閑話休題 -7ページ目

 虫鳴くや―与謝野蕪村

 わが国の古典、『伊勢物語』は何度読んでもよい。平安朝初期の在原業平のロマンに満ちた歌物語である。その25段に、幼馴染の女と、恋歌を交わす場面がある。女が年ごろになって親からの縁談をことわり、昔一緒に遊んだ男が忘れられなかったが、折りしも男から、

 

   筒井つの井筒にかれけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに

 と、女に恋歌が届いたので、女は嬉しく

   くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき

 と歌を返して、二人は本意の如く結ばれることになった。

 

 ところがそのうち女の親が亡くなり、男は心変わりして、河内の国高安の女に行き通うようになった。だがいつも高安に出掛ける時、女は快く出してやるので、女に異心があるのてはと疑い、出かけるふりをして前栽に隠れて見ていると、女は美しく化粧して、

   風吹けば沖つ白波たつた山 夜半には君が一人こゆらむ

 と夫を案じて詠むのを聞いて、いとほしく思い河内に通わなくなった。一方たまたま高安に来てみると、はじめ品が良かった女は、手づから飯を器に盛っているのを垣間見て嫌になり、高安へは行かなくなってしまった。

 

 よし知られた歌物語であるが、その舞台は奈良駅から三つ目、櫟本の駅の南、石上町にある在原寺であるといわれ、芭蕉ほか多くの文人に交じって与謝野蕪村もこの寺を訪ねている。寺の前を奈良・三輪・長谷寺を結ぶ最古の古道、上つ道が走っているが、門前にある地蔵尊の横の細い道を行くと、JRの桜井線の線路に突き当たるが、それをまたいて西に向かうと細い農道に繋がり、暫く行くと、

 

  虫鳴くや河内通いの小提灯  蕪村

 

 の句碑が建てられている。遠くに龍田山がかすんで見えている。業平の河内に通った道は、大和川沿いの道と、十三峠を越える山越えの道が業平道と呼ばれている。この山道の峠を降りた山麓の神立の辻に、業平河内通いの八尾市の石碑が建っている。

 生駒山は大阪側は険しいが、大和側はなだらかな丘陵で、開発も遅れて今時にない峠道である。秋風がたつ頃にはよい散歩道である。

 

   

              在原寺 

 

               蕪村の句碑

 

           川沿いと山越えの業平道

 

 夜叉神峠

 夜叉神とは恐ろしい地名である。夜叉は人に悪いことをもたらすが、一方仏の護持神という両面を持つと言われる。三省堂の『コンサイス日本山名辞典』によれば、「夜叉神が山麓の民を困らせるので、やめさせる為に、この峠に祀ったという」。名前は怖いが道はバスも通っており、しかも眺望がすばらしい。

 

 山梨県の南アルプスの東に、鳳凰三山(地蔵岳・観音岳・薬師岳)が南北に走っている。それでも2800m級の山々で、東に北岳の南アルプス連山と東に富士山が展望できる、岩と花崗岩砂の明るい山脈である。

 私は中央本線の韮山駅がら、山宿の送迎バスで御座石鉱泉に一泊。翌日地蔵岳はじめ三山を縦走し、薬師岳小屋に泊まった。翌日早朝夜叉神峠に下山途中に、朝日の後光で靄かかかった東の彼方に富士山の頂上が見え、素早く写真を撮った。現像してみると富士山が金色に染まっていた。それは私のブログの巻頭を飾っている「金富士」である。私の山の写真の中で一番の傑作となった。(2016.6.2日ブログ参照)

 これに味を締め、同じような富士山の写真を撮りたいと、再び夜叉神峠に向かった。登山口から出発して、苺平を経て薬師岳小屋に泊まって、明くる日を待った。しかし富士山はご機嫌悪く、厚い雲に覆われて、写真どころではなく、諦めて下山した。私の山行の中でも思い出深い峠である。

 

  

      奥に鳳凰三山の雄姿が見渡される。

行きたいが、もう私の体では行けない所ー2  小辺路

  近畿の背骨である大峰山脈は、奈良時代役行者によって開かれ、彼の跡を追う修験者たちによってに今日まで続いている。

 その近畿の最南端にある熊野は、中世観音菩薩の極楽、補陀落世界と信ぜられ、また本宮にある熊野神社に対しては、平安時代後半から阿弥陀如来の浄土となり、熊野詣は異常な高まりをみせて、後白河天皇は23度、後鳥羽上皇は29度と、朝野の信仰を受けて聖地となった。

 その熊手詣でには下図のように幾つもの道がある。大峰奥掛け路、大辺地、中辺地、小辺地、東・西熊野街道、伊勢地などである。

私は大峰奥掛け路は熊野詣本来の参詣道と考えて、72歳の夏、8日間かけて全縦走を果たした。大辺地、中辺地は若い頃旅行で通った。あと高野山から熊野に向かう小辺路だけ残ってしまった。もう今の歳では到底行けない。

 

 テレビでよく見る小辺路果無部落は、よくもあんな辺鄙な高所に人が住み着いたと思う。前面には果無山脈が横たわり、その前の高台に家や耕作地がある。見晴らしは最高だが、交通は不便で、冬は寒い。それでも何代も人々が住み込んでいる。別世界だから、それなりにゆったりと歳を取って行くのだろう。うらやましいことである。

   

 

  中辺路は高野山の金剛三昧院から入る。途中伯母子岳の裾を巡り、果無集落を経て熊野本宮大社に至る。約70キロの山道、

1000米級の峠を3つ越える。

 世界遺産の熊野古道、3泊4日の行程で、途中民宿もあるようだが、たいていの山好きはテント泊を選ぶようだ。私もテント泊は好きだ。

道具一切揃っている。アルプスも人混みに押し込まれる山小屋よりも、大地に抱かれて眠る山の一夜は忘れられない。

 先に歩いた大峰山奥掛け道は私の場合7泊8日であった。コースとしては小辺路は奥駆けより易しいが、チャンスに恵まれず、今となってはこの体ではもう行けない。心残りのコースである。

 

  

          果無の集落

   

        私の歩いた大峰奥掛け道 吉野→本宮 足掛け丸8日間、山の尾根を歩き続ける。

 

 

 

 短歌十首

 

  プールの底金網模様の光の環 眺めて泳ぎし生ける喜び

  夏雲のニュギニアとイングランド 浮きつ漂い崩れゆくなり

  雲切れて青空覗くひんがしの 遠雷や夏も畢らむ

  草むしり汗を流して寝椅子にて 冷たきビールは天上の味

  早や九月越中おはらの風の盆 粋な踊りに酔いし思い出

  酒酔いてなお思い出す尾鈴山 牧水慕ひし日の懐かしさ

  夏の宵上七軒の芸子らの 華やぎ添えて飲み騒ぎけり

  古寺の誦経に冴えたる禅僧は 独り居ながら猫愛でてける

  わが漬けし梅干し肴に酒酌みて 志功板画に酔う夜半かな

  今日友の入院せりと電話あり 共に歩みし世は遠ざかる

 

 

 

58年前の韓国のこと

  文政権が誕生してから、慰安婦・戦時徴用問題がこじれ、対抗して日本が出した化学物質の輸出審査開始、ホワイト国優遇の撤廃を機に、日本製品の不買ほか、排日の運動が激しく、嘗てない日韓関係にある。今までの日韓の国際協約が一方的に破棄されるのは、国際法違反である。日本側はわりあい平静に、毅然とした態度で臨んでいる。それでよい。

 

 1965年に日韓基本条約が締結され、無償・有償など5億ドルの多額の賠償金が払われ、その資金を梃に韓国経済は急速な発展を遂げて、10年経った1975年頃には、「漢江の奇跡」と騒がれた戦後韓国の経済繁栄期を迎えた。

 私はその実態を見たくて、今から58年前1978年(昭和51年)に韓国の有力企業を訪問、取引を勧誘したが、当時アメリカの資金がとても格安で、わが方の提案は成功しなかった。しかし当時の朝鮮の人々は先進国の日本人に好意的であった。

 

 日曜日にはタクシーに乗って、一人で旧宮廷の景福宮を散歩した。人っ子一人いない宮廷の冬の景色は寒々として、寂寥を感じさせた。私は売店で韓国焼酎の小瓶と焼きするめを買って、池の傍の椅子に腰かけて、異国での旅愁をなぐさめた。

 その晩、私は一人で夜の街を散歩した。裏通りだからかまだ未舗装の土道であった。通りに面したビルの一階に喫茶店があったので飛び込んだ。だたっ広い20畳位の部屋に椅子が沢山並べられて、客は若い青年たちで一杯で、すぐに私を日本人とみて好奇の目を向けて来た。当時まだこんな場末の店に日本人が現れるのが珍しかったのだろう。ややして女将の娘が注文を取りに来た。コーヒーが来るまでトイレに入ったが、水道の蛇口が壊れていて水は出なかった。

 コーヒーが出された後、30を過ぎた女将が出て来て挨拶を受けた。ものすごくきれいな女で、北から逃げて来たのだという。これからは日本人の観光客も多くなるので、日本語を勉強しようと思っていると言っていた。ある時街頭で女学生から誘いを受けたが、後のことが気になり彼女を振り切った。韓国では若い女学生でも性を金に換えることは平気なのだろうか。

 しかしその頃、私の見た韓国人は純朴であった。

 

 取引に赴いた財閥も各様の対応で、一番応対の悪かったのは現代グループ、 一番紳士的で、丁寧な応対だったのはサムソンで、韓国工芸品のお土産まで頂いた。当時サムソンは繊維が主体で、日本進出の第一支店は大阪船場で、新任支店長のソウル大出身の朴さんとは大阪の夜の街を飲み歩いた。奥さんは梨花大の才媛で、我が家に夫婦でお招きしたことがあった。

 サムソンが電機部門に進出したのはその後で、会長が日本に別荘を持ち、そこで派遣社員の情報を集め、日本の電機業界が一時大量解雇を打ち出した時、電気技術者を高給で招き、遂には日本を凌ぐ業者となった。今日のサムソンの基礎を造ったのは、解雇された日本人の技術者であり、日本の電機メーカーはそのしっぺ返しを受けるに至ったのである。

 

 その昔に比べて今の韓国は激変して日本に敵対的である。十数年前に始まった韓国の歴史教育で、日本人の下に組み込まれた屈辱の「恨」-ハン―が、今も生き続けている。

 昔の儒教世界の李朝時代、事大大に仕える主義の朝鮮はシナを盟主として次位であることを誇りにし、日本は三位と見下げ日本に対して兄貴気分で尊台であった。明治維新後日本が国交を求めた時も、李王朝は相手にしなかった.。怒った西郷隆盛が征韓論を唱えたが、大久保利通と意見が分かれ、薩摩に下野して西南戦争の悲劇を起こした。

 いづれにせよ日本と韓国とは遺伝子的に相入れないのである。ことに文政権は何を仕出かすか分からない。不断の注意を!

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 阿弥号と同朋衆

 一遍上人の活躍した時代は鎌倉時代で、多くの信者が入信して時宗という宗派を作り、彼らは阿弥号を授けられ、○阿弥と名乗った

 彼らは時宗の従軍僧として、戦死者の埋葬や遺品を家族に届けたりした。野山に放置されていた戦死者を、埋葬するという仏事は彼らより始まった。千早城攻めの時には300人の時宗僧が幕府方に動員された。

 そして戦いの合間には武将たちと連歌や闘茶の遊びをしたり、酒席で舞を舞ったり、武将の雑役をこなしたりした。後には学や芸のある阿弥僧雑役をする茶坊主とに分れて、将軍や大名に仕え、その他は地方で葬式を手伝ったり、布教をして歩く遊行僧になった。

 

 中には身分の卑賎な河原者でも、特に優れた芸能を持つ者は、髪を剃って阿弥号をもつ僧体になることによって、身分の違う高位の将軍家や諸侯に仕える方便にした。 彼ら阿弥号を持つ仲間は同朋衆と呼ばれた。

 観阿弥・世阿弥・音阿弥・増阿弥(能役者)・芸阿弥(水墨画、将軍家の書画骨董の管理)・僧阿弥(銀閣寺の書院設計)・善阿弥(銀閣寺の庭造り)・千阿弥(千利休の祖)・本阿弥(光悦の祖,刀剣鑑定・研磨)・立阿弥(立花・華道)・祖阿弥(漢学知識豊富で義満の代役として明国に遣わされている)。

 このように阿弥号の中で、身分が低いが才能ある者が、有力なスポンサーの下で才能を発揮しえたのは、ヨーロッパのルネッサンスと同様で、今日に続く磨かれた日本の美意識を育て、室町文化に果たした役割は大きい。

 

 なお世阿弥は晩年禅宗に改宗、千阿弥の子孫千利休も禅宗に転向し、本阿弥光悦は熱心な日蓮信者に転向。徳川家の祖先、徳阿弥・長阿弥・独阿弥も、時宗の遊行僧として各地を回っていたが、三河国大浜称名寺の連歌の席で、三河の豪族酒井氏と松平氏に認められて、独阿弥は松平家の養子に迎えられ、その五代目に徳川家康の祖父、清康が出る。家康は時宗を嫌い、知恩院の浄土宗に転向。知恩院に壮大な山門を寄贈する。

 このような 一遍上人の後世に遺された阿弥僧の無形‣有形の資産は、歴史的な点からも大きい

 

 

一遍上人

 私の手許に『日本名僧辞典』というのがある。役小角、聖徳太子、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、空也上人、一遍上人ら、58人が挙げられている。それら歴代の高僧の中で、私が一番慕うのは一遍上人である。

 一遍上人は法然の浄土宗の一派であるが、その弟子の親鸞が出た後で、空也上人の跡を継いで阿弥陀仏の称号を唱えるだけで、何の修行もしなくても、極楽往生を遂げられるという、徹底した念仏宗を全国各地に布教して歩いた。

 

 彼は四国の河野家の豪族の子孫で、若くして僧になったが、途中で還俗して故郷に戻り、武士として妻と妾を娶った生活をしていたが、妻妾の内面争いに嫌気がさし、再び遊行僧を志した。その修行中に四国の菅生の岩屋で念仏修行の正覚を得た。それを更に確かめるために熊野に向い、熊野本宮で「一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、その札をくばるべし」との託宣を受けた。その札とは、下絵のような南無阿弥陀仏 決定往生六十万人と木版されたお札である。一遍は各地を廻って人々に札をくばって阿弥陀信仰を広め、途中手提げ鐘を叩いて、南無阿弥陀仏を唱えて踊り、忘我の状態になる踊念仏を取り入れた。当時の下層民や一部の貴族にも熱狂して受けいれられ、一世を風靡した。今に各地に残る盆踊りの元祖とも言われている。

 

 のちに宗派時宗となる一遍上人の信仰は、すでに法然、親鸞と同じ信仰の系列である。特に新しい宗旨を作ったのではなく、庶民には難しいお経を読むことで極楽往生を遂げるものでなく、ただ南無阿弥陀仏の称号を唱えるだけで、死後極楽に生まれるという単純明快な宗教で、それが庶民に熱狂的に受け入れられたのである。 

 

 私が感動するのはそれだけではない。一遍は生き佛さまで、上人の小水(小便)は万病に効く、人々が上人に竹の筒を差し出して小水を乞い、それを少しづつ人々がわけ合って飲んだという。

 また彼の臨終の時、千余人の従う人々が、一遍上人の周りを取り囲み、最後の昇天を見守った。最後に西宮神社の神主も上人の下に馳せ参じ結縁した。また一遍上人は生前殉死を禁じたにも関わらず、結縁宗の中の七人が、上人の没後神戸和田の浜の海に入水した。

 一遍上人の生涯について、弟子の聖戒が、画家の法眼円伊らを伴い、上人の遺跡を巡って、描かれた「一遍聖絵」国宝がある。素晴らしい筆致で、鎌倉時代の風物を描いた、貴重な巻絵がある。巻物の中の逸品である

 

 最澄・空海はじめ58人の高僧の中で、小水を万病の薬と乞うたり、死後直ちに殉死したりしたのは、一遍上人以外に無い。それほど心から人々に慕われる生き佛であったことに私は感動する。

 上人は最後兵庫の観音島で臨終された。今は神戸市の一部になって、その跡に真光寺が建てられ上人のお墓もある。神戸地下鉄海岸線の中央市場駅で降りて西に数分行くと、平清盛像のある近くで、毎年9月16(毎年変わるかもしれないので、お寺に問い合わせしてほしいー078-671-1958)、一遍上人の法要が営まれ、本山の藤沢市の遊行寺から管主も参列されて、信者による念仏踊りがあ、それが終わるとかの有名な念仏札が参列者に配られる。札は私は今も仏壇に供えている。

 

 皆さん。一遍上人はすごいお坊さんです。是非勉強されて、一度は神戸真光寺の法要に参詣されてはいかがですか。

 

    

             真光寺・神戸                 一遍上人の供養塔

    

  踊念仏・中央の鐘を叩いている一遍上人           現在の踊念仏

  

                     兵庫の和田の海に入水、殉死する結縁衆   『一遍上人聖絵』より

                          

                                         念仏札      南無阿弥陀仏  決定往生六十万人

 

  行きたいが、もう私の体では行けない所―四国の岩屋

  今まで行きたいところには殆ど足を運んだ。しかし老境の今の体では、遠出は出来なくなったので諦めている。その中で二三、行きたいた所が数か所ある。その一つが久万高原の菅生ースゴウーの岩屋である。

 

 四国の奥に絶景がいくつかある。その一つは面河渓-オモゴケイーであろう。昔若い頃石鎚山に登った後、南に向かって面河渓に降りて、始めて絶景を堪能した。清冽・幽邃な水と、周囲は川に覆いかぶさるような緑の木立、川床も滑らかで、綺麗な水が豊に流れている。日本にもこんな所があるのだなあと、感嘆し立ちすくんだ記憶がある。国民宿舎もあり、その後山のホテルも出来て案内状を頂いたが、いまだに果たせないでいる。

 

 その奥に久万高原がある。友だちの父親が亡くなったのでお葬式に参列した。その遺体のお墓送りに、村人たちが数人棺桶を担いで墓に向かうが、その途中担いだ棺桶を数回180°回転させる。余り珍しい風習なので写真を撮ったが、それがいけなかった。死霊が飛んできて私の頭に刺さり、激しい頭痛をひき起こした。帰宅した後ある友の勧めで、九州の基山町にある高野山系の僧に祈願してもらったら、途端に頭の半分が軽くなった。そしてお寺の清め砂を頂いて家の周りに撒き、般若心経を唱えること数日、やっと痛みは消え去った。何と久万高原は霊魂の棲む怖い所である

 

 この久万高原の東に菅生の岩屋がある。三つの磐が聳え立つ珍しい景観で、中世修験道の聖地であった。私の信奉する一遍上人

6ヶ月間修行されて悟りを得られ、阿弥陀仏の称号を唱えることで誰でも極楽往生出来るという信仰は、当時の大衆を巻き込み一大宗教改革を成し遂げられた。その信仰を確立された所が菅生の岩屋である。一遍上人絵図(国宝)には険しい崖に架けられた梯子で、上の洞窟にむかう小僧の絵が書かれている。大分デフォルメされているが、今もその梯子は残ってるという。予てから一度は参詣したいと思っていた私の願望の地である。

 

  

                面河渓

  

                『一遍上人聖絵』にある菅生の岩屋

 

 

 

 

走れメロス 太宰治

 「走れメロス」は太宰治の名短編の一つである。

 

 メロスは純朴な羊飼いであった。16歳の妹が同じ村の律儀な牧人を婿に迎えることになったので、その結婚準備の品々を買うために城下町に向かった。

 買い物を終えた後、彼はいつも陽気な街の雰囲気が消え、町は暗い雰囲気に包まれていた。メロスは不思議に思い、何人かの町の人たちに聞いた。その事情は、王様が猜疑心から次々側近を殺し、はては皇后や王子、王女まで殺したというのである。

 聞いた単純な男メロスは、「あきれた王だ。生かしておけぬ」と激怒した。そして王城に乗り込み王に直談判に及んだが、王は納得する筈もなく、メロスを牢に入れられて磔にすると言い渡された。

 

 その時メロスは三日間の猶予を乞うた。妹の結婚式だけは済ませたいので、三日目の夕暮れまで城に帰ってくると乞うたが、王は逃亡するとにらみ、応諾しない。そこでメロスは帰ってくるまでの三日間、竹馬の友で市内に住んでいる石工のセリヌンティウスを身代わりにしたいと申し出て、友は事情を聞き、無言でうなづき、メロスをひしと抱いた。代人と引き換えにメロスは一旦帰宅を許された。

 急いで村に帰り、いきなり結婚式を明日にすると触れ、躊躇する花婿や神父を説得して翌日式をあげ、披露宴を張った。そして自分は疲れているからと席を立ってひと眠りして体を休めた。

 

 翌朝暗いうちから起き出して町に向かった。野をこえ山越え走り続けたが、川は前日の大雨で氾濫し渡し舟もないので、彼は裸になって濁流の川を泳ぎ切り、力の限り走りぬいた。走れメロス!。辿り着いた時は、友が磔台にかけられて、今や縄を打たれて、引き上げられている瞬間であった.。メロスは縄にすがりついて、「殺されるのは私だ。メロスだ。セリヌンディスを人質にした私は、ここにいる!」。

 二人は抱き合って、うれし泣きにおいおい声を放って泣いた。群衆の中からもすすり泣きの声が聞こえた。暴君ディオニスは二人に近づき、「お前らの望みはかなったぞ。どうかわしの願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい」。どっと群集の間に歓声が上がった。「万歳、王様万歳!」。

 

 無垢で純情一途のメロス。友の為に身代わりになるのを応諾したセリヌンティウス。中世のヨーロッパにはこのような人間が生きていたのだろうか。それとも単なる寓話なのだろうか。

 

 

 熱い夏の間、髪が伸びるのはむしゃくしゃしてやり切れない。昨日街まで出て散髪してすっとした。老いても髪だけは伸びる。そこで空海を思い出した。

 弘法大師・空海は、晩年悪い悪いできものに悩まされ、死期をさとられた空海は3ケ月も穀物を断たれ、毎日を服用して自らミイラになる事によって、即身成仏のお姿を残さんものと、若い頃に見つけておられた高野山奥の院の、丹の採掘跡の洞窟に籠り、56億7千万年に弥勒菩薩とともに復活する旨の請願をなされ、入滅された。御歳62歳。

 

 この洞窟は2度開かれている。一度は86年経った後、京鳴滝の般若寺(今は無い)の観賢和尚が洞の扉を開かれた。外の空気が入り堂内は塵が霞のように広がった。しばらくして塵も静まり、和尚は空海の一尺ほど伸びた髪を削って、御衣を着かえられた話が『古事談}』に出ている。その時の様子を描いた絵が、観賢和尚の開基された高野山宝亀院に遺されている。さらに200年後藤原道真の願いによって洞が開かれた時も、大師の髪は青やかであったという。

 

 髪の毛だけは死者にも伸びる話は聞いたことがない。火葬は別として、土葬の再発掘の時も骸骨の髪が伸びていたという話も聞かない。ミイラでも同じだと思うが、死後86年も過ぎた後なのに、弘法大師の髪は青々と伸びていた。弘法大師空海さんは、やはり我々人間とは別人間だったのだろうか。

  

       

                      弘法大師入寂後86年後の祠のお姿