高野山と丹
太古から珍重された赤い丹沙は、縄文時代人は血液に通じる生命力を感じ、体に塗って魔除けや疫病退治に珍重された鉱物で、熱すると水銀になり、水銀の五分の一の金を入れるとアマルガムしいう流動物になり、それを金属に塗り、後で表面を熱すると、水銀だけが蒸発して、金メッキが出来上がる。奈良の大仏の鍍金には2.5屯もの朱沙が使われたという。朱の色合いもよく、シナや日本では皇帝の色とされて玉璽の印肉に使われ、薬用にも使われた貴重な鉱物資源であった。
この丹に似たベンガラは鉄分を含んだ鉱物で、一般の印肉や腐食を防ぐ京都のベンガラ格子の塗料にも使われている。丹沙は地球のマグマの贈物で、伊勢の櫛田川から紀ノ川、四国の吉野川から、別府から宇土半島に伸びる中央構造線に産出する。
さて、高野山では「高野に来て高野知らず」という諺があるという。高野山は奥の院のある小山「姑射山ーくやさんー」の名から来ているのを知らないからだという。姑射山とはシナの道教では、金丹があって不老不死の仙人の住む所だという。これに目を付けたのが空海で、若い青年の頃にこの姑射山に来て、自ら丹を掘り集めたと思われる。
彼は31歳の時、官費留学生ではなく、私費留学生として渡唐するが、渡航費用は無料で、生活費は日本やシナの官費で支給されるが、密教の修行に係る費用は自弁である。僧師への束脩、灌頂儀式へのお布施、持ち帰った247巻に及ぶ膨大なお経の写経生として雇った25人の人件費、仏画や仏具の画工・鋳物師・金工細工師への支払い、さらにこれらの梱包や港まで運ぶ人夫賃などの支払いは高額で、相当な金銭が動かなければ成し遂げられない。しかも空海が日本に持ち帰った資料数は、官費で一切を賄った最澄よりも多い。
出航前に親や親族から送別金としてある程度の砂金を貰ったであろうが、それらの金だけでは到底賄えない。真言の僧侶や学者はそのことの論議を差し控えているが、私は空海が渡航前の青年の頃、手荷物として嵩が低く、しかもシナでも高額に換金出来る朱砂を、高野山で堀り集めていたのではないかと思っている。
昭和の始め大阪の鉱山師が、奥の院のある姑射山とその奥の摩尼山・楊柳山・転軸山を買い取り、丹・金・銀・銅の採掘を願い出て、鉱山局から採掘の内意を得たが、高野山が猛反対し、大金を投じて権利を買い取ったという。それほどの宝の山であったから、空海は都から遠い高野山を修行と最後の地に選んだのである。私は奥の院からこの三山を歩いたが、素人には普通の小山に過ぎないが、地下には膨大な鉱物資源が眠っており、その丹の採掘跡の洞窟に弘法大師が生き佛として眠っておられる。弘法大師が敢て都から遠い高野山を修行・終焉の地に選ばれたのも、若い頃から高野山が丹の宝庫と知っておられたからで、ある化学学者は空海は山師だと言われているが、弘法大師の一面を喝破しておられる。
越屋さん






