閑話休題 -5ページ目

東の野に炎ーかぎろいの・・柿本人麻呂

  

  東の野に炎の立つ見えて 帰り見すれば月かたぶきぬ   柿本人麻呂   万葉集 1-48

 

 持統天皇六年(692)の暮れの冬頃、旧暦11月17日に行われた、後の文武天皇となる軽皇子かるのみこーが、宇陀の安騎野あきのーで行われた狩りに、お供した柿本人麻呂の名歌で、余りにも有名な歌である。雲一つない冬の冷え切った夜明け、東の空に曙光が射し、西には有明の月が浮かぶ。猟に向う夜明け、東の空が刻々と移り行く空を見やっている人麻呂の姿が浮かんでくる。

 

 この名歌の碑が建てられている宇陀市の万葉公園では、十二月のある日を定めて、宇陀市主催の「炎を見る会」が催される。私も前夜の夜半に遠方から二回参加したが、ついにその炎を見ることが出来なかった。隣に居られた方から写真を見せてもらったが、前日に冬の高気圧が西日本を覆い、夜空に雲一つなく晴れ渡り、急に冷え込んだ夜明けしかこの炎の景色は見られない。

 

 軽皇子が飛鳥の藤原京から、どの道で宇陀に入られたのか、古来万葉学者の議論が絶えない。大和から宇陀に入るのには大峠、反坂峠、女寄峠、西峠(墨坂峠)、狛峠などがあるが、何分皇子は十歳の少年であり、馬に乗られて落馬したら大変である。手綱を引く馭者と、左右両側には舎人ー とねりーが数人侍ったはずである。それに宮廷宮人、夜具や食料運びの駄馬など三十頭、従者たちは百人近くに上ったと思われる。こんな多勢で近くてもきつく狭い峠道は無理である。一番広い西峠は安全でも遠回りになる。万葉学者の犬飼孝氏は、長谷路を東に、狛の村から宇多野に抜けられる狛峠が一番妥当と言われている。 道の詮索はそれとして、1300年前のこの歌の情景は、今もなまなましく蘇かえってくる名歌である。

 

 追記 なお令和元年12月の朝、かぎろいの立った夜明けは、1日と10日であった。

 

       

        宇陀の万葉公園から東の夜明けーかぎろい             

 

           万葉公園の「東の野に炎のたつみえて・・」の碑

 

 

かぎろい

 鏑木清方ーかぶらききよかたー

  私の大好きな大正・昭和の日本画家である。彼は明治11年、東京神田の下町に生れる。新聞雑誌の挿絵画家として登場、のち美人画家として絶大な評価を受けるに至った。

 

 清方の美人画の特色は、品調ひときわ高く、淡雅清楚なる中に、清らかな愛恋が種々の形象おいて

 包まれていることである。愛恋は女性の生命であるが如く、美人画の生命でもある。 

 彼の描く女性は、常に何らかの夢を持った、繊細幽婉なな女性の情感を描いている。そのあくまでも

 写実に基礎を置く手法と、清楚にして典雅なる風韻は、何人の追随を許さない、清方美人画の特色

 である。                      村松梢風 「本朝画人伝」より

 

 清方の数ある美人画の中でも、最も絶賛を博したのは、昭二年の帝展作品「築地明石町」である。

明治三十年頃の女を描いたもので、水色小紋の着物に、抱き柏の紋のついた黒縮緬の羽織を着て、

髪は夜会風に結っている背景には垣根の朝顔が描かれている。利休鼠色の着物、黒の羽織ー

江戸のを象徴した「顔も姿も、洗練された心と品のある色気」があり、これが日本美の幽玄であり、

清方趣味の真髄が発揮されている。

 モデルは玄人ではなく、昵懇な新橋の江本写真館の女主人江本ませ子という。

 

 また清方の妻は旧熊本藩士の娘で、鏑木は当時貧乏ながら、将来を嘱望して嫁入されたが、姑にも

よく仕え、日常でも身だしなみは欠かさず、芸事にも優れ、清方が描く美人画の基礎モデルとも云われ

内助の功の高かった女であったという。

 

     

                 築地明石町                                              樋口一葉

  

 

 

 事象ー詞林集より

 

              事象

           誰かを待っている 

          その小さな眼、小さな口

          事象は永遠に事象であり

          かのパトスをも理解しようとはしない

 

          湖に投げられた小石の

          拡がりゆく輪のやるせなさ

          昼と夜とを逆さまにしようとする

          ああ! 罪深き者の破滅よ!

 

          Aは光、Bは蔭

           その中にわだかまる永遠の憂い

          そして漂う悲しみの色に

          セルレアン・ブルーも調和はしない

 

         その小さな眼、小さな口

         ああ偶像は破壊に値する

         事象に潜む美くしきものへの

         せめてもの生贄のために!

 

事象

 ゆず

 庭の片隅に柚子の木を植えている。大きくならないように新芽を切って、丁度私の背長け位にしている。しかし毎年冬に、お礼肥料をやっているせいか、今年は沢山の花を咲かせ、今は黄色い実が鈴なりに生っている。

 実を三個ほどもぎ取って来て、今日は寒いから柚子鍋にした。あの独特の香りと酸っぱさ!。日本の味が口一杯に広がる。ホットレモン代わりにもいける。

 日本の板前さんは器用だから、黄色い皮を薄くそぎ取り、料理に色どりを添えている。細切りの皮を三角形にして、汁物のお椀に乗せる。粋な彩に料理が引き立つ。天からの季節の贈物!ありがとう。

 みかん

 和歌山のお友達から蜜柑一箱を贈って頂いた。それまで食べたことのないような美味しいみかんであった。

 形は丸くて大きい。そして中の薄皮が適等の薄さで、肉は甘みたっぷり含んで、素晴らしく美味しい。実は私も一時和歌山に住み、みかんは食べなれた果物であるが、これほど素晴らしいみかんに遭遇したことがない。この蜜柑を育てられた方は立派な農家に違いない。勉強を重ね、研鑽と選別を重ねてこられた篤農家であろう。

 

 今や農業市場は進歩の途上にある。今まで目にしたことのない海外の野菜や果物が、市場に現われている。国内のフランス・イタリーなどのレストランに登場して我々を驚かせている。品種の交配によってまだ見ぬ新種が出てくるかもしれない。

 私は農業は成長産業だと考えている。孫たちに農学科に学び、新市場に進出してもらいたいとも夢想している。このな美味しいみかんを頂いて、そんなことを考えた。

 銀閣寺の紅葉の障壁画

 いよいよ紅葉の時期を迎えました。京都盆地は地下に太古の湖があるため、冬の「底冷え」が有名である。その為か昼、夜の寒暖の差があって、楓の紅葉に適した環境にあり、その条件にある北山や嵐山嵯峨野、東山山麓に紅葉の名所が多い。私も何回か京都各地の紅葉を愛でに歩いた。北山と嵐山に走る京福電鉄の沿線がどこも紅葉が素晴らしい。これから11月下旬が最高の時期である。

 

 天然の紅葉に如くものはないが、ここに紹介するのは、銀閣寺の紅葉の障壁画である。銀閣寺の泉殿にある、奥山元宋画伯(1912~2003)の「湖畔秋耀」は、見る者がくぎ付けになる程圧倒される紅葉の景色である。是非一度参観されることを希望する。

 

  

 

 

 大嘗祭ーだいじょうさいー

 令和元年11月14~15日に、新天皇即位の中核をなす大嘗祭が行われる。毎年11月にその年の獲れた新米を神に捧げ、天皇が共食される新嘗祭が行なわれている。それが天皇即位の年は大嘗祭として、新たに悠紀殿と主基殿が新築されて行われる。日本神話が創られた7世紀から、中世戦乱で一時中止があったものの、十数世紀に亘り、新天皇即位の伝統的な中心儀式として続いている。

 祭祀に当たっては、その年の新米が捧げられるが、その米は宮中祭祀を取り仕切る卜部・中臣氏が、東と西日本の稲田に、悠紀田・主基田を選占し、その新穀が宮中に持ち込まれる。その米を飯し、大嘗殿のアマテラス大神に供えて、新天皇が共食される。

 

 ただその共食の前に秘儀が執り行われる。宮内省も厳秘に秘しているが、日本書紀によれば、天孫ニニギ尊が高天原から高千穂の峯に降下される際、高皇産麗尊ーたかみむすびのみことー、真床追衾まとこおふふすまを以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊-すめみま あまつひこひこ ににぎのみことーに覆-おほーひて、降ーあまくだりーまさしむ日本書紀神代下第九段。とあり、この真床追衾が大嘗殿の中に設えられており、「この真床追衾は大嘗祭の祭儀に、天皇が臥す際に使う衾と関係があるらしい」とされている。岩波版『日本書紀』補注

 

 即ち新天皇は、大嘗宮の中に設えられた真床(ベット)に、真裸になって、真綿の衣と布団にくるまって一夜を明かし、天孫降臨の疑似体験をされてアマテラス大神の子孫たる承認を得られた上で、新米を供え天皇も共食される。この夜の新天皇のお世話をするのが唯一人の処女だという。

 古代から面々と続いて来た、日本の皇室ならではの行事である。

 

      

 

 リーガロイヤルホテル・大阪

 2年ぶりにホテルでのパーティに出席した。料理もさすが超一流である。料理もさりながら、このホテルには品格がある。入口のロビーは、奥に庭園があり、そこに人工的に滝を取り入れたラウンジと、ロビーが一体になっているところから、他のホテルには見られない、広々とした空間が広がり、柱の装飾や壁紙などに、このホテルの格調のある高級感が醸し出されている。

 

 もう開店から80年になるという。始めは今の中之島の朝日新聞社の西側、大川に面したところに新大阪ホテルがあった。私は20代の頃数人とお茶を飲みに入ったことがあるが、さほど広くもないが、落ち着いた高級感のあるホテルであった。そのホテルの拡張の為に、

住友銀行頭取堀田昭三氏が主導されて、昭和33年1958に今の場所に移転された。当時私などは都心からも大阪駅からも遠い、バックグランドが工場地帯の、営業に不利な場所をどうして選ばれたのか疑問を抱いた。それは都心からやや遠いが地価の安い、大きな敷地を確保できる最後の場所だと後から悟った。

 堀田頭取は当時政府の要請で特別使節として欧米を廻っておられ、誰よりも欧米のホテル事情に詳しく、また品格、趣味も卓越優れておられたから、ホテルの設計・室内装飾・備品なども自分の主張を入れられたと聞いている。最後段階でいよいよ仕上げに入り、ロビーなどの絨毯・柱の装飾・壁紙の選定なども、頭取の帰国を待ってからでないと決められなかったと聞いている。ここに欧米に並ぶ一流ホテルが出来上がり、その後自動車も急激に増えて、場所の不便さも無くなった。

 

 堀田頭取は短躯ながら、眼球鋭く、書も文章も格調高く、金融経済のみならず政治の動向などにも卓越した先見性に富んでおられ、年に一度の大会議などでは、話を耳を澄ませて一言も聞き逃さじとノートしたものである。しかも根本に浮利を追わず堅実経営の住友精神の権化の方であった。その後あのような方は日本経済界には現われない。不世出の経営者であった。

 

 大正時代、海浜であった甲子園にとびぬけて広い野球場を創った当時の阪神電車の経営陣、御堂筋を断固として拡張した関市長、それに大川に面した住友ビルなどの建物は、百年経った今でも大阪の立派な建物として遺っている。昔の人は偉かった!

 

 

 

 

 

 松茸

 いよいよ日本の秋、松茸のシーズンに入った。

 昔、戦争直後の昭和22年、京都で下宿をしていたが、近所の後輩と秋の嵐山に行った。当時今のような観光客も少なく、川向いの道を歩いて途中嵐山に登った。ところが半時間程登ったら松茸の匂いに囲まれた。登山は止めてひたすら松茸取り。あるわ、あるわ、二人とも両手いっぱいに松茸を抱えて下山した。下宿のおばさんや近所の人にもおすそ分けをして喜ばれた記憶がある。

 

 戦後、薪取りや山の手入れが少なくなって、日本国中の松茸の収穫が激減し、国産松茸は庶民には手が届かない高値になった。反対に海外から松茸の輸入が増加したが、形はよく似ていても国産松茸のような香りがない。「香り松茸、味しめじ」と云われるように、あの松茸の香りが無いと、松茸を食べた気がしない。

 

 昨年の秋は、友を数人呼んで国産松茸で、土瓶蒸し・天ぷら・松茸ご飯のフルコースを振舞ったが、国産であったが伊那産で香りが少なかった。今年は国華園の産地直送を買って、同じ料理をして近所の方を呼んで振舞ったが、この松茸は福井の敦賀産で、香りは伊那と同じく少なくてがっかりした。昔の記憶にある松茸は、やはり丹波産が一番のようだ。結局、人に頼んだり、通販に頼ったりするのではなく、直接香りを嗅いで高くても「これだ!」というものを買いたい。阪神の地下デパに行けば有る筈だ。

 お粗末な松茸のお話でした。

 

 行きたいが、もう私の体では行けない所ー高野山の谷

  高野山には数度出掛けたが、ずっと広い高原状の街だと思っていた。ところが高野山は八葉九谷と言われ、実際は下図のように谷筋が11もあって、その谷筋が有名な「高野聖」の居住地であったことを、五木重氏の『高野聖』で初めて知った。

 

  高野山では昔から厳重な身分制度があって、上層は学侶といわれる真言僧侶と、その俗事の世話をする行人の人たちだけが山上の塔頭に住み、それ以外の修行者=たちは谷筋に住まわされて一線を画されていた。聖は「日知り」とか「火知り」とか言われるが、意味がよく分からない。要は僧尼令の官許を得られない、僧体の俗人を聖と呼んでいたと思う。彼らは勧進を主な目的としていた。

  おどまかんじんかんじんあん人ひとたちヤはよか衆 よか衆よか帯よか着いもん  五木の子守歌

 とあるように、勧進とは、物乞い、即ち宿無し乞食をも意味する言葉であった。

 

 始め弘法大師を慕った私度僧や、山岳修験者、後には部落を追い出された逃亡者などが、高野山で修行する有徳の指導者の下に集まった。高野山の最初の聖は、小田原聖の教懐と言われているが、その後東大寺を建造した行基菩薩が有名であり、また平家焼打ちの後の東大寺を再建した重源上人も有名である。

 その後明遍上人蓮華谷など、各地の谷筋に集まって住んだのが高野聖で、彼らは諸国を回遊し、各地に弘法大師信仰を広めて歩き、奥の院の護摩の灰を売ったり、遺骨を高野山に納骨したり、高野山参拝の案内役となり、彼らが得た収入の一部は寺の普請や、寺の維持の財政に寄与していた。お大師さんの信仰が全国に広がったのも、高野聖の功績である

 

 もともと高野山などの大寺は、平安末期までは皇室や貴族たちから寄進された班田での収入で財政が豊かであったが、南北朝時代から鎌倉時代初期に、班田は武士の手に移り、高野山も財政に困惑していた。その困難期こ寺の財政を支えたのが高野聖であった。

 ところが鎌倉・室町時代になると、高野聖は宗旨の真言宗より、当時広がっていた南無阿弥陀仏の浄土信仰の念仏宗に転向し江戸初期には高野聖は念仏宗が大半となった。

 ところが徳川時代に入ると、徳川氏や各地の大名の墓が建てられ寄進が進み、高野山は財政が豊かになった。すると今まで苦境期に財政を支えてくれた高野聖たちを、真言宗と相容れぬ宗派として念仏信仰を捨てさせ、追放した。かくて江戸後期には高野聖は消滅して行ってしまった 泉鏡花の有名な小説に「高野聖」があるが、その頃は鉄道が名古屋から敦賀に伸びていた明治後期の話で、その時代高野聖は存在しない。幻想的なな小説であるがあくまでフィクションである。

 

 今や高野山の高野聖の痕跡は殆ど消えてしまったというが、それでも私は高野山に一週間ほど滞留して、11もの谷れぞれに足を踏み入れて高野聖の跡を辿り、また高野山大学図書館で高野聖の勉強をしてみたいと思うが、もうこの体ではもう行けない。もっと若い頃に知っていたらと、今更後悔している。