな小島を借りて、畑を開墾。夏は小麦・冬はサツマイモを作り、孤島で自給自足の暮しをする家族を描く。

 夫婦は朝暗いうちに手漕ぎ舟に樽4つを積んで向島に渡り、村道の脇を流れる小川の水を汲んで、舟に乗せて島に帰り、狭く急な坂道を天秤棒で担いで登り、芋に水をやる場面から始まる。朝食を済ませた母は、向島の小学校に通う子供を乗せて再び海を渡り、帰りには2つの樽に水を満たして島に帰る。未就学の子供は家事を引き受けて働いている。

 

 この映画の特徴はモノクロで、しかも四人のセリフの入らない無声映画。今時古い手法だが、日本よりも外国で評価され、モスクワの国際映画祭でグランプリを獲得したほか、数々の国での国際映画賞を受けている。貧しくても家族愛に満ちており、何回見てもいい映画で、音羽信子の演技も素晴らしい。

 弟が浜で吊った大きな鯛を、家族して向島に売りに行き、そのお金で子供の下着を買い、久しぶりの食堂で家族が食事する。また秋祭りには家族そろって祭りを見た後、尾道のロープウェイに乗り遊覧する。ところが小学生の長男が急死する。次男は岬に出て両親に早く帰るよう手を振り続ける。父親はすぐ向島の医者を呼んで来たがすでに手遅れで、島の頂上に穴を掘り、向島から参列した小学校の同窓生が見送る中、火が投げ込まれて昇天する。

 母は激しく動揺するが、後は元通り水汲みと畑仕事を黙々と続ける。

 

 戦前、土地を持たず、地主の田畑を耕して年貢を払って生活する農民が多かった。小作農といわれ、凶作にもなれば餓死する人も出て当時の大きな社会問題となった。それが敗戦後、アメリカ軍の指示で不在農家、所謂大地主から、小作農地が小作人達の所有となった。財閥解体、財産税、農地改革、教育改革は、アメリカ軍の外圧によって断行された。

 この映画は戦前の地を持たない貧農の姿を描いているが、そこには暗さもなく、耐え忍んで必死に生きようとする夫婦や家族の絆が

同じような環境にあったロシアや世界の後進国に、この映画が同感を呼び、推薦されたのであろう。

 

 それにしても昔の女の人は偉かった。男と同じように働くことも苦にせず、「心に余裕もあったし、忍従をさばいて行く叡智もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の奉仕の喜びもわきまえていたのだ」―太宰治「女生徒」

 

            

                   裸の島

 

              

             向島から汲んで来た水を島の畑に持ち上げる        

 

            

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

 

 精進料理、会席料理と懐石料理ー 日本料理 2

 平安時代の公家貴族層の大盤料理、続く大名・武士の本膳料理の後、室町時代にシナから伝わった禅宗の精進料理が生まれる。

禅寺の精進料理は、肉・魚類を避け、野菜中心で、野菜の食材に手を加えて、形や味で魚肉を思わせる調理が工夫され、さらに中国から伝わった豆腐・麩は人気があり、またゴマ油で炒めた煮物は料理の革命と言われて、精進料理は多彩な展開をみせた。

 

 また町人の間では、室町時代に各種の寄り合いに出されたのが、本膳料理を簡略にした会席料理で、新鮮な魚介類が主役であり、海に近い大坂や江戸などの豪商たちに広がった。

 海に遠い京都では新鮮な魚介類は手に入りにくく、茶会などで出される料理は、会席料理に対抗して懐石料理となづけた。懐石は修行で空腹になった雲水が、石を温めて空腹をしのいだことから懐石料理と名付けられた。

 初めに温かいご飯と汁が出され、あとに三菜が供される。利休は特別な客には、美味一番と言われる丹頂鶴の肉を供したという。これに対して江戸・大坂の豪商の会席料理は、鯛などの新鮮な刺身や八寸が先に出され、そのあと煮物・天ぷらなどで酒宴が続いて、ご飯は最後に出される。最初にご飯が出される懐石料理との大きな差である。

 

 この会席料理に、薄味で素材の味を生かし、豊かな趣味の食器に盛られ、料理の盛り付けも洗練され、現代の日本料理の先駆者になったのが、昭和の初めに吉兆を始めた湯本貞一氏である。尾道の出身で、神戸花隈・大阪新町の遊里に仕出し屋として出発、料理の味つけ・趣味の良い器・季節の花を飾った斬新な盛り付けで、料理界に新風を吹き込んだ。それが一世を風靡し、現在の京料理と言われるものは、吉兆の弟子・孫弟子から出ているといって過言ではない。だからいま世界遺産ともわれる京料理などは、昭和、とくに戦後から始まった歴史の浅いもので、江戸時代諸国漫遊に来た滝川馬琴は、京の料理はまずいと書き残している。

 

 最後に西欧の王侯の料理は、当時高価な香辛料を使った、贅沢で豪華な料理がテーブルに並べられ、客がフィンガーボールで指先を洗い、目の前の料理をつまんでパンに乗せて食べた。日本では素手ではなく、箸を使う文化が既に飛鳥時代から始まっている。西洋にフォークが登場しのは15~16世になってからで、フランス料理で温かい煮込み料理が登場するのは18世紀前半と言われている。日本では太古から煮物料理が登場し、温かい煮物・汁をだす会席料理は、フランスより300年前の15世紀に始まっている。日本は食の先進国であった。

                                                           

                    会席料理 (一の膳)

                                                          

                          懐石料理の八寸

                                                          

                     京都嵐山吉兆の八寸

 

大盤振舞い―日本料理  1

  岩波「広辞林」を引くと、大盤は椀飯の当て字で、気前よく人々にものや食事を与えることだと書いてある。

 この大盤振舞いの発祥は古く、平安時代に始まっており、貴族の公家が昇進して大臣になった際に縁者を招き、宴を開いた。この料理は大盤料理と言われ、豪華な料理から大盤振舞いの言葉が生まれた。

 椀に汁・貝・生もの・干物・菜などの山海の珍味が盛られ、それを各々が手前にある酢・しょうゆ・塩で味付けして食べたのである。料理人は、山蔭流(藤原氏)の後という、四条家が有名であった。大盤料理で宴会の様子は下図の通り。

                                        

  日本では鎌倉時代まで、一般的には料理は貧しかったが、南北朝を経て室町時代に入ると、在京大名が都に増えたために、武士社会を中心に宴会料理が発展した。それが本膳料理と言われるもので、将軍などの格式によって七五三の膳にまで発展した。

 将軍が大名に御成りになると「式三献」が始まる。初献は(小串にさしたつまみ・干鮭の削り・鳥の足・雑煮〉、二献は(熨し鮑・つめた貝・

鯛の吸い物、三献は(するめ・タコ・吸い物)が出され、この間酒の遣り取りがあり、大名からは豪華な贈物が将軍に献上される。それが終わると書院座敷に座を移し、下図のような本膳料理が始まる。

 

                

 

  三十種以上の料理が並び、夜を徹して宴会が続き、この間に能・狂言が演ぜられ、翌朝10時頃に終わったという。

 同時代のフランスの王侯貴族の大宴会も、贅沢な料理を並べて、長時間にわたり、その間音楽・ダンスを楽しんだという。

 この本膳料理は江戸時代の豪商・大庄屋の結婚式などに伝わり、膳の数を競ったが、戦後その遺風は途絶えた。

 

 其の後日本料理は会席料理,懐石料理などに発展して行く。続編で書くことにする

 

 キリスト教脱出記ー赤岩栄

 明治41年から昭和41年。少年時代からキリスト教を学び、長じて牧師となり、佐渡ヶ島に赴任。その後東京の教会で牧師を勤める反面、共産主義に共鳴して共産党に入党。牧師と共産党は両立する筈がないのに、党を離脱した後もキリスト教と共産主義の一致を解く異端者。 その彼が晩年死ぬ前に書いたのが「キリスト教脱出記」である。

 

   ※ 今日の知識人と言われるキリスト教徒のうちに、一人でも生活の配慮から自由にされ、隣人に

    全き愛に生きて いる者がおろうか。 生活に心配することが無いから出来ることで、無一文に

    なってもそうした自由に生きられるだろうか。     

 ※ 原始キリスト教団は、復活されたキリストが、間もなく再誕され、そこで最後の審判が行われ、

   キリスト教を信じない者は永遠のゲヘナ〈猛火〉に投げ込まれ,キリスト教徒だけが、聖なる民

   として永遠の神の国に受け入れられると信じて疑わなかった。

 ※ 私たちがまず、他人が地獄に墜ちても、自分だけ天国に行きたいというような、得手勝手な

    欲望を断念する必要がある。

 ※ また私たちは、地獄の威嚇から自由にされる必要がある。

 ※ 宗教的人間には、一方で私たちの欲につけこむ詐欺師的人間がいると同時に、また他方では

       地獄の火で威嚇する強盗的人間もいる。 しかし一方で地獄に墜ちる人間がいて、他方では

       天国に入る人間がおれば、神は全能でもなく、愛でもないことになる

 

 やや意固地なこのキリスト教徒は、教会の牧師として生活が安定し、人生の大半をキリスト教会に養われてきたのに、最後になってアンチ・クリストの主張をするのは、きわめて認知症的なピエロを思わせる。自己の考えをを主張するなら、早くキリスト教会ら離れて、自説を展開するのが道筋ではなかろうか。

 

 私も若い戦後思想混乱の中にあって、聖書になじみ、時にはチャペルの説教台で、自分のキリスト教の見解を披露したことがあった。それが教授陣に知れ、私に大学に遺るように説得された。専攻は「神学」と言われた。だが私は断った。その後世界史を勉強すると、キリスト教団は愛を解くのに、異教徒との戦いばかりで、後は大航海時代の美名に隠れた世界侵略に協力しているキリスト教に失望し、その後私は人間的なギリシャ世界へと走ったことを思い出す。