閑話休題 -4ページ目

  ORIENTAL EYE

 

      ORIENTAL EYE

      その豊艶なる乳房に抱かれた夜空の街

   されど夜汽車の汽笛は届くすべもない

   いつか貧しかった日々は実りなく過ぎる

   ただ無心に触れ合うかすかな恥じらいに

   彼女の太陽はゆらぐ

 

   午後三時 

   都会の川に青空が翳る

   そして唐草模様の湯呑ーアップルパイの甘酸っぱい味

 

   妊婦がレストランの雑踏を過ぎる

   それはもう遠い昔のREINBOWの郷愁

 

    ORIENTAL EYE

    胸いっぱいの哀しみをのせて

    秋風に生命の薔薇が届いた

 

 

 

 

 

 ゴミ溜

  彼女とボウルを投げあっていると

  なんと下手な奴だろう

  場所もあろうに

  ゴミ溜のなかへボオルを放り込んでしまった

  僕がそれを拾はうとして

  むりに渋い顔をつっこんだら

  くさいキャベツの葉つぱや

  空っぽの缶詰のなんかの間に

  一束の、色の剥げかかった花が

  切なげに、埋まっているのを見出した

  おとつひの晩、接吻と交換した花束ぢゃないか

  あいつ、この花束といっしよに

  僕の接吻もこのゴミ溜に打棄てた気持ちなのかしら

  「見つかって、ボオル?」 

  「ふん!」

 

                                      1924年夏  堀辰雄

 

 網走のダイヤモンドダスト

 雪の少ない土地で育ったから、白銀の雪景色に魅かれていた。と言ってそんな雪国に住むには、屋根の雪下ろしや道路の雪掻きなどは

到底出来ない。ただ純白の世界のロマンチックな幻想に憧れるだけである。

 そんな銀世界に憧れて、厳寒の北海道に何度か通った。ある時冬の網走に行きたくて、札幌から中標津空港に飛び一泊。翌日汽車で釧網本線に乗り換えて網走に向かった。初めてのオホーツク海の流氷を見たくて途中下車し、夜遅く網走に着いた。

 

 宿屋の夕食を済ませた後、夜の街を散歩した。真冬の夜の事とて街は眠っていた。その中で一軒赤提灯の居酒屋を見つけて入った。先客二人いたが小さな居酒屋であった。肴は地元のホッケの焼物で酒を飲んで暖をとった。ホッケという魚は油気が少なく、魅力ある味もない。それだのに旅行者と見てか、かなり高い代金を請求された。いやな感じがした。

 外に出ると、空気中の水分が凍って、ダイヤモンドの欠片のように空中に漂う、ダイヤモンドダストに初めて出会った。先程の居酒屋の不愉快も飛んでしまった!。網走刑務所の印象よりも、網走はダイヤモンドダストのお想い出が懐かしい。

 

  

 

 博多小女郎

 昔福岡に出張の帰り、空港の売店で焼酎の「博多小女郎」のレベルに惹かれて買ってかえった。焼酎は既に無くなったが、博多小女郎の名だけが頭に残った。

 

 博多の柳橋を舞台としている。柳橋は当時有名な遊郭街で、そのなかの福田屋に小女郎という傾城がいた。彼女に二人の男が身請けしようとする。一人は京の男惣七と、中国密輸業者の毛剃九左エ門であった。

 江戸末期享保3年1718、幕府は中国との密貿易を厳禁、その年京の小松屋惣七は商用で博多に出向くが、乗り合わせた船が久左衛門の密輸船だった。密輸の秘密を知った惣七は海に投げ込まれるが、九死に一生をえて博多柳橋の吉田屋に辿りつき、馴染みの小女郎に助けを乞う。そこへ密輸船の一行が入ってくる。小女郎は惣七のために久左衛門に借金を申し込む。二人が顔合わせしたが互いに仇敵と分かったが、その時密輸船取り締まりの役人が入って来たため、久左衛門は小女郎に助けを乞うため借金を応諾、その金で小女郎は廓を抜けて、惣七と京で所帯を持つという筋書きである。

 その遣り取りを、近松門左衛門が浄瑠璃「博多小女郎浪枕」に書き、歌舞伎として大当たりをとった。歌舞伎では「毛剃」といゝ、大船の舳先が舞台に現われ,その舳先に久左衛門が立ち、鳴り物に合わせて舞台を見下ろす見栄を切る。

 

 博多柳橋は今は遊女街でなくなったが、その子孫たちが住んでいて芸者になっている。戦前「馬賊芸者」とも云われたが、容姿、踊りは

伝統の芸を継いで、江戸・京・大阪を凌ぐほどである。博多は他所から出張者が多く、それが混然と一体となり夜の雰囲気を保っている。

何よりも博多芸者には他の地に無い情がある。その中に摩子ーマコーという芸者がいた。当時30歳前後だったが、容姿もすぐれ、聡明で客へのおもてなしの術は抜群、話題を次々と出して客を退屈させなかったが、数年後突如亡くなったという。惜しい芸者であった。

 

 ―ー昔シナに伝説の仙女に「麻姑ーマコ―」としう姑娘が゜いた。爪は長く鳥の爪に似て、掻いてもらうと。愉快この上もないという。これから痒い所に手を伸ばす「麻子の手=孫の手「が生まれたという。嘘のような話。――広辞苑ー言葉散策より

  伊予の道後温泉

 伊予の道後温泉には、一般人用とは別に皇室専用の玄関と浴室がある。一般に公開されていないが、それを模写したのが近くの旅館にあり、映像で見るとそれほど広くはないが、格式の高い温泉になっている。飛鳥時代から有馬温泉、白浜崎の湯と道後温泉の3湯は、皇室も利用した温泉であった。
 

 斉明天皇ー955~661―の御代、百済が新羅に攻められて苦境に立った時、百済の要請を受けて救援のために、韓国に向かわれることになった。急いで大船が造られ、斉明天皇7年は春正月6日、大兄の皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)、百官を引き連れて、浪花津(今の淀屋橋付近)を西に向かって出航された。14日に伊予の塾田津に着き、岩湯の行宮―道後温泉に泊まられている。その後博多津に向かわれる時、女官だった額田王ーぬかたのおおきみー有名な歌が万葉集に遺されている。

 

   熟田津-にぎたづーに船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな   1-8

 

  熟田津ーにぎたつーは、和をにぎとも読むことから、和田の津のことで、海人族の和田族が占拠していた港津で、今の高松港の近くにあった。古代日本の構造船は船底は平床であるため、今のような水深の深い港ではなく、住吉浜のような砂地の港で、潮の干満を了利用して、船着き場に利用していた。

 この百済出兵は敗北に終わり、天皇も筑紫で薨去。大兄の皇子らは倉皇として大和に立ち戻り、まもなく唐・新羅の来寇に供えて、慌しく都を飛鳥から近江の大津に遷されている。万一の場合、北陸‣東国に逃げやすい地であったからである。

 

 額田王は各地の豪族から宮廷に献上された采女ーうねめーの一人で、顔貌もすぐれ、才色兼備で、当時宮廷でもてはやされた女官であった。恋多い女で、兄の天智天皇の夜這いを待つ女でありながら、弟の天武天皇の寵も受けて十市皇女を生んでいる。その十市皇女は後に大友皇子に嫁がれ、天武天皇との壬申の乱後に亡くなられた。

 額田王は60歳の頃生涯を閉じられたようだが、万葉集に遺る数々の秀歌からも、後世慕われる女人になっている。その秀歌の一つ。

 

  あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が手を振る     天皇の蒲生野に遊猟したまいし時の歌    1-  20

    君待つとわが恋ひおればわが屋戸の すだれ動かし秋の風吹く   近江天皇を思ひて作る歌             4-488

 

   

 

 

 

 

 

伊予

 

 元旦ーそして令和天皇

 明けましておめでとう。朝日の出を拝み、玄関に日の丸の国旗を掲げて迎える新春は、普段と違って身が引き締まります。やはり日本人ですね。そして今年は令和2年元旦です。令和という新年号も、今や好感をもって国民に受け入れられています。

 新天皇は皇太子時代とは違って一段と天皇らしさを加えられました。即位儀式の中心をなす、新天皇にアマテラスの子孫としての神性を与えられる大嘗祭に臨まれた時の、束帯姿の映像を見ると犯すべからぬ天皇としての気品に満ちておられました。

 

 令和天皇は第126代天皇とされている。ただ初代神武天皇から9代の開化天皇までは、記紀編纂時に追加された天皇と見られるし、また10代崇神天皇ー紀元3世紀後半ーから垂仁・景行・成務・仲哀の王統は5代で途絶え、替って成立した応神天皇の紀元370年頃から今日までほぼ1650年間、皇室の王統は続いている。世界に類を見ない血筋の連続であり、それが文書に記録されて残っている。

 

 エジプト・ローマや古代中国でも王朝は存在した。王朝とは始祖の血統を享け継ぐ皇帝を云うのであるが、日本以外は内乱や外寇によって滅亡している。古代中国を統一した秦の始皇帝の王朝も、3代目に終わった。現在のヨーロッパの皇室も中世が始原で、古代に遡れるのは日本だけである。その最大の理由は、日本の天皇家は神祭りを主務とし、政治は時の権力者に委ねて来たことである。そして

飛鳥時代以来、天皇は犯すべからざる存在ーカミとして認められ続けて来た。

 誰でも天皇になれるわけではない。選ばれた者だけが天子になる。仏教や日本独特の修験道が発達した中世、天皇は「十善の君」と云われ、前世に仏教の戒めである十戒を犯さず、清浄に生きた者だけが、現世に天子として生まれ変わると信じられて来た。

 

 この天皇を頂き、政治を行うのが日本の国体という。令和天皇も国旗日の丸のごとく、清澄・純潔・明澄さで神事にいそしみ、国民行事にも臨席されて、国民の象徴としてあり続けて頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 来年もよいお年を!

 令和元年の今年も押し迫りましたよいこともわるいことも、時の流れに流れてしまいました。

 来年はどんなことが起こるでしょうか。東京オリンピックがありますね。

 

 毎年巡ってくる新年。子供の頃正月の待ち遠しい気持ちも、今や遠くの昔の記憶になり、この歳になっては昔の夢になってしまいました。

  門松は冥途の一里塚、一休禅師が言っていますが、一休禅師ほど天皇の落胤を誇り、自由奔放に生きた禅坊主はなかったでしょう。もっと長生きしたかったと思います。とにかく生きていることは素晴らしいことです

 

                                  

 

  それに 新しい年はふところも裕福になりたいというのが、昔からの年越しの庶民の夢で、江戸小唄にあるあした待たるる宝船です。

 皆さんに金運が訪れますように。

 

                 

 

 おせち料理

 いよいよ押し迫って参りました。年賀状も発送を終え、家の掃除も助っ人に頼んで終了。後は飾りつけとおせち料理だけ。

 明治以降、正月にはお餅は不可欠でしたが、料理は黒豆・ごまめ・紅白の酢の物・数の子・蒲鉾・卵子焼‣鮭・鰤がご馳走でした。今のように海老・伊勢エビやイクラ・ホタテなどは冷凍技術が発達したのは、ここ10年前からのことでしょう。 

 

 我が家でも御せちは家で作っていましたが、何日も結構手間が掛かる上、余り物が多く出て不経済でした。そこに登場したのがおせち料理の広告です。見た目にも豪華で、食材も豊富、値段も家で揃えて作るより安く、何よりも家婦仕事が減る。

 早いのは9月終り頃より新聞にカラー写真で広告が出る。百貨店あり、通販あり、料亭あり、豪華なものです。つい誘われて数回購入しました。大量に作るには、数か月前から作り置きして冷凍する必要があります。それだけに、見た目には豪華でも、味に深みー旨味が少ないように思います。

 西洋ではクリスマス料理の大半は主婦が造っています。日本の主婦は、見た目に惑わされ、見栄を張って、高い値段のものを選んでいるようです。

 そこで老夫婦の私らが選んだのは、通販・新聞広告の冷凍仕上げは避けて、近くの仕出し屋さんのおせちを買うことにしました。仕込みも遅く、数も少量で、手作り感があって美味しいです。最近近郊に沢山出来ています。

12月31日に自宅に店の人が届けてくれます。

夢ーそして生と死と再生

 この歳になると朝目が覚める時、「ああ今日も一日生かして頂きました」と、心の中でお礼を言うようになる。

 その目覚めの直前に夢がさめる。その夢も過去のこともあれば、何の経験もないのが夢に出てくる。脳の一部が寝ている間も生きているから、その一部が夢に化するのだろうか。どんな夢を見たいかあらかじめ念じていても無駄である。不思議な脳の現象で、夢を見るのは生きている証拠で、死んでしまうと夢も見なくなる。夢は有難い!

 

 人間にとって生と死、そして再生は、エジプト・ギリシャやインドの釈迦以来、永遠の苦悩のテーマであり、現世において死を超越したいというのが、宗教の基本理念である。それには様々な苦行を乗り越えねばならない。世界中でも珍しい日本の山岳宗教、山伏の修験道もその代表の一つであろう。

 修験者は死装束の白衣で、杖代わりに錫杖を持ち、現世での行いを懺悔して「懴悔懴悔」を唱え続け、更に人間の体内から出る六根ー眼・耳・鼻・舌・身・意ーを清浄にせんがために、「六根清浄」を唱え続けて山岳で苦行する。飛鳥時代の役行者から始まる大峰山の難行は全国の山岳宗教に広がった。世界でも珍しい生と死と再生の疑似体験の宗教である。私も吉野から本宮まで峯続きの大峰奥掛け

を72歳になって体験した。始め同行者名だったが、途中で皆が下山し、南奥掛けは単独行であった。全行程8日間、一日10時間の峯歩きの難行で、ランニング二着とも体の油で真っ黒。体から油分が消え体が生まれ変わった。新生である。最後の宿では酒とうなぎを食べてからしか夕食が喉を通らなかった。

 

  その古風な形は現在も「羽黒山の秋の峰入り」の行事に遺っている。私は梅田の西の小さな映画館でその記録映画を観て感動した。

 峰入りに選ばれた行者は、一旦仮葬式を行い、その後七度半の使者を立てて相手に求愛し、婚約が成立した後は法要(結婚披露宴)が開かれる。そして行者は男根を象徴する梵天身丈位の棒に御幣を付けたものーを担ぎ、法螺貝に導かれて、下居堂というお堂の中へア・ウンの声を発しながら、神前めがけて梵天を突き入れる。ここで夫婦の和合が果たされ母胎は受胎される。

 その後七日間(昔は七十五日)、出羽三山の行場で修行を行い、最後に三神合祭殿で産声をあげた後、羽黒山の石段を一気に駆け下りて、正善院の前の護摩火を飛び越える出成りを行って、ここに行者は現世に再生する。古代から続く羽黒山伏の死と再生を伝える行で、古代から世界の人々が希求して来た新生―ヌーバー・ビタ NUOVA  VITAである。伝統が続く日本はすごい!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関サバ・アジ

 もう何年も前になるが、ある旅行会で別府温泉に出かけたことがあった。その帰り、大分空港で搭乗まで少し時間があったので、親しい友と二人、空港の寿司屋に入った。時間もないので、予て聞いていた関サバの刺身だけを注文した。いやその美味しいこと!新鮮で、太った身に脂がのり、一般のサバとは比較にならない旨さである。値段は忘れたが、想像通り高かったと覚えている。

 

 関サバとは四国の佐田岬に対する別府の佐賀関、豊後海峡の沖合で、一本釣りで獲れるサバ(またはアジ)の魚である。普通のサバよりも一回り肥っており、一本釣りで数も少ないから大分周辺しか出回らない。幻のサバで値段も高い。冷凍技術も進歩しているから大阪・東京にも出荷できる筈だが、数も少ないから高級料理店や高級寿司屋に行くのか、普通見かけるのは干物で、値も高いがおいしい。

 

 豊後海峡の潮流にもまれたとしても、瀬戸内にはこれ位の潮流は数か所あるが、関サバのようなものは獲れない。とすると佐賀関には独特のプランクトンがあり、それがアジやサバの餌になっているとしか考えられない。

 そこで思い出されるのは、下図の中央構造線である。太平洋プレートが大陸プレートにぶつかっても今の西日本が出来上がったが、その境目が東の伊勢の櫛田川から、吉野川、紀ノ川、更に四国の吉野川を通って九州に伸び、別府・湯布院・熊本宇土半島に抜ける地溝ラインであり、地下のマグマの一部が地上に温泉として噴出したのが別府温泉である。この別府の佐賀関の沖合にも温泉が海中に噴出しているのた゜ろうか、下図の赤〇の地域が関サバの獲れる限定地域である。

 その因果関係は学術的にすでに発表されているのか、それとも私の妄想だろうか。とにかく抜群の旨味のある関アジ・サバ味である。

 

         

                               中央構造線