閑話休題 -6ページ目

 高野山と丹

 太古から珍重された赤い丹沙は、縄文時代人は血液に通じる生命力を感じ、体に塗って魔除けや疫病退治に珍重された鉱物で、熱すると水銀になり、水銀の五分の一の金を入れるとアマルガムしいう流動物になり、それを金属に塗り、後で表面を熱すると、水銀だけが蒸発して、金メッキが出来上がる。奈良の大仏の鍍金には2.5屯もの朱沙が使われたという。朱の色合いもよく、シナや日本では皇帝の色とされて玉璽の印肉に使われ、薬用にも使われた貴重な鉱物資源であった。

  この丹に似たベンガラは鉄分を含んだ鉱物で、一般の印肉や腐食を防ぐ京都のベンガラ格子の塗料にも使われている。丹沙は地球のマグマの贈物で、伊勢の櫛田川から紀ノ川、四国の吉野川から、別府から宇土半島に伸びる中央構造線に産出する。

 

 さて、高野山では「高野に来て高野知らず」という諺があるという。高野山は奥の院のある小山「姑射山くやさんー」の名から来ているのを知らないからだという。姑射山とはシナの道教では、金丹があって不老不死の仙人の住む所だという。これに目を付けたのが空海で、若い青年の頃にこの姑射山に来て、自ら丹を掘り集めたと思われる。

 

 彼は31歳の時、官費留学生ではなく、私費留学生として渡唐するが、渡航費用は無料で、生活費は日本やシナの官費で支給されるが、密教の修行に係る費用は自弁である。僧師への束脩、灌頂儀式へのお布施、持ち帰った247巻に及ぶ膨大なお経の写経生として雇った25人の人件費、仏画や仏具の画工・鋳物師・金工細工師への支払い、さらにこれらの梱包や港まで運ぶ人夫賃などの支払いは高額で、相当な金銭が動かなければ成し遂げられない。しかも空海が日本に持ち帰った資料数は、官費で一切を賄った最澄よりも多い。

  出航前に親や親族から送別金としてある程度の砂金を貰ったであろうが、それらの金だけでは到底賄えない。真言の僧侶や学者はそのことの論議を差し控えているが、私は空海が渡航前の青年の頃、手荷物として嵩が低く、しかもシナでも高額に換金出来る朱砂を、高野山で堀り集めていたのではないかと思っている。

 

 昭和の始め大阪の鉱山師が、奥の院のある姑射山とその奥の摩尼山・楊柳山・転軸山を買い取り、丹・金・銀・銅の採掘を願い出て、鉱山局から採掘の内意を得たが、高野山が猛反対し、大金を投じて権利を買い取ったという。それほどの宝の山であったから、空海は都から遠い高野山を修行と最後の地に選んだのである。私は奥の院からこの三山を歩いたが、素人には普通の小山に過ぎないが、地下には膨大な鉱物資源が眠っており、その丹の採掘跡の洞窟に弘法大師が生き佛として眠っておられる。弘法大師が敢て都から遠い高野山を修行・終焉の地に選ばれたのも、若い頃から高野山が丹の宝庫と知っておられたからで、ある化学学者は空海は山師だと言われているが、弘法大師の一面を喝破しておられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

越屋さん

 

 台風と豪雨

 今年の台風と豪雨がひどい。河川の氾濫の多さは例年に見ないほどである。

 日本列島は東南に広大な太平洋、北は日本海に面した山岳の多い国で、海からの雲が山にぶつかって雪や雨となり、それが世界でも稀な、豊富で清らかな水を恵んでくれている。加えて山海の幸も豊富で、魚や野菜、海からは多くの魚を、昆布と鰹節、小魚の干物の出し汁で味付けして、素晴らしく美味しい日本料理を手にしている。有難い国である。

 

 また日本列島は火山列島で、多くの温泉を享受しているが、反面地震も多く、また毎年夏過ぎにやってくる台風には多くの災害をもたらしている。何と今年に限って北関東や房総半島、東北地方に、今までにない豪雨を齎し、幾多の川を決壊させ、川沿いの平地の村や町を浸水させて、農業被害と合わせて、莫大な被害を与えて行った。

 

 人は堤防の決壊は人災という。だが自然の天災に変わりない。日本の歴史を辿れば、地震・津波・火山噴火に絶えず襲われている。それを先人たちは黙々と耐え、政府の補助なしに立派に甦生して来た歴史がある。その中で教訓とされるのは、山際ぎりぎりの家を建てぬこと、川沿いの地には高台に家をたて、低い所は家だけは基礎を高くする。要は折角一生かかって築いた財産を一瞬に無くするような立地を避けて、普段から防災に備えた立地を選ぶことで、これには行政の指導も問われる。

 

  火山活動は予知装置が整ったようだがとても十分ではない。まして台風には完全にお手上げの状態である。太平洋に台風の卵が発生したことは地球衛星で確認できるので、最近の技術を駆使して、初期の小型台風の段階で消滅させる技術はないものだろうか。

 海を絶対汚染させない物質、例えば氷の塊かドライアイスを詰め込んだ多数の塊をつくり、発達しない小型台風の目にジェット機からばらまいて、積乱雲を雨に変化させて、太平洋の真中で、自己消滅させるような新技術を、誰か造ってくれないだろうかと、素人考えだが、私は妄想するのだが・・・。

 

 

塵塚お松

 塵塚お松は、江戸後期、三田の三角という岡場所(遊女宿)に住んでいた有名な遊女。掃留お松ともいう。

 彼女の教養から察して、賎しい身分の出ではなく、相応の家の出であったことは、読み書き・生け花・和歌・衣装の好みもよく、物腰もやわらかで、艶やかなるも人品気高く、お松の艶色・技芸からすれば、吉原でも最上位の松の位の大夫職の花魁になるべきところなのに、僅か一畳半で遊客を相手にするような女ではなかった。

 有名な文人、為永春水も記録に遺しているが、ある時大名の子息らしい尊大な態度の若武士が遊びに来て、お前の仇名の塵塚お松を題にして一首詠んで見よと揶揄うと、お松はすこしもためらわずに

   

   塵塚の塵にまじわる松虫も 声はすずしきものと知らずや

 

  と、即興に詠んだと言い伝えられている。この歌を聞いた若武者は、びっくりして慌てて帰ったという。

 

 彼女はその後、二百石取りの阿波藩士、三浦栄次郎と馴染んでその妾になったとも、または本所の遊郭に鞍替えしたとも伝えられている。場末の遊女ながら、掃きだめの鶴のような女であった。

 

           

 

 

 

 

 

 

 妖女・泉阿の娘 西向殿

 室町中期の頃、賀茂川の河原乞食と思われる泉阿という僧が、河原に捨てられていた女の赤子を拾い、自分の養女として育てた。ところがその娘が年頃になると、「息をのむような魅力を持つ女」に育った。

 勿論生んだ親の名は分からないが、娘がとんな奇縁だったのか、名門日野家の嫡子日野資康その美貌に引かされて、愛されて妾女となり、資康との間に嫡子重光康子を生んだ。この為に日野家の本家は弟の資教にゆづり資康は別に裏松家を建てた。

 

 一方足利尊氏、義詮の後、三代目の将軍として足利家の隆盛をもたした足利義満は、明貿易で多額の財産を蓄え、かの金閣寺を建てたことでも有名である。だが彼の好色は人一倍強かった。

 義満は足利家の基盤を強化するため宮中に近づいた。当時の宮中では、資康の叔母宣子が、後光厳天皇崩御の後の宮中を取り仕切り、二位から従一位となり岡松一品として宮中の実権を握り、威勢を振るっていた。義満はその宣子に近づき、彼女の推薦で、姪の業子と政略結婚にこぎつけた。義満二十歳、業子二十六・七歳で、かなり年上の妻だった。

 

 業女は義満に尽くしたが、妊娠して実家に帰っている間に義満は他の女に手を出した。業子は応永6年ー1419ー亡くなり、その跡正妻として跡を継いだのが業子の姪康子で、泉阿の娘の母も、西向殿と名乗って、康子に付き添い足利室町邸に入った。

 ところが義満は美貌の泉阿の娘、西向殿にも魅せられ、彼女の夫、資康の死後、西向殿は義満と同衾して男の子を産んでいる。まさに義満の母子相姦の図で゛、モラルもあったものでない。かく素性も親の名もわらない賎しい女が、いつの間にか日野家、更に足利家に入り込み、鮮やかに成功している。そういう時代であったというよりは、絶大権力者としての足利義満の好色であったというほかない。

 

 ただ義満の後を継いだ義持は、西向殿の娘の栄子を正妻にしているが、妻の母の西向殿には冷淡で、彼女の葬儀も簡略、死後直ちに彼女の住まいの北山第は取り壊し、土地は仙洞御所に返還している。

                                                    吉村貞司 『日野富子』 中公新書より

 

                               

                       

 

 

 即位礼正殿の儀

 昨日、令和元年11月22日、新天皇が宮中の高御座に登台されて、国の内外に即位を宣言された。伝統的な、質素にして格式ある即位式であった。新陛下の表情は今までより一段と威厳を増されたように感じだ。パレードは付属的なもので、核心は11月14日と15日に行われる大嘗祭にある。海外の即位式はキリスト教の司祭の戴冠式に終わるが、日本の場合、新しく建造された悠紀殿・主基殿で行われるれる深夜の行事で、長らく伝承されて来た即位に伴う中心儀式である。

 

 令和天皇は第162代目の天皇となられる。神武天皇から数えて2700年となるが、神武~仲哀間の800年は神話と伝承の時代で、確実な天皇は5世紀の応神天皇からと思われるが、それにしても今日まで万世一系を続けらられた国は世界にはない。日本より古い王朝は存在したが、他国や国内の戦いに敗れ次第に消えていった。

 われわれも古い先祖の遺伝子を受け継いでいる。しかし天皇家のように遠い祖先の系譜を辿ることはできない。天皇家には古来宗教的な畏敬の念を日本人は持ち伝えて来た。どんな国内の争乱の時でも天皇には武士は手を出さなかった。一般の民も天皇を神と崇めて来たから今日まで続いたのである。それに続くのは丹後の籠神社の海部氏と、出雲大社の千家ぐらいである。

 

 いずれにせよ天皇を上に頂いて国内を統一するのが日本独特の「国体」とされ、戦後駐留軍に対し、政府は必死に護り抜いたものである。

天皇によって日本は統一されるのである。西暦とともに年号が生きる国である。

 

 回天神社の創建

 回天とは天地がひっくり返るほど、劣勢を挽回することをいう。だがここでいう回天とは、太平洋戦争の敗色が濃くなり、空からの特攻機攻撃に対して、海中から鉄艦に近づいて突入、撃沈せしむる人間魚雷のことである。実物の魚雷が大津島に展示されているが、かなり大きい。回天は敵艦近くまで潜水艦の上に乗せ、中ほどに特攻兵が操縦し、敵艦近くで放たれて突入、自爆する。入艦するのは古参兵ではなく、まだ若く精神的に滅私奉公で鍛えられた、初々しい高校から大学中退させられた学徒兵である。

 

 私は昭和3年生れ。中学に入ったのは昭和17年。翌年の12月8日から太平洋戦争が始まった。授業は1~2年生位までで、後は軍事訓練と後半は軍需工場への勤労奉仕で、学校へも登校しなかった。兵隊不足で中学は5年間から4年間に1年間短縮、私の卒業は昭和20年であった。高校に行くにも当時の大阪は焼け野原でとても勉強できる環境でなかったので、高校は京都に行った。それも勉強は6:ヶ月間と限定され、10月から兵役に入ることを義務付けられていた。その直前8月15日の敗戦で私は兵隊に行かずに、大学まで卒業できた。

もし私が1年早く生まれていたなら、また戦争が半年も続いていたなら、私は初年兵となり、運動能力今一つの文化系の若者は、短期養成で即戦力になる回天に回されていたであろう。

 

 そんなことを考えると、回天で玉砕した先輩・同輩に申し訳なく思い、その霊の鎮魂のため私は戦後二度も、回天基地のある瀬戸内周南市沖合の大津島を訪ね、黙祷を捧げて彼らの霊に感謝した。

 

   トンネルを抜ければ瀬戸の陽光に 白日無残や回天の基地

   回天の若きつはものかく散りぬ 瀬戸の潮風爽やかに吹け

 

 この度大津島に回天の英霊を祀る回転神社が創建出来ることを知った。早速準備委員会に申し入れて、奉賛金を贈った。貧者の一灯である。これからも安らかに眠ってくれと祈って。

 

  

               大津島の 回天出航の地                  人間魚雷

 

           回天神社設計図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海水が薬になる?ー夏目漱石

  人間も動物も塩が無ければ生きていけない。体中の血液そのものが塩分で生きている。山の上に放牧している牛などを、手間かけずに集めるのは、塩を持って登り、塩の傍らに水を用意すると、放牧していた牛が何処からともなく集まってくるという。

 だが人間世界では、血圧の高めの人を中心に病院などは減塩を目指している。私は入院しても、塩分少ない食事では食欲がなく、売店の海苔の佃煮を買いに走る。味噌・醤油・梅干・漬物は塩なくては出来ない。コメを主食とする人間には塩は欠かせられない。

 

 そういっても塩分を含んだ海水は、とても飲む気にはなれない。それなのにその海中で生きている魚は大したものだ。しかもその肉の刺身は何ら塩っぽくない。しかも最高に美味しい。どんどん吸い込んだ塩分を、どんな器官できれいに吐き出しているのだろう。

 先日、太刀魚のムニエルと、サバの塩焼きをたらふく食ったら、体中の細胞が生き返ったようであった。そういえば魚は何百万と泳いでいるのに、病気一つしないで健康である。つまり魚の病院はないのである。毒薬でない限り、死んでも海上に浮き上がらない。海中に魚の死骸は見つからない。夏目漱石の『―吾輩は猫である』の中で猫が語っている。

  

  第一海水がなぜ薬になるのかと云えば、一寸海岸へ行けばすぐ分かる事ではないか。あんなに広

    い所に魚が何匹いるのか分か らないが、あの魚か一匹も病気をして医者にかかった試しがない。

  みんな健康に泳いでいる。病気をすればからだが利かなくなる。死ねば必ず浮く。・・洋行して

  インド洋を横断した人に、君魚の死ぬ所を見たことがありますかと聞いて見るがよい。誰でもいいえ

  と答えるに極まっている。・・あの渺々たる、あの満々たる海洋に、古来一匹の魚が上がって居ら

  ぬところを以て推測すれば、魚は余程丈夫に出来ているものに違いない。・・・それは毎日海水を

  呑んで、始終海水浴をやっているからだ。

 

 

 

            浮 雲

    撃つな 撃つな

    その頬撃つな

    たとひ浮雲が気儘に流れようとも

    大空ははてしなく

    神とてもそれを止められない

 

    今日浮雲がぼくの頭上にあり

    昨日の楽しかった顔を曇らせようとも

    悲しい同情で空を見上げるだけでよい

    それでも雲は

    悠然と気儘に漂うだろう

 

    日が昇り、日が沈み

    いつの日か浮雲は

    流れ流けて大空の果てに漂い

    虚空に霧となって散るだろう

    だから撃つな、撃つな、その頬撃つな

行きたいが、私の体ではもう行けない所ー五島

 今から10数年前になるが、博多大濠公園に沿ったマンションで、2年間単身赴任していたことがあった。

  博多の町は情緒がある。5月の博多どんたく、7月の博多山笠は町を挙げてのお祭り騒ぎである。京都の祇園祭の一部の旦那衆の祭りと違って、格式を選ばず、町民が主体となる祭りである。またどんたくお面をかぶり、しゃもじを叩いて、夜の繁華街街を騒いで歩いたことも思い出である。

 その博多の情緒は中洲の歓楽街が支えている。川端の屋台に始まり、粋な小料理屋、格式のある料亭と、それにスナックや大小のクラブが乱立している。更にその席に一段華を添えてくれる博多芸者。芸は京都にも負けない。温習会なども盛況である。飲食店の数があれだけ多いのに、各店とも盛況である。

 

 更に博多は背後に広大な自然がある。九重をめぐる数多くの山々、温泉地、また前は玄海灘で、早春のワカメ拾い、その魚も新鮮、フグにしても下関が本場だが、博多の料亭のフグ料理は他では食べられないほどうまい。また取り立ての新しい魚が安く手に入る。柳橋や西新の市場や、それに女のリヤカー売りの魚を買って、単身ながら出刃包丁にさしみ包丁を持っていたので、マンションに帰って料理する。新しい魚だからうまい。京都・名古屋・和歌山・大阪・神戸と転勤してきたが、博多は私にとって日本最高の棲みよい都市であった。

 

  2年間の間、九州は隅々まで走り回った。壱岐、沖縄、西表島まで足を延ばしたが、五島だけは行く機会が無かった。壱岐の海水浴でも潮流が美しいが、人に言わせると、五島には誰にも知られたくないほどの美しい海水浴場があるという。それに五島には玄海の新鮮な、油の乗った旬の魚がある。それで酒を傾けるのも最高の贅沢だ。

 五島には博多から飛行機で40分.船だと8.30分。時間をゆったりとる旅だと船で行くのもよい。そして慌しい旅よりゆっくりした休暇を過ごす島である。それに大型ホテルよりも、貸自転車や自炊もできるプチホテルもあるようだ゛。福江島や小値賀で島を周遊をし、市場で新鮮な魚を買って自炊するのも最高の旅だと思う。

 だが思うだけで、現実にはこの歳では行けない。博多に居た頃に出掛けておればよかったのにと、今更ながら悔やんでいる。

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 京女の衣装比べ

  今も昔も、女の衣装比べは、女の虚栄、意地の見せ所であったに違いない。 

 

 江戸の中期、京都の名家の妻女が、今の丸山公園の中にあった東山の料亭で衣装比べを行った。ファッションショーである。

 それぞれ金に飽かして絢爛豪華、百花繚乱、今日の日とばかり晴れ着を着飾って集まった中で、中村内蔵助の妻女,打掛、帯ともに

 黒羽二重の無地で、下には雪のような白無垢の上に重ね着して出て来た。

  衣装比べの途中の色直しの時も、侍女には豪華な衣装を着せて出したが、妻女だけは依然絶品の黒羽二重で出て来て、皆の目を瞠らせた。錦糸や友禅の色華やかな衣装の中で、黒無地の衣装だけはとびぬけて人眼を引き、人々は固唾のんだ。全く粋な着想であった。

 この妻女の衣装のコーディネーターを助言したのは、尾形光琳であったと言われている。中村内蔵助は彼の大スポンサーであった。

 

 尾形光琳は、江戸時代初期、名をとどろかせた有名な本阿弥光悦の弟、尾形家の一統で、琳派派と言われた当時の画聖である。

 一方中村内蔵助は、江戸中期、京都銀座(幕府直轄の銀貨鋳造司)の年寄りで、京都随一の金満家といわれ、その生活は豪勢であった。だがそれがついに将軍家からにらまれ、将軍家宣の交代のどさくさに、金銀改鋳で私服を肥やした理由で、勘定奉行萩原重秀が家禄を没収された時、中村内蔵助も親子共々遠島追放となり、家財は競売され、その競売は四日間も続いたと言われている。

 

 あの豪華な東山衣装比べの数年後のことであった。天国と地獄―とはこのことだろうか。 

 なおこの妻女の衣装は復元されて、平安神宮で見られるという。

 

    

          中村内蔵助