閑話休題 -8ページ目

 驟雨 夏の夕立、豪雨は困りますが、夕立は人間や生物に生気を与える上、夕立の後は涼しくなるのが楽しみです。

 

   ある都会の

   美しき真夏の昼下がり

   大河が海に消えんとする彼方から、

   沛然と驟雨がかけてくる

 

     ⦅羊どもよりも優しく白く

      一群の雲が進み出る

      羊飼いの女は上品だった

      ことに嵐を愛している時には》     ーラディゲ

 

   遥かな空に向かっての階段

   サイン23  エチュウド・ドゥ・ポエジィ

   ――だから賛歌を地上に降ろしてはならない

   

 

京都東山 大文字焼の謎

 

   祭り過ぎ大文字過ぎ夏も行く いと慌し京の暦は      吉井勇

 

 祭りとは祇園祭のこと。大文字山焼きは盆に迎えた先祖の精霊の送り火。京の夏の風物詩として観光名物にもなっている。

 始まりは平安初期に空海が始めたという説、室町中期足利義政が始めたという説、江戸初期に近衛信尹が始めたという説。どれが本当かよくわからない。大文字山焼きは平安時代の物語にも出てこないから空海説は疑問で、恐らく江戸時代からであろう。

 

 比叡山を開いた最澄の後、第三世を継いだ円仁によって、シナから齎され、「浄土三昧堂」を建て、狭い御堂の中で念仏を唱え続ける念仏三昧の行をされ、それを受継いで今の浄土宗の宗派が出来た。「南無阿弥陀仏」を宗旨とする浄土宗は比叡山が発祥の地で、現在の知恩院の浄土宗、東・西本願寺の浄土真宗、融通念仏宗などは比叡山から発生している。

 

 下の地図のように、比叡山の京都側の山麓は、銀閣寺から西に大きく浄土寺町が広がっている。もとは比叡山の京都の所領地であったからで、其処に平安末期の建久年1191比叡山天台系の浄土寺が完成し、丹後の局が移り住んでいる。高階家の美貌の娘で、平業房の妻であったが、夫の亡きあと後白河法皇に召され寵愛された。彼女の権勢欲は有名で今楊貴妃とも呼ばれ、産んだ皇女は上皇崩御の後、膨大な荘園の遺産を独り占めして継いでいる。浄土院には美貌の丹後の局の絵像がある。

 

 さてその浄土寺が応仁の乱で焼失、室町に移転した。その跡地の景勝地を召し上げて、足利義昭が銀閣寺を造営する。その後江戸時代になって、銀閣寺の入り口に浄土院が再建された。その浄土院の僧侶が大文字山焼きに山に登り、山にある空海の廟に祈りを捧:げて

げてから、松明に火がつけらる。天台宗と真言宗は宗派もちがう。なのに比叡山の膝元で、なぜ大文字山焼に、高野山の空海が関わっているのか、私の謎とするところである。

 

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          大文字山の山焼き                          丹後の局

  

 

                比叡山の元の所領地の浄土町

 

 

 

 

 

 

                                       

 甲板浴

 涼しい梅雨の時期が過ぎて、土用の暑い夏が始まった。だが昨日思いがけず少しの夕立が来て、夜中に墓冷風が吹いて過ごしやすい一夜に恵まれた。今はシャワーも入浴も不便を感じない世の中になったが、戦前までは盥で行水をするか、銭湯に行って汗を流した。自宅に風呂がある家は特別だった。

 

 それはともかく昔、戦艦・巡洋艦・駆逐艦などの軍艦に乗っている海軍の将兵たちには、水は貴重で、とても入浴・洗濯に贅沢に水を使えるものではなかった。特に南洋で軍務につき、蒸し暑い船底の機械と戦っている兵卒たちの一番の楽しみは、雷鳴とともに降り注ぐ雨水で体を洗う入浴であった。甲板浴というらしい。

 

  熱帯を過ぐる軍艦の甲板で、海軍の将卒が折々やるという驟雨浴。「全員入浴準備!」の一令で、手早く制服を脱ぎ捨て、石鹸とタオルを両手につかんで、真っ黒の健児共がずらりと甲板に並んだ処は、面白い見ものであろう。

  やがて雷鳴電光よろしくあって、錨策大の雨の棒が滝落としにどうどうと降る。さあ、今だ。総員アヒルの如くキャツキャツと笑い騒いで、大急ぎで石鹸を塗る。洗う。太洋の真中で大無銭湯が開かれるのだ。ぐずぐずしておれば、石鹸を塗ったばかりの斑人形を残して、いたずらな驟雨はざあとかけ抜けてしまう。四方水の上に居ながら、バケツ一杯の淡水にも中々ありつかれぬ海の子らに、蒸留水の天水浴とは何と贅沢の沙汰であろう。世界一の豪快は、甲板の驟雨浴であらねばならぬ。    

                                                                   徳富蘆花「みみずのたわごと」より

 

 食人鬼

 足利尊氏に帰依され、後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建て、また苔寺をも造った夢想国師

 国師が修行中の若い頃、ある山中で道に迷い、たまたま見つけた庵に一夜を乞うと、そこの老僧は「麓の村に行けば泊めてくれる」というので、村に降りて村長に頼むと、快く引き受けてくれた。 

 しかし村長の息子が来て、「只今父が亡くなりました。村の掟により、死人が出た夜は村を挙げて村を離れないと祟りがあるという言い伝えがあるので村を出ますが、お坊さんは他所の人ですから、良かったら泊まって行って下さい」という。

 国師は死者の通夜に読経していると、突然体が金縛りになり、朦朧としているうちに、黒いものが現れて死者を食い尽くしてしまう。気付いた時は朝で、村の衆が帰って来て、「やはり言い伝えのようだった」という。

 しかも村には寺もなく、僧もいないというので、国師は昨夜訪ねた寺に行くと、「死者を食べたのは私です。私は食べるに困って、食人鬼に変わり果てたのです」。というや否や、瞬く間に僧は消えて、後は古い苔むした墓石が散らばっている墓場に変わってしまったという。

 

  明治に英語教師として、松江に招かれたラカディオ・ハーン=小泉八雲の小説「怪談」の一章です。「ジキニンキ」と読むのが正しいようです。創作ですが、それにしても夢想国師を主人公にした手法には驚きました。

 

 

 

幻術士

 日本ではお盆を迎える頃から、夏の風物詩のように、定番の四谷怪談はじめ、お化け屋敷や妖怪物の見世物が出て、人々も面白がって見に出掛けて行く。

 

 前月の最後の「室津」の章で、海龍王と名乗る幻術士が登場しているが、同時代京にも果心居士という幻術士がいたと言われている。

 九州出身のようだが、戦国時代伏見の街中で能が行われていた時、人が一杯で見えない。彼は顎をさすると首が伸び、皆が驚いている隙に一番前の席に出たという。

 また鳥羽で借金していた男と出会った時、彼が顔をなでると別人に変わり、男は大いに詫びたという。

 またある剣法者と試合した時、皆が彼に負け、さらばと八人がかりで挑むと、果心が忽然と消えてしまう。八人がどこにいるかと呼ぶと、元の場所に動かずにいたという。

 

 極め付きは、戦国武将の松永久秀が「俺を怖がらせることが出来るか」と彼に言うと、暫くすると急にあたりが暗くなり、雨風が激しくなっ

てきて、庭前に一人の痩せた女が現れる。それが何と亡くなった妻の姿であったので、余りの恐ろしさに久秀が辞めさせると、何と庭のそこに立っていたのは果心であったという。

 織田信長、明智光秀なども驚かせたが、秀吉の怒りにふれて磔に処せられた。ところが刑の執行直前、果心は鼠に変じて柱の上に登ったが、その時一陣の風が吹いて、鳶が鼠を加えて飛び去ったという。嘘のような怖い怪奇譚である。

                                                                                             『日本伝奇伝説大事典』角川書店より

 

 

 

 

 夕涼み風景

 クーラーも、扇風機もない時代、夕涼みは夏の風物詩でした。

 熱い日本の夏江戸の昔、上流の人達は「川風につい添われて涼み舟・・」と江戸小唄にあるように、隅田川に納涼船を出して、芸者を連れて酒と筥料理を楽しみ、涼をとるのが「粋」でした。

 一方大工・左官ほか下町の庶民は、夕涼みに家の前に床几を出し、近所の大人たちが集まってきて将棋などして、団扇をあおぎながら蚊を払い、涼をとっていたのが日常の風景でした。

  農民は畠仕事を終えた後、家族ともども行水を済ませ、夕飯を食べ終わった夕暮れ時、それぞれの庭で、蛍の飛ぶのを見ながら涼をとっていたでことしょう。都会と違って緑おおく、過ごしやすかったのかも知れません。

 下の絵は農夫の家族が、庭の夕顔棚の下に茣蓙を敷いて、涼をとっている絵です。我々ご先祖さまの夕涼み風景です。

もう今では見られない、懐かしさを思い出させる夕涼み風景です。この「夕顔棚納涼図」 久隅守景画 国宝になっています。

 

           

 沖縄宮古島の伊良部大橋

 長引いた梅雨が明けた途端、猛暑になって、老体には応える暑さが続いています。

 夏には高原の避暑地が最高でしょうが、年金族には手の届かない話です。

 下の写真は宮古島の伊良部大橋です。澄み切った南の海上に、美しい橋が伸びています。

 この写真を眺めているだけでも、涼しくなります。

 

 

 

 室津

 日本の殆どの遊郭は戦災で焼けてしまい、更に赤線廃止で姿を消した。ただ焼け残り、再開発されずに、昔の残影を残すところが懐かしい。その中で瀬戸内の室津は数々の歴史や小説に登場し、西日本でただ一つ残る郷愁をそそる街並みである。

 

 遊女の始まりは、紀元前ローマのパルテノン宮殿にいた巫女だという説がある。日本では貴賓の宴席に侍る女は万葉集にも出て来るが、滝川政次郎博士の『遊女の歴史』では、朝鮮済州島の下層民白丁―パクチョンーの女が日本に来て春を稼いだのが、日本の遊女の始まりだと言われている。海上交通が盛んになった平安時代、瀬戸内から淀川の船泊りに遊女町が続々登場する。

 舟で賑った港町には当然遊郭が多い。この瀬戸内の播州  室津には港の前に三つの唐荷島があり、南風が遮られて、風待ちに最高の港で、また四国に渡る船の発着港として、奈良時代から参勤交代の江戸期まで賑わった港で、瀬戸内でも有名な遊女町であった。

 

 建永3年 1207 法然上人が法難に逢って四国に流された時に室津に立ちより、遊女の室の君、友君の願いにより、得度を授けた故事ぱ有名で、また西鶴諸国物語で室津の豪商の息子清十郎、14歳から遊君と交わり、その数86人に登ったという。見かねた父が19歳の放蕩時息子を勘当し、播磨の但馬屋の手代に遣られたが、娘のお夏と恋仲になり、最後清十郎は蔵の金を盗んだ容疑で死罪となり、お夏は彼を慕って狂女となり悲恋の死を遂げる。お夏清十郎物語である。(閑話休題2017.3..2)

 

 時代は下って大正時代、抒情的な画家‣詩人として一世を風靡した竹久夢二も、故郷の邑久ーおくーに近い所から、たびたび女との逢引に室津を選んだようである。彼の有名な次の詩を詠った場所は、下記の「室津懐古」の絵からも室津説は有力である。

 

     待てど暮らせど来ぬひとを 宵待ち草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな

 

 下の絵は夢二が室津の旅館からの眺望を描いたものである。歌に惹かれて私もこの旅館に泊まった。

 

  また昭和になって谷崎潤一郎の怪奇小説『残菊物語」も室津を舞台にしている。室町時代の末期、室の君かげろうという遊女に、明の豪商張恵卿が恋し、かげろうは,二寸二分四方の金の筥に、十六畳吊の蚊帳を入れて持ってくるなら、という条件を出し、二年後その宝を持って日本に来るが、室津の手前で舟ごと沈没、金の筥も海底に沈む。それを海龍王と名乗る男が、賀茂神社の祭礼の日に持って現れるが、最後幻術士であるのが分かって、追いかけられ逃げてしまう。分かりにくい筋書きの小説である。

  しかし室津は郷愁をそそる古い街で是非足を運ばれたい。賀茂神社も歴史に名難い神社である。

 

  

             室津の港

  

            昔の遊郭跡、現在室津資料館

  

     室津懐古  竹久夢二画

 男山の橋本遊郭

 石清水八幡宮へのケープルがある京阪橋本駅を降りて、川の沿いの旧道にある橋本遊郭は、時期としては昭和初め、番付にも載らない小さな場末の遊郭であった。ただ全国の遊郭が戦災に遭った中、焼けずにその面影を今に遺しているのが懐かしいので採り上げた。

  

 宮尾登美子の小説に「鬼龍院花子の生涯」という名編がある。土佐の高知の侠客、鬼政が経営する遊郭で、貧家の小女松恵を養女に迎えたが、後につるという妾に娘が出来て、花子と名付けて溺愛する。花子は娘になって、ある社会主義者の男を婿にしたいと願ったが、男は松恵を選び家を出て同棲する。鬼政もヤクザの紛争に巻き込まれたりして、家は潰れ、花子は流浪の末、最後は大阪橋本の遊女になり、病気で死んでしう。その最後の場面に今は小学校の助教師となっている松恵が訪ねて行く。

 映画では鬼政が仲代達也、松恵は夏目雅子、花子は高杉かおりが演じて、全巻手に汗を握る場面が続くが、この映画の最初のシーンが、夏子が浴衣姿でパラソルをさし、淀川堤防の石段を橋本遊郭へ降りて行く場面から始まっていて、清々しく印象的である。

 

 古代弥生時代後半から、大和と丹波を結ぶ街道の、淀川渡しの拠点に、橋本と向い側の山崎が登場。山崎から物集女、老の坂を越えて丹波に通じていた。橋は奈良時代に二度付けられたが、洪水で流され、後は小舟で淀川を渡った。今は都市再開発から見逃され、

昔の遊郭の面影をかすかに残している。大阪界隈でも貴重な大正・昭和遺産である。

 

 淀川の渡船舟は戦後、遊女通いを嫌って廃止された。谷崎潤一郎は名作『蘆刈」で、この渡し舟で出会った男の話を書いている。主人であった女が再婚し、巨椋池の別荘で毎年月見の宴が開かれる時に顔が見られるので,大坂からわざわざ女を覗き見に来る男との会話を描く抒情的名作である。もうこの渡し舟も無くなった。仲秋の名月にこの淀川の舟で、一献を傾ける情緒も無くなった。

 

 

             丹波路の古地図   

  

 映画「鬼龍院花子の生涯」の始めのシーン                        元橋本遊郭

          

         旧橋本遊郭                       元遊郭

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 大坂新町遊郭と江戸吉原遊郭

 京都に後れること40年、寛永元年1624年、秀吉は大阪にも公認遊郭を許可した。下図の新町遊郭である。

 西横堀川の西、3万坪の湿地が埋め立てられて堀で囲まれ、横堀川の新町橋が唯一の出入り口であった。揚屋35軒、茶屋49軒、大夫29人、遊女794人と盛況で、井原西鶴は、京の女郎に、江戸の張りをもたせ、大坂の揚屋で逢わば、この上何かあるべし。と書いている。三都にくらべて大坂の建物は立派であったのだろう。

 

 この新町へ舟で京島原から移って来た夕霧大夫を一目見ようと、見物人は横堀川の両岸に鈴なりになった。時に夕霧19歳、美貌で、言葉遣い、行儀作法もよく、和歌、俳句、書、音楽、茶の湯に優れた絶世の美女で、神代このかた、また類いなき御傾城の鏡と言われた

  彼女の俳句に、母子が急に雨が降って通りかかった時、母が袖を広げて子供を雨からかばうのを見た夕霧は、ちごの親手傘いとわぬ時雨かな と詠んだという。だが゛25歳の若さで急死し惜しまれた。彼女を悼んで命日に夕霧忌という句会がを開かれている。

 なお京都の菓子の老舗「八つ橋」の主人により、彼女の生家近くの嵯峨清凉寺で、毎年春、夕霧供養と大夫花魁道中が開かれている。

 (閑話休題 2016.8.9日号ご参照)。この夕霧がいた置屋・扇屋の娘と役者中村翫雀の間に初代中村雁治郎が生まれている。

  なお下図のように新町に続いて堀江新地・堂島新地・島之内新地・曽根崎新地・難波新地が造られたが、先の敗戦前の空襲で全部焼けてしまい、赤線廃止の追い打ちもあって大阪の遊郭は全滅した。

 

 江戸は勿論吉原遊郭である。大坂に後れること2年、寛永3年に家康によって公認された。大坂は公家・町衆が中心であったが、吉原は旗本、大名が上客で、歌舞伎役者は認められず、彼らは深川などの非公認の遊郭岡場所で遊んだ。吉原の繁盛ぶりは日本一。戦災で全部焼けて今やその面影もない。

 

 しかし大阪は新町廓を舞台に,近松門左衛門が、恋飛脚大和往来、心中天の網島、曽根崎心中などの名作を書き、今も上方歌舞伎の当たり狂言になっている。吉原も助六由縁江戸桜や゚伽羅先代萩などの歌舞伎の名作があり、花魁も浮世絵美人に描かれ、吉原遊女の髪型は、江戸の娘たちの流行の源となつた。明治になって政界・財界・文化人の社交場となり、殆どの文化人が吉原に出入りしている。

 坪内逍遥、泉鏡花、志賀直哉などが吉原を小説に取り入れている。特に吉原界隈で生活した樋口一葉の「たけくらべ」は最高の傑作である。要は日本の遊郭は、遊びだけの世界でなく、世界でも例のない文化発祥の地であった。その文化史的存在は大きい。

 

 大阪では梅田が玄関口になって曾根崎の一部北新地が浮上して来た。当時新町‣南地に妓女多かったが、「北新地の芸妓はすべて従順で、よく粒がそろい佳人多く、ひそかに遊んだ人は主に北に多し」と言われた。ところが明治42年天満空心町のメリヤス屋から火が出て、東風にあふられて、蜆川に沿った両岸の妓楼を総なめにした。蜆川には遊女が投げ込んだ姫鏡台が幾つもぷかりと浮いていたという。

当時住友の理事だった川田順は、

 

    蜆川やけあとかえす土くれの 捨て場となりて狭み濁るも

 

 の歌を詠んでいる。後に蜆川が埋め立てられて今の北新地本通りとなって、今も繁栄を続けている。

  

      

        大阪新町の有名な揚屋の吉田屋      浪速名所 新町遊郭の桜並木の花見客

     

    中央の蜆川両岸の昔の北の新地          明治42年大火により全焼

  

     川は埋め立てられて現在の新地本通りとなる