伊予の道後温泉
伊予の道後温泉には、一般人用とは別に皇室専用の玄関と浴室がある。一般に公開されていないが、それを模写したのが近くの旅館にあり、映像で見るとそれほど広くはないが、格式の高い温泉になっている。飛鳥時代から有馬温泉、白浜崎の湯と道後温泉の3湯は、皇室も利用した温泉であった。
斉明天皇ー955~661―の御代、百済が新羅に攻められて苦境に立った時、百済の要請を受けて救援のために、韓国に向かわれることになった。急いで大船が造られ、斉明天皇7年は春正月6日、大兄の皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)、百官を引き連れて、浪花津(今の淀屋橋付近)を西に向かって出航された。14日に伊予の塾田津に着き、岩湯の行宮―道後温泉に泊まられている。その後博多津に向かわれる時、女官だった額田王ーぬかたのおおきみー有名な歌が万葉集に遺されている。
熟田津-にぎたづーに船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 1-8
熟田津ーにぎたつーは、和をにぎとも読むことから、和田の津のことで、海人族の和田族が占拠していた港津で、今の高松港の近くにあった。古代日本の構造船は船底は平床であるため、今のような水深の深い港ではなく、住吉浜のような砂地の港で、潮の干満を了利用して、船着き場に利用していた。
この百済出兵は敗北に終わり、天皇も筑紫で薨去。大兄の皇子らは倉皇として大和に立ち戻り、まもなく唐・新羅の来寇に供えて、慌しく都を飛鳥から近江の大津に遷されている。万一の場合、北陸‣東国に逃げやすい地であったからである。
額田王は各地の豪族から宮廷に献上された采女ーうねめーの一人で、顔貌もすぐれ、才色兼備で、当時宮廷でもてはやされた女官であった。恋多い女で、兄の天智天皇の夜這いを待つ女でありながら、弟の天武天皇の寵も受けて十市皇女を生んでいる。その十市皇女は後に大友皇子に嫁がれ、天武天皇との壬申の乱後に亡くなられた。
額田王は60歳の頃生涯を閉じられたようだが、万葉集に遺る数々の秀歌からも、後世慕われる女人になっている。その秀歌の一つ。
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が手を振る 天皇の蒲生野に遊猟したまいし時の歌 1- 20
君待つとわが恋ひおればわが屋戸の すだれ動かし秋の風吹く 近江天皇を思ひて作る歌 4-488
伊予